「自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝(上)」あらすじと感想

「夢をかなえるゾウ0  ブラックガネーシャと夢を食べるバク」「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養」の中で、出てきた「ネルソン・マンデラ」について知りたいと感じました。
映画「ネルソン・マンデラ」映画「遠い夜明け」映画「マンデラの名もなき看守」映画「インビクタス/負けざる者たち」を鑑賞し、理解するために、この本を読むことにしました。

ネルソン・マンデラは、人種差別と闘ったガンジー(映画「ガンジー」、本「ガンディー 平和を紡ぐ人」)とキング牧師(映画「グローリー/明日への行進」)と比べてみると、より理解が深まります。
自由の憲章が掲載されているのも良かったです。

舞台となる場所

本書の最初に、舞台となる場所が記載されています。

ネルソン・マンデラたちが投獄されたロベン島、コーサ語ではエシクィティニと呼ばれる島で、流刑地です。

トランスカイは、ネルソン・マンデラが生まれた場所で、ケープタウンの東1,300km、ジョハネスバーグ(ヨナネスブルグ)から南へ900km、カイ川とナタール州境の間にあり、北には険しいいドラケンスベルク山脈、東にインド洋があり、スイスほどの面積があり、南アフリカの東ケープ州東部に存在したバントゥースタン(アフリカ人の自治区)で、中心地はウタムタで、コーサ族、パソト族と少数の白人が住んでいました。

ネルソン・マンデラは、トランスカイの中心地であるウタムタの近郊にあるムバシェ川沿いのムヴェゾ(Mvezo)で生まれました。
ネルソン・マンデラの父親は、ムヴェゾの首長でしたが、イギリス人の出頭命令に逆らい、ムヴェゾの首長という地位も財産も失いました。
ネルソン・マンデラの母親は、生まれて間もないネルソン・マンデラを連れて、ムヴェゾの北にあるクヌ(Qunu)へ、引っ越して、親戚や友人からの援助で暮らしました。
ネルソン・マンデラは、9歳の時に、ネルソン・マンデラの父親が死ぬまで、ネルソン・マンデラの母親と一緒にクヌで過ごします。

デンブランドは、デンブ族の住んでいる場所です。

ムケケズウェニは、デンブランドの仮の首都であり、デンブ族の王家が住んでいる場所で、メソジスト教会の布教の拠点で、近代化され、西洋化され、ネルソン・マンデラが9歳から18歳まで育った場所です。

ネルソン・マンデラは、エングコボ地区に向かう途中で渡ったムバシェ川です。

ネルソン・マンデラは、デンブ族の摂政の相談役になるために、トランスカイのエングコボにある最古のメソジスト派布教区にある1825年に創立されたクラークベリー寄宿学校に入学し、学校の総長であるC・ハリス師に学び、アフリカ式の生活様式ではない、西欧式の生活様式で生活し、マトナとうい女性友達もでき、3年かかる中等教育課程を2年で卒業します。

ネルソン・マンデラは、フォートボーフォートにあるメソジスト派の高等教育ヒールタウンに入学し、卒業し、アリス市にあるフォートヘア大学へ入学します。

ジョハネスバーグ(ヨハネスブルグ)は、南アフリカで最大の都市です。
ネルソン・マンデラは、アレクサンドラ居住区に住んでいました。

ネルソン・マンデラが入学したジョハネスバーグ(ヨナネスブルグ)中北部のブラームフォンテインにあるウィットウォーターランド大学です。

ウォルター・シスルが住んでいたソウェト居住区(南西居住区)にあるオーランドです。

ネルソン・マンデラが、バス料金の値上げに抗議し、バス・ボイコットの大行進に参加したアレクサンドラです。

ブルームフォンテインで開催されたANC年次総会で、ウィリアム・ンコムを委員長とするANC青年同盟の設立を提案し、承認されました。

ネルソン・マンデラが住んでいたホートンにあった家は、「ネルソン・マンデラ国立博物館」になっています。

J.S.モロカ博士が住んでいるオレンジ自由州のブルームフォンテインです。

ネルソン・マンデラが交通事故を起こしたクルーンスタットです。

1952年4月6日、不服従運動を起こしたジョハネスバーグ(ヨナネスブルグ)とブレトリアです。

1952年4月6日、不服従運動を起こし、1952年6月22日、”有志の日”という集会をし、ネルソン・マンデラが群衆の前で演説したナタール州ダーバンです。

1952年4月6日、不服従運動を起こしたポートエリザベスとケープタウンです。

1952年6月22日、初めての不服従運動を起こし、ナナ・シタが駆け付け、ネルソン・マンデラは現地の行政官に手紙を渡し、有志達が不服従運動を起こした、ヴァール川(バール川)の向こう側のトランスヴァール州です。

不服従運動に参加した東ケープ州です。

不服従運動に参加した西ケープ州です。

不服従運動に参加しましたが、ブテレジ首相の支持者のズールー族は、ANC支持者のズールー族に宣戦布告をして、戦争になるナタール州です。

ダイヤモンド鉱山が発見され、第二次ボーア戦争が起こり、Z・K・マシューズ教授の出身地のキンバリーです。

ソフィアタウン、ウェストディーンととニュークレアです。

自由の憲章が採択されたジョハネスバーグのクリップタウンです。

ネルソン・マンデラが、ウィニー・ノムザモを見かけたバラグワナト病院です。

ウィニー・ノムザモの出身地で、ネルソン・マンデラとウィニー・ノムザモの結婚式を行ったポンドランドのビザナ(Bizana)です。

1960年3月21日、大虐殺が行われたシャープヴィルのあるフェレーニヒングです。

ネルソン・マンデラが潜伏し、妻子と会っていたリリーズリーフ農場があるヨハネスバーグ郊外のリヴォニア(RIVONIA)です。

ネルソン・マンデラたちが招待され、出席する会議が開催されるエチオピアの首都であるアディスアベバ(アジス・アベバ)です。

ネルソン・マンデラたちが南アフリカを自動車で出国し、潜伏した、ボツナワにある南アフリカとの国境にあるロバツェです。
1962年10月、非合法組織とされているANCが年次総会を行い、MKをANCの闘争の軍事部門として、認めます。

