「ファースト・マン : 初めて月に降り立った男、ニール・アームストロングの人生」あらすじ、感想と社会的背景

映画「ファースト・マン」の原作です。
映画「ファースト・マン」を鑑賞しても、細かい点は理解できないと感じました。
原作となった「ファースト・マン 上: 初めて月に降り立った男、ニール・アームストロングの人生」「ファースト・マン 下: 初めて月に降り立った男、ニール・アームストロングの人生」(ジェイムズ・R・ハンセン著/日暮 雅通、水谷 淳 訳、河出文庫)についてあらすじ、社会的背景と感想を書きます。

月に初めて降り立つまではもちろん大変ですが、地球に帰還した後の方が長く、大変だということが理解できます。
月に初めて降り立つ人は、ニール・アームストロングでなければならなかったと感じました。

あらすじ

ファースト・マン 上: 初めて月に降り立った男、ニール・アームストロングの人生

まえがき

著者であるジェイムス・R・ハンセンが見たニール・アームストロングの印象、思い出が描かれています。

プロローグ

1969年7月16日、ニール・アームストロングが見ることのできなかったアポロ11号を打ち上げを見守る様子について描かれています。

物語

ニール・アームストロングが生まれてから、子供時代、学生時代、朝鮮戦争を経て、アメリカ航空諮問委員会(NACA)のテストパイロットになり、ジャネットと結婚し、長男娘カレンが生まれて、死亡し、ジェミニ計画の宇宙飛行士になり、アポロ11号で月へ向かうまでが描かれています。

ファースト・マン 下: 初めて月に降り立った男、ニール・アームストロングの人生

ニール・アームストロングがアポロ11号で経験したこと、地球に帰還した後、いきなり有名人になり、大変だったこと、NASAを辞めて、色々な仕事をしたこと、ジャネットと離婚し、キャロルと再婚し、亡くなるまでが描かれています。

社会的背景

ニール・アームストロングの家系から、1600年後半のイギリスのイングランドとスコットランドの境界になるボーダー地方から、1730年にアメリカ大陸に渡り、1812年オハイオ州南西部に入植したことから物語は始まります。

1915年3月3日、アメリカ航空諮問委員会(NACA)が設立されました。

1930年8月5日、ニール・アームストロングは、人口5,000人というオハイオ州ウォパコネタで生まれました。
1936年9月、ニール・アームストロングは、小学校1年生になり、100冊もの本を読みました。
1938年9月、ニール・アームストロングは、飛び級して、8歳で小学校4年生になりましたが、成績はトップでした。
ニール・アームストロングは、8歳か、9歳のときに、飛行機の操縦に憧れました。
1940年、ニール・アームストロングは、10歳でアルバイトを始めました。
ニール・アームストロングは、飛行機の設計者になるために、飛行機の操縦もしたいと思いました。

1940年6月4日、イギリスは、「ダイナモ作戦」によって、ダンケルクから30万の連合軍兵士を撤退させるのに成功しました。
1941年12月8日、日本軍は、アメリカ合衆国ハワイのオアフ島の真珠湾にある米軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃しました。
1945年8月6日、アメリカ軍は、日本の広島市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月9日、アメリカ軍は、日本の長崎市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月15日、日本は、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明し、連合国に降伏しました。

1946年5月、ニール・アームストロングは、15歳で、数学、科学、語学をトップの成績で、78人中11位で、ブルーム・ハイスクールを卒業しました。
1946年、ニール・アームストロングは、初めてフォード・トリモーターという飛行機に乗りました。
1946年、ニール・アームストロングは、ジェイク・ジントを訪れ、宇宙望遠鏡で月を見ました。
1946年8月5日、ニール・アームストロングは、16歳で、学生パイロット免許状を取得しました。
ニール・アームストロングは、単独飛行を始めて行いました。
1947年9月、ニール・アームストロングは、パデュー大学に通い、航空工学を学び始めました。
1947年10月14日、チャック・イェーガーは、ロケット推進エンジン搭載のベルX-1で、音速の壁を突破しました。
1948年9月18日、チャック・イェーガーは、デルタ翼ジェット機XF-92を初飛行しました。
1948年12月16日、垂直尾翼があるが水平尾翼を持たないX-4を初飛行しました。
1949年1月26日、ニール・アームストロングは、海軍に入り、フロリダ州ペンサコーラ海軍航空基地で飛行訓練を受けるよう任命されました。
1949年2月24日、フォン・ブラウン率いる軍のロケット部隊は、ニューメキシコ州ホワイトサンズ・ミサイル実験場において、V2ロケットを使用して最高高度記録である400kmを達成しました。
1950年6月25日、朝鮮戦争が始まりました。
1950年8月16日、ニール・アームストロングは、海軍飛行士の正式な認定を受けました。
1951年8月29日、ニール・アームストロングは、朝鮮戦争で実戦初飛行で、写真撮影する偵察機の護衛をしました。
1950年11月27日、ニール・アームストロングは、F9F-2艦上ジェット戦闘機を使用する第五一戦闘機戦隊(VF-51)に配任され、最年少の将校となりました。
1951年1月5日、ニール・アームストロングは、F9F-2艦上ジェット戦闘機を始めて、飛行させました。
1951年7月7日、ニール・アームストロングは、F9F-2艦上ジェット戦闘機で、空母エセックスに初めて着艦し、H8油圧式カタパルトで発艦しました。
1951年8月29日、ニール・アームストロングは、F9F-2艦上ジェット戦闘機で、初めて戦闘に参加しました。
1951年9月3日、ニール・アームストロングは、対地掃射をしてているときに、低空飛行用の罠で機体を損傷し、射出座席で脱出しました。

