「自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝(下)」あらすじと感想

「夢をかなえるゾウ0  ブラックガネーシャと夢を食べるバク」「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養」の中で、出てきた「ネルソン・マンデラ」について知りたいと感じました。
映画「ネルソン・マンデラ」映画「遠い夜明け」映画「マンデラの名もなき看守」映画「インビクタス/負けざる者たち」を鑑賞し、理解するために、この本を読むことにしました。

まず、「自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝(上)」を読んでから、この本を読むことをお勧めします。
舞台となる場所登場人物単語説明ネルソン・マンデラの年表社会的背景ネルソン・マンデラの名言については、「自由への道 ネルソン・マンデラ自伝(上)」と同じです。

目次

第7章 リヴォニア

帰国、そして再逮捕

ネルソン・マンデラは、国境を越えてヨハネスバーグ郊外のリヴォニアにあるリリーズリーフ農場に戻り、旅行について報告するための秘密会合を開き、資金援助や軍事支援してくれる新しいアフリカ大陸の支援者たちに、人種融和策や共産主義者との協力関係について理解を得るために、会議同盟のリーダーシップを取るべきだと報告し、アルーバート・ルツーリ首長たちに相談し、帰国祝いの宴会でもてなされ、ダーバンからヨハネスバーグに戻る途中で、警察に逮捕され、移送され、監房に入れられ、他のANCの会員も逮捕されていることを知り、正式な拘留手続きの上級行政官に出頭し、ジョー・スロヴォを法律顧問として、自分の弁護士に指名し、ウィニーと面会します。

”砦”の病院

ネルソン・マンデラは、厳重な警戒の下、快適な病院の病室に収監され、プレトリアへ移送され、面会は制限されますが、ウィニーたちは定期的に面会に通い、差し入れられた食べ物を看守や囚人に配り、ヨハネスバーグに移送され、元の病室に収監され、法廷弁護士になる勉強を始め、トレーニングメニューを行い、既決囚になるまで、脱走を思いとどまります。

変わらぬ信念

ネルソン・マンデラは、コーサ族の伝統的な豹皮のマントを着て、審問に望み、移送されたことを理由に一週間の延期が認められ、自ら弁護を行うと申し出て、白人の裁判官忌避を申請し、検察側の証人へ反対尋問を行い、法廷の不当性を訴え、証人を法廷に呼び出すことなく、陳述を打ち切り、一時間以上にわたり今までしてきたことをなぜ、どうやって行い、アフリカ民族会議に加わった経緯、南アフリカ政府が生活、職業と政治活動の邪魔をし、今に至ったか、どんな判決が下されようとも、闘争に身を捧げる気持ちは変わらないという弁明を行います。
検察官は、多くの証人を出廷させ、在宅ストを煽動し、不法に国を離れたことで起訴し、立証します。
行政官は、ネルソン・マンデラに懲役5年、執行猶予なしの実刑を言い渡します。

隔離

ネルソン・マンデラは、プレトリア刑務所で服役し、既決囚として、同じ囚人服を着て、同じ食事を食べ、同じ日課に従いうことになりますが、半ズボンをはきたくない、食事の改善を訴えたら、隔離房に入れられ、1時間が1年にも感じられ、他人と触れ合うことがなく、精神に異常をきたし、半ズボンと食事を諦めて、元の刑務所に戻り、他の政治犯で収容されている人々と話し、服務条件について、連名で苦情を述べ、ウィニーと面会します。

鉄拳

非合法組織とされているANCは、年次総会を行い、MKをANCの軍事部門として認めます。
南アフリカ政府は、破壊活動防止法と九十日拘留法を制定し、政治活動を徹底的に取り締まります。

移送

ネルソン・マンデラは、プレトリア刑務所から、ロベン島の刑務所へ船で移送され、大きな窓、専用トイレとシャワーがある良い監房に収容され、身を危険に晒すことまでしてくれるカラードの看守から物や情報を得て、重労働に従事し、テロン刑務所長からもできるだけのことをされ、PACの若い会員にも出会い、ロベン島の刑務所からプレトリア刑務所へ移送され、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴された人々と出会い、破壊活動の罪状で起訴され、最高刑の死刑になる可能性を伝えられます。
ウィニーは、2年間の活動禁止になり、禁止令を破り、懲役刑になるかもしれないです。

リヴォニア裁判

ネルソン・マンデラたちは、ブレトリアの司法宮で破壊活動及び共謀の罪状で11人に対する裁きが始まり、法廷内はANCの支持者だけでなく、南アフリカ混む内外のジャーナリストと外国政府代表で埋まり、一部の囚人が看守を買収し、脱走したために、厳重な警備下に置かれ、被告人の弁護士に無罪を立証してもらう必要があり、弁護士によって準備の時間がなかったことを理由に、3週間の猶予を得て、弁護士によって法廷でネルソン・マンデラが破壊活動にかかわったとされる日に、ネルソン・マンデラがプレトリア刑務所にいたことを立証し、起訴を棄却され、無罪になり、南アフリカ政府によって、法廷内で、再び、破壊活動の容疑で逮捕され、法廷で無罪を主張します。
検察側は、MKについて説明し、173人の証人を呼び、数千点の文書や写真を証拠として提出し、MKの一員であるブルーノ・ムトロにMKの活動内容を証言させ、ゲリラ戦から武装蜂起までの道筋がかかれた文書も提出します。

減刑よりは理想を

ネルソン・マンデラは、検査側の反対尋問に答えるために証言するよりも、被告席から4時間にも及ぶ声明を読み上げ、「理想のために命をも投げ出す覚悟です」という言葉で終えると、南アフリカ国内外へ伝えられます。
ウォルター・シスルは、検査側の反対尋問に対して、マイブイェ作戦とゲリラ戦への移行については、ANCの政策として使用されなかったと断言し、自らも時期尚早として反対したと証言します。
ゴヴァン・ムキべは、共産党員であることを告げ、倫理的な罪を認めないと証言します。
アーメド・カトラダとラスティー・バーンスタインは、ANCの会員あると同時に、共産党員であることを告げます。
ジェームズ・カンターは、無罪を主張します。
レイモンド・ムシュラバは、MKの会員であることを否定し、破壊工作については何も知らないと証言します。
イライアス・モツォアレディは、証言しません。
アンドルー・ムランゲニは、証人として証言するよりも、被告席から声明を読み上げ、MKの連絡や運搬の役を務めたと言います