ネルソン・マンデラたちがロバツェから飛行機で移動した、ザンビア、ジンバブエ、ボツナワとナミビアの4つの国境を接しているカサネです。

ネルソン・マンデラたちがカサネから飛行機で移動した、タンザニアのムベヤです。

ネルソン・マンデラたちがタンザニアのムベヤから飛行機で移動した、タンザニアの最大の都市であるダル・エス・サラームです。
エチオピアの首都であるアディスアベバ(アジス・アベバ)行きの飛行機が飛んでいる場所です。

オリヴァー・タンボが出席する独立国会議が開催されるナイジェリアのラゴスです。
ネルソン・マンデラたちがダル・エス・サラームから飛行機で移動し、オリヴァー・タンボと合流したガーナのアクラです。

ネルソン・マンデラたちがガーナのアクラから飛行機で移動した、スーダンのハルツームです。

ネルソン・マンデラたちは、スーダンのハルツームから飛行機で移動し、会議が開催されるエチオピアの首都であるアディスアベバへ向かいます。

ネルソン・マンデラたちがアフリカには西洋文明に匹敵するような文明がないという白人に対すする異議を唱えるために証拠固めを行ったエジプトのカイロです。

ネルソン・マンデラたちが兵士の訓練と武器の調達資金を得たチェニジアのチェニスです。

ネルソン・マンデラたちがアルジェリアの対仏レジスタンスの歴史について学んだモロッコのラバトとアルジェリアとの国境近くにあるウージダ(ウジュダ)です。

ネルソン・マンデラたちが立ち寄ったシエラレオネの首都フリータウンとリベリアです。

ネルソン・マンデラたちが立ち寄ったセネガルのダカールです。

ネルソン・マンデラたちが観光し、オリヴァー・タンボの家族が住むイギリスの首都ロンドンです。

ウィニーが流刑にされたジョハネスバーグから南西に400kmほど行った、ブルームフォンテインのすぐ北にあるブランドフォートです。

ザンビアの首都ルサカで、非合法化されたANCの本部があります。

1万5千人ものアフリカ人学生達が南アフリカ政府の決定に抗議するために、蜂起し、警察が発砲し、暴動に発展したソウェトです。

ネルソン・マンデラたちがロベン島から移送されたポールスモア重警備刑務所です。

シンジ・マンデラが、1985年2月10日、父であるネルソン・マンデラの演説の原稿を代読したソウェトにあるジャブラニ・スタジアムです。

ネルソン・マンデラが、肺結核で、入院したステレンポシェ大学構内にあるタイガーバーグ病院です。

ヴィクター・フェルスター刑務所(現在は、ドラケンステイン刑務所)です。
ヴィクター・フェルスター刑務所は、ケープスタンの南東数キロにあり、緑の芝生付きのこぎれいな家々が立ち並ぶトカイという白人用郊外住宅地のはずれにあり、北はコンスタンシアバージ山脈、南は何百エーカーというブドウ畑に挟まれ、ケープ州のとても美しい風景の真っただ中に位置しています。
ネルソン・マンデラは釈放され、ヴィクター・フェルスター刑務所の門から歩いて出て行きます。

南アフリカの大統領官邸があるユニオンビルです。

釈放後、ネルソン・マンデラが最初に演説を行ったケープタウンのグランドバレード広場です。

ネルソン・マンデラがジョハネスバーグで演説を行ったソウェトのファースト・ナショナル・バンク・スタジアム(現在は、サッカー・シティ・スタジアム)です。

ネルソン・マンデラが出席し、「Nelson Mandela: An International Tribute for a Free South Africa」が開催されたイギリスのロンドンにあるウェンブリー・スタジアムです。

ネルソン・マンデラが「あなたがたの銃を、ナイフを、バンガ刀を、海へ投げ捨てなさい」という演説を行ったナタール州ダーバンにあるキングス・パークです。

1990年3月26日、警察隊が、予告もなく、セボケング居住区からフェリーニヒングまで行進していたANCのデモ行進に発砲し、12人が死亡し、数百人が負傷します。

民主南アフリカ会議(CODESA)が行われたヤン・スマッシュ空港(現在は、O・R・タンボ国際空港)の近くにある世界貿易センターです。

1992年6月17日、インカタ党員は、本格的に武装し、ANCの会員を虐殺したボイバトン(BOIPATONG)のヴァール居住区です。

1992年9月7日、ANCの会員が、虐殺された東ケープのシスカイというホームランドの首都ビショです。

ネルソン・マンデラが投票を行ったナタール州ダーバンのすぐ北にあるイナンダ居住区にあるオーランゲ高校です。

ネルソン・マンデラが勝利の祝典で演説したジョハネスバーグのカールトン・ホテル(現在のカールトン・センター)です。

ネルソン・マンデラのために南アフリカ共和国大統領の就任式が行われたプレトリアのユニオンビル前の野外劇場です。

アメリカ合衆国のルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が会談したプラセンティア湾です。

登場人物

登場人物は、非常に多く、全て取り上げることはできないので、主な登場人物についてまとめます。

登場人物

ネルソン・マンデラ

ネルソン・マンデラの年表「自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝(上)」の目次「自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝(下)」の目次を参照してください。

