映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」~あらすじ【ネタばれ有り】と感想

「夢をかなえるゾウ3  ブラックガネーシャの教え」「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養」の中で、出てきた「ゴッホ」について知りたいと感じました。
ゴッホについては、全くと言っていいほど知らなかったので、「ゴッホ-燃え上がる色彩」という本を先に読みました。
ゴッホは、得難い人生を歩んできたので、映画を鑑賞し、ゴッホの人生を知るのは良いことだと感じます。
この映画を鑑賞することにしました。
タイトルは、「永遠の門」で、神が人に授けた崇高で偉大な才能ことで、神がゴッホに授けた絵の才能のことです。
サブタイトルは、「ゴッホの見た未来」です。
「ゴッホの見た未来」とは、ゴッホが、永遠に残ることになるかもしれない絵画を通して、見た感動を分かち合えるようになる未来です。
ゴッホによって描かれた曲がりくねる線を映像化するために、レンズの上と下で被写界深度が違っている遠近両用メガネをアイディアにした、スプリット・ディオプターを使用して撮影し、演出してあります。

この映画には、二人のゴッホが登場します。
兄で画家のフィンセント・ファン・ゴッホと弟で画商のテオドルス・ファン・ゴッホです。
このブログ記事では、フィンセント・ファン・ゴッホをフィンセント、テオドルス・ファン・ゴッホをテオと記述します。

フィンセントの人生、フランスの時代背景と油絵が分からないとこの映画を理解することはできません。

フィンセントは、牧師の息子として生まれ、中学校を退学し、グーピル商会のハーグ支店に見習い店員として勤務しますが、失恋し、解雇され、牧師を目指しますが、挫折し、画家を目指します。
フィンセントは、周りに合わせて、生活することができずに、挫折し、独自の道を歩むことで、後世に名を遺す画家になりました。
フィンセントは、2度の失恋で、女性とうまく付き合うことができずに、女性を避けるようになり、女性を絵のモデルとすることで支配するようになりました。

フランスは、階級闘争が盛んで、外国で戦争し、植民地を獲得する帝国主義でした。
有産階級は、7月革命を起こして、王族と貴族を打倒しました。
無産階級は、2月革命を起こして、王族と貴族を打倒しました。
無産階級は、6月蜂起を起こしますが、鎮圧されました。
パリ市民は、パリ・コミューンの樹立宣言をしましたが、弾圧されて、終わりました。

フランスは、インドシナ半島東部のトンキン地方等を戦争で、占領し、植民地にしました。

油絵は、イーゼルに、キャンバスを置いて、絵具を出したパレットの上に油壺を置いて、絵具と油を混ぜて、筆でキャンバスに絵を描きます。
イーゼルは、画家がキャンバスを固定するのに用いる支持体です。
キャンバスは、絵を描く布のことです。
パレットには、絵具を出して、手で持つ板です。
油壺は、絵具と混ぜるためのペインティングオイルを入れる壺です。

基本情報・スタッフ

監督    ジュリアン・シュナーベル
脚本    ジュリアン・シュナーベル
ジャン=クロード・カリエール
製作    ジョン・キリク
製作総指揮 シャルル=マリー・アントニオーズ
      モーラ・ベルケダール
      ニック・バウアー
      ジャン・デュアメル
      フランソワ=ザヴィエ・デクレーヌ
      ニコラ・レルミット
      ディーパック・ナヤール
      マルク・シュミットハイニー
      トーステン・シューマッハー
      カール・シュポエリ
音楽    タチアナ・リソフスカヤ
撮影    ブノワ・ドゥローム
編集    ジュリアン・シュナーベル
      ルイーズ・クーゲルベルク
製作会社  リバーストーン・ピクチャーズ
      イコノクラスト
配給    CBSフィルムズ
      ギャガ/松竹
公開    2019年11月8日
公式ホームページ

予告動画

舞台となる場所


フィンセントは、アルルに行き、絵を描き、ポール・ゴーギャンと共同創作活動をして、左耳を切り落とす事件を起こしました。
左耳を切り落とす事件を起こしたフィンセントは、サン=レミにある治療院で、治療しました。


フィンセントとテオは、画家による芸術家共同体を設立する話し合いに出席し、ポール・ゴーギャンに出会います。
テオは、パリで画商をしています。


マダガスカルは、アフリカとインドの間にある島です。


マルティニーク島は、カリブ海に浮かぶ西インド諸島のなかのウィンドワード諸島に属する島で、フランス領です。


トンキンは、ベトナム北部を指す呼称にして、この地域の中心都市ハノイの旧称です。


ゴッホは、弟テオの紹介でオーヴェル=シュル=オワーズに住んでいて、熱心な美術愛好家で医者のガシェのところで療養しました。
ゴッホは、自ら命を絶ち、カフェ・ラボオーの一室で亡くなりました。

あらすじ

「仲間になりたい。一緒に座って酒を飲み、他愛のない話をしたい。
 タバコをもらったり、ワインを注がれたり、”調子は?”と聞かれ、それに答えて談笑する。
 時には誰かをスケッチして、プレゼントする。
 彼らはそれをどこかに飾る。
 女が微笑みながら僕に聞く”お腹が空いていない?何か食べる?”
 ”ハムはどう、チーズ?それとも果物?”」
というフィンセントの思いを表す言葉で始まります。

フィンセントは、絵画道具一式と共に精神疾患患者を収容するサン=レミ療養院を抜け出し、羊飼いの少女と出会い、モデルになってほしいと頼み、渋々ながら承知させ、少女にポーズを取らせようとするもなかなか思い描くようなポーズにならず、地面に横にならせようとし、腕の細かな角度に対しての注文に乱暴さが見え、ゴッホの強引さに恐怖を覚えた少女は逃げ出そうとして、取っ組み合いのようになり、記憶が途切れます。