クアルトゥス・デヴェット首席判事は、ゲリラ戦の準備を進めていたが、逮捕される前に、ゲリラ戦を行う決定を下していないという申し立てを否定する証拠がないし、ANCとMKは別組織であると言います。

控訴せず

クアルトゥス・デヴェット首席判事は、判決を言い渡します。
ネルソン・マンデラたちは、有罪になります。
ラスティー・バーンスタインだけは、無罪になります。
クアルトゥス・デヴェット首席判事は、量刑は、明日の検察側と弁護側の申し立てを聞いたうえで、言い渡すことにします。
ネルソン・マンデラたちは、どんな量刑になっても、控訴しないことを決めます。

圧力

ネルソン・マンデラたちは、法廷宮に入り、裁判が始まり、罪の軽減を求める答弁があり、起立し、終身刑を言い渡され、喜び、法廷宮から護送車に乗せられ、プレトリア刑務所へ移送されます。

第8章 ロベン島・暗黒の日々

冷酷な拠点

ネルソン・マンデラたちは、プレトリア刑務所から護送車に乗せられ、軍用飛行所で降りて、大型軍用輸送機ダゴタに乗り、ロベン島の滑走路へ着陸し、主人服を着替え、旧監獄へ入り、政治犯専用の重警備施設へ移動し、岩を砕いて砂利にする仕事を行い、30分間の運動として、中庭の周囲を速足で歩き、ノルマを課せられ、ノルマを果たし、果たせそうにないノルマを課されたので、仕事を怠け、苦情のリストを所長宛に書いて、待遇改善を要求します。
看守は、白人で、アフリカーナーが多く、カラードはいません。

尊厳

ネルソン・マンデラは、ロベン島に来た弁護士と面会し、無事でいることと控訴しないことを伝え、時間の感覚を失わないように、独房の壁にカレンダーを書き、刑務所から出られるという希望を持ちます。

食事

ネルソン・マンデラたちは、朝5時半、起こされ、独房内を片付け、朝6時45分、独房から出され、洗面器を洗い、中庭で朝食を食べ、仕事をして、昼食を食べ、仕事をして、午後4時に点呼と検査を受けて、体を洗い、夕食の配給を受けて、独房に戻り、午後8時に就寝します。

来訪者

ネルソン・マンデラたちは、管理棟で指紋を取られ、写真を撮影されそうになりますが、刑務所総監の許可書を見せるようにつたえると、写真を撮られず、岩を砕いて砂利にする仕事から主人服を直す仕事になり、記者とカメラマンの訪問を受け、虐待が行われていないことを確認されます。
ネルソン・マンデラは、記者とカメラマンと話をして、苦情を訴えウォルター・シスルと一緒に写真を撮影されます。
記者とカメラマンが帰ると、ネルソン・マンデラたちは、岩を砕いて砂利にする仕事に戻ります。

妻との面会

ネルソン・マンデラは、看守に見守られながら、ウィニーと面会し、健康であることを伝え、家族について聞きます。
ネルソン・マンデラは、この後、2年間にもわたり、ウィニーと面会できません。

採石作業

ネルソン・マンデラたちは、刑務所の敷地外の採石場で、石灰の採掘を13年間も行わされ、長ズボン、学習の権利、食事の平等、サングラスを要求する闘争を行い、作業中にコーサ語で政治的な歌を歌い、コーサ語の分かる看守によって、歌うことが禁止されます。

刑務所内での闘争

ネルソン・マンデラたちは、国際赤十字の視察団に渡すために、正式な苦情のリストを刑務所総監に提出し、準備します。
刑務所は、ネルソン・マンデラたちの待遇を改善しました。
ネルソン・マンデラは、国際赤十字のセン氏と、監視なしに面会し、苦情や不満を述べます。
国際赤十字のセン氏は、刑務所総監や職員と会います。
刑務所は、ネルソン・マンデラたちに長ズボンが支給され、囚人服も改善し、学習の機会を与え、監房には机と椅子を用意します。
ネルソン・マンデラたちは、自らの学歴に応じて、学習を始め、本を購入し、または借りて学習し、看守に贈賄を渡して、新聞を入手します。
ネルソン・マンデラは、新聞を読んでいるのを看守に見つかり、三日間の隔離と食事抜きを受け、偶然訪れた刑務所所長の上司に、直接苦情を述べ、四日間の隔離と食事抜きを受け、刑務所の職員たちと個人的な付き合いを通して、待遇を改善します。

ハンスト

ネルソン・マンデラたちは、隔離棟にいる一般棟の囚人たちと同じトイレを使用していたので、このトイレを利用して、情報を交換し、一般棟の囚人たちがハンストを行っていることを知り、ハンストを支持するために、ハンストを行います。
ハンストを見た看守達も自らの待遇改善を求めてハンストを開始します。
一般棟の囚人たちが勝利を宣言して、ハンストを終了します。
ネルソン・マンデラたちは、一般棟の囚人たちのハンストの終了を知り、ハンストを終了します。
ハンストは、刑務所の外の人にハンストを行っていることを伝え、刑務所の外の人が刑務所に圧力をかけなければ成功しません。

妨害

ネルソン・マンデラは、南アフリカ政府の妨害により、二年間ウィニーと面会できず、ウィニーと面会したときには、娘を寄宿学校に進学させ、二人の間だけで通じる単語を使い、情報を交換します。
ウィニーは、ネルソン・マンデラとの面会直後に逮捕され、釈放されますが、ソーシャルワーカーの仕事を失います。
南アフリカ政府は、開業弁護士名簿からネルソン・マンデラの名前を削除することを発議します。
ネルソン・マンデラは、異議を申し立て、弁護するための準備をします。
ネルソン・マンデラたちは、看守の一人を脅迫して、毎日新聞が読めるようになり、採石場にいる間、仕事をしながら、政治論をすることができるようになります。

”スーツケース”