ガドラ・ヘンリー・ムバカニスワ

ムヴェゾの首長で、テンブ王家の相談役で、デンブ王のジョンギリズウェが亡くなると、ジョンギンタバ・ダリンディエボを摂政にして、デンブ王が政府高官との重要な会議にも出席し、デンブ王が旅行する時には随行し、コーサ族史の語り部で、読み書きはできないが、弁士としては評判が高く、裕福な貴族でしたが、英国人の行政官に従わず、身分と財産を失い、ネルソン・マンデラの父親で、4人の妻、本妻、右手の妻、左手の妻、わき家の妻がいて、4人の息子、9人の娘がいて、ネルソン・マンデラに小学校に通わせることを決めて、ズボンをはかせて、肺の病気で病死します。

ノセケニ・ファニー

アマムベンケ族の娘で、ガドラ・ヘンリー・ムバカニスワの右手の妻で、ネルソン・マンデラの母親で、夫が身分と財産を失い、家計が苦しくなると、ネルソン・マンデラを連れて、クヌという町に引っ越して、友人や親戚からの援助を受けて、炊事場、寝室、倉庫を切り回し、生活し、ムベケラ兄弟の助言を受け入れ、クリスチャンに改宗し、ファニーという洗礼名を受け入れ、ジョージ・ムベケラの「おたくの子供は賢い子だから、学校に通わせるべきだ」という助言を父親に相談し、夫の死後、クヌからネルソン・マンデラをムケケズウェニに連れて行き、ネルソン・マンデラをデンブ族の摂政であるジョンギンタバ・ダリンディエボに預けて、クヌに戻ります。

テンピ・マンデラ

ネルソン・マンデラの長男で、母親はエヴリンで、1969年7月、25歳で、ケープタウンで、自動車事故で亡くなります。

マカジウェ・マンデラ

ネルソン・マンデラの長女で、母親はエヴリンで、生後9ヶ月で亡くなります。

マハト・マンデラ

ネルソン・マンデラの次男で、母親はエヴリンです。

マカジウェ・マンデラ

ネルソン・マンデラの次女で、母親はエヴリンです。

ゼナニ・マンデラ

ネルソン・マンデラの三女で、母親はウイニーです。

シンジ・マンデラ

ネルソン・マンデラの四女で、母親はウイニーで、1985年2月10日、父であるネルソン・マンデラの演説の原稿をソウェトにあるジャブラニ・スタジアムで、代読します。

エヴリン・マセ

トランスカイのウムタタから少し西に行ったところにあるエンコボ村の出身で、幼いころに両親を亡くし、ウォルター・シスルの家で、ネルソン・マンデラに出会い、おとなしく、愛らしい女性で、看護師で、ネルソン・マンデラの最初の妻ですが、離婚します。

ウィニー・ノムザモ

本名はノムザモ・ウィニフレッド・マディキゼラですが、通称はウィニーです。
学校の校長を辞めて実業家になったC・K・マディキゼラの11人いる子供の6番目の子供で、洗礼名がノムザモです。
ノムザモは、奮闘する者、試練をくぐる者という意味で、預言的です。
出身地はポンドランドのビザナで、トランスカイの中です。
アマングティヤナ族のポンド氏族に属し、曾祖父のマディキゼラは、ナタールの有力な首長で、裕福な家庭に生まれ、ジョハネスバーグのヤン・ホフマイヤー社会福祉学校を卒業し、黒人女性ソーシャルワーカー第一号として、バラグワナト病院に勤務し、マンデラ・アンド・タンボ法律事務所へ法律問題の相談に来て、ネルソン・マンデラに出会い、結婚します。
ネルソン・マンデラが南アフリカ大統領に就任後、芸術文化科学技術省の副大臣になり、貧困者救済基金の会長になり、貧困者救済基金を着服し、自らの事業に横流しをして、芸術文化科学技術省の副大臣を解任され、殺人事件に関わり、愛人問題が明るみに出て、1996年、ネルソン・マンデラと離婚します。

ヤン・クリスティアーン・スマッツ(通称、スマッツ首相)

1919年9月3日、南アフリカの首相に就任します。
1924年6月30日、総選挙で統一党は南アフリカ党は統一党に敗戦し、首相を辞任します。

親英派のオランダ系白人で、第二次世界大戦中には、対ドイツ参戦を主張します。
南アフリカがドイツに宣戦を布告し、南アフリカの首相に再任します。
1939年9月5日、南アフリカの首相に就任します。
1948年7月4日、南アフリカの総選挙で、統一党に敗戦し、首相を辞任します。

ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク

1924年6月30日、南アフリカの首相に就任します。
1939年9月5日、南アフリカの首相を辞任します。
南アフリカがドイツに宣戦を布告し、南アフリカの首相に退任します。

ダニエル・フランソワ・マラン(通称、マラン首相)

オランダ系白人のアフリカーナで、オランダ改革派教会の教職者で、牧師になり、白人であるアフリカーナは神に選ばれた人種で、アフリカ人、インド人とカラードは服従する人種であると唱え、1918年総選挙で国民党から立候補し当選し、議員になります。
1948年7月4日、南アフリカの総選挙で、アパルトヘイトを支持する国民党がアパルトヘイトを支持しない統一党に勝利し、南アフリカの首相に就任します。
1954年10月30日、南アフリカの首相を引退します。