1951年9月20日、V2ロケットを使用して、ヨリックまたはアルバートVIと呼ばれるサルと11匹のマウスとともに高度72キロメートに達し、生きて帰還しました。

1951年9月21日、ニール・アームストロングは、横須賀で、慰労休暇を体験しました。
1951年10月1日、ニール・アームストロングは、第二次戦闘期間が始まりました。
1951年10月31日、ニール・アームストロングは、第三次戦闘期間が始まりました。
1951年12月26日、ニール・アームストロングは、第四次戦闘期間が始まりました。
1952年1月、ニール・アームストロングは、エア・メダル、ゴールド・スター、コリアン・サービス・メダルや
エンゲージメント・スターもを受章しました。
1952年2月1日、ニール・アームストロングは、正規将校辞令を解き、予備役少尉になりました。
1952年2月18日、ニール・アームストロングは、第五次戦闘期間が始まりました。
1952年3月25日、ニール・アームストロングは、米国に帰還しました。
ニール・アームストロングは、ジャネット・エリザベス・シェアロンとパデュー大学内のパーティーで、知り合いました。
1952年8月23日、ニール・アームストロングは、海軍を除隊しました。

1953年1月20日、ドワイト・D・アイゼンハワーは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1953年5月、ニール・アームストロングは、海軍予備役部隊で、中尉に昇進しました。
1953年、ニール・アームストロングは、パデュー大学に復学しました。
1953年7月27日、朝鮮戦争は休戦しました。
1953年11月20日、スコット・クロスフィールドは、D-558-2で、世界初のマッハ2の速度を記録しました。
1955年1月、ニール・アームストロングは、航空工学の学位を得て、パデュー大学を卒業しました。
ニール・アームストロングは、新型機の試験飛行を行なうテスト・パイロットになることを決意しました。
1955年2月、ニール・アームストロングは、エドワーズ空軍基地内にあるNACA高速飛行研究所のテストパイロットを志願しました。
ニール・アームストロングは、エドワーズ空軍基地内にあるNACA高速飛行研究所のテストパイロットに空きはなく、オハイオ州クリーヴランドのNACA航空推進所のテストパイロットになりました。
1955年3月1日、ニール・アームストロングは、オハイオ州クリーヴランドのNACA航空推進所で初めの飛行テストを行いました。
1955年5月6日、ニール・アームストロングは、P-82の胴体下に搭載されたERM-5ロケットエンジン航空機をテストしました。
1955年7月11日、ニール・アームストロングは、エドワーズ空軍基地内にあるNACA高速飛行研究所のテストパイロットになりました。
1955年10月、ニール・アームストロングは、F-100Aで音速を超えて、飛行しました。
1956年1月28日、ニール・アームストロングは、ジャネット・エリザベス・シェアロンと
イリノイ州ウィルメッテの教会で結婚式を挙げました。
1956年3月22日、ニール・アームストロングとスタン・ブッチャードは、B-29の改良型に、ジャック・マッケイが搭乗するD-558-2を胴体下に搭載し、調査しているときに、B-29の改良型の第4エンジンが故障し、
D-558-2を切り離すために、速度を得るために、降下し、D-558-2を切り離したときの影響で第3エンジンと第2エンジンが損傷し、第1エンジンを停止し、滑空しながら、湖面に着陸させました。
ジャック・マッケイは、D-558-2を無事に着陸させました。

1956年9月7日、アイヴン・キンチェローは、ベルX-2で、時速3,220km/h以上で飛行し、高度38,470mを最初の飛行し、アメリカ合衆国で一番の宇宙飛行士と呼ばれています。

1956年9月27日、メルバーン・アプトは、ベルX-2で、最初のマッハ3に達しますが、ロールカップリングのせいで制御不能に陥り、
脱出に失敗し、死亡しました。

1957年6月30日、ニール・アームストロングとジャネットには、長男リック・アレンが生まれました。
1957年8月15日、ニール・アームストロングは、ベルX-1Bを操縦し高度18.3kmに到達しました。
1957年10月4日、ソ連が、R-7ロケットを使用し、バイコヌール宇宙基地から世界初の人工衛星であるスプートニク1号を打ち上げ、成功しました。
1957年12月6日、アメリカ合衆国が、ヴァンガードを使用し、ケープカナベラル空軍基地第18発射施設から人工衛星である
ヴァンガードTV3を打ち上げ、2秒後に爆発、一部始終は生中継で放映され、ヴァンガード計画のチームとアメリカ合衆国は報道陣によって酷評されました。