南アフリカのヘンドリック・フルヴールト首相が殺されます。
刑務所の看守たちは、ネルソン・マンデラたちに厳しい措置を取り、鬼のように悪辣で、賢くはない新しい看守のファン・レンズバーグが着任します。
ネルソン・マンデラたちは、新しい看守のファン・レンズバーグに”スーツケース”というあだ名をつけ、ファン・レンズバーグの弁当箱(スーツケース)を運ばず、ファン・レンズバーグに自身の弁当箱を運ばせ、異議を法廷に持ち込んで、罪名に対する”具体的事実の追及”を求めて、ファン・レンズバーグを追い込みます。
リベラル派の政党である進歩党のただ一人の国会議員であるヘレン・スズマン夫人が、刑務所を訪れ、「ネルソン・マンデラが代表して答えます」と言います。
ネルソン・マンデラは、ヘレン・スズマン夫人に、食事と囚人服についての改善、学習用施設の必要性、新聞などの情報に接する権利を要求し、ファン・レンズバーグの横暴さについても指摘します。
ヘレン・スズマン夫人は、国会で刑務所の問題を取り上げます。
ファン・レンズバーグは、数週間後にロベン島を去ります。

独自の内部組織

アルーバート・ルツーリ首長が亡くなり、オリヴァー・タンボがANCの議長代行になります。
ネルソン・マンデラたちは、ロベン島の刑務所内に独自の最高機関を作り、ウォルター・シスル、ゴヴァン・ムキべ、レイモンド・ムシュラバで構成され、ネルソン・マンデラが最高機関のリーダーになり、囚人たちの不満、スト、郵便、食事などについて決断を下し、全員参加の総会を開き、待遇改善を求める請願を取りまとめます。

悲しい知らせ

ネルソン・マンデラの母のノセケニ・ファニーが亡くなります。
ネルソン・マンデラは、所長に母の葬儀に出席の許可を申請しますが、認められません。
ネルソン・マンデラの妻のウィニーは、テロ行為法にもとづき逮捕され、共産主義弾圧法で起訴されます。
ネルソン・マンデラの息子のテンビは、自動車事故で亡くなります。
ネルソン・マンデラは、所長に息子のの葬儀に出席の許可を申請しますが、認められません。

第9章 ロベン島・希望の始まり

礼拝

ネルソン・マンデラたちは、看守と共により良い刑務所の環境を構築し、日曜日の朝には聖職者がロベン島に呼ばれ、廊下の端で、独房の中にいる囚人に向かって、説教を行います。
この状況に異議を唱えるために英国国教会のヒューズ師は、ウィンストン・チャーチルが戦時中にラジオで行った演説の一部を「われわれは海岸で戦い、上陸地で戦い、野原や街で戦い、山中で戦う。われわれはけっして屈服しない」と暗唱します。
ネルソン・マンデラたちは、日曜日の朝には聖職者がロベン島に呼ばれ、中庭で、礼拝が行われるようになり、ヒューズ師がニュースの断片を説教に入れて、聞かせ、讃美歌を歌い、楽しみます。
色々な聖職者がロベン島に呼ばれ、説教を行い、ネルソン・マンデラたちを感化します。
ネルソン・マンデラたちは、クリスマスには仕事をせず、コンサートを開いたり、協議会を催したり、芝居を上演し、チェスやチェッカーのトーナメントを開催し、スクラブルやブリッジをして楽しみます。

逆もどり

ロベン島の刑務所の所長が、温厚で物わかりの良いファン・アールデ大佐から横暴で威圧的なピエト・バーデンホルストに変わります。
ピエト・バーデンホルスト所長は、ネルソン・マンデラとの面会を拒否し、学習や自由時間に関する規則を撤回し、囚人と親しくなった看守たちを異動させ、若くて、横暴で、囚人を困らせ、囚人の士気をくじくことを職務と心得ている看守たちを就任させます。
ネルソン・マンデラたちは、独房が徹底的に調べられ、本や書類が押収され、食事が取り上げられ、採石場に行く途中にわけももなく暴行され、弁護士との面会を要求すると隔離房に入れられ、苦情を言っても無視され、面会を取り消され、食事の質を落とされ、検閲を強化されます。
ピエト・バーデンホルスト所長は、ネルソン・マンデラを見せしめにするために、いじめます。

良識の核

ネルソン・マンデラたちは、刑務所の外に連絡して、ピエト・バーデンホルスト所長を罷免要求への動きを煽り、囚人の代表団を作り、ピエト・バーデンホルスト所長に面談を申し込み、改善されなければ、作業拒否、怠業やハンストなどのあらゆる戦術を駆使して、抵抗すると脅します。
三人の判事は、ステイン将軍に連れられ、ロベン島にやってきます。
ネルソン・マンデラは、囚人を代表して、ステイン将軍とピエト・バーデンホルスト所長の前で、三人の判事に刑務所で起きた暴行事件、食事、作業、学習について苦情を言います。
ピエト・バーデンホルスト所長は、横暴さが影をひそめ、ロベン島から異動することになり、ネルソン・マンデラと面会し、「君たちの幸運を祈っているよ」と言葉をかけます。
若くて、横暴で、囚人を困らせ、囚人の士気をくじくことを職務と心得ている看守たちも異動します。

歩み寄り

ピエト・バーデンホルスト所長の後任は、ヴィレムセ大佐です。
ヴィレムセ大佐は、ネルソン・マンデラとの面会を受け入れ、話し合いで問題点を共有し、解決します。
ネルソン・マンデラは、逮捕され、ロベン島に収監されてくるMKの兵士から、実際の戦闘や南アフリカ国外へ逃れたANCの状況について、キャンプ内での不満、MK将校たちの兵士いじめについて知り、オリヴァー・タンボへキャンプ内の改革の必要性を訴えた手紙を書き、送ります。

海草採り

ネルソン・マンデラたちは、パノラマのような景色を眺めながら、海岸で海草を採り、海草を海岸に並べ、海草を乾かし、乾いた海草をトラックに積み込む作業をします。
乾いた海草は、日本に輸出されます。
ネルソン・マンデラたちは、海岸であさり、ムール貝、ざりがにや鮑を採り、シチューを作り、看守も囚人の一緒に輪になり、シチューを食べます。

大学

ネルソン・マンデラたちは、若く、教育も受けていない同志に対して、採石場で、講師を中心に座り、作業をしながら、問答を繰り返すことで、思想、理論や歴史を教えます。
ネルソン・マンデラたちは、直接会うことのできない一般棟の囚人たちには、手紙を利用し、問答をすることで、通信教育のように、思想、理論や歴史を教えます。
ネルソン・マンデラたちは、学習カリキュラムを確立し、ロベン島刑務所を大学のようにします。
ネルソン・マンデラは、直接会うことのできない一般棟の囚人たちの控訴の準備を手伝い、無罪になったり、減刑されることに成功します。