ヨハネス・ストレイダム

1954年11月30日、南アフリカの首相に就任します。
1958年8月24日、南アフリカの首相を辞任します。

ヘンドリック・フルヴールト(通称、フルヴールト首相)

1958年9月2日、南アフリカの首相に就任し、アパルトヘイトに関する法制化を強化し「アパルトヘイトの建設者」と呼ばれています。
1966年9月6日、白人の反アパルトヘイト主義者である守衛が、南アフリカのヘンドリック・フルヴールト首相を刺殺します。

バルタザール・フォルスター

1966年9月13日、南アフリカの首相に就任し、アパルトヘイトを推し進めます。
1978年10月2日、南アフリカの首相を辞任し、ピーター・ウィレム・ボタに首相を譲ります。
1978年10月10日、南アフリカの大統領に就任し、アパルトヘイトを推し進めます。
1979年6月4日、欧米諸国に対する秘密工作費の出所や使途というスキャンダルにより、辞任します。

ピーター・ウィレム・ボタ(通称、ボタ首相、ボタ大統領)

1978年10月9日、南アフリカの首相に就任し、国際世論を無視して、アパルトヘイトを推し進め、マラン国防相が設立した市民協力局やユージーン・デコック警察大佐が指揮する死の部隊のファルークプラスなどが暗躍し、数千の人々が裁判なしに拘留されて、拷問を受けて殺害します。
1984年9月3日、南アフリカの首相を辞任し、大統領に就任します。
1985年1月31日、国会の会議で「政治的な道具として暴力を用いることを無条件で放棄するなら、政治囚は釈放する」と演説します。
1989年7月5日、ネルソン・マンデラとケープタウンで面会します。
1989年8月15日、南アフリカの大統領を辞任します。

フレデリック・ウィレム・デクラーク(通称、デクラーク大統領)

1989年8月15日、南アフリカの大統領に就任し、ANC、PACとSACPの非合法化を解除し、ネルソン・マンデラたちを釈放し、ノーベル平和賞をネルソン・マンデラと共に授与されます。
1994年5月10日、南アフリカの大統領を辞任し、南アフリカの副大統領に就任します。
1996年6月30日、南アフリカの副大統領を辞任します。

ジョンギンタバ・ダリンディエボ

デンブ王のジョンギリズウェが亡くなった後、ガドラ・ヘンリー・ムバカニスワの推薦で、デンブの摂政になり、ガドラ・ヘンリー・ムバカニスワが亡くなると、息子のネルソン・マンデラの後見人兼後援者になり、ネルソン・マンデラを息子として育て、1942年の冬に亡くなります。

ノーイングランド

ジョンギンタバ・ダリンディエボの妻で、ネルソン・マンデラを育てた人です。

ウォルター・シスル

トランスカイ出身で、小学生程度の教育しか受けていませんが、上手に英語を話すことができ、妻はアルベティナで、アフリカ人向け物件を扱う不動産事務所を経営し、共産党員で、地域の指導者で、ANCに加入し、ネルソン・マンデラをレイザー・サイデルスキー・エイデルマン弁護士事務所に推薦し、ネルソン・マンデラと共に、ANC青年同盟の設立を提案し、承認され、ANC青年同盟の会計に選出され、ANCの書記長に就任し、ルーマニアのブカレストで開かれる平和と友情のための世界青年学生大会に招待され、出席し、中国に行き、武装闘争用の武器の供給を依頼しますが、断れれ、南アフリカに帰国し、”自由の憲章”を起草するため人民会議協議会の合同書記になり、書記局員に選ばれ、反逆罪で起訴され、無罪になり、民族の槍(通称、MK)の最高司令部の一員で、リリーズリーフ農場で逮捕され、釈放され、逮捕され、保釈され、地下に潜行して、闘争の指揮を執り、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で有罪になり、終身刑を受けて、ロベン島で服役し、ロベン島内のANCの最高機関の一人になり、ポールスモア重警備刑務所へ移送され、釈放され、第一回の南アフリカ政府との交渉に参加し、ANCの副議長になり、2003年5月5日に亡くなります。

レイザー・サイデルスキー

ユダヤ人で、人種差別をせず、ウィットウォーターズランド大学を卒業し、ジョハネスバーグで最大手のレイザー・サイデルスキー・エイデルマン弁護士事務所を経営し、ネルソン・マンデラを助手として雇い、法律について教え、政治について注意するように助言します。

ガウル・ラデベ

ネルソン・マンデラと同じレイザー・サイデルスキー・エイデルマン弁護士事務所で働く、ネルソン・マンデラより10歳年上の黒人で、英語、ソト語、ズールー語を話すことができ、自分の意見を持ち、弁術論も身に付け、共産党員で、ANCの一員で、西部原住民居住区の”諮問委員会”の一員で、気骨があり、自信家で、ネルソン・マンデラを導き、バス・ボイコットのリーダーの一人として活躍し、ネルソン・マンデラを実務修正生となれるように、レイザー・サイデルスキー・エイデルマン弁護士事務所に辞表を提出し、辞めます。

ナット・ブレグマン

ネルソン・マンデラと同じ弁護士事務所で働く、ネルソン・マンデラと同年配の白人で、共産党員で、ネルソン・マンデラの友人で、ネルソン・マンデラを共産党に入党させようとします。

アントン・レンベデ

ナタール州のズールー族の農民の出身で、アメリカ系アダムズ・カレッジで学び、教員の資格を得て、文学修士号と法学士号を持ち、ANCの創設者の一人であるピクスリー・カ・セメ博士と共同で法律事務所を経営し、ウォルター・シスルの家で、ネルソン・マンデラに出会い、理想主義で、劣等意識を障害であると考え、自主独立と民族自決を支持し、アフリカニズムと名付け、ネルソン・マンデラと共に、ANC年次総会に参加し、ANC青年同盟の設立を提案し、承認され、ANC青年同盟の議長に選出されますが、33歳で病死します。