1958年2月1日、アメリカ合衆国が、ジュノーIを使用し、ケープカナベラル空軍基地からアメリカ合衆国初の人工衛星であるエクスプローラー1号を打ち上げ、成功しました。

1958年7月29日、国家航空宇宙法が成立しました。
1958年10月1日、国家航空宇宙局(NASA)は、アメリカ航空諮問委員会(NACA)を吸収し、が設立され、
ニール・アームストロングは、国家航空宇宙局(NASA)のテストパイロットになりました。

1958年10月7日、マーキュリー計画は、承認されました。

1959年4月9日、NASAはマーキュリー・セブンの名で知られるスコット・カーペンター、ゴードン・クーパー、ジョン・ハーシェル・グレン、ガス・グリソム、ウォルター・シラー、アラン・シェパード、ドナルド・スレイトンという7名の宇宙飛行士を発表しました。

1959年4月13日、ニール・アームストロングとジャネットには、長女カレン・アンが生まれました。

1959年5月28日、エイブルとベイカーという猿が、ジュピターIRBM AM-18のノーズコーンに乗せられ、ミサイルは高度579kmに達し、16分間の飛行で、9分間無重力状態で、最高速度は16,000km/hで、38Gに耐え、ケープ・カナベラルから2,735km離れた大西洋に降下しました。

1959年9月17日、スコット・クロスフィールドは、ノース・アメリカンX-15を初飛行しました。

1960年10月20日、ニール・アームストロングは、予備役部隊から除隊しました。

1960年11月8日、ケネディ民主党大統領候補は、ニクソン共和党大統領候補に僅差で勝ち、アメリカ合衆国大統領に当選しました。

1960年11月30日、ニール・アームストロングは、ノース・アメリカンX-15で、B-52から高度13.7kmで空中発射し、飛行し、高度14.9km、マッハ1.75を達成しました。

1960年12月20日、南ベトナム解放民族戦線は、ジエム大統領とアメリカ合衆国を打倒するために結成されました。

1961年1月20日、ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。
ドワイト・D・アイゼンハワーは、アメリカ合衆国大統領を退任しました。

1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンは、ボストーク1号で史上初の約1時間半の地球周回飛行という有人宇宙飛行を成功させました。

1961年4月15日、亡命キューバ人部隊が、キューバ空軍の飛行場を爆撃し壊滅させて制空権を奪うのに失敗しました。
1961年4月17日、1400人の亡命キューバ人部隊がピッグス湾に上陸し、キューバ政府軍の反撃に遭い、キューバ空軍の攻撃を受け、沖合に待機した艦船が撃沈、弾薬も食糧も欠乏する事態の中で海岸で部隊は孤立しました。
ケネディ大統領は、米国正規軍の派遣を拒否し、ピッグス湾上陸作戦は失敗しました。

1961年5月、ケネディ大統領は、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という、ゲリラに対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始しました。

1961年5月5日、アラン・シェパードは、 マーキュリー3号で16分間の弾道飛行に成功し、“アメリカ人初の宇宙飛行士”となりました。

1961年5月25日、ケネディは上下両院合同議会での演説で、アポロ計画の支援を表明しました。

1961年7月21日、ガス・グリソムは、マーキュリー4号で16分間の弾道飛行に成功しました。

1961年8月6日、ソ連のゲルマン・チトフは、地球周回飛行に成功しました。

1962年1月28日、ニール・アームストロングの長女カレンは、肺炎のため死亡しました。

1962年2月20日、ジョン・グレンは、マーキュリー6号で地球周回飛行に成功しました。

1962年4月18日、NASAは、宇宙飛行士の願書受付を正式に発表し、申し込みの締め切りは6月1日でした。

1962年4月20日、ニール・アームストロングは、B-52に搭載され、高度13.7km空中発射し、ノース・アメリカンX-15のジェットエンジンに点火し、姿勢制御装置を試験するために飛行していたときのこと、高度63kmまで上昇したとき、機首を下げるタイミングがわずかに遅れ、機体はコントロールを失い、高度43kmまで急降下したが、予定された着陸地点の上空30.5kmをマッハ3で通り過ぎ、エドワーズ空軍基地から72kmも離れた場所まで飛び去って、安全な高度まで降下させ、無事に着陸することに成功しました。
この飛行は、12分28秒07という飛行時間と高度63kmという到達距離において、X-15の最長不倒記録です。

