「ゴッホ-燃え上がる色彩」のあらすじと感想

「夢をかなえるゾウ3  ブラックガネーシャの教え」の中で、出てきた「ゴッホ」について知りたいと感じました。
ゴッホに関する映画を鑑賞する前に、ゴッホについて知りたいと感じ、読みやすそうな「ゴッホ-燃え上がる色彩」を読むことにしました。

ゴッホの「3P」のフレームワーク、「作品チェックシート」のフレームワークと「ストーリー分析」のフレームワークをエクセルで作成しました。
「viewing-art-work-checksheet-gogh.xlsm」を右クリックして、ダウンロードして、参考にしてください。

「19世紀のフランス」の「3K」のフレームワークをエクセルで作成しました。
「3k-19century-france.xlsx」を右クリックして、ダウンロードして、参考にしてください。

「ポスト印象派」の「A-PEST」のフレームワークをエクセルで作成しました。
「a-pest-art-post-impression.xlsx」を右クリックして、ダウンロードして、参考にしてください。

舞台となる場所


ゴッホは、ベルギーと国境を接しているオランダ北ブラバント州ズンデルトで、テオドルス・ファン・ゴッホ牧師と妻のアンナ・コルネリアの長男として生まれ、フィンセント(勝利者)と名づけられました。


ゴッホは、グーピル商会のハーグ支店に見習い店員として勤務することになりました。

ゴッホは、ヤン叔父が海軍中将を務める官舎があるアムステルダムで、メンデス・ダ・コスタという家庭教師の指導の下で、王立大学に入学するための国家試験に合格するための受験勉強をしました。


ゴッホは、グーピル商会のロンドン支店に正式な店員として勤務することになりました。

ゴッホは、ジョーンズ牧師の勧めでベルギーのブリュッセルでボクマ導師が指導する伝道師養成学校に通うことになりました。

ゴッホは、ブリュッセルで、アントン・ファン・ラッパルトという画家と親しくなり、アトリエを借りて、議論をして、学ぶということにしました。


ゴッホは、両親の移り住んだエッテンに帰省しました。


ゴッホは、イギリスのラムズゲートという港町にある寄宿学校でフランス語と算数を教えました。


ゴッホは、イギリスのメソジスト派のジョーンズ牧師の好意で、アイズルワースで初めて、信者を前にして説教を行いました。


ゴッホは、イギリスのホワイトチャペルで、信者を前にして説教を行いました。


ゴッホは、イギリスのリュイシャム(ルイシャム)で、信者を前にして説教を行いました。


ゴッホは、オランダのドルトレヒトにあるブラート氏の経営する書店で働きました。


ゴッホは、ブリュッセルの伝道師養成学校を追い出されると、貧しい炭鉱地ボリナージュ(モンスから南西に広がる地域の名称)に向かい伝道を行いました。


ゴッホは、ピーテルセン牧師の紹介で、クウェムで牧師の補佐をし、伝導への気持ちは失せて、画家になることを決意しました。


ゴッホは、シーンと子供を実家に帰し、画家アントン・ファン・ラッパルトから良いモチーフがあると教えられたドレンテ州ホーヘフェーンへ向かいました。


ゴッホは、父親テオドルスのいるヌエネンに戻りました。


ゴッホは、色彩に目覚めて、ルーベンスの絵を見るために、アントウェルペン(アントワープ)に向かいました。


ゴッホは、アントワープでの生活に行き詰まり、弟テオのいるパリに行きました。


ゴッホは、はつらつとした若々しい絵を描くためにアルルに行きました。


ゴッホは、弟テオの紹介でオーヴェル=シュル=オワーズに住んでいて、熱心な美術愛好家で医者のガシェのところで療養しました。
ゴッホは、自ら命を絶ち、カフェ・ラボオーの一室で亡くなりました。

目次

あらすじ

日本版監修者序文

ゴッホは、27歳から37歳という若く、10年間という短い間に、劇的に変わり、2年半という間に、独自のスタイルを確立し、多くの作品を残しましたが、冷笑され、軽蔑され、無名のまま生涯を終えました。
自分は、このゴッホの生涯に共感しました。
退職した自分の人生は、自由に活動できる期間は、10年間くらいで、冷笑され、軽蔑され、無名のまま生涯を終えることになります。
自分は、ゴッホのように絵画を書くことはできませんが、何かを残したいと感じました。
この本は、前編と後編に分かれています。
前編は、ゴッホの人生と作品を結び付けて解説しています。
後編は、ゴッホの人生に関する資料を解説しています。