A・ピーター・ムダ

自制心が強く、几帳面で、具体的で、科学的で、実用主義で、ウォルター・シスルの家で、ネルソン・マンデラに出会い、ネルソン・マンデラと共に、ANC年次総会に参加し、ANC青年同盟の設立を提案し、承認され、ANC青年同盟の執行委員に選出され、アントン・レンベデの死後、ANC青年同盟の議長になり、Z・K・マシューズ教授とゴドフリー・ピチェをANC青年同盟の顧問に迎え、穏健な民族主義で、白人をひとりひとり憎むことはなく、共産党にも寛容です。

オリヴァー・タンボ

トランスカイの一部であるポンドランドのビザナ出身で、ジョハネスバークのセントピーターズ校の優等生で、穏やかで客観的で、信仰心も厚く、フォートヘア大学でネルソン・マンデラに出会い、ウォルター・シスルの家で、ネルソン・マンデラと議論をかわし、ネルソン・マンデラと共に、ANC年次総会に参加し、ANC青年同盟の設立を提案し、承認され、ANC青年同盟の書記に選出され、ANCの全国執行委員に就任し、コヴァルスキー・タッチ法律事務所に勤め、退職し、ネルソン・マンデラと共にマンデラ・アンド・タンボ法律事務所を開設し、反逆罪で起訴され、証拠不十分で釈放され、”自由の憲章”を起草するため人民会議協議会の書記局員を引き継ぎ、反逆罪で起訴されますが、釈放され、非常事態宣言が宣告される前に、南アフリカを出国し、ANCの国外での活動を行い、イギリスに住んでガーナ、イギリス、エジプト、タンガニーカにANCの事務所を開き、その他多くの国々との貴重な連絡の足掛かりを作り、アルーバート・ルツーリ首長の死後、ANCの議長代行になり、選出されてANCの議長になり、病気になり、ストックホルムで療養し、南アフリカに帰国し、世界の情勢が制裁の緩和に向かっていると演説し、1993年4月24日に脳卒中の再発による合併症のために亡くなります。

アーメド・カトラダ

南アフリカでインド系移民として生まれ、高校生で、アジア人土地保有法に反対し、消極的抵抗を行い、投獄され、トランスヴァール・インド人青年会議の会員になり、ゼネストに反対するネルソン・マンデラに批判し、トランスヴァール・インド人青年会議の議長になり、反逆罪で起訴され、無罪になり、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で有罪になり、終身刑を受けて、ロベン島で服役し、ロベン島内のANCの最高機関の一人になり、ネルソン・マンデラたちに数ヶ月遅れてポールスモア重警備刑務所へ移送され、釈放され、第一回の南アフリカ政府との交渉に参加し、2017年3月28日に亡くなります。

A・B・クマ博士

トランスカイ出身の医師で、ANCの最高議長を務め、ANCを立て直し、伝統的な指導者たちから慕われ、南アフリカ政府の閣僚とも親しく付き合い、白人支配層とのあいだに築き上げてきた友好関係を大切にし、ネルソン・マンデラたちのANC青年同盟の設立に反対し、共通の敵に対して力を収集することに合意した博士協定に調印し、ネルソン・マンデラたちの法律を超えて行う行動計画に、自分自身の社会的身分を守るために反対し、ネルソン・マンデラたちの支持を得られず、ANC議長選挙で落選します。

J.S.モロカ博士

曽祖父はオレンジ自由州の首長で、オレンジ自由州のブルームフォンテインに近いタバ・ンチェに住んでいて、全アフリカ人会議(AAC)の会員で、活動家ではなく医者で、南アフリカでも裕福な黒人で、ANCについては詳しく知らず、人望があり、ネルソン・マンデラ達の行動計画にも理解を示しそうな人なので、ネルソン・マンデラたちの支持を得て、ANC議長選挙で当選し、ANC議長になり、反逆罪で逮捕され、裁判になると、保身に走り、ANCを裏切り、ANC議長選挙で落選します。

アルーバート・ルツーリ首長

南ローデシアで、安息日再降臨派の宣教師の子として生まれ、ナタール州で教育を受け、ダーバン近郊のアダムズ・カレッジで、教員の資格を取得し、ズールー部族の首長でありながら、原住民代表会議の一員で、ANCの会員で、不服従運動を支持し、南アフリカ政府から部族首長の地位を解くと脅されても、ANCを脱会せず、不服従運動を続け、ズールー部族の首長の地位を剝奪され、ANC議長になり、”自由の憲章”を起草するため人民会議協議会の議長になり、反逆罪裁判で証言し、非常事態宣言により逮捕され、暴行され、反逆罪裁判で証言し、無罪になり、1960年ノーベル平和賞を授与され、1967年7月21日に亡くなります。

Z・K・マシューズ教授

アメリカ合衆国で1年間客員教授をして、南アフリカに戻り、ANC青年同盟の顧問になり、自由の憲章を起草することを呼びかけ、反逆罪で起訴され、反逆罪裁判で証言し、無罪になり、世界教会協議会のアフリカ部門の書記になり、ボツワナ駐米大使になり、1968年5月11日に亡くなります。