1962年4月24日、チャック・イェーガーとニール・アームストロングは、T-33シューティング・スターで飛行し、タッチ・アンド・ゴーで、X-15の緊急着陸場としてスミス牧場塩湖を使用できるかどうかを調査しました。
チャック・イェーガーは、スミス牧場塩湖は雨が降った後は着陸には適さないことは知っていましたが、ニール・アームストロングが実験を強行することを主張しました。
ニール・アームストロングは、T-33シューティング・スターでタッチ・アンド・ゴーをおこない、車輪がぬかるみにはまって身動きできなくなり、結局救助を待つことになりました。

1962年5月21日、ニール・アームストロングは、F-104で飛行し、デラマーレイクを使用できるかどうかを調査するため、タッチ・アンド・ゴーを行いましたが、胴体を地面にぶつけ、油圧系を損傷し、ネリス空軍基地に着陸しました。

1962年5月24日、スコット・カーペンターは、マーキュリー7号で地球周回飛行に成功しました。

1962年6月、ニール・アームストロングは、NASAへ宇宙飛行士の願書を送付しました。
ニール・アームストロングは、オクターブ・シャヌート賞を受賞しました。

1962年9月13日、ニール・アームストロングは、NASAの宇宙飛行士に選出されました。
1962年9月16日、ニール・アームストロングを含む9人(フランク・ボールマン、チャールズ・コンラッド、ジェームズ・ラヴェル、ジェームズ・マクディヴィッド、エリオット・シー、トマス・スタッフォード、エドワード・ホワイト、ジョン・ヤング)が、ヒューストン大学カレン講堂でNASAの宇宙飛行士として正式に発表されました。

ソ連は、キューバに核ミサイル等の以下の兵器を運び込みました。
中距離弾道ミサイル(IRBM)24基、準中距離弾道ミサイル(MRBM)36基、戦車、大砲、対戦車ミサイル、短距離ロケット36基、軽爆撃機「イリューシン」(Il-28)42機、戦闘機(MiG21)40機、地対空ミサイル72基、巡航ミサイル(KR-1)80基、巡航ミサイル(S-2)32基、巡視艇12隻、兵員4万5234名

1962年10月3日、ウォルター・シラーは、マーキュリー8号で地球周回飛行に成功しました。

1962年10月14日、アメリカ軍が、空中偵察によりキューバに核ミサイル基地を発見しました。
1962年10月22日、ケネディ大統領は、海上封鎖を宣言し、新たなミサイルの配備を阻止し、ソ連にミサイルを解体、撤去することを要求しました。
1962年10月28日、ソ連のフルシチョフ最高指導者は、キューバから核ミサイル基地を撤去すると発表しました。

1962年11月21日、ソ連は、核ミサイルをキューバから撤去し、アメリカ合衆国は海上封鎖を解除しました。

1962年2月、ケネディ大統領は、南ベトナム軍事援助司令部を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなどにより、軍事顧問団という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げしました。

1962年5月、ケネディ大統領は、南ベトナムとラオスへの支援を目的にタイ国内の基地に数百人規模のアメリカ海兵隊を送ることを決定しました。

1963年1月2日、2000人で構成され装備の面で圧倒的に勝るアメリカ軍及びベトナム共和国軍は、約200人で構成された南ベトナム解放民族戦線にアプバクで敗北しました。
ケネディ大統領は、アメリカ軍を本格的にベトナムに投入することを決断し、アメリカ軍を16,263人に増加させました。

1963年4月8日、ニール・アームストロングとジャネットには、次男マーク・スティーヴンが生まれました。

1963年5月15日、ゴードン・クーパーは、マーキュリー9号で地球周回飛行に成功しました。

1963年6月、NASAは、宇宙飛行士の願書受付を正式に発表しました。

1963年8月28日、キング牧師は、20万人を超える大規模なワシントン大行進に参加し、リンカーン記念堂の前で有名な「I Have a Dream」という演説を行いました。

1963年9月15日、アラバマ州北部のバーミングハムの公民権運動の拠点16番通りバプティスト教会にダイナマイト10本分の爆発物が仕掛けられ、日曜学校に来ていた黒人女の子である14歳のアディ・メエ・コリンズ、14歳のシンシア・ウェズリィ、14歳のキャロル・ロバートスン、11歳のデニーズ・マクネアが死亡しました。

1963年10月、NASAは、新たに14名の宇宙飛行士を正式に発表しました。

1963年10月31日、ケネディ大統領は、「1963年の末までに軍事顧問団をベトナムから1,000人を引き上げる」と発表しました。

1963年11月22日、ケネディ大統領は、43歳で、殺害されました。
リンドン・B・ジョンソンが、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1964年4月8日、ジェミニ1号が無人で打ち上げられました。