第1章 不安と孤独

ゴッホの家柄は、名門で、一族の中には、大蔵大臣、外交官、海軍の将官、3人の成功した画商がいました。
父のテオドルス・ファン・ゴッホ牧師は、牧師として成功せずに、経済的には恵まれませんでした。
テオドルス・ファン・ゴッホ牧師と妻のアンナ・コルネリアは、妹アンナ(1855年生)、弟テオドルス(通称テオ、1857年生)、妹エリーザベト(1859年生)、妹ヴィレミーナ(1862年生)、弟コルネリス(1867年生)が生まれました。
ゴッホは、頑固で強情な少年で、他人からの強制を嫌い、強く反発し、両親や教師を悩ませました。
ゴッホは、一人で野山を歩き、自然を観察し、木や草や鳥や虫を見つけ、時にはお気に入りの弟テオを連れて行きました。
ゴッホは、9歳で「橋」、11歳で「農家と納屋」というデッサンを書きました。
ゴッホは、近隣の寄宿学校に入学し、強情で、怒りやすく、退学させられました。
ゴッホは、画商として成功しているセント叔父が経営しているグーピル商会のハーグ支店に見習い店員として勤務することになりました。
ゴッホは、セント叔父はもちろん誰もが感心するほど熱心に働きました。
画家としての才能があるゴッホが、画商の見習いとして、多くの絵画を観ることができたのは良い経験になったと感じます。
ゴッホは、弟テオがグーピル商会のブリュセル支店に勤務を知り、文通を始めました。
ゴッホは、娼館通いなどの不品行が理由で、ハーグ支店からロンドン支店に店員として勤務することになりました。
ゴッホは、「イエス伝」などの本を読み、キリスト教への関心を急速に深めていきました。
ゴッホは、美術館に通い、イギリス絵画の良さも分かるようになり、アングルの作品に魅了され、「何も欲しいとは思わず、しかもすべてを所有している」と感じる充実した日々を過ごしました。
ゴッホは、未亡人である母を助け、託児所を経営する、明るいウルスラに恋をして、告白し、婚約していることを知らされ、失恋しました。
この失恋により、ゴッホは画商として生きる意味を見失いました。
セント叔父は、ゴッホを失恋の痛手から立ち直らせるように、パリ本店に勤務させました。
ゴッホは、美術館に通い、回顧展に強い感銘を受けました。
ゴッホは、失恋という現実から逃避するように、宗教的な世界へ傾倒し、神への賛美一色に染まり、聖書の研究に没頭しました。
ゴッホは、画商として生きることに我慢できずに、両親の移り住んだエッテンに帰省しました。
セント叔父は、ゴッホを解雇しました。
ゴッホは、イギリスのラムズゲートという港町にある寄宿学校でフランス語と算数を教える教師にまりました。
ゴッホは、授業料を徴収するために、貧困街に初めて入り、貧困街を知り、貧しい人々に神の福音をもたらし、歩むことを決意し、授業料を徴収できずに、教師の職を解雇されました。
ゴッホは、イギリスのメソジスト派のジョーンズ牧師の好意で、アイズルワースで初めて、信者を前にして説教を行いました。
ゴッホは、イギリスのひどく貧しいホワイトチャペルとリュイシャム(ルイシャム)で、信者を前にして説教を行いました。
ゴッホは、食事もとらずに、生活し、病に倒れ、両親のいるエッテンに帰省しました。
ゴッホは、セント叔父の紹介で、オランダのドルトレヒトにあるブラート氏の経営する書店で働きました。
ゴッホは、聖職者として生きるために、書店を辞めて、両親のいるエッテンに帰省しました。