「AT ETERNITY’S GATE」とタイトルが表示されます。

酒場の責任者は、フィンセントの提案で酒場で芸術家のグループ展を許可しましたが、フィンセントの不愉快で醜い絵ばかりなので、中止させます。
フィンセントは、酒場から絵画を持ち帰ります。

フィンセントとテオは、新しい芸術家共同体の話を聞きに行きます。
ポール・ゴーギャンは、新しい芸術家共同体を、新たな階級制度だと非難して、退席します。
フィンセントは、ポール・ゴーギャンの後を追いかけ、声をかけます。
ポール・ゴーギャンは、フィンセントに「南へ行け」とアドバイスします。

南フランス アルル
フィンセントは、冬に、南フランスにあるアルルにやってきます。
フィンセントは、脱いだ靴を床に置いて、この構図で素早いタッチで絵を描きます。
フィンセントは、画材道具一式を背負いながら、描く場所を求めて歩き回ります。
フィンセントは、夕焼けを笑いながら、眺め、イーゼルを立てて、キャンバスを置き、描き始めます。

フィンセントは、バーでアブサンという酒を砂糖を溶かして飲みます。
フィンセントは、ジヌー夫人に出会い、白紙の帳簿を受け取り、黄色い家で絵を描くことにします。

ギャビーが、フィンセントの身の回りの手伝いをします。
フィンセントは、雨の降る日に、花を花瓶に入れて、絵を描きます。
ギャビーが、フィンセントに「なぜ、絵を描くのか」と質問します。
フィンセントは、ギャビーに「花は枯れるが、絵は残る可能性がある」と答えます。

フィンセントは、ペンを作り、帳簿にデッサンを描き、「平らな風景を前にすると、永遠しか見えない。僕にしか見えないのか?存在には理由がある」と考えます。

フィンセントは、木の根を絵に描きます。
先生が引率する子供が、フィンセントのところにやってきて、質問し、もめ事を起こします。
フィンセントは、子供に石を投げつけられ、子供を捕まえ、子供の親ともめ事を起こします。

フィンセントは、教会の精神病院で、目覚めます。
テオは、フィンセントを見舞いに来ます。
テオは、ポール・ゴーギャンに手紙を書き、経済的な支援をするから、アルルにいるフィンセントの支援を依頼します。
ポール・ゴーギャンが、アルルにやってきて、フィンセントとジヌー夫人と一緒に楽しくお酒を飲みます。

ポール・ゴーギャンは、フィンセントが自然の風景を模倣することに反対します。
フィンセントは、ポール・ゴーギャンに美しい自然を描きたいと反論します。
ポール・ゴーギャンは、フィンセントに、心が見たものを描くように勧め、自然と絵画の関係に革命を起こし、主流の印象派の絵画を否定し、新しい絵画を創り出そうとします。

ポール・ゴーギャンは、ジヌー夫人をデッサンしています。
戻ってきたフィンセントは、慌てて、ジヌー夫人を描き始めます。

フィンセントは、ルーブル美術館でドラクロワやゴヤの絵画を鑑賞し、明確な筆運びで素早く描くことが、天才の描く線だと確信します。

フィンセントは、ポール・ゴーギャンと絵画について論争します。
ポール・ゴーギャンは、フィンセントに別れを告げて、パリに戻ると言います。
フィンセントは、大混乱に陥ります。

フェリックス・レイ医師は、フィンセントに左耳を切り落とした事件について尋ね、フィンセントをサン=ミレにある精神病の治療院で、治療させることにします。

アルベール・オーリエが、フィンセントの絵画を絶賛します。

フィンセントは、サン=ミレにある精神病の治療院で、狂人に会い、太陽の光を見たことのない少女の話を聞きます。
フィンセントが、羊飼いの少女をデッサンしようとした冒頭のシーンになります。

ポール・ゴーギャンは、フィンセントの絵画を観て、絶賛する手紙を送ります。
フィンセントは、拘束衣を着せられて、他の入所者達と歩かされています。
看守は、フィンセントを呼び出し、牧師に引き合わせます。
牧師は、フィンセントに「なぜ。画家なのか」と質問し、出所可能かどうか判断します。
フィンセントは、イエス・キリストの境遇を自分に見立てて、説明します。
牧師は、フィンセントの出所を認めます。
フィンセントは、アルルを去るので、ジヌー夫人に、デッサンを描いた帳簿を返します。

フィンセントは、パリで、テオとテオの妻とフィンセントと名づけられた息子に会います。
フィンセントは、絵が一枚も売れていないことに、落胆します。
テオとテオの妻は、フィンセントを励まします。
テオは、フィンセントに、オーヴェル=シュル=オワーズに住んでいて、熱心な美術愛好家であるポール・ガシェ医師のところで療養することを勧めます。

ポール・ガシェ医師は、フィンセントのモデルを務めます。
ポール・ガシェ医師は、フィンセントに「なぜ、絵を描くのか」と質問します。
フィンセントは、絵を描く理由を答えます。

フィンセントは、一人で、屋外で絵を描いていると、2人の子供が来て、争っているうちに拳銃で腹部を撃たれます。
フィンセントは、カフェ・ラボオーまで戻り、ポール・ガシェ医師に手当され、亡くなります。
テオが、フィンセントのところにやってきます。