1964年4月24日、ニール・アームストロングは、自宅で火災が発生しました。

1964年6月21日、クー・クラックス・クラン(KKK)のメンバーが、ミシシッピー州フィラデルフィアで、3人の公民権運動家、黒人のジェムズ・チェイニー、ユダヤ人のアンドリュー・グッドマンとマイケル・シュワーナーを殺害しました。

1964年7月2日、ジョンソン大統領は、公民権法に著名し、南部各州のジム・クロウ法は廃止となりました。

1964年8月2日、北ベトナム海軍の魚雷艇は、ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃をしました。
1964年8月4日、アメリカ合衆国ジョンソン大統領とアメリカ軍は、ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃を捏造しました。
1964年8月5日、ジョンソン大統領は、北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動(ピアス・アロー作戦)を行いました。
1964年8月7日、ジョンソン大統領は、米国上下両院で民主党と共和党の議員の圧倒的な支持で承認されて、実質的な戦時大権を得ました。

1964年、ジェイムズ・ヘア地方判事は、学生非暴力協調委員会、南部キリスト教徒指導者会議、ダラス郡有権者同盟などの後援で3人以上の集会を禁止し、名指しされた41人の公民権運動活動家の関与を禁止しました。

1964年11月3日、ジョンソン大統領は、得票率61.1%を獲得し、538人の大統領選挙人の内486人の支持を得て、大統領選挙で圧勝しました。

1964年10月31日、セオドア・C・フリーマンは、T-38Aタロンを操縦し、エリントン空軍基地に着陸するときに、バードストライクによって、墜落しました。

1964年12月10日、キング牧師にノーベル平和賞が授与されました。

1965年1月2日、キング牧師は、アラバマ州セルマにあるブラウン教会で演説したことで、ジェイムズ・ヘア地方判事による禁止令を否定し、公民権運動活動は再開されました。

1965年1月19日、ジェミニ2号が無人で打ち上げられました。

1965年2月6日、ジョンソン大統領は、議会に投票権法の提案を行うと宣言しました。

1965年2月7日、アメリカ合衆国は、北ベトナムへの集中爆撃(北爆)を開始しました。

1965年2月18日、ジミー・リー・ジャクソンは、マリオンで公民権運動デモ中に、警察官の暴力から逃げていた母親と祖父を喫茶店で守ろうとして、警察官に至近距離から発砲され、マリオンの病院では手当が受けられず、セルマの病院で手当てを受けました。

1965年2月21日、マルコムXは、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でスピーチしているときに、殺害されました。

1965年2月26日、ジミー・リー・ジャクソンは、セルマの病院で、感染症により死亡しました。
ジミー・リー・ジャクソンの遺体をアラバマ州知事ジョージ・ウォレスの足元に横たえようとして、セルマからモンゴメリーへの行進が計画されました。

1965年3月7日、525名公民権運動家達がアラバマ州セルマを出発し、アラバマ州の州都モンゴメリーまで行進を続けることで、警官隊達が合衆国憲法違反をしたことをアピールしました。
アラバマ州知事ジョージ・ウォレスは、そのデモ行進が「公共の秩序を乱す恐れがある」としてこれを非難し、あらゆる手段を使ってデモの阻止を宣言し、エドモンド・ペタス橋で州兵やダラス郡保安官達が無抵抗のデモ隊に対して棍棒や催涙ガス、鞭などを使ってセルマに追い返しました。
この事件が「血の日曜日事件」です。

1965年3月9日、キング牧師が率いる公民権運動家達がアラバマ州セルマを出発し、エドモンド・ペタス橋で、犠牲者に黙とうをささげ、セルマに戻ります。
公民権運動に反対する白人が、ジェイムズ・リーブを殺害します。

1965年3月15日、ジョンソン大統領は、テレビ放送された議会合同委員会で演説を行い、広範な投票権法を成立させることを訴えた。その演説の最後を「我々は打ち勝つ」という言葉で締め、この言葉が公民権運動の主要テーマとなりました。

1965年3月21日、キング牧師が率いる2,000名ほどの公民権運動家達は、ジョンソン大統領が命じた連邦政府の管理下で米国陸軍とアラバマ州兵によって保護され、アラバマ州セルマを出発し、エドモンド・ペタス橋を渡り、州都モンゴメリーに向けてデモ行進を始めました。

1965年3月23日、船長はガス・グリソム、搭乗員はジョン・ヤングを乗せて、ジェミニ3号が打ち上げられました。

1965年3月25日、キング牧師は、デモ隊と共にモンゴメリーに無事到着しました。
KKKのメンバーが、セルマから首都モンゴメリーへの行進に参加し、モンゴメリーからセルマに戻る車を運転中のヴィオラ・リッツォを射殺しました。

1965年5月26日、上院は、投票権法を賛成77票(民主党47票、共和党30票)、反対19票(民主党16票、共和党2票)で可決しました。

1965年6月3日、船長はジェームズ・マクディヴィッド、搭乗員はエドワード・ホワイトを乗せて、ジェミニ4号が打ち上げられ、エドワード・ホワイトがアメリカ人初の宇宙遊泳を行いました。