ジョー・スロヴォ

白人の共産党員で、反逆罪で起訴され、無罪になり、民族の槍(通称、MK)の最高司令部の一員で、リヴォニア裁判でネルソン・マンデラたちの弁護士を務め、自由憲章を起草した人民会議協議会の代表で、投獄され、釈放され、亡命し、帰国し、第一回の南アフリカ政府との交渉に参加し、武装闘争の停止を主導し、国民統一政府を提案し、1995年1月6日にガンで亡くなります。

ゴヴァン・ムキべ

ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で有罪になり、終身刑を受けて、ロベン島で服役し、ロベン島内のANCの最高機関の一人になり、釈放されます。

アンドルー・ムランゲニ

ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で有罪になり、終身刑を受けて、ロベン島で服役し、ポールスモア重警備刑務所へ移送され、釈放され、2020年7月22日に亡くなります。

ボブ・ヘップル

法学者で、弁護士で、南アフリカ労働組合評議会(SACTU)の会員で、1962年10月に行われたネルソン・マンデラに対する在宅ストを煽動し、不法に国を離れたという裁判で弁護士を務め、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で有罪になり、終身刑を受けて、ロベン島で服役し、釈放されます。

トマス・マシファネ

ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で使用人頭をしていて、破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で有罪になり、終身刑を受けて、ロベン島で服役し、釈放されます。

レイモンド・ムシュラバ

民族の槍(通称、MK)最高司令部の一員で、中国での訓練から帰国し、ネルソン・マンデラが逮捕された後、MKの司令官になり、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で有罪になり、終身刑を受けて、ロベン島で服役し、ロベン島内のANCの最高機関の一人になり、ポールスモア重警備刑務所へ移送され、釈放されます。

イライアス・モツォアレディ

民族の槍(通称、MK)の一員で、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で有罪になり、終身刑を受けて、ロベン島で服役し、釈放されます。

デニス・ゴールドバーク

白人で、エンジニアで、民主主義者会議の一員(COD)のリーダーで、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で有罪になり、終身刑を受けて、白人用の刑務所で服役します。

ラスティー・バーンスタイン

白人で、建築家で、民主主義者会議(COD)を結成し、1955年6月クリップタウンの人民会議に参加し、自由の憲章を起草に参加し、反逆罪で起訴され、無罪になり、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で唯一無罪になります。

ジェームズ・カンター

弁護士で、ハロルド・ウォルベの義弟で、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアみあるリリーズリーフ農場で破壊活動で逮捕、起訴され、リヴォニア裁判で有罪になり、終身刑を受けて、ロベン島で服役し、釈放されます。

ブラム・フィッシャー

南アフリカの司法長官の息子で、各人で、リヴォニア裁判でのネルソン・マンデラたちの弁護士で、地下にもぐり非合法同活動を行い、逮捕され、破壊活動に加担した罪で、終身刑を宣告され、癌の診断を受け、刑務所から釈放されて、癌でなくなります。

クアルトゥス・デヴェット

リヴォニア裁判での首席判事です。

パーシー・ユタール

リヴォニア裁判での主任検察官です。

パトリック・マクベラ

若い弁護士で、ANCメンバーでもあるグリフィス・ムセンゲのもとで実務修習をしていて、反逆罪で20年の刑を宣告され、ジョハネスバーグのディーブクルーフ刑務所に収容され、囚人を組織化して騒動を起こし、ネルソン・マンデラたちと面識はなく、ネルソン・マンデラたちに遅れて、ポールスモア重警備刑務所へ移送され、釈放されます。

ジェームズ・グレゴリー准尉

ロベン島で検閲官をしていて、ポールスモア重警備刑務所ではウィニーとの面会の監視をして、ネルソン・マンデラのことをよく知っていて、ポールスモア重警備刑務所でネルソン・マンデラと親しくなります。

ムンロ准将

道理をわきまえた好人物で、ポールスモア重警備刑務所の所長で、ネルソン・マンデラたちが不自由しないように気を使います。

マンゴスツ・ブテレジ

ズール王の血を引いていて、クワズールー・ホームランドの首相で、インカタ自由党の党首で、ANCと対立し、ANC支持者に宣戦布告をして、戦争になります。

単語説明

スイスの面積は、4.13万 平方キロメートルで、九州より少し大きいです。

ボーア人は、イギリス人より先に、南アフリカに移住していたオランダ系白人で、オランダ系アフリカーナーとも呼ばれ、オランダ語から派生したアフリカーンス語を話し、イギリス人に追われて南アフリカの内陸部からアフリカ人を追い出して、共和国を設立しますが、共和国に金鉱やダイヤモンド鉱が発見され、イギリス人と金鉱やダイヤモンド鉱がある共和国を巡り、ボーア戦争でイギリス人に負けます。

ボーア戦争、またはアングロ・ボーア戦争は、1880年12月16日から1881年3月23日、イギリス人とボーア人は戦争になり、ボーア人が勝利しますが、1899年10月11日から1902年5月31日、再びイギリス人とボーア人は戦争になり、イギリス人が勝利し、南アフリカは英連邦王国に組み込まれ、イギリスに支配されます。

連合党は、イギリス系白人が支持し、第二次世界大戦ではイギリスの連合国を支持する、南アフリカの政党で、1948年に選挙で、国民党に負けます。

国民党は、オランダ系白人が支持し、第二次世界大戦ではイギリスを嫌い、ナチス・ドイツを支持し、1948年に選挙で、連合党に勝ち、与党としてアパルトヘイト政策を推進し、英連邦王国から離脱し、1994年に選挙で、ネルソン・マンデラ率いるアフリカ民族会議(ANC)に負けます。

ズールー族は、南アフリカの最大のアフリカ民族で、ズールー語を話し、1879年1月11日から7月4日、イギリス人と戦争になり、1879年1月22日、イサンドルワナの戦いでは勝利したものの、イギリス人に負けて、国土を失います。