テオとテオの妻は、フィンセントの遺体の周りに絵画を並べ、買い手たちが絵画を物色します。
一人の買い手が、フィンセントの絵画を買います。

以下の説明文が表示されて、終了します。

フィンセント・ファン・ゴッホは1890年7月27日に撃たれ
腹部の傷が元で7月29日に死亡
息のあった30時間に少年たちのことも
死の状況も一切、語らなかった。
オーヴェールでの80日間に
彼は75点の絵を描いた
65点の素絵を描いた帳簿が戻ったことを
ジヌー夫人は知らなかった。
帳簿は126年後の
2016年に発見された

僕が黄色い部屋で
紅の目のひまわりが
黄色い壁に浮かぶ
黄色いテーブルの
黄色い壺を茎に浸して
絵の隅には画家の著名
”フィンセント”
黄色い太陽が
黄色いカーテンを通して
部屋を黄金に染める
朝、ベッドで目を覚ますと
どんなに心地がよいか
彼は黄色が好きだった
勇敢なフィンセント
霧を嫌う彼の魂を
太陽の光が復活させる
アルルでの僕らは共に熱狂し
色について絶えず争った
僕は赤を愛した
完ぺきな朱はどこにある?
彼は最も黄色い筆で
壁に描いた
突然壁が紫になった
私は精霊
私の精神は健全
1894年、ポール・ゴーギャン

登場人物

道端の少女は、ロリータ・シャマーが演じるフィンセントが強制的モデルにしようとした女性です。

フィンセント・ファン・ゴッホは、ウィレム・デフォーが演じるオランダ生まれで、フランスで画家を目指す主人公で、ポスト印象派の画家です。

酒場の責任者は、ヴァンサン・ペレーズが演じるフィンセントの提案で酒場で芸術家のグループ展を許可し、中止させます。

テオドルス・ファン・ゴッホは、ルパート・フレンドが演じるフィンセントの弟で、テオと呼ばれ、画商で、フィンセントとポール・ゴーギャンの支援者で、フィンセントが亡くなった半年後に後を追うように亡くなっています。

ポール・ゴーギャンは、オスカー・アイザックが演じる商船に乗る船乗りとして、世界中を回り、フランス海軍で兵役を務め、パリ証券取引所で株式仲買人として働き、実業家として成功し、絵を描くようになり、画商になり、フランスの画家になり、フランスのアルルでフィンセントと過ごし、印象派以前の画家を否定し、新しい絵画を目指して、パリに戻り、ポスト印象派の画家です。

ジヌー夫人は、エマニュエル・セニエが演じるフランスのアルルで、フィンセントに出会い、家を用意してくれ、白紙の帳簿を渡し、ポール・ゴーギャンとフィンセントのモデルを務め、デッサンの描かれた帳簿を返却されますが、知らずに、126年後の2016年に発見されます。

ギャビーは、ステラ・シュナーベルが演じるフランスのアルルで、フィンセントの身の回りの世話をする女性で、フィンセントが切った自分の左耳を、ポール・ゴーギャンに渡すように渡されれます。

フェリックス・レイ医師は、ヴラジミール・コンシニが演じるフランスのアルルで、フィンセントが左耳を切り、ギャビーに、ポール・ゴーギャンに渡した事件で診療する医師です。

狂人は、ニエル・アレストリュプが演じるサン=レミの治療院で、フィンセントに会い、フランス軍の元兵士で、トンキンで戦い、12年間もの間太陽の光を観たことがない少女の話をします。

看守は、ディディエ・ジャレが演じるサン=レミの治療院の看守でフィンセントを呼びつけ、牧師に引き合わせます。

牧師は、マッツ・ミケルセンが演じるサン=レミの治療院からフィンセントを退院させ、ポール・ガシェ医師に預けるかを判断します。

ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルは、アミラ・カサールが演じるテオの妻です。

ポール・ガシェ医師は、マチュー・アマルリックが演じるオーヴェル=シュル=オワーズに住んでいて、熱心な美術愛好家で、医者で、フィンセントのモデルを務め、フィンセントを治療します。

ルイ・ガレルは、アルベール・オーリエの評論を読み上げます。

単語説明

素画は、デッサンのことです。
デッサンは、物体の形体、明暗などを平面に描画する美術の制作技法で描かれた絵のことです。

階級制度は、王族や貴族、有産階級(資産家)と無産階級(労働者)で、闘争があり、社会問題として争点になっていました。

画廊は、絵画を展示したり、販売したりする施設や組織です。

アブサンは、アルコール度数が高く70%前後のお酒で、砂糖を溶かして飲みました。

聖書は、旧約聖書、新約聖書等でヘブライ語、ギリシャ語やラテン語で書かれています。

シェイクスピアは、1564年4月26日に生まれ、1616年4月23日に亡くなったイングランドの劇作家、詩人で、卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写が上手いです。

リチャード三世は、1483年6月26日にイングランド王に即位し、反乱を鎮圧しますが、政情は不安定で、1485年8月22日にボズワースの戦いで戦死しました。

給金は、雇用者から使用人へ労働の代償として支払う金です。

画商は、画家から絵画を仕入れ、絵画を顧客に販売する業者です。

スーラは、フランスの印象派の画家で、点描で描く技法を作り上げました。
ルノワールは、フランスの印象派の画家で、筆触分割で描く技法を作り上げました。
ドガは、フランスの印象派の画家で、古典的手法で現代の都会生活を描きました。
モネは、フランスの印象派の画家で、印象派の元となる「印象・日の出」を描きました。

フランス・ハルスは、オランダの画家です。
ゴヤは、スペインの画家です。
ベラスケスは、スペインの画家です。
ヴェロネーゼは、イタリアの画家です。
ドラクロワは、フランスの画家です。