第2章 福音伝道とデッサン

ゴッホは、ヤン叔父が海軍中将を務める官舎があるアムステルダムで、メンデス・ダ・コスタという家庭教師の指導の下で、王立大学に入学するための国家試験に合格するための受験勉強をしました。
ゴッホは、ギリシャ語の動詞でつまずきました。
メンデス・ダ・コスタは、ゴッホが王立大学に入学するための国家試験に合格することはできないという結論を下しました。
ゴッホは、貧しい人達に、神の言葉を伝えたいという情熱は消えませんでした。
ゴッホは、ジョーンズ牧師の勧めでベルギーのブリュッセルでボクマ導師が指導する伝道師養成学校に通うことになりました。
ゴッホは、他人を顧みない生活態度、乱暴な言葉遣い、注意されても改めず、かえって興奮状態にしまうので、伝道師にはなれませんでした。
ゴッホは、ブリュッセルの伝道師養成学校を追い出されると、貧しい炭鉱の街ボリナージュ(モンスから南西に広がる地域の名称)に向かい、何の資格も待たないが、街角で神の言葉を説き、ありとあらゆる方法で人を助けました。
ブリュッセルの伝道委員会は、ゴッホの評判を聞き、ゴッホをヴァムス地区の伝道師に試験的に任命し、給与を支払いました。
ゴッホは、夢が叶ったことで、狂喜し、人々に献身し、感謝されましたが、伝道師としては相応しくないと判断され、伝道師を解任されました。
ゴッホは、水彩画を描く、ブリュッセルの伝道委員会のピーテルセン牧師を訪ね、偶然描いたデッサンを見せ、坑夫を
速写するように頼まれました。
ゴッホは、ピーテルセン牧師の紹介で、クウェムで牧師の補佐をし、伝導への気持ちは失せて、画家になることを決意しました。
ゴッホは、クウェムで弟テオから送られてくる版画を模写し、デッサンの研究をし、グーピル商会のハーグ支店の支配人テルステーフから送られてきたバルグのデッサンの教本、解剖学、遠近法、木炭画の練習に関する本を読み、抗夫や職工をモデルにデッサンを描きました。

第3章 人物画と貧困

ゴッホは、ブリュッセルで、弟テオの紹介で、アントン・ファン・ラッパルトという画家と親しくなり、アトリエを借りて、議論をして、学ぶということにしました。
アントン・ファン・ラッパルトは、ブリュッセルからオランダに戻りました。
ゴッホは、ブリュッセルにいる理由がなくなり、ゴッホは、両親の移り住んだエッテンに帰省しました。
ゴッホの両親は、画家になるというゴッホを迎い入れ、アトリエを提供し、支援しました。
ゴッホは、50点のデッサンを行いました。
アントン・ファン・ラッパルトは、エッテンにいるゴッホに会いに来ました。
ゴッホは、ハーグに行って、従弟の画家アントン・マウフェとグーピル商会のハーグ支店長テルステーフにデッサンを見せて、才能を認められ、できるだけ生きたモデルを使って写生するようにとアドバイスを得ました。
アムステルダムに住んでいる叔父ストリッケの娘のケイが夫を亡くし、静養するために、息子と共にエッテンに来ました。
ゴッホは、ケイを愛し、結婚を申し込み、断われらました。
ケイは、アムステルダムに逃げ帰りました。
ゴッホは、ケイに手紙を書き、封も切れれず送り返されました。
父親テオドルスも叔父ストリッケは、ゴッホに激怒しました。
ゴッホは、ケイに会うためにアムステルダムへ行きますが、会うことはできませんでした。
ゴッホは、愛に絶望し、絵画に向き合うようになりました。
ゴッホは、父親と大喧嘩をしてエッテンから出て、ハーグに行き、従弟の画家アントン・マウフェの支援で、画家になりました。
ゴッホは、グーピル商会のハーグ支店長テルステーフの依頼で絵を描き、叔父コルの依頼で絵を描き、収入を得ました。
ゴッホは、アルコール中毒で、子連れで、妊娠中の貧しい32歳の売春婦シーンと出会い、愛し、支援し、結婚を願うようになりました。
ゴッホは、シーンを嫌う従弟の画家アントン・マウフェ、ハーグ支店長テルステーフ、叔父コルと弟テオと対立し、絶縁状態になりました。
ゴッホは、淋病になり、入院し、退院した後で、男の子を生んだシーンに会い、ハーグでシーンと共に屋根裏部屋で、生活を始めました。
弟テオは、ハーグに来て、ゴッホとシーンを別れさせました。
ゴッホは、シーンと子供を実家に帰し、画家アントン・ファン・ラッパルトから良いモチーフがあると教えられたドレンテ州ホーヘフェーンへ向かいました。
ゴッホは、父親テオドルスのいるヌエネンに戻りました。
父親テオドルスは、ゴッホにアトリエを与え、支援しました。
ゴッホは、人物画に焦点を絞り、多くの絵を描きました。
父親テオドルスが亡くなりました。
ゴッホは、色彩に目覚めて、ルーベンスの絵を見るために、アントワープに向かいました。
ゴッホは、アントワープでルーベンスの絵と日本の浮世絵を見て、アントワープ王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出席しました。
ゴッホは、アントワープでの生活に行き詰まり、弟テオのいるパリに行きました。