コーサ族は、南アフリカの東部に住んでいるアフリカ民族で、コーサ語を話し、ネルソン・マンデラが属する民族です。

ソト語は、南アフリカの中央部に住んでいるアフリカ人で話されている言語です。

スワジ語は、南アフリカの北部に住んでいるアフリカ人で話されている言語です。

バントゥースタンまたはホームランドと呼ばれているのは、南アフリカに存在したアフリカ人の自治区です。

レポワは、南アフリカに存在していたバントゥースタンです。

ヴェンダは、南アフリカの北部に存在していたバントゥースタンです。

ガザンクレは、南アフリカに存在していたバントゥースタンです。

シスカイは、南アフリカの南部に存在していたバントゥースタンです。

ボブタツワナは、南アフリカの北西部に存在していたバントゥースタンです。

クワズールは、南アフリカの南東部に存在していたバントゥースタンです。

ンコシ・シケレリ・アフリカは、アフリカに神の祝福あれという南アフリカ等の国歌です。

コーサ語、ズールー語、ソト語、アフリカーンス語と英語の歌詞で歌われています。

「マイブイェ・アフリカ」は、「アフリカを返せ」という意味です。

「アマンドラ」は「力を」という意味です。

「ンガウェトゥ」は「我々のもの」という意味です。

バンツーは、南アフリカのアフリカ人部族の総称です。

テンブ王家は、ズウィデ王から始まり、コーサ族の一部族になりました。
コーサ族は、父系部族で、コーサ語があり、法、教育と礼節を重んじ、社会秩序の均衡と調和を保ってきました。
マディバは、トランスカイを支配したデンブ人の首長の名に由来するマディバ氏族を示す名前です。

首長は、部族をまとめるリーダーです。

摂政は、首長に代わり、政治等について代行します。

ミーリは、トウモロコシです。

ミーリがゆは、トウモロコシで作ったお粥です。

サワー・ミルクは、アマシとも呼ばれ、乳酸発酵させた牛乳・乳製品です。

スモーク・ハムは、やわらかい豚の内モモ肉を塩漬けし、燻煙したもので、調理済みの肉なので、うすく切って、そのまま食べます。

一ペンスは、南アフリカでも流通していたイギリスの通過で、100ペンスで1ポンドになります。
一シリングは、南アフリカでも流通していたイギリスの通過です。20シリングで1ポンドになります。
一ポンドは、南アフリカでも流通していたイギリスの通過で、20シリング、100ペンスです。

ネルソン卿は、1805年10月21日、トラファルガー海戦でフランス・スペイン連合艦隊に対して戦史上稀に見る大勝利を収め、戦死しましたが、イギリスの軍人史上最大の英雄とされています。

第一次世界大戦は、1914年7月28日から1918年11月11日までの間、ヨーロッパ諸国を中心に、白人同士が中心に行った戦争です。

スペイン風邪は、1918年から1920年にかけ全世界的に大流行したインフルエンザの通称です。

ヴェルサイユ講和条約は、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツ国の間で締結された講和条約の通称です。

国際連盟は、第一次世界大戦後の世界平和の確保と国際協力の促進を目的として設立された国際組織です。

第二次世界大戦は、1939年9月1日から1945年9月2日までの間、ドイツ・イタリア・日本などの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス・フランス・中国・アメリカ・ソビエト連邦などを中心とする連合国陣営との間で戦われた戦争です。

もやい網は、船を岸につなぐ綱です。

アカシアは、広葉樹です。

漆喰は、石灰石を焼いて水を加えた塗り壁の材料です。

フォードV8は、アメリカのフォード社製のV型8気筒のエンジンを持つ自動車です。

鋤は、牛に取り付けて、畑を耕す道具です。

コロニアルは、薄い板状の屋根材です。

明け明星は、朝日に先立って、明るく綺麗に輝く金星です。

アジテーションは、強い調子の演説によって人々の気持ちをあおり、行動を起こすようにしむけることです。

ブリキの屋根は、鉄鋼をスズで表面処理した薄い鉄板で、軽く、加工しやすいので、粗末な小屋の屋根に使われます。

学士号は、大学を卒業した者に授与された称号です。

BAは、Bachelor of Artsの略で、学士号の一つで、幅広い教養を身につけ、将来さまざまな分野で活躍できるような高い教養を有するてめの大学を卒業したことを示す学士号です。

法学士号は、学士号の一つで、法学を専攻分野とした者に授与される学士号です。

実務修習は、法学士号を取得した後、弁護士になるために、弁護士事務所で受ける実務を経験です。

ウィトキン・サイデルスキー・エイデルマン法律事務所は、ネルソン・マンデラが実務修習をした法律事務所です。

テルブランシュ・アンド・ブリギッシュ法律事務所は、ネルソン・マンデラが弁護士として1年間、働いた法律事務所です。

ヘルマン・アンド・マイケル法律事務所は、ネルソン・マンデラが弁護士として働いた法律事務所で、アフリカ人に妥当な料金を請求するリベラルな法律事務所で、アフリカ人の教育にも熱心で、多額の寄付も行う法律事務所です。