脱獄計画

ネルソン・マンデラたちは、ケープタウンで行われる歯医者の検診前に、足かせを外されるので、歯医者の窓から脱獄しようと計画しようとしますが、逃走する道に人影が見えないので、罠に気が付き、脱獄を諦めます。

回想録

ネルソン・マンデラたちは、闘争の理念を民衆に示すために、ネルソン・マンデラが回想録を執筆し、ウォルター・シスルとアーメド・カトラダが校正し、ラルー・チバが極細の速記文字で速記原稿に書き写し、マックが釈放されるときに速記原稿持ち出し、南アフリカ国外へ持ち出せるまで、500枚もの原稿を保管しますが、看守が原稿を見つけ、無期限の学習の特権を取りあげられます。
マックが持ち出した速記原稿は、イギリスのロンドンでタイピストにより、書き起こされますが、その後紛失します。

懐柔

南アフリカの国民党議員で、警察、刑務所と司法を担当する大臣であるジミー・クルーガーは、ネルソン・マンデラにトランスカイ自治区政府の正当性を認め、トランスカイの刑務所に移り、刑期の短縮を提案します。
ネルソン・マンデラは、パンツースタン政策には反対しているので、トランスカイ自治区政府を認めず、トランスカイに戻らず、ジョハネスバーグに戻ると主張します。
ジミー・クルーガーとネルソン・マンデラは、合意せず、何も変わりません。

新しい自由の戦士

1万5千人ものアフリカ人学生達は、中学校の全クラスの半数はアフリカーン語で教えなくてはいけないという南アフリカ政府の決定に抗議するために、ソウェトで蜂起し、警察が発砲し、暴動に発展し、警察を圧倒しますが、逮捕され、ロベン島に収容され、隔離棟は満員になり、刑務所の規律を無視し、過激に行動します。
ネルソン・マンデラたちは、若い囚人たちの言葉に耳を傾け、どうやって闘争に引き寄せられ、どういう理念で活動し、将来どういう構想を持っているのかを理解しようと努めます。
ロベン島の刑務所長は、ネルソン・マンデラに、若い囚人たちに自らを抑制し、刑務所にいる事実を受け入れ、刑務所の規律を受け入れるように説得するように依頼しますが、断られます。
ネルソン・マンデラたちは、若い囚人たちに何かを押し付けるのではなく、質問されたら答えるという方法で、ANCは異なる意見や考えを収容できる巨大なテントであることを示し、若い囚人たちをANCに取り込んでいきます。

肉体労働がなくなって

ロベン島の看守たちは、若い囚人たちの世話をしなければなりません。
ネルソン・マンデラたちは、資格や技術を学ぶための時間を確保するために、肉体労働の廃止を求めて、2年間の怠業ストを行い、採石場では作業をせずに、話をしています。
ロベン島の当局は、ネルソン・マンデラたちに採石場での肉体労働を止めて、中庭でできる作業を与え、監視の手間を減らします。
ネルソン・マンデラは、中庭に畑を作ることが認められ、日中の自由に使える時間を使用して、中庭の塀の近くに畑を作り、トマト、唐辛子、玉ねぎの種を植えて、育て、収穫し、看守にも収穫した作物を分け与えてます。
ネルソン・マンデラは、肉体労働がなくなって、体重が増え始めたので、筋トレを行い、中庭をランニングするようになります。
ネルソン・マンデラは、国際赤十字の職員に会うようになったころから、運動のための時間と施設の重要性を訴え続け、バレーボールの道具や卓球台が届けられ、中庭にテニスコートを作り、テニスに打ち込みます。
ネルソン・マンデラは、学習の特権が奪われていたので、小説を読むようになります。

希望を忘れず

ウィニーは、黒人父母の会に関わり、学生たちの先導役と仲介役を務め、治安維持法によって拘留され、起訴もなしに、4ヶ月間も収監されますが、固い決意と共に出所し、活動禁止になりますが、学生たちの先導役と仲介役を務め、ソウェトの過激な若者たちの間での人気は高いです。
南アフリカ政府は、ウィニーと娘のジンジをオレンジ州のブランドフォートへ流刑にします。
流刑にされたウィニーと娘のジンジは、警察の監視下に置かれ、嫌がらせを受けますが、近くに住む人々に食べ物を提供し、子供たちのための委託所を始め、診療所の資金を集めて、支持を獲得します。

ネルソン・マンデラとウィニーの娘であるゼニは、スワジランドのソブザ王の息子であるサムブムジ王子と結婚し、スワジ王家の一員になり、外交特権を得て、ネルソン・マンデラと自由に面会することができるようになり、孫と打ち合わせ室で会うことができます。
ネルソン・マンデラは、ゼニとサムブムジ王子の子供で、孫に希望という”ザジウェ”という名を付けます。

ネルソン・マンデラは、昔の出来事を夢で見て、夢について、ウィニーに手紙で書き送り、釈放されることを考え、ウィニーに手紙で書き送ります。
刑務所は、ネルソン・マンデラたちの身内の写真の持ち込みを許可します。
ウィニーは、ネルソン・マンデラにアルバムとウィニー、子供たちや孫たちの写真を渡します。
看守は、ネルソン・マンデラの独房を捜索し、ウィニーの写真を押収しますが、しばらくするとウィニーの写真も押収されなくなります。
ネルソン・マンデラは、ロベン島内の囚人たちからのアルバムを借りたいという要求を受けて、アルバムを貸し出し、アルバムはボロボロになり、写真は抜き取られ、若い女の子であるジンジとか、ゼニの写真をくれと頼まれ、渡します。

自前の映画館

ネルソン・マンデラたちは、15年に渡りニュースを知る権利を求め続け、当局の方で要約したニュースを聞けるようになり、映画館を持ち、映画を鑑賞できるようになり、ドキュメンタリー映画を鑑賞し、議論をかわします。
ネルソン・マンデラは、新しい考えに心を開き、意見を戦わせ、議論し、問い直し、改良し、刑武者から出ていくときに、遠い過去から現れた政治家の化石のように見られないようにします。
南アフリカで多くの人が立ち上がり、逮捕され、ロベン島の刑務所が公安囚の専用施設になり、公安囚が調理人になり、食料のねこばばと看守への付け届けがなくなり、全ての食料を全員に分配した結果、食事が大幅に改善されます。