第4章 色彩を求めて

ゴッホは、弟テオの紹介で印象派の絵、画家やタンギー爺さんという画材屋にも出会いました。
ゴッホは、ポール・ゴーガンに出会いました。
ゴッホは、印象派や浮世絵の影響を受けて、パリの街並みを色鮮やかに描くようになりました。
ゴッホは、パリを出て、16時間も汽車に乗って、浮世絵にあるような色彩を求めて、南仏にあるアルルへ行きました。
ゴッホは、アルルで、新しい色彩を目指す画家の共同生活という夢を見つけました。
ゴッホは、ポール・ゴーガンをアルルに誘いました。
ゴッホは、太陽の色、黄色に、強く惹かれ、印象派の影響は薄れ、色を強く押し出すようになりました。
ゴッホは、ポール・ゴーガンを迎え入れる「黄色い家」の部屋を飾る「ひまわり」を描き、飾りました。
ポール・ゴーガンは、アルルにやってきて、ゴッホと一緒に共同生活を始め、夢が形になりました。
ゴッホは、人物画を描くことに執着しました。
ポール・ゴーガンは、現実から離れて、想像力を駆使して絵を描きました。
ゴッホとポール・ゴーガンは対立し、ゴッホは左耳を切り落とし、ポール・ゴーガンは弟テオに電報を打って連絡しました。

第5章 色彩の果てに

ゴッホは、病院に入院しました。
弟テオは、ポール・ゴーガンからの電報を受けて、アルルに来て、ゴッホのことを医者や看護師に頼むと、ポール・ゴーガンと共にパリに戻りました。
ゴッホは、病院から退院すると、絵を描き始めました。
ゴッホは、婚約し、結婚する弟テオを頼ることはできないし、アルルで唯一の友人の郵便夫ルーランは転勤し、経済的にも、精神的にも追い詰められました。
弟テオは、結婚しました。
ゴッホは、「黄色い家」から追い出され、アルルから20キロ余り北東にあるサン・ミレ病院に収容されました。
ゴッホは、サン・ミレ病院で、絵を描き始めました。
ゴッホは、度重なる発作を起こしていました。
弟テオは、ブリュッセルで開かれる「20世紀の会」という展覧会に、ゴッホの「ひまわり」、「果樹園」、「赤い葡萄園」など6点を出展しました。
美術評論家のアルベール・オーリエが、「メルキュール・ド・フランス」で、ゴッホの絵を絶賛しました。
知人の画家のボックの姉のアンナ・ボックが、ゴッホの描いた「赤い葡萄園」を400フランで買いました。
ゴッホは、アルルで200点もの絵を描きました。
ゴッホは、弟テオの紹介でオーヴェル=シュル=オワーズに住んでいて、熱心な美術愛好家で医者のガシェのところで療養しました。
ゴッホは、パリにいる弟テオを訪れ、弟テオと妻ヨハンナの窮状を知りました。
ゴッホは、オーヴェル=シュル=オワーズに戻り、自ら命を絶ち、カフェ・ラボオーの一室で亡くなりました。
半年後に、弟テオも病気で亡くなりました。
妻ヨハンナは、弟テオをゴッホが埋葬されているオーヴェル=シュル=オワーズにある墓の隣に埋葬しました。

資料篇1 ゴッホの手紙

妻ヨハンナは、弟テオ宛のゴッホの手紙を保存し、良い資料になりました。
以下の6通の手紙が掲載されています。

ゴッホの手紙
  • 1881年4月2日、ブリュセルにいるゴッホから弟テオ宛に送られた手紙
  • 1883年、ドレンテにいるゴッホから弟テオ宛に送られた手紙
  • 1888年、アルルにいるゴッホから弟テオ宛に送られた手紙
  • 1889年1月17日、アルルにいるゴッホから弟テオ宛に送られた手紙
  • 1889年春、アルルにいるゴッホから弟テオ宛に送られた手紙
  • 1890年、アルルにいるゴッホからゴーガン宛に送られた未完の手紙

資料篇2 ゴッホをめぐる論表

ゴッホに関する書物、記事、論文は、他の画家より多いです。
以下の6つの記事が掲載されています。

ゴッホをめぐる論表
  • ゴーガンの2つの記事
  • フランス人作家ミルボーの2つの記事
  • A・アルトーの記事
  • G・A・オーリエの記事

資料篇3 ゴッホとひまわり

1987年3月30日19:30、安田火災海上保険(現損害保険ジャパン日本興亜)が英クリスティーズのオークションで、ゴッホの「ひまわり」が約58億円で落札されたことと、1888年8月、アルルにいて「ひまわり」を描いているゴッホから弟テオ宛に送られた手紙が掲載されています。
この「ひまわり」は、新宿にあるSOMPO美術館で展示され、鑑賞することができます。