1965年7月9日、下院は、州と地方の選挙における人頭税の禁止を付加した投票権法を、賛成333票(民主党221票、共和党112票)、反対85票(民主党61票、共和党24票)で可決しました。
1965年7月29日、下院と上院で成立した法案の違いを調節するために両院協議会は、投票権法の協議会案を上程した。
1965年8月3日、下院は、投票権法の協議会案を賛成28票(民主党217票、共和党111票)、反対74票(民主党74票、共和党20票)で可決しました。
1965年8月4日、上院は、投票権法の協議会案を賛成79票(民主党49票、共和党30票)、反対18票(民主党17票、共和党1票)で可決しました。
1965年8月6日、ジョンソン大統領が国会議事堂で投票権法の協議会案に署名して法となり、キング牧師、ローザ・パークス、ジョン・ルイスなど公民権運動の指導者達が同席しました。
投票権法によって、投票権が州でなく、連邦政府によって監督され、執行されるようになりました。

1965年8月21日、船長はゴードン・クーパー、搭乗員はピート・コンラッドを乗せて、ジェミニ5号が打ち上げられました。
ニール・アームストロングは、ゴードン・クーパーによって初めてバックアップとして指名されました。

1965年12月4日、船長はフランク・ボーマン、搭乗員はジム・ラヴェルを乗せて、ジェミニ7号が打ち上げられました。

1965年12月15日、船長はウォルター・シラー、搭乗員はトーマス・スタッフォードを乗せて、ジェミニ6-A号が打ち上げられました。

1966年2月28日、エリオット・シーとチャールズ・バセットは、訓練中に事故死しました。

1966年3月16日、船長はニール・アームストロング、搭乗員はデイヴィッド・スコットを乗せて、ジェミニ8号が打ち上げられました。
ジェミニ8号は、ジェミニ・アジェナ・ドッキング目標機にランデブーし、ドッキングし、船外活動を行う予定でした。
ジェミニ8号は、姿勢制御ロケットで姿勢を制御され、ジェミニ・アジェナ・ドッキング目標機にランデブーし、ドッキングしました。
ドッキング後ジェミニ8号は、姿勢指示器により、水平より30度傾いてことに気が付きました。
ニール・アームストロングは、ジェミニ・アジェナ・ドッキング目標機を切り離しましたが、ジェミニ8号の姿勢を制御できませんでした。
ジェミニ8号は、危険な回転を始めました。
ニール・アームストロングは、再突入制御システムを使用して、ジェミニ8号の姿勢を制御しました。
ニール・アームストロングは、飛行を中止し、着地に向けて、操作し、着水しました。

1966年6月3日、船長はトマス・スタッフォード、搭乗員はユージン・サーナンを乗せて、ジェミニ9-A号が打ち上げられました。

1966年7月、学生非暴力調整委員会(SNCC)は、「ブラック・パワー」を提唱するストークリー・カーマイケル(クワメ・トゥーレ)が新委員長に就任しました。

1966年7月18日、船長はジョン・ヤング、搭乗員はマイケル・コリンズを乗せて、ジェミニ10号が打ち上げられました。

1966年2月26日、無人でアポロAS-201が打ち上げられました。
1966年7月5日、無人でアポロAS-202が打ち上げられました。
1966年8月25日、無人でアポロAS-203が打ち上げられました。

1966年9月12日、船長はピート・コンラッド、搭乗員はゴードンを乗せて、ジェミニ11号が打ち上げられました。
ニール・アームストロングは、ピート・コンラッドによってバックアップとして指名されました。

1966年10月、ニール・アームストロングは、ラテンアメリカ諸国親善訪問で、11国、14都市を訪問しました。

1966年11月11日、船長はジェームズ・ラヴェル、搭乗員はバズ・オルドリンを乗せて、ジェミニ12号が打ち上げられました。

1967年1月27日、船長はガス・グリソム、副操縦士はエドワード・ホワイト、搭乗員はロジャー・チャフィーを乗せて、アポロ1号の予行演習に失敗し、死亡しました。
ニール・アームストロングは、ホワイトハウスで「宇宙空間の探求及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」の
調印式に立ち会っていました。

1967年7月23日、アルジェ・モーテル事件が発生しました。

1967年10月5日、クリフトン・ウィリアムズは、T-38練習機の計器故障により、墜落して、死亡しました。

1967年11月9日、無人でアポロ4号が打ち上げられました。
1968年1月22日、無人でアポロ5号が打ち上げられました。

1968年1月30日、北ベトナム人民軍及び南ベトナム解放民族戦線は、テト攻勢を企画し、私服の戦闘員を
各都市に浸透させ、拠点に武器を集積するなど準備したのち、一斉に蜂起しました。