変化のきざし

ネルソン・マンデラは、テニスで踵を骨折します。
ロベン島の刑務所内でネルソン・マンデラが死んで、国際社会らか非難されることを恐れた当局は、ネルソン・マンデラをケープタウンの病院で治療させることにします。
ネルソン・マンデラは、ケープタウンの病院で踵を手術し、人種差別を感じさせない治療を受けます。
ネルソン・マンデラたちは、新聞を購読する権利が認められ、検閲済みの新聞を読むことができるようになります。
ANC本部が、ネルソン・マンデラたちの釈放を求める”マンデラに自由を!”というキャンペーンが行われます。
MKは、製油所、警察所、軍事基地を毎週爆破します。
南アフリカ政府は、全面攻撃という政策を導入します。

唐突な移動

ウィニーが交通事故にあい、入院しますが、命に別状はありません。
ネルソン・マンデラ、ウォルター・シスル、レイモンド・ムシュラバとアンドルー・ムランゲニは、ロベン島刑務所からポールスムーア重警備刑務所に移送されます。

第10章 敵との対話

抱擁

ネルソン・マンデラは、刑務所の屋上に菜園を作るために、44ガロンのドラム缶を16本を半分に切り、湿った肥沃な土地で見たして、植木鉢を作り、種は購入したり、ムンロ准将や看守が提供したりしてくれ、肥料も集めて、玉ねぎ、なす、キャベツ、カリフラワー、インゲン豆、ほうれん草、ニンジン、キュウリ、ブロッコリー等々様々な作物を栽培します。
刑務所の調理場へ収穫物を届け、看守達にも収穫物を分け与えます。
ネルソン・マンデラは、ジェームズ・グレゴリー准尉に伴われて、仕切りのない部屋に通され、接触面会が許され、21年ぶりに、ウィニー、ゼニとゼニの末の娘と抱き合います。

演説の代読

MKは、プレトリアの中心部にある空軍と軍情報部の共同事務所を標的に、自動車爆弾で攻撃し、一般市民を含む、19人が死亡し、200人以上が負傷します。
南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ首相は、国会の会議で「政治的な道具として暴力を用いることを無条件で放棄するなら、政治囚は釈放する」と演説し、提案します。
シンジ・マンデラは、ソウェトのジャブラニ・スタジアムで開かれるUDFの日曜日の集会で、父であるネルソン・マンデラの演説の原稿を代読し、南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ首相の提案を拒否します。

ある構想

ネルソン・マンデラは、定期検診を受けた後、泌尿器科医から前立腺肥大と診断され、手術を受け、コビー・クツィエ司法大臣のお見舞いを受け、ウィニーをジョハネスバーグに残れるようにお願いし、退院し、ポールスムーア重警備刑務所に戻りますが、他の囚人とは隔離されたので、行動は個人の判断で、ANCを代表するものではないと釈明できるので、民衆を正しい方向へ導くために、民衆の先へ行き、政府と交渉するという新たな指針を開くことにします。

対話の開始

ネルソン・マンデラは、コビー・クツィエ司法大臣に話し合いについての話し合いを提案する手紙を書きましたが、返事はなく、7人の賢人グループと面会し、個人的な見解を述べながら、南アフリカ政府には環境が整えば話し合う用意があることとANC議長であるオリヴァー・タンボには歩調を合わせるように伝えます。
南アフリカ政府は、ボツワナ、ザンビアとジンバブエにあるANCの基地に空爆と奇襲攻撃をします。
ANCとオリヴァー・タンボは、南アフリカを統治不可能な状態に追い込みます。
南アフリカ政府は、国家非常事態を宣言します。
ネルソン・マンデラは、コビー・クツィエ司法大臣に面会し、国内の混乱を収拾する方法について話し合い、大統領と外務大臣に面会を申し込みますますが、何も起こらず、コビー・クツィエ司法大臣に手紙を書きます。

気晴らし

ハヴィ・マルクス中佐たちは、ネルソン・マンデラを刑務所の外へ連れ出し、車でドライブをして、白人たちの平和な生活を見せます。

好機

ネルソン・マンデラは、コビー・クツィエ司法大臣と話し合い、南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領の承認のもとに、コビー・クツィエ司法大臣が委員長を務め、刑務所総監のヴィレムセ将軍、矯正局長官のファニー・ファン・デル・メルヴェと国家情報局長のニール・バーナードからなる委員会を設け、話し合うことを決め、ウォルター・シスル、レイモンド・ムシュラバ、アンドルー・ムランゲニとアーメド・カトラダに説明し、意見を求めます。
ウォルター・シスル、レイモンド・ムシュラバとアンドルー・ムランゲニは、ネルソン・マンデラが南アフリカ政府との交渉には反対しません。
アーメド・カトラダは、ネルソン・マンデラが南アフリカ政府との交渉に反対します。
ネルソン・マンデラは、オリヴァー・タンボに南アフィリカ政府と一つのことについて、話し合っていると伝えます。
ネルソン・マンデラは、南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領宛ての覚書を練り始めます。

話し合い

ネルソン・マンデラは、南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領の承認のもとに、コビー・クツィエ司法大臣が委員長を務め、刑務所総監のヴィレムセ将軍、矯正局長官のファニー・ファン・デル・メルヴェと国家情報局長のニール・バーナードからなる秘密委員会と話し合いを始め、ANCの歴史を説明し、武装闘争、共産党、国有化、多数支配、人種融和について話し合います。

入院生活

ネルソン・マンデラは、肺結核になり、入院し、手術し、療養し、転院し、秘密委員会と話し合いを再開し、監禁と自由の中間地点に置かれることに同意します。

中間地点

ネルソン・マンデラは、退院し、ヴィクター・フェルスター刑務所に収容され、大きな台所に、隣接した居間、奥には広い寝室、小さめの2つの寝室、裏庭にはプールがあり、料理人はスヴァルト准尉で、秘密委員会と話し合いを再開し、ANCやUDFの人々とも弁護士たちとも面会できるようにまります。

覚書

ネルソン・マンデラは、ANCの同志たちと大統領に送る覚書に話し合います。
南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領は、心臓発作で倒れ、国民党の党首を辞任します。
南アフリカの国内外でのアパルトヘイトへの圧力が高まり、国内は混乱します。
ネルソン・マンデラは、71歳の誕生日に、家族のほぼ全員をヴィクター・フェルスター刑務所に呼んで、祝います。