資料篇4 ボリナージュの抗夫たち

ゾラが取材したボリナージュの抗夫の1日と1878年11月15日、ラーケンにいるゴッホから弟テオ宛に送られた手紙が掲載されています。

資料篇5 ゴッホの生きた場所

ゴッホの生きた場所の写真が掲載されています。

ゴッホの生きた場所
  • ゴッホのアトリエがあったヌエネンの牧師館
  • ゴッホの住んだルビック街の家
  • 1887年から1888年までゴッホが住んだアルルの家
  • アルルのラングロワのはね橋。第二次世界大戦で破壊された。
  • サン・ミレ・ド・プロヴァンスのサン・ポール・ド・モリゾー療養所とその庭
  • ゴッホの描いた療養所の庭
  • 療養所の庭の写真
  • ゴッホが死んだオーヴェル・シェル・オワーズのカフェ・ラポオー

フィンセント・ファン・ゴッホ略年譜

ゴッホの年表で、事柄と作品を結びてけているところが気に入りました。

登場人物

ゴッホの本名は、フィンセント・ファン・ゴッホで、フィンセント(勝利者)と呼ばれています。

テオドルス・ファン・ゴッホは、小さなプロテスタント教会の牧師で、ゴッホの父親です。

アンナ・コルネリア・カルベントゥスは、宮廷の製本職人の娘で、テオドルス・ファン・ゴッホの妻で、ゴッホの母親です。

ゴッホの祖父は、ブレダで、説教が上手い、有名な牧師でした。
ヨン伯父は、オランダ海軍最高階級にあたる海軍中将でした。
セント伯父は、ハーグの画廊からグーピル商会と合併し、欧米屈指の美術商へと発展しました。
ヘイン伯父は、ロッテルダムやブリュッセルで、画商として成功していました。
コル伯父は、アムステルダムで、画商として成功し、ゴッホに風景画を注文しました。

アンナは、ゴッホの妹で、1855年に生まれました。
テオドルスは、通称テオは、ゴッホの弟で、1857年に生まれました。
エリーザベトは、ゴッホの妹で、1859年に生まれました。
ヴィレミーン、通称ヴィルは、ゴッホの妹で、1862年に生まれました。
コルネリス、通称コルは、ゴッホの弟で、1867年に生まれました。

テルステーフは、グーピル商会のハーグ支店長で、ゴッホに「木炭画の練習」、「バルクのデッサン教本」の本を貸しまし、ゴッホのデッサンを買い、モデル料のかからない「気持ちの良い水彩画」を描くように忠告しました。

コンスタブルは、イギリスの画家です。
レイノルズは、イギリスの画家です。
ゲインズボロは、イギリスの画家です。
ターナーは、イギリスの画家です。

ウルスラは、ロワイエ家の娘で、未亡人で、母親を助けながら、託児所を経営し、婚約していて、ゴッホからの結婚を断りました。

ストークスは、ラムズゲートの寄宿学校の校長で、ゴッホを教師として雇い、授業料を集められないゴッホを解雇しました。

ジョーンズは、アイスワールのメソジスト派の牧師で、ゴッホに学校で生徒の面倒を見ながら、教区の信者に説教をする機会を与えました。

ディケンズは、イギリスの小説家で、主に下層階級を主人公とし、弱者の視点で社会を諷刺した小説を発表しました。

ギュスターヴ・ドレは、フランスの画家で、ロンドンの貧富の差を描いた「ロンドン巡礼」という絵を描きました。

ブラートは、ドルトレヒトで書店を経営し、セント伯父の紹介で、ゴッホを店員として雇いました。

母方のストリッケル伯父は、ゴッホの家庭教師として、メンデス・ダ・コスタを雇いました。

メンデス・ダ・コスタは、ゴッホにギリシャ語、ラテン語、代数、幾何、歴史や地理を教えましたが、ラテン語を習得できないゴッホに試験に合格することはできないという結論に達しました。