アンデパンダン展は、無審査・無賞・自由出品を原則とする美術展で、1884年にフランスのパリで初めて開催され、その後、世界中に広がりました。

牧師は、キリスト教のプロテスタントの教職者で、礼拝・説教・牧会・宣教その他教会の事務的な管理運営などを職務としていますが、結婚し、子供を設けることができます。

福音書は、イエス・キリストの言行録で、新約聖書におさめられた四つの福音書(マタイによる福音書、マルコによる福音書、ルカによる福音書、ヨハネによる福音書)のことです。

アルベール・オーリエは、フランスの象徴主義の詩人、美術評論家、画家です。

アズディン・アライアは、チュニジア出身のファッションデザイナーです。

最後のセリフ

神よ、あなたの子を迎えたまえ

時代背景

1789年7月14日、フランス革命が起きて、有産階級(資本家)が、王族、貴族と高級聖職者を打倒しました。
1793年1月21日、国王ルイ16世が、ギロチンで処刑されました。
1793年10月16日、王妃マリー・アントワネットが、ギロチンで処刑されました。

1804年5月18日、ナポレオンが、フランス皇帝になりました。
1812年12月、ナポレオンが、ロシアで敗戦しました。
1814年4月6日、ルイ18世がフランス王になり、王政が復活しました。
1815年6月18日、ナポレオンが、ワーテルローの戦いで、英国、オランダなどの連合軍に敗れて、ナポレオン時代は終わりました。

1830年7月27日、有産階級(資本家)が、7月革命を起こし、王政を打倒しました。
1848年2月21日、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって「共産党宣言」が発表されました。
1848年2月21日、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、「共産党宣言」を出版しました。
1848年2月23日、無産階級(労働者)が、2月革命を起こし、国王を追放しました。
1848年6月23日、無産階級(労働者)が、六月蜂起を起こしますが、鎮圧されました。
1852年12月2日、ナポレオン3世が、フランス皇帝に即位し、産業革命を発展し、広大な植民地を獲得しました。

1861年3月4日、リンカーンは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。
1865年2月1日、リンカーン大統領は、アメリカ合衆国憲法修正第13条に署名し、成立しました。
映画「リンカーン」

1867年10月14日、第15代将軍・徳川慶喜は、政権返上を返上しました。

1870年7月19日、フランスは、プロイセン王国と戦争を始めました。
1871年5月10日、フランスは、プロイセン王国に敗戦し、ナポレオン3世は退位しました。
フランスは、ロイセン王国にパリを占領され。フランクフルト講和条約により、プロイセン王国に領土を割譲し、賠償金50億フランを支払うことになりました。
1871年3月26日、パリ市民は、パリ・コミューン政府を樹立しましたが、打倒されました。

1875年2月25日、フランス憲法が制定され、立法は上院と下院による二院制がとられ、行政は内閣が行い、任期7年の共和国大統領が名目的元首となり、上院と下院による多数決で選出されることが定められました。
フランスは、政治状況は安定し、アフリカで多くの植民地を獲得し、繁栄しました。

1899年10月11日、ボーア戦争が起きて、ガンジーは、インド人衛生看護部隊を組織し、戦争に参加しました。
映画「ガンジー」

1914年7月28日、第一次世界大戦が起きました。

ゴッホの生涯

1853年3月30日、テオドルス・ファン・ゴッホ牧師と妻アンナ・コルネリア・カルベントゥスの長男として、オランダの北にあるブラバント州ブレダのズンデルトで生まれました。

1857年5月1日、弟のテオが生まれました。

1860年、ゴッホは、ズンデルト村の学校に通いました。
1861年~1864年、ゴッホは、妹アンナと共に家庭教師の指導を受けました。

1864年2月、ゴッホは、11歳で「農場の家と納屋」というデッサンを描いて、画家としての才能を見せていました。

1864年10月、ゴッホは、ゼーフェンベルゲンのヤン・プロフィリ寄宿学校に入学しました。
1866年9月15日、ゴッホは、ティルブルフに新しくできた国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学しました。
1868年3月、ゴッホは、あと1年を残して退学しました。

1869年7月、ゴッホは、セント伯父の紹介で、16歳で、画商グーピル商会のハーグ支店の店員となり、ここで約4年間務めました。
ゴッホは、マウリッツハイス美術館でレンブラントやフェルメールらオランダ黄金時代の絵画を観て、美術に興味を持つようになりました。