大統領との会見

ネルソン・マンデラは、南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領との面会の準備に万全を期し、大統領官邸”トインハイス”に行き、南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領と面会します。
南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領は、ネルソン・マンデラとの面会について、閣僚から非難され、大統領を辞職します。
フレデリック・ウィレム・デクラークが、南アフリカの大統領代行に就任し、平和の実現を目指し、対話を試みることを公約し、デモ行進に許可を与え、デモ参加者に平和的に行動することを求めます。
ネルソン・マンデラは、南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領代行に面会を求める手紙を書きます。

聞く耳を持つ人物

ネルソン・マンデラは、秘密委員に憲政促進大臣のヘリット・フィリューンが加わり、秘密委員会と話し合いを続け、政治犯の無条件で釈放を要求します。
南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、ウォルター・シスル、レイモンド・ムシュラバ、アーメド・カトラダ、アンドルー・ムランゲニ、イライアス・モツォアレディたちを釈放すると発表し、釈放し、アパルトヘイトに関する法律を廃止し、反アパルトヘイト勢力弾圧のための国家保安管理制度を解散させます。
ネルソン・マンデラは、南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領に感謝の意を伝え、手紙を書き、面会し、意見を伝えます。
南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、アパルトヘイトに関する法律を廃止し、反アパルトヘイト勢力弾圧のための国家保安管理制度を解散させます。

釈放

南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、国会で、恒例の開会演説を行い、アパルトヘイト制度を解体し、反アパルトヘイトの非合法組織に対する活動禁止措置を解除し、政治囚を釈放し、非常事態にともなう規制を撤廃し、ネルソン・マンデラを釈放します。
ネルソン・マンデラは、ヴィクター・フェルスター刑務所の門から歩いて出て行きます。

第11章 自由

うれしい喧騒

ネルソン・マンデラは、正門の四百メートル手前で、ウィニーと車を降りて、正門に向かって歩き出し、自由に向かって歩いているところを、テレビカメラに撮影させ、数百人の報道関係者、数千人の支持者に迎えられ、うれしい喧騒状態になり、力こぶしを上げると、どよめきが起き、再び車に乗り込み、ケープタウンへ向かい、獄中生活が終わり、人生が新たに始まり、ケープタウンの古い市役所にあるバルコニーから、前にあるグランドバレード広場の人々に向かって、演説し、闘いが終わったのではなく、違う形で新たに始まったばかりだと示し、白人用の郊外住宅地にある豪華な主教館へ向かい、ツツ大主教に挨拶し、オリヴァー・タンボと電話で話して、その後は、ANCが用意したびっしりと詰まったスケジュールで過ごします。

民衆と同じように

ネルソン・マンデラは、釈放された翌日、記者会見を行い、ANCの一員で、ANCの仕事を行い、武力闘争を放棄せず、政府と交渉を行い、平和の実現を目指し、アフリカ人に参政権が認められれば、国際的な制裁に対する緩和を呼びかけ、白人の果たす役割の重要性を伝え、個人的な内容も話します。
ネルソン・マンデラは、ジョハネスバーグに移動し、ANC支持者の家に泊めてもらい、ソウェトのファースト・ナショナル・バンク・スタジアム(現在は、サッカー・シティ・スタジアム)で演説を行い、一人一票の普通選挙による非差別主義の統一民主国家を目指すことを伝えます。
ネルソン・マンデラは、ウィニーと一緒に、オーランド・ウェスト八一一五番地にある家に戻り、支持者たちに囲まれ、騒ぎに巻き込まれ、良く眠れませんが、民衆の中で、民衆と同じように暮らすことを選択します。

感謝

ネルソン・マンデラは、ザンビアの首都ルサカで開催される全国執行委員会に出席し、同志たちと再会し、釈放されるまでの経緯を報告し、副議長に選出され、武装闘争の目的が達成されていないので、武装闘争を中止するのは、時期尚早だと答え、アフリカ諸国歴訪へと向かい、多くの人々と言葉を交わし、風物を目にし、珍しい料理を食べ、記者会見を行い、停戦の用意があることを発表し、改革を推し進める南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領を後押しして、ストックホルムに行き、オリヴァー・タンボを見舞い、イギリスのロンドンにあるウェンブリー・スタジアムで開催される「Nelson Mandela: An International Tribute for a Free South Africa」に出席し、世界60か国以上に中継され、反アパルトヘイト勢力に向け、労力、支持と連帯への感謝の言葉を述べます。

首長との関係

ズール王の血を引いていて、クワズールー・ホームランドの首相で、インカタ自由党の党首でもあるマンゴスツ・ブテレジ首長は、武装闘争に反対し、南アフリカに対する国際的な制裁にも反対し、ANCと対立します。
マンゴスツ・ブテレジ首相の支持者のズールー族は、ANC支持者のズールー族に宣戦布告をして、戦争になります。
ネルソン・マンデラは、ダーバンにあるキングス・パークへ行き、マンゴスツ・ブテレジ首相の支持者とANC支持者に「あなたがたの銃を、ナイフを、バンガ刀を、海へ投げ捨てなさい」という演説をしますが、対立を解消できません。
ネルソン・マンデラを含むANCの会員は、マンゴスツ・ブテレジ首相と面会する場所等でも対立し、面会することもできません。
ネルソン・マンデラは、単身でマンゴスツ・ブテレジ首相に直接面会しようとしますが、ANCが拒否権を行使し、マンゴスツ・ブテレジ首相に会えません。

交渉

南アフリカの警察隊が、予告もなく、セボケング居住区からフェリーニヒングまで行進していたANCのデモ行進に発砲し、12人が死亡し、数百人が負傷します。
ネルソン・マンデラたちは、南アフリカ政府との公式な会談は棚上げし、ひそかに南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領と会談します。
ネルソン・マンデラたちは、フルーテ・スキールという大邸宅で南アフリカ政府と3日間の第一回の会議を行い、歴史認識や政治囚と政治亡命という定義について、話し合い、フルーテ・スキール文書を作成し、交渉を平和的に進め、非常事態宣言を解除し、暫定政府を組織し、制憲会議の運営指針を定め、交渉会議を創設することを提案します。

欧米歴訪

ネルソン・マンデラは、生まれ故郷のクヌに行き、母親のお墓参りをして、ロベン島へ行き、政治囚に南アフリカ政府の恩赦を受け入れるように説得します。
ネルソン・マンデラは、フランス、スイス、イタリア、オランダ、イギリス、アメリカ、カナダを訪れ、華々しいもてなしを受け、演説を行い、首脳と会談し、南アフリカでアパルトヘイト制度が完全に解体されるまで、制裁継続をもとめます。