ブリオンは、フランスの有名な画家で、1877年11月3日にパリで亡くなりました。

ドービニは、フランスの有名な画家で、1878年2月19日にパリで亡くなりました。

ボクマ師は、ブリュセルの伝道師養成学校で、ゴッホを指導しましたが、ゴッホに伝道師には向いていないと伝えました。

ピーテルセン牧師は、ブリュセルの伝道委員会の牧師で、ゴッホのデッサンを見て、ゴッホに速写を依頼し、ゴッホにキュエル村の牧師を補佐するように手配してくれました。

レブラントは、オランダの画家です。

ミレーは、フランスの画家です。

ジュール・ブルトンは、フランスの画家で、エミール・ブルトンの兄です。
エミール・ブルトンは、フランスの画家で、ジュール・ブルトンの弟です。

ボートンは、アメリカの画家です。

アントン・ファン・ラットパルトは、ブリュセルにいる画家で、弟テオの紹介で、ゴッホと親しくなりました。
ゴッホは、アントン・ファン・ラットパルトのアトリエを借りて、使いました。

アントン・マウフェは、ゴッホの従弟で、画家で、ゴッホの画家としての才能を初めて認めました。

ケイは、ストリッケル伯父の娘で、夫を亡くした未亡人で、息子がして、ゴッホとの結婚を断りました。

シーンは、アルコール中毒で、子連れで、妊娠中の貧しい32歳の売春婦で、ゴッホに愛され、支援され、共同生活をしますが、ゴッホと別れることにまりました。

マリスは、オランダの画家で、ゴッホと友人になり、ゴッホと別れしました。
デ・ボックは、オランダの画家で、ゴッホと友人になり、ゴッホと別れしました。
ベレイトネルは、オランダの画家で、ゴッホと友人になり、ゴッホと別れしました。
ウェイセンブルフは、オランダの画家で、ゴッホと友人になり、ゴッホと別れしました。

ロイスダールは、オランダの画家です。
フェルメールは、オランダの画家です。
レンブラントは、オランダの画家です。

アドリアーン・ファン・オスターデは、オランダの画家で、イサーク・ファン・オスターデの兄です。
イサーク・ファン・オスターデは、オランダの画家で、アドリアーン・ファン・オスターデの弟です。

フーベルト・ファン・エイクは、フランドルの画家で、ヤン・ファン・エイクの兄です。
ヤン・ファン・エイクは、フランドルの画家で、フーベルト・ファン・エイクの弟です。

ドラクロワは、フランスの画家です。
コローは、フランスの画家です。
ルーベンスは、ベルギーの画家です。

コルモンは、フランスの画家です。
トゥールーズ=ロートレックは、フランスの画家で、ゴッホの人物画のモデルを務めました。
エミール・ベルナールは、フランスの画家で、ゴッホの人物画のモデルを務め、故郷はアニエールです。
ジョン・ラッセルは、オーストラリア出身の画家で、ゴッホの人物画のモデルを務めました。
カミーユ・ピサロは、フランスの画家で、息子のリュシアンがゴッホの人物画のモデルを務めました。

タンギー爺さんは、画材屋で、ゴッホを気に入り、ゴッホの人物画のモデルを務め、ゴッホの多くの絵を保存しました。
エドワード・マネは、フランスの画家で、ユジューヌ・マネの兄です。
ユジューヌ・マネは、フランスの画家で、エドワード・マネの弟で、ベルト・モリゾーの夫です。
ベルト・モリゾーは、フランスの画家で、ユジューヌ・マネの妻です。
モネは、フランスの画家です。
ルノワールは、フランスの画家です。
シスレイは、フランス生まれのイギリスの画家です。
ドガは、フランスの画家です。
スーラは、フランスの画家です。

ポール・ゴーガンは、冷静で自信満々のフランスの画家で、弟テオの紹介で、ゴッホに出会い、仲良くなり、アルルで共同制作をして、別れました。
アゴスティナ・セガドーリは、パリで「タンブーラン」という酒場を経営し、ゴッホ達の絵を披露し、ゴッホと愛人関係になりますが、別れました。

ソクラテスは、古代ギリシアの哲学者です。

ルーランは、アルルの郵便夫で、ゴッホと親しくなり、ゴッホの人物画のモデルを務め、転勤しました。
ルイ医師は、アルルで、ゴッホに親切にしました。
サル牧師は、アルルで、ゴッホに親切にしました。