1968年3月16日、アメリカ陸軍のうちウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県
にあるソンミ村のミライ集落を無差別射撃などで虐殺した。
集落は壊滅状態となり、生存者はわずか3人だった。

1968年4月3日、キング牧師は、テネシー州メンフィスで、最後となる演説を行いました。

1968年4月4日、キング牧師は、テネシー州メンフィスで殺害されました。
       無人でアポロ6号が打ち上げられました。

1968年5月6日、ニール・アームストロングは、月着陸船を操縦訓練中に制御不能になり、ロケット射出座席で脱出し、パラシュートで降下しました。

1968年6月5日、ロバート・ケネディ上院議員は、カルフォルニア州ロサンゼルスで、暗殺されました。

1968年10月11日、船長はウォルター・シラー、司令船パイロットはドン・エイゼル、月着陸船パイロットはウォルター・カニンガムを乗せて、アポロ7号を打ち上げました。

1968年12月8日、ジョー・アルグランティは、月着陸船を操縦訓練中に制御不能になり、ロケット射出座席で脱出し、パラシュートで降下しました。

1968年12月21日、船長はフランク・ボーマン、司令船パイロットはジム・ラヴェル、月着陸船パイロットはウィリアム・アンダースを乗せて、アポロ8号を打ち上げ、月周回軌道を飛行し、月の様子をテレビで生放送しました。
1968年12月23日、ディーク・スレイトンは、ニール・アームストロングをアポロ11号の船長に決め、司令船パイロットはマイケル・コリンズ、月着陸船パイロットはバズ・オルドリンと決定しました。

1969年1月8日、NASAは、アポロ11号の船長はニール・アームストロング、司令船パイロットはマイケル・コリンズ、月着陸船パイロットはバズ・オルドリンと正式発表しました。

1969年1月20日、リチャード・ニクソンは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1969年3月3日、船長はジェームズ・マクディビット、司令船パイロットはデイヴィッド・スコット、月着陸船パイロットはラッセル・シュワイカートを乗せて、アポロ9号を打ち上げ、着陸船のロケットエンジン、宇宙服の生命維持装置、航法装置、ドッキング操作を行いました。
ニール・アームストロングは、バックアップとして指名されました。

1969年5月18日、船長はトーマス・スタッフォード、司令船パイロットはジョン・ヤング 、月着陸船パイロットはユージン・サーナンを乗せて、アポロ10号を打ち上げ、月着陸船の全機器の試験が月周回軌道上で行われ、着陸船は、月面から15.6kmまで接近しました。

1969年7月16日、船長はニール・アームストロング、司令船パイロットはマイケル・コリンズ、月着陸船パイロットはバズ・オルドリンを乗せて、アポロ11号を打ち上げ、月面着陸しました。

1969年7月18日、エドワード・ケネディは、マサチューセッツ州ナンタケット湾にあるチャパキディック島で男女12人が
参加して開催されたホームパーティーに参加し、兄のロバート・ケネディのかつての大統領選挙スタッフであった
マリー・ジョー・コペクニと共にパーティー会場を抜け出し、専用車のオールズモビル88を飲酒運転しコペクニとともに
走り去り、自らの別荘のある富裕層の別荘地としても有名なマーサズ・ヴィニヤード島との間にかかるダイク橋を渡ろうとして
ダイク橋から転落し、脱出して岸に泳ぎ着きましたが、助けを求めなかったばかりか警察や救急、沿岸警備隊などへの通報も行わず、
急遽パーティー会場に走って戻り、他のパーティー参加者とともにマリー・ジョー・コペクニを捜索しました。
翌朝、ダイク橋近くに水没していたオールズモビル88を発見した地元住人が警察に通報し、付近の捜索が行われた結果、
マリー・ジョー・コペクニの死体が発見された。

1969年7月21日、ニール・アームストロングは、月面に降り立ち、滞在時間は2時間30分くらいです。
1969年7月24日、ニール・アームストロング達は、無事太平洋に着水しました。
1969年8月10日、ニール・アームストロング達は、隔離を終え、家に帰りました。

1969年8月13日、ニール・アームストロング達は、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスを訪問し、市民の歓待を受け、
ニクソン大統領とディナーを共にしました。

ニール・アームストロングと家族は、コロラド州の山荘で1週間の休暇を楽しみました。

1969年9月6日、ニール・アームストロングは、オハイオ州ウォパコネタを訪問しました。
1969年9月6日、ニール・アームストロング達は、ワシントンで、アポロ11号着水パーティーに出席しました。
1969年9月16日、ニール・アームストロング達は、ワシントンで、下院議会と上院議会へ国旗を返還し、スピーチを行いました。
1969年9月29日、ニール・アームストロング達は、ヒューストンから、45日間の世界歴訪を始め、ワシントンに到着しました。

1969年11月14日、船長はピート・コンラッド、司令船パイロットはリチャード・ゴードン、月着陸船パイロットはアラン・ビーンを乗せて、アポロ12号を打ち上げ、月面着陸しました。