戦闘停止

ネルソン・マンデラは、ウガンダ、ケニア、モザンビークを訪問し、南アフリカに戻ると、南アフリカの暴動が激化し、非常事態宣言が解除されましたが、ヴュラ作戦という政府転覆計画を企てたとしてANCの会員が逮捕され、南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領と緊急面会し、押収した共産党による政府転覆計画というヴュラ作戦の資料を読み、ヴュラ作戦について全く知らず、ジョー・スロヴォを呼び出し、ヴュラ作戦が立ち消えになっていると話を聞いた上で、再び南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領と面会し、警察が立ち消えになっているヴュラ作戦の資料を悪用し、騙されていることを伝え、政府転覆計画ないとこを示すために、全国執行委員会でジョー・スロヴォが自発的な武装闘争の停止を提案を示し、弁護し、議論の上で、承認され、南アフリカ政府と武装闘争を停止し、政治囚を釈放し、治安維持特報を見直すプレトリア文書に著名します。
公安警察関係者は、南アフリカ政府とANCの和平交渉を妨害するために、インカタ党員にANCの会員を虐殺させます。
ネルソン・マンデラは、南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領に訴えても、次々と虐殺事件が起き、再び武器を手にするかもしれないと発言します。

暴力

ANC議長のオリヴァー・タンボは、南アフリカに帰国し、世界の情勢が制裁の緩和に向かっていると演説し、制裁の続行を主張する人々から怒りを買います。
ネルソン・マンデラは、南アフリカ政府との交渉が民衆と乖離し、ANCの会員に情報を提供していないと批判され、分かりやすくふるまい、交渉の進展を伝えようと決意します。
ネルソン・マンデラは、流血事件を歯止めをかけるために、インカタ党のマンゴスツ・ブテレジ党首と会議し、行動規範を含む協定に著名します。
協定は守られず、流血事件が続きます。
ネルソン・マンデラは、流血事件を歯止めをかけるために、インカタ党のマンゴスツ・ブテレジ党首と再び会議し、協定に著名します。
協定は守られず、流血事件が続きます。
ネルソン・マンデラたちは、南アフリカ政府が流血事件を助長していると指摘し、南アフリカ政府に国防大臣と法務治安大臣の解任、対破壊活動秘密部隊の解体、不法行為を調査する独立委員会の設置、武器の携帯禁止等を求め、期限を定め、以降は対話を停止すると伝えます。
ネルソン・マンデラは、ANCの年次総会で満場一致で、ANC議長に選ばれ、暫定政権を作る必要があると演説し、ANCを非合法の地下解放活動を合法的な大衆運動に転換し、南アフリカ国外に亡命していた古くからのANCの会員と南アフリカ国内にとどまっていた新しいANCの会員とを一つの組織にまとめ、異なる意見を組織として統一し、70万人もの新会員を獲得します。
国民党は、非白人にも門戸を開き、カラードやインド人を取り込み、ANCと対立します。

生き詰まり

ANCのネルソン・マンデラたちは、第一回民主南アフリカ会議(CODESA)へ向けて準備委員会で、週一回、南アフリカ政府と選挙、憲法、制憲議会、暫定政府などの問題について話し合い、基本原則について同意した上で、第一回民主南アフリカ会議(CODESA)に参加し、統治される者の総意によって権威と正当性が授けられ、新しい憲法を起草する公選制議会への道を開き、国民の総意による暫定政府の設立を呼びかけ、”趣旨宣言”を採択し、第二回民主南アフリカ会議(CODESA)へ向けて、自由な政治環境の創設、ホームランドの将来、南アフリカ放送協会(SABC)の改組、連邦制などの憲法上のさまざまな原則に関する調査と暫定政府の創設と機能に関する作業部会が作られます。
南アフリカののフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、最後の演説で、ANCを批判します。
ANC議長のネルソン・マンデラは、怒り、演壇に上がり、反論をします。
南アフリカののフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、重要な補欠選挙で負け、改革と交渉の政策に疑問を投げかけられ、全国の白人による国民投票を行い、改革と交渉の政策に対する信を問い、69%の支持を得て、改革と交渉を進めることになります。

別居

ネルソン・マンデラは、妻であるウィニーとの別居を記者会見を開いて、発表します。
ネルソン・マンデラは、妻に対する夫の役目、子供に対する父親の役目を果たさず、闘争を選び、自由の戦士として生きて、神話となった結果です。

和解の記録

ANCのネルソン・マンデラたちは、第二回民主南アフリカ会議(CODESA)に参加し、南アフリカ政府が白人の権力を保持するために提案を行いますが、二段階の移行期間を含む仮協定を作り上げ、ANC議長のネルソン・マンデラと南アフリカののフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領で話し合い、建設的な演説を行いますが、ANCと南アフリカ政府が解決に向けて、作業をするために、会談を継続することで、合意し、波状大衆行動という方針に基づき、スト、デモ、ボイコットから始め、全国ストを行います。
インカタ党員は、本格的に武装し、ボイバトンのヴァール居住区のANCの会員を虐殺します。
ANCの会員は、東ケープのシスカイというホームランドの首都ビショヘへのデモ行進を行い、兵士から銃撃を受けて、虐殺されます。
ANC議長のネルソン・マンデラは、南アフリカののフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領と会談し、警察の行動を監視する独立機関を設けること、集会への武器の携行を禁じ、選挙による一院制の制憲議会に同意した”和解の記録”に著名をします。
ジョー・スロヴォは、国民党との期限付き権力分有を含む国民統一政府の設立、公安関係者の恩赦、公務員との契約の尊重などを提案します。
ANCのネルソン・マンデラたちは、ANCの全国執行委員会でジョー・スロヴォの提案を承認し、南アフリカ政府と秘密交渉を開始し、5年間の総選挙で5%以上の票を得たすべての政党が得票率に応じて内閣に参加し、5年間の期間を終えると単純な与党政府になるという国民統一政府の原則、連立内閣、暫定執行評議会について合意し、発表します。