1872年夏、ゴッホは、学生だった弟テオがハーグに訪れてきて、書簡のやり取りが始まりました。

1872年12月、弟のテオは、セント伯父の紹介で、画商グーピル商会のブリュッセル支店で働き始まました。

1873年5月、ゴッホは、20歳で、画商グーピル商会のロンドン支店に転勤しました。
ゴッホは、失恋し、宗教に興味を持ち始めました。

1875年5月、ゴッホは、22歳で、画商グーピル商会のパリ本店に転勤しました。
1876年1月、ゴッホは、画商グーピル商会から4月1日をもって解雇するとの通告を受けました。
1876年4月、ゴッホは、イギリスに戻り、ラムズゲートの港を見下ろす、ストークス氏の寄宿学校で教師として働き、フランス語初歩、算術、書き取りなどを教えました。
1876年7月、ゴッホは、23歳で、伝道師になって労働者や貧しい人のために働きたいという希望を持つて、組合教会のジョーンズ牧師の下で、少年たちに聖書を教えたり、貧民街で牧師の手伝いをしました。
1876年12月、ゴッホは、エッテンの父の家に帰省し、父に聖職者になりたいと希望するが、7~8年もの勉強が必要で無理だと説得されました。
1877年1月、ゴッホは、セント伯父の紹介で、南ホラント州ドルトレヒトの書店ブリュッセ&ファン・ブラームで働きました。
1877年5月、ゴッホは、24歳で、エッテンからアムステルダムに向かい、ヤン伯父の家に下宿し、ストリッケル牧師と相談しながら、王立大学での神学教育を目指して勉学を始めました。
ゴッホは、文法、代数、幾何、歴史、地理など受験科目の多さに、精神的に追い詰められました。
1878年7月、ゴッホは、25歳で、王立大学の受験に挫折し、エッテンの父の家に戻りました。
1878年8月、ゴッホは、ベルギーのブリュッセル北郊ラーケンの伝道師養成学校で3か月間の試行期間を過ごしました。
1878年12月、ゴッホは、ベルギーの炭鉱地帯、ボリナージュ地方に赴き、プティ=ヴァムの村で、パン屋ジャン=バティスト・ドゥニの家に下宿しながら伝道活動を始めました。
1879年1月、ゴッホは、半年の間は伝道師としての仮免許と月額50フランの俸給が与えらましたが、苛酷な労働条件や賃金の大幅カットで労働者が死に、労働争議が巻き起こる炭鉱の町では、布教活動は支持を得られず、伝道師にはなれませんでした。
ゴッホは、シャベルを担ぐ抗夫を、十字架を背負うキリストに見立て「シャベルを担ぐ抗夫」というデッサンを描きました。
1879年8月、ゴッホは、26歳で、ボリナージュ地方のクウェムの伝道師フランクと坑夫シャルル・ドゥクリュクの家に移り住んで、父親からの仕送りを受けて、デッサンをして過ごしました。
1880年3月、ゴッホは、北フランスへ放浪の旅に出て、歩いて回って、エッテンの父の家に戻りました。
ゴッホは、精神病院に入れようとする父と対立し、クウェムへ戻りました。