1969年12月、ニール・アームストロングは、ベトナム慰問のためのクリスマスツアーに参加しました。

1970年4月11日、船長はジェームズ・ラヴェル、司令船パイロットはジョン・スワイガート、月着陸船パイロットはフレッド・ヘイズを乗せて、アポロ13号を打ち上げましたが、月面着陸できずに、帰還しました。
ニール・アームストロングは、アポロ13号の内部調査委員を務めました。

1970年5月、ニール・アームストロングは、ソ連を10日間にわたり、公式訪問しました。

1971年1月31日、船長はアラン・シェパード、司令船パイロットはスチュアート・ルーサ 、月着陸船パイロットはエドガー・ミッチェルを乗せて、アポロ14号を打ち上げ、月面着陸しました。
1971年7月26日、船長はデイヴィッド・スコット、司令船パイロットはアルフレッド・ウォーデン、月着陸船パイロットはジェームズ・アーウィンを乗せて、アポロ15号を打ち上げ、月面着陸しました。

1971年7月、マーク・フェルトは、FBI副長官に就任しました。

1971年8月、ニール・アームストロングは、NASAを辞職し、オハイオ州シンシナティ大学の航空宇宙工学特別教授になりました。

1971年6月13日、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者は、「ペンタゴン・ペーパーズ」の報道を始めました。

1972年4月16日、船長はジョン・ヤング、司令船パイロットはケン・マッティングリー、月着陸船パイロットはチャールズ・デュークを乗せて、アポロ16号を打ち上げ、月面着陸しました。

1972年5月2日、ジョン・エドガー・フーバーは、77歳で、亡くなり、FBI長官を辞めました。

1972年6月17日、ウォーターゲート事件が発生しました。

1972年6月20日、ワシントン・ポストのボブ・ウッドワード記者とカール・バーンスタイン記者は、ウォーターゲート事件の報道を始めました。

1972年12月7日、船長はユージン・サーナン、司令船パイロットはロナルド・エヴァンス、月着陸船パイロットはハリソン・シュミットを乗せて、アポロ17号を打ち上げ、月面着陸しました。

1973年6月22日、マーク・フェルトFBI副長官は、FBIを退局しました。

1974年8月9日、ニクソン大統領は、辞任しました。

1979年1月、ニール・アームストロングは、クライスラー社の国内向け広報と技術に関する役員になりました。
1980年、ニール・アームストロングは、オハイオ州シンシナティ大学を辞職し、複数の民間企業の技術に関する役員になり、慈善活動もしました。

1985年4月、ニール・アームストロングは、北極地点に向かう探検隊に参加しました。

1986年1月28日、スペースシャトル・チャレンジャー号は、打ち上げから73秒後に分解し、7名の宇宙飛行士(フランシス・R・スコビー、マイケル・J・スミス、ロナルド・マクネア、エリソン・コニヅカ、ジュディス・レスニク、
グレゴリー・ジャービス、クリスタ・マコーリフ)が全員死亡するという事故が起きました。
ニール・アームストロングは、スペースシャトル・チャレンジャー号事故大統領諮問委員会に副委員長として参加しました。

1990~94年、ニール・アームストロングは、パデュー大学で資金調達事業”ビジョン21”に関わり、3億ドル以上の資金を集めました。

1992年、ニール・アームストロングは、ゴルフトーナメントで、キャロル・ヘルド・ナイトに出会いました。
1994年、ニール・アームストロングは、ジャネットと離婚しました。
1994年6月12日、ニール・アームストロングは、キャロル・ヘルド・ナイトと再婚しました。

2003年2月1日、スペースシャトル・コロンビア号は、大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し、7名の宇宙飛行士
(リック・ダグラス、ウィリアム・マクール、マイケル・アンダーソン、カルパナ・チャウラ、デビッド・ブラウン、
ローレル・クラーク、イラン・ラモン)が全員死亡するという事故が起きました。

2012年8月25日、ニール・アームストロングは、82歳で、亡くなりました。

感想

自分は、ニール・アームストロングのようには生きてこれなかったと感じています。
自分は、小学1年生で100冊もの本は読みませんでしたし、飛び級して、トップの成績はとれなかったでしょうし、大学に進学するために、戦争に行くこともないですし、危険なテストパイロットになることもないでし、宇宙飛行士になろうとも思いませんでした。
ニール・アームストロングの人生には、共感も憧れることもありませんが、ただ驚くだけです。
ニール・アームストロングは、何度も死にかけますが、生きて帰還し、82歳まで生きました。
ニール・アームストロングは、幸運だったではない、何かを感じさせます。
日本に、ニール・アームストロングのような人がいたらどのような人生を歩んでいたのだろうと考えますが、思いつきません。
日本にも宇宙飛行士はいますが、ニール・アームストロングと比べると、全く違う気がします。

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