二人の死

ANC議長のネルソン・マンデラは、生まれ故郷のクヌに、広くて、快適なヴィクター・フェルスター刑務所で住んでいた家と同じ間取りで、別荘を建て、休日を過ごします。
南アフリカ共産党書記長で、MKの元参謀で、白人労働者が住む郊外住宅地で人種融和に努めていたクリス・ハニが、ボクスバーグにある自宅前で、戦闘的な右翼組織の一員のクライヴ・ダービー・ルイスにより、銃殺されます。
ANC議長のネルソン・マンデラは、国民の動揺を鎮めるために、南アフリカ放送のメディアで話し、平和と交渉の歩みを止めないように呼びかけ、一週間連続で大衆集会とデモの日程を組み、行います。
オリヴァー・タンボは、脳卒中の再発による合併症のために亡くなります。
ANC議長のネルソン・マンデラは、ソウェトのスタジアムで大衆集会を開催し、多くの外国政府の高官が参加し、オリヴァー・タンボと最後のお別れをします。

キャンペーン

多党派フォーラムは、世界貿易センターで、南アフリカで最初の、全国的な、人種差別のない、一人一票制による選挙の実施を1994年4月27日とすると投票で決め、400人の議員からなる制憲会議が誕生し、新しい憲法を起草し、国会として機能し、大統領を選出することに決めます。
ANC議長のネルソン・マンデラは、南アフリカののフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領と共にノーベル平和賞を受賞します。
ANCのネルソン・マンデラたちは、選挙に向けて、キャンペーンを始め、2000万人以上の有権者が初めて選挙に行けるように、有権者への教育を手助けする要員を10万人以上養成し、有権者の期待、不安、意見や苦情に耳を傾けるために人民フォーラムを作り、出席し、誰もが住みたい南アフリカを実現するという未来のためのメッセージを伝え、”再建・開発プログラム”という文書を作り、政策のあらましを盛り込み、選挙運動のスローガンを作りますが、できないことについても伝え、白人には南アフリカに残り、新しい未来を築こうと訴え、投票の仕方を教えます。

横槍

ANCのネルソン・マンデラたちは、全国的な、人種差別のない、一人一票制による選挙に向けて、暫定執行評議会で活動を始めます。
インカタ党を率いるマンゴスツ・ブテレジ首長は、暫定執行評議会に参加せず、選挙に抵抗運動を始めます。
マンゴスツ・ブテレジ首長の支援を受けたズウェリティニ王は、クワズールーの自治権を要求し、クワズールー領内の住民に選挙に棄権するように、仕向けます。
白人右翼勢力は、フォールクスタートの建国を求めて、選挙に反対します。
インカタ党、保守党、アフリカーナー民族戦線とボブタツワナ・ホームランドは、暫定執行評議会に参加しません。
ANC議長のネルソン・マンデラは、ダーバンで、インカタ党を率いるマンゴスツ・ブテレジ首長に会い、国際的な調停に委ねることを条件に、選挙に仮登録することに同意します。
インカタ党の支持者は、選挙活動を行うANCの会員を虐殺します。
ANCの会員は、ダーバンで、大規模なデモ行進を行います。
インカタ党の支持者は、槍や投げ棒を振りかざしながら、ジョハネスバーグで、練り歩き、ANCの本部を襲撃し、警備団と殺戮を行います。
ANC議長のネルソン・マンデラは、国際的な調停団を招きます。
マンゴスツ・ブテレジ首長は、国際的な調停により、投票日が変更されないことを知ると、国際的な調停団を会わずに、選挙に参加することにします。
ANC議長のネルソン・マンデラは、ボブタツワナ・ホームランドのルーカス・マンゴベ大統領と何度も会います。
ボブタツワナ・ホームランドの労働者、学生や公務員は、選挙への不参加を求め、デモやストを始め、軍がクーデターを起こし、ルーカス・マンゴベ大統領を追放し、選挙に参加することになります。
ANC議長のネルソン・マンデラは、南アフリカののフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領とテレビ討論を行います。

権力委譲

選挙の投票が始まります。
ANC議長のネルソン・マンデラは、ナタール州ダーバンのすぐ北にあるイナンダ居住区にあるオーランゲ高校で、ANCに投票します。
南アフリカの国民は、長い列を作り、投票を行います。
ANC議長のネルソン・マンデラが率いるANCは、62.6%の得票数を獲得し、400議席中の252議席を与えられますが、三分の二には達せず、他の党と協力して、憲法を起草することになります。
南アフリカののフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、権限委譲の演説をします。
ANC議長のネルソン・マンデラは、ジョハネスバーグのカールトン・ホテルの大広間で行われている、勝利の祝典で、演説します。

長い道のり

75歳になったネルソン・マンデラは、南アフリカ共和国大統領に就任し、プレトリアのユニオンビル前の野外劇場で、就任式を行い、世界中から集まった来賓と注目している全世界に向かって、演説をします。
白人が黒人の国歌である「ンコシ・シケレリ・アフリカ」を歌い、黒人が白人の国歌である「ディ・ステム」を歌います。
南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ大統領は、これまでの出来事、恐れを克服した人間の勇気と自由への長い道のりを思い出し、自由には責任が伴い、他人の自由を尊重し、支え合うような生き方をするという自由への長い道のりは、まだ続くと思います。

感想とまとめ

自由が奪われた刑務所の中でさえ、自由を求める闘争を続けるという不屈の精神力がすごいです。
刑務所から釈放されても、自由を求める闘争は続きます。
本当に自由への道は、長いです。
新しい国を創り出す過程が理解できたので、良かったです。
世界中のどの国にでも、日本にでも、少数の支配者と多数の被支配者という関係は、存在します。
少数の支配者に対して、多数の被支配者がどうすべきなのかについて、考えさせてくれました。
少数の支配者が権力や暴力を行使するなら、多数の被支配者も権力や暴力を行使するしかないという結論も、実話だけに納得させられます。
日本の教育のように先生が教えて、生徒が学ぶだけでは、ネルソン・マンデラのように被支配者から支配者にはなれません。
自ら、独学で学ぶことをしなければ、新しい、未知のことには、対応できません。
ネルソン・マンデラが行った数々の演説の一部が掲載されていますが、読んで価値のある演説です。
白人とアフリカ人が殺し合うのは悲しかったが、アフリカ人とアフリカ人どうしが殺し合うのはさらに悲しかったです。
「自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝(上)」と「自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝(下)」を読んで、ブログ記事にするのは大変でした。
皆さんのお役にたてれば、うれしいです。
ネルソン・マンデラは、71歳で釈放され、75歳で大統領になりました。
還暦の自分も、まだこれからだと思い知らされました。

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