1880年6月、ゴッホは、27歳で、弟のテオから仕送りを受けるようになりました。

1880年10月、ゴッホは、絵を勉強しようとして突然ブリュッセルに行き、運搬夫、労働者、少年、兵隊などをモデルにデッサンを続け、ブリュッセル王立美術アカデミーに在籍していた画家アントン・ファン・ラッパルトと知り合い、本格的に画家を目指すのであればアカデミーに進むよう勧められました。
1881年、弟のテオは、画商グーピル商会モンマルトル大通り店を任されました。
1881年4月、ゴッホは、経済的に困窮し、エッテンの父の家に戻りました。
1881年8月、ゴッホは、28歳で、従妹のケイにプロポーズしました。
1881年11月、ゴッホは、従妹のケイに、フラれて、失恋しました。
1881年11月27日、ゴッホは、ハーグに向かい、義理の従兄弟で画家のアントン・モーヴから絵の指導を受けました。
1881年12月、ゴッホは、父と喧嘩しました。
1882年1月、ゴッホは、ハーグに戻り、アントン・モーヴから油絵と水彩画の指導とアトリエを借りる資金を得ました。
ゴッホは、シーンという妊娠している娼婦をモデルとして使いながら、彼女の家賃を払ってやるなどの援助し、アントン・モーヴと対立しましたが、モデルに好きなポーズをとらせて、スケッチをしました。
1882年6月、ゴッホは、性病に感染し、治療を受けました。
ゴッホは、弟テオから売れる油絵を描くように勧められますが、上達せず、挫折します。
1883年9月、ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州に出て油絵の修行をするとして、シーンと別れました。
1883年10月、ゴッホは、オランダ北部のドレンテ州ニーウ・アムステルダムの泥炭地帯を旅しながら、農民の生活を描くべきだと感じ、デッサンし始めました。
1883年12月、ゴッホは、父親が仕事のため移り住んでいたオランダ北ブラバント州ニューネンの農村に帰省し、ここで2年間過ごしました。
ゴッホは、弟のテオから仕送りで、古いオークの織機や、働く織工を描き、作品を送りました。
1885年3月26日、ゴッホの父が、亡くなりました。
1885年、ゴッホは、数年間にわたって描き続けた農夫の人物画の集大成として、最初の本格的作品と言われる「ジャガイモを食べる人々」を完成させました。
1885年10月、ゴッホは、首都アムステルダムの国立美術館を訪れ、大画家の絵を見直し、素描と色彩を一つのものとして考えること、勢いよく描き上げるという考えに至りました。
1885年11月、ゴッホは、数百点の作品を残し、オランダ北ブラバント州ニューネンを去り、ベルギーのアントウェルペンへ移りました。
1886年1月、ゴッホは、アントウェルペン王立芸術学院で人物画や石膏デッサンのクラスに出るようになり、美術館を訪れ、ルーベンスの絵に惹かれ、弟のテオが送ってくれる金を画材、モデル代と浮世絵の購入に使い果たしました。
1886年2月、ゴッホは、経済的に困窮し、弟のテオのいるパリに行きました。
ゴッホは、ルノワールやモネの印象派の作品に影響を受け、明るい色調の絵を描くようになりました。
ゴッホは、パリの景観、丘の北面の風車・畑・公園、花瓶に入った様々な花、人物画、自画像を描きました。
1887年11月、ゴッホは、クリシー大通りのレストラン・シャレで、ゴッホと仲間の絵の展覧会を開きました。
ゴッホは、2点の「タンギー爺さん」を描きました。
ゴッホは、ゴーギャンと出会いました。
1888年2月、ゴッホは、パリを去って南フランスのアルルに行きました。
1888年3月、ゴッホは、「アルルの跳ね橋」を描きました。
1888年4月、ゴッホは、「果樹園」を描きました。
1888年5月、ゴッホは、黄色い家を借り、アトリエにして、絵を描きました。
1888年6月、ゴッホは、「麦秋のクローの野」と「日没の種まく人」を描きました。
1888年8月、ゴッホは、「ひまわり」を描きました。
1888年9月、ゴッホは、「夜のカフェ」、「夜のカフェテラス」、「ローヌ川の星月夜」と「黄色い家」を描きました。
1888年10月、ゴッホは、「アルルの寝室」を描きました。
ゴッホは、ゴーギャンとアルルで共同生活を始めました。
1888年11月、ゴッホは、「赤い葡萄畑」、「ぶどうの収穫-人間の悲哀」と「アルルの女」を描きました。
「赤い葡萄畑」は、ゴッホが描いた絵として売れた初めてで、最後の絵です。
ゴッホは、生きている間には「赤い葡萄畑」しか売れませんでした。
1888年12月、ゴッホは、左耳を切り落とす事件を起こしました。
ゴッホは、ゴーギャンとの共同生活は終わりました。
ゴッホは、入院しました。
アルルの住人は、ゴッホの追放嘆願書に著名しました。
1889年1月、ゴッホは、退院しました。
1889年2月、ゴッホは、「レー医師の肖像」、「包帯をしてパイプをくわえた自画像」、「包帯をした自画像」と「ルーラン夫人ゆりかごを揺らす女」を描きました。
1889年3月、ゴッホは、精神に異常ありと診断され、保護施設に収容されました。
1889年4月、ゴッホは、「アルルの病院の中庭」を描きました。
弟のテオは、結婚しました。
1889年5月、ゴッホは、サン=レミの修道院療養所に入所しました。
ゴッホは、「アイリス」を描きました。
1889年6月、ゴッホは、「星月夜」、「二本の糸杉」と「オリーブ畑」を描きました。
1889年7月、ゴッホは、発作を起こしました。
1889年9月、ゴッホは、「麦刈る男」を描きました。
1889年12月、ゴッホは、「プラタナス並木通りの道路工事」を描きました。
1890年1月、評論家のアルベール・オーリエが「メルキュール・ド・フランス」誌1月号にゴッホを高く評価する評論を掲載しました。
ゴッホは、20人展に招待され、「ひまわり」と「果樹園」等を出品し、好評を得ました。
1890年1月、弟のテオは、ゴッホの作品をアンデパンダン展に出品し、好評を得ました。
1890年2月、ゴッホは、「花咲くアーモンドの木の枝」を描きました。
1890年5月、ゴッホは、「糸杉と星の見える道」を描きました。
ゴッホは、パリで弟のテオと再会し、パリ近郊のオーヴェルにいるポール・ガシェ医師を頼り、旅館に滞在しました。
1890年6月、ゴッホは、「医師ガシェの肖像」、「オーヴェルの教会」、「夜の白い家」と「ピアノを弾くマルグリット・ガシェ」、「ひなげし畑(ポピー畑)」を描きました。
パリから弟のテオ夫婦が息子を連れて、ゴッホに会いにオーヴェルを訪れました。
1890年7月、ゴッホは、「荒れ模様の空の麦畑」、「カラスのいる麦畑」と「ドービニーの庭」を描きました。
1890年7月27日(日曜日)、ゴッホは、拳銃自殺をしました。
1890年7月29日、ゴッホは、37歳で、フランスのヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズで、自ら命を絶ち、カフェ・ラボオーの一室で亡くなりました。

感想

認められぬ天才を表す言葉と映像

フィンセントは、絵を鑑賞する人、絵を購入する人のことを意識せずに絵を描いているから、認められなかったんだろうと感じました。
上司を意識せずに、仕事をすれば、成功しても、上司に認められることはなく、出世できないということです。
上司を意識して、仕事をすれば、成功しても、失敗しても、上司に認められ、出世するということです。

フランスでは、王族、資本家と労働者が、階級闘争を行い、外国と戦争し、植民地を獲得していたという時代背景が分からないと、理解できない映画です。
さらに、油絵と美術史についての知識も必要です。
一般受けするするように、何も知らなくても、理解できるように、分かりすく制作されている映画ではないです。
この映画は鑑賞するだけではなく、時代背景、油絵と美術史について調べることで楽しめるようになる映画で、絵画と同じです。
絵画を見て、好き、嫌いというだけでは、絵画を楽しめないです。
子供や絵画に興味のない大人は、絵画を楽しめないです。
絵画の時代背景や美術史について調べることで、絵画を楽しめるようになるということです。

フィンセントは、床に置いた靴を描くので、油絵の描き方が分かるようになっているところは良いです。
フィンセントは、絵画を描くことについて、画家ではないギャビー、牧師とポール・ガシェ医師に質問され、答えています。
画家でもない人向けに答えているので、分かりやすい答えで良いです。
フィンセントは、絵画を描くことについて、ポール・ゴーギャンと論争しているのことは、印象派からポスト印象派となり、現代美術に繋がる話なので、良かったです。
絵画について何も知らない子供たちが、絵画を見て、好き、嫌いというだけで、楽しめていません。
フィンセントは、狂人と話をして、「太陽の光」を描くことに気が付きます。

フィンセントが、パリからアルルへ引っ越したように、生活環境を変えると、人生も変わるものなのか試してみたくなりました。
引っ越すのは、大変ですが、長期旅行なら試してみたいです。