ボナパルトは、ナポレオン・ボナパルトのことです。

ポール・シニャックは、フランスの画家です。

ヨハンナは、弟テオの妻です。
弟テオとヨハンナは、生まれてくる息子に、フィンセントと名づけました。

ボックは、ベルギー生まれの画家です。
ボックの姉のアンナ・ボックは、「20世紀の会」の会員で、ゴッホの「赤い葡萄園」を400フランで購入しました。

ガシェ医者は、オーヴェル=シュル=オワーズに住んでいて、熱心な美術愛好家で、弟テオの紹介で、ゴッホの担当医になり、ゴッホの人物画のモデルを務めました。

単語説明

牧師館は、各教区の牧師が居住する家屋です。

牧師は、キリスト教のプロテスタントの教職者で、礼拝・説教・牧会・宣教その他教会の事務的な管理運営などを職務としていますが、結婚し、子供を設けることができます。

画商は、画家から絵画を仕入れ、絵画を顧客に販売する業者です。

寄宿学校は、生徒を寄宿舎に収容し、教師の指導、監督のもとで共同生活をさせる学校です。

ルーブルは、パリにあるフランスの国立美術館で、世界最大級の美術館です。
リュクサンボールは、フランスのパリにある宮殿です。
回顧展は、特定の画家を取り上げ、画家の生涯における絵画や活動を総覧する展覧会です。

ヘブライ語は、古代イスラエルに住んでいたヘブライ人が使用していましたが、話す人がいなくなり口語としては使われなくなり、学者の著述や典礼言語として使われました。

ギリシャ語は、東地中海諸地域における共通言語の一つとして、3000年以上、日常言語として、文学作品・公式記録・外交文書の言語として、重要な役割を果たしてきた言語です。

ラテン語は、イタリア半島の古代ラテン人によって使われ、古代ローマ・共和政ローマ・ローマ帝国で公用語となったことにより、古代ヨーロッパ大陸・アフリカ大陸北部で広範に使用され、近代までは学術界などでは主要言語として、重要な役割を果たしてきた言語です。

聖書は、旧約聖書、新約聖書等でヘブライ語、ギリシャ語やラテン語で書かれています。

神の福音は、イエス=キリストによってもたらされた人類の救いと神の国に関する喜ばしい知らせのことです。

メゾジスト派は、18世紀、英国でジョン・ウェスレーによって興されたキリスト教の信仰覚醒運動の中核をなす主張であるメソジズムに生きた人々、および、この運動から発展したプロテスタント教会・教派に属する人々です。

代数は、数の代わりに文字を用いて方程式の解法を研究する学問です。

幾何は、図形や空間の性質について研究する学問です。

デッサンは、物体の形体、明暗などを平面に描画する美術の制作技法で描かれた絵のことです。

説教は、宗教の教義・教典を、その信者や民衆に、口頭で説き明かすことです。

伝道は、宗教の教えを広め、信仰の道を伝えることです。
伝道師は、宗教の教えを広め、信仰の道を伝える人のことです。

炭鉱は、石炭が埋蔵されている鉱山に、坑道を掘り、石炭を採掘します。
落盤は、坑道が崩壊し、坑夫は生き埋めになったり、坑道から出ることができなくなったりします。
チフスは、細菌感染症で、発熱や下痢、発疹が起こり、死に至ることもあります。

クロッキーは、実在の対象を10分程度までの短時間で写生しすることで、速写とも訳されます。

教則本は、基本的技巧を、初歩から順序正しく練習するための本です。
解剖学は、人の正常な形態と構造について研究する学問です。
遠近法は、視覚的に遠近感を表現する手法の総称です。

木炭画は、木を炭にしただけ物で、軟らかく伸ばしやすいという特徴を活かして、消したり描いたりを繰り返すことにより同じ黒色でも微妙な色合いの差異を表現することで、描いた絵です。

木版画は、木版印刷の一種で、木製の原版によって制作される絵です。

チョークは、基本は白色だが、赤、青、黄などに着色されたチョークもあり、絵を書くための道具です。
筆は、毛の束を軸の先端に付けた、絵を書くための道具です。
刷毛は、「ハケ」と呼ばれ、多数の毛を木やプラスチックなどでできた柄の先端に取り付けた、絵を書くための道具です。

コンテは、顔料に粘土や蝋などのバインダーを混ぜた材料を、押し固めたり焼き固めて作られる、角形で棒状の画材で人工チョークの一種です。
セピアは、イカ墨で描かれた、茶褐色もしくは暗褐色のモノトーンの色調の絵のことです。
水彩は、水を溶剤とする絵具、この絵具を使用して描かれた絵のことです。

静物は、静止した自然物や人工物のことです。
パレットは、絵画を描く際に使用される、絵具を混合するための板です。

ペン画は、白い紙に黒インクとペンを使用して描いた絵です。

淋病は、感染者との性行為によって感染し、淋菌に感染することで生殖器を中心に炎症が生じ、尿道から膿うみのような分泌物が大量に排出されるのが特徴です。

鳥瞰図は、上空から斜めに見下ろしたような形式で、飛ぶ鳥の目からみたように見える絵のことです。

素画は、デッサンのことです。

リトグラフは、水と油の反発作用を利用し、「描画」「製版」「刷り」の3工程で作成される版画の一種で、クレヨンの独特のテクスチャや、強い線、きめ細かい線、筆の効果、インクを飛ばした効果など、描写したものをそのまま紙に刷ることができ、多色刷りも可能で、版を重ねるにつれて艶を有した独特の質感もあります。