フィンセントの謎とされる死について、描かれています。

文化は、生活をより良いものにします。
芸術はなくても、生活はできます。
芸術と生活を結ぶ接点や芸術の価値を理解するのは、映画を鑑賞しても困難です。

ゴッホの名言

ゴッホの名言
  • このまま行けと、僕の中の僕が命じるんだ。
  • 偉業は一時的な衝動でなされるものではなく、小さなことの積み重ねによって成し遂げられるのだ。
  • 一番美しい絵は、寝床のなかでパイプをくゆらしながら夢見て、決して実現しない絵だ。
  • 何も後悔することがなければ、人生はとても空虚なものになるだろう。
  • 自分の中で一度燃え上がった想いというのは、止めることが出来ない。
  • 私はいつも、まだ自分ができないことをする。そのやり方を学ぶために。
  • 人の本当の仕事は30歳になってから始まる。
  • 僕の人生はそれほど長くないだろう。
    だから僕は一つのことしか目に入らない無知な人となって仕事をするつもりだ。
    ここ数年のうちに何がしかの仕事をやりとげてみせる。
  • たとえ僕の人生が負け戦であっても、僕は最後まで戦いたいんだ。
  • 99回倒されても、100回目に立ち上がればよい。
  • 人間は毅然として、現実の運命に耐えていくべきだ。そこに一切の真理がひそんでいる。
  • 常に悲しみを要求する人生に対して、僕らにできる最上のことは、小さな不幸を滑稽だと思い、また大きな悲しみをも笑い飛ばすことだ。
  • 絵を描き始める前に、すでにそれは私の心の中に形作られている。
  • 私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを表現したい。
  • 人間が生きる限り、死人も生きているんだ。
  • 確信を持つこと、いや確信を持っているかのように行動せよ。
    そうすれば次第に本物の確信が生まれてくる。
  • 虫だって光の好きなのと嫌いなのと二通りあるんだ!
    人間だって同じだよ、皆が皆明るいなんて不自然さ!
  • 色彩は、それ自体が、何かを表現している。
  • 直観力と想像力を、抑え込んではならない。
  • 美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ。
  • あなたのインスピレーションやイマジネーションを抑えてはならない。
    模範の奴隷になるな。
  • もし、黄色と橙色がなければ、青色もない。
  • 私は、自分の作品に心と魂を込める。そして制作過程では我を失う。
  • 何かをうまく語ることは、何かをうまく描くことと同様に難しくもあり面白いものだ。
    線の芸術と色の芸術とがあるように、言葉の芸術だってそれより劣るものじゃない。
  • 絵を描くのは、人生に耐えるための手段だ。
    泣かないでくれ。
    僕がしてきたことは、僕たちにとっていちばんいいことなんだ。
    どうしようもないんだ、僕はこの憂鬱から絶対に逃れられない。
  • 私はあるがままの自分を受け入れてくれることだけを望む。
  • 考えれば考えるほど、人を愛すること以上に芸術的なものはないということに気づく。

このまま行けと、僕の中の僕が命じるんだ。

人の人生は、外的要因によって変わりますが、自らが選んだ人生を歩きたいです。

偉業は一時的な衝動でなされるものではなく、小さなことの積み重ねによって成し遂げられるのだ。

ブログも、一つ一つの記事を積み重ねることで、何かを成し遂げることができると感じています。

一番美しい絵は、寝床のなかでパイプをくゆらしながら夢見て、決して実現しない絵だ。

なりたい自分にはなれず、夢として、人生を終えることは多いです。
退職後は、決して実現しない夢を見ながら過ごしたいです。

何も後悔することがなければ、人生はとても空虚なものになるだろう。

自らが選んだ人生は、後から後悔することになることが多いです。
自らが選ばなかった人生は、空虚な人生になるということです。

自分の中で一度燃え上がった想いというのは、止めることが出来ない。

自分の中で一度燃え上がった想いの結果が見てみたいという気持ちを抑えきれないということです。
ブログを書いたらどうなるのかという結果が見てみたいから、ブログを始めました。

私はいつも、まだ自分ができないことをする。そのやり方を学ぶために。

自分ができないことを、できるようにする方法を探すのも、楽しい人生です。

人の本当の仕事は30歳になってから始まる。

自分の本当の仕事は、未だに分かりません。
30歳の頃には、自分で判断して、仕事をしていました。

僕の人生はそれほど長くないだろう。
だから僕は一つのことしか目に入らない無知な人となって仕事をするつもりだ。
ここ数年のうちに何がしかの仕事をやりとげてみせる。

退職後は長いようですが、何かを成し遂げようとすると短いです。
退職後に、何かを成し遂げてみたいです。

たとえ僕の人生が負け戦であっても、僕は最後まで戦いたいんだ。

勝者は一握りであり、多くの人は敗者です。
最後まで戦い続けることは、誰にでもできます。

99回倒されても、100回目に立ち上がればよい。

このような高い意識を、どのようにして持てるのか分かりません。
1回倒されただけでも、立ち上がるのは困難です。

人間は毅然として、現実の運命に耐えていくべきだ。そこに一切の真理がひそんでいる。

現実の運命は、厳しく、耐えていくことができずに、心身を壊し、自殺する人もいます。
人間は無理をせず、現実の運命から逃避することも必要です。
人間は毅然として、現実の運命に耐えて、一切の真理を追究するのはやめた方がよさそうです。

常に悲しみを要求する人生に対して、僕らにできる最上のことは、小さな不幸を滑稽だと思い、また大きな悲しみをも笑い飛ばすことだ。

退職後には、悲しみや不幸はあるでしょう。
退職後には、小さな不幸を滑稽だと思い、また大きな悲しみをも笑い飛ばすことは重要です。

絵を描き始める前に、すでにそれは私の心の中に形作られている。

何かを始める前に、すでにそれは自分の心の中に形作られていないとできません。
何から手を付けてよいのか分からずに、途方に暮れるだけです。
どうしたら、ブログを始められるか分からない人は、以下のブログ記事を参考にしてください。

  1. このブログの始め方~その①
  2. このブログの始め方~その②
  3. このブログの始め方~その③

私は絵の中で、音楽のように何か心慰めるものを表現したい。

退職後の人生を生きる中で、誰かの退職後の人生を心慰めるものを、ブログの中で表現したいです。

人間が生きる限り、死人も生きているんだ。

生きている人間の記憶の中で、死人も生きることができます。

確信を持つこと、いや確信を持っているかのように行動せよ。
そうすれば次第に本物の確信が生まれてくる。

本物の確信を持つことは難しく、本物の確信を持って行動するのはさらに難しいです。
確信を持っているかのように行動することはできなくはありません。
確信を持っているかのように行動することで、本物の確信を持つことできるようになるのかもしれません。
退職後は、確信を持って行動してみます。

虫だって光の好きなのと嫌いなのと二通りあるんだ!
人間だって同じだよ、皆が皆明るいなんて不自然さ!

退職後の人が、好きになることは違います。
退職後の人は、他の人のことを気にすることをせずに、自分の好きなことをすれば良いのです。

色彩は、それ自体が、何かを表現している。

人工の物であれ、自然の物であれ、色彩を持っています。
色彩は、人工の物や自然の物の何かを表現しています。
何を表現しているのかを理解することで、人工の物や自然の物の特徴を捉えて絵を描くことができます。

直観力と想像力を、抑え込んではならない。

退職後は、自分の直観力と想像力を信じて、行動したいです。

美しい景色を探すな。景色の中に美しいものを見つけるんだ。

退職後の美しい人生は幻想でしかありません。
退職後の人生の中に、美しい何かを見つけたいです。

あなたのインスピレーションやイマジネーションを抑えてはならない。
模範の奴隷になるな。

退職後は、自分のインスピレーションやイマジネーションを信じて、行動したいです。
これまでの退職者を模倣することはなく、これからの退職者のモデルとなるように生きたいです。

もし、黄色と橙色がなければ、青色もない。

黄色と橙色という暖色を引き立たせる、青色という寒色が必要になります。
暖色だけでは絵にはならず、寒色だけでも絵にはなりません。

私は、自分の作品に心と魂を込める。そして制作過程では我を失う。

自分のブログ記事にはこだわりたいです。
自分がブログ記事を書くことは、損得で見たら損なので、我を失っているのかもしれません。

何かをうまく語ることは、何かをうまく描くことと同様に難しくもあり面白いものだ。
線の芸術と色の芸術とがあるように、言葉の芸術だってそれより劣るものじゃない。

ブログ記事を上手く書くことは、何かをうまく描くことと同様に難しくもあり面白いものです。
たくさんのブログ記事を書き、どのブログ記事が読まれているのかを確認し、検証するのは難しくもあり、面白いようになってきました。

絵を描くのは、人生に耐えるための手段だ。
泣かないでくれ。
僕がしてきたことは、僕たちにとっていちばんいいことなんだ。
どうしようもないんだ、僕はこの憂鬱から絶対に逃れられない。

ブログ記事を書くのは、退職後の生活を精神的に支える手段です。

私はあるがままの自分を受け入れてくれることだけを望む。

人は一人ひとり異なるから、あるがままの自分を受け入れてくれることは難しです。
周囲の期待に応えようと空気を読み、気を使い、忖度しなければなりません。

考えれば考えるほど、人を愛すること以上に芸術的なものはないということに気づく。

愛することで、何を表現するべきなのかを理解し、特徴を捉えて、芸術的な絵を描くことができます。

まとめ

何も知らないで見るだけで楽しい映画もいいですが、色々調べて鑑賞することで楽しめるようになるこの映画も、また良いです。
ゴッホのような天才と言われる画家も認められないという現実を知ることができたのは良かったです。
ブログ記事を書いても、アクセス数がなくても、ブログ記事を書き続ける気持を大切にしたいです。
ゴッホの絵画は、以下のように日本の美術館で収蔵されています。
ゴッホの絵画を観に訪れてみたいです。

収蔵場所 絵画 制作年
和泉市久保惣記念美術館 耕す人 1883年
紡ぎ車をくる女 1883~1884年
機を織る人とベビーチェアの子供 1884年
山形美術館 雪原で薪を集める人々 1884年
諸橋近代美術館 座る農婦 1884~1885年
ウッドワン美術館 農夫 1884~1885年
東京富士美術館 鋤仕事をする農婦のいる家 1885年
アーティゾン美術館 モンマルトルの風車 1886年
SOMPO美術館 ひまわり 1888年
国立西洋美術館 ばら 1889年
笠間日動美術館 サン=レミの道 1889~1890年
ポーラ美術館 ヴィゲラ運河にかかるグレーズ橋 1888年
アザミの花 1890年
草むら 1889年
メナード美術館 一日の終り(ミレーによる) 1889~1890年
東京藝術大学大学美術館 ガッシェ博士の肖像 1890年
横浜美術館 ガッシェ博士の肖像(パイプを持つ男) 1890年
ひろしま美術館 ドービニーの庭 1890年

次は、映画「ゴッホ~最期の手紙~」をレビューする予定です。
ご期待ください。
以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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