印象派は、屋外で実生活の風景を絵筆で絵の具をのせて、明確な輪郭をもつ形よりも色彩そのものを絵として描く画家と絵画です。

モチーフは、絵を描くための、人物や風景などの対象です。

司祭は、キリスト教カトリックの教職者で、礼拝・説教・牧会・宣教その他教会の事務的な管理運営などを職務としていますが、結婚することはできません。

色彩は、一定のものではなく、光の種類や強さ、またそれを見る人によって変わります。

浮世絵は、江戸時代初期に成立した絵画で、肉筆画と木版画があり、木版画には一枚摺と版画形式に分かれ、大量生産とそれによる低価格化が可能な版画形式が庶民に広まりました。

官展派は、フランス政府が主催する絵画展に参加する画家と絵画です。

アブサンは、アルコール度数が高く70%前後のお酒です。

アナーキストは、国家を望ましくなく、不必要で有害なものであると考える思想であり、国家の廃止を呼びかけ、無政府主義とも呼ばれます。

パリ・コミューンは、1871年3月26日に、「プロレタリアート独裁」による自治政府を宣言したことです。

カンヴァスは、絵を描く板に代わり、布に描くようになり、絵を描く布のことです。

習作は、絵を描く練習のために作られる絵画です。

点描法は、絵画を線ではなく点の集合や非常に短いタッチで表現する技法です。

画廊は、絵画を展示したり、販売したりする施設や組織です。

イーゼルは、画家がカンヴァスを固定するのに用いる支持体です。

アトリエは、画家が絵を描くための専用の部屋です。

7月14日は、フランス革命が起きた日です。

感想

ゴッホには、絵を描く情熱しかありませんでした。
ゴッホは、美術学校で学んだこともなく、展覧会で評価されたこともなく、人付き合いが苦手なので信頼性もありません。
ゴッホには、権威もなく、専門家でもなく、信頼性もありません。
ゴッホが、現代に生きていたとしても、同じように評価されないでしょう。
持って生まれた才能と育った環境に恵まれなければ、人が認められることはないということです。
ゴッホの伯父たちは、画商として成功していたのだから、ゴッホに環境がないとは言えません。
自分の才能に気が付かず、環境に恵まれず、埋もれて、人生を終える人の方が多いということです。
自分の才能に、自分の人生を懸ける人は、ごく僅かです。
これが現実です。
ゴッホは、僅か9歳の時に素晴らしい「橋」というデッサンをしましたが、自らの才能に気が付くのに時間がかかり過ぎました。
ゴッホは、画商から、失恋によって、宗教への道に進みますが、挫折します。
ゴッホが、画商を続けていたら、画商としても、画家としても成功していたかもしれません。
結局は、人付き合いができるかできないかが、人間社会で成功するか、しないかを決定付けるということです。
才能がある人は、才能のない人とは異なっているので、才能のない人と付き合うのは困難だろうと想像できます。
昔も今も、違いはありません。
ゴッホのことを知っても、多くの人は画家になることを目指す人はないでしょう。
ゴッホのことを知っても、何の教訓も得られないところに、救いさえもありません。
退職後は、自分に何の才能があるのか分かりませんが、自分の残りの人生を懸けるのは悪くない選択肢だと感じました。

弟テオの妻ヨハンナと息子フィセントが、ゴッホの絵を世間に認めさせました。
弟テオの妻ヨハンナと息子フィセントが尽力しなければ、ゴッホは、今でさえも無名の画家でいたかもしれません。

まとめ

ゴッホの伝記だけでなく、ゴッホの絵画がたくさんカラー掲載され、読めるのが良かったです。
ゴッホのたどった人生とゴッホの描いた絵画は、別々ではなく、結びついていることが良くわかりました。
自由に生きる苦労はありますが、退職後なら、自由に生きることができそうだと感じました。
自分の退職後にたどる人生とブログ記事が、結びついて、人生もブログ記事も充実させたいです。

「ゴッホ-燃え上がる色彩」のホームページを見つけましたので、参考にしてください。
ホームページ

次は、映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」をレビューする予定です。
ご期待ください。

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