H・M・バスナー法律事務所は、ネルソン・マンデラが正規の弁護士として働いた法律事務所です。

リベラルは、社会的公正や多様性を重視する自由主義です。

士官学校は、軍隊の士官を養成する学校です。
日本では、防衛大学校等が自衛隊の士官を養成します。

旱魃は、干ばつのことで、雨が降らないなどの原因で起こる長期間の水不足の状態です。

首相は、国民が選んだ議員の多数派から間接的に選出されます。

大統領は、国民が選んだ多数派から直接的に選出されます。

国連は、1945年に設立され、国際平和と安全の維持、経済・社会・文化などに関する国際協力を実現する組織です。

安全保障理事会は、国連の機関で、世界平和と安全の維持に責任を負っており、最も大きな権限を持ち、法的に国連加盟国に拘束力を持つ決議を行うことができる、最高意思決定機関です。

エブソム塩は、欧米の家庭で愛用されている入浴剤です。

メトロポリスは、政治、経済や文化の中心であり、国際的な中継地となるような大規模な都市で、ジョハネスバーグ(ヨハネスブルグ)のことです。

培養器は、微生物を人工的な環境下で育てる容器で、アフリカ人を育てる大学のことです。

アンブローズ・リーヴス主教は、反逆罪で起訴された、ネルソン・マンデラたちを弁護した人です。

南アフリカ大主教は、キリスト教の役職の一つで、南アフリカの聖公会司祭で、南アフリカでアパルトヘイトに反対し、1984年にノーベル平和賞を受賞したデズモンド・ムピロ・ツツのことです。

カフィールは、アフリカ人のことを「黒んぼ」と呼ぶ蔑称です。

クリーは、インド人に対する蔑称です。

執行委員は、組織の決定を執行するために、執行部を構成し、執行部に所属する人です。

プリズムは、透明な材質でできた多面体で、光を波長によって光を分散させるものですが、物事を区別する思想です。

劣等意識は、アフリカ人が西洋の白人に劣るという意識です。

普遍性は、すべての場合にあてはめることのできる性質です。

ソフィアタウンは、ジョハネスバーグ(ヨハネスブルグ)で最も古いアフリカ人居住区のひとつで、貧しくはあっても、温かみにあふれ、5万人以上のアフリカ人が住むにぎやかなアフリカ人居住区です。

職業倫理は、専門的な知識とスキルを身に付けた弁護士などが、専門的な知識とスキルをどのようにに用いられなければならないかについて下す判断です。

ソーシャルワーカーは、社会の中で生活する上で困っている人々、生活に不安を抱えている人々、社会的に疎外されている人々と関係を構築して、様々な課題に取り組み、援助を提供す対人援助専門職の総称で、赤ん坊に里親をあてがったり、失業者に職を世話したり、保険のない人に医療補助を見つけたりします。

スラムは、都市部で極貧層が居住する過密化した地区です。

訓戒は、秩序を乱したことを戒めるために、口頭や書面で注意することです。

譴責は、不正や過失を戒めるために、始末書を提出させて、厳重注意する懲戒処分をいいます。

平和と友情のための世界青年大会は、1953年、ルーマニアのブカレストで開催され、「反帝・反戦・平和・親善・連帯」をスローガンに開催する世界規模の祭典です。

狒狒は、アフリカに分布する哺乳類の総称で、地上で高度な社会を形成して生活します。

心臓麻痺は、心臓のポンプ機能が急激に消失し、突然死することです。

養畜業者は、家畜を飼育し、家畜を生産する業者です。

しらみは、体長が数㎜以下で、人間に寄生して吸血し、かゆみを与える寄生虫です。

南京虫は、体長が5~7 mm程度で、人間に寄生して吸血し、かゆみを与える寄生虫です。

ダスターコートは、ほこりよけのための丈が長くてゆったり目の薄手のコートです。

証券取引所は、株式や債券の売買取引を行うことで、資本主義経済における中心的な役割を果たしている施設です。

人身保護法は、人身の自由を回復することを目的に制定された法律です。

戦争論は、1832年、ドイツのカール・フォン・クラウゼヴィッツが書いた戦争と戦争で敵に勝利するための事柄を書いた本です。

ニトログリセリンは、1846年、アスカニオ・ソブレロが合成に成功した有機化合物で、爆薬の一種です。

ダイナマイトは、1866年、アルフレッド・ノーベルが発明したニトログリセリンを主剤とする爆薬です。

ノーベル平和賞は、アルフレッド・ノーベルの遺言によって創設された5部門のうちの一つで、国家間の友好関係、軍備の削減・廃止、及び平和会議の開催・推進のために最大・最善の貢献をした人物・団体に贈られ、12月10日午後1時に、ノルウェーのオスロ市庁舎で授賞式が行われます。

砂糖プランテーションは、白人入植者が南アフリカ人の労働力を安価に使用し、砂糖の生産に特化して行われた大農園です。

空気銃は、空気を用いて弾丸を発射する銃です。

国際赤十字は、スイスのジュネーブに本部があり、非人道的なことが行われている場所で、援助を行う世界最大の団体です。

ブラスバンドは、金管楽器群と打楽器群を主体として編成される楽団です。

アムハラ語は、エチオピアの公用語です。

モスクは、イスラム教の礼拝堂です。

国際世論は、国際社会のなかで国際的影響力をもつ意見です。

兌換通貨は、金との引き換えが保証されている紙幣です。

外交旅券は、公的機関が交付する文書で、自らの国籍と身分に関する事項を証明し、外国官庁に保護を依頼している文書です。

ウェストミンスター寺院は、イギリスのロンドン・ウェストミンスターにある英国国教会の教会です。

ビック・ベンは、イギリスの首都ロンドンにあるウェストミンスター宮殿に付属する時計塔内に設置されている時間を知らせる鐘の愛称です。

労働党は、イギリスの政党です。

自由党は、イギリスの政党です。

弁論術は、相手を説得する技術のことで、スピーチやプレゼンテーションの技術も含まれます。

原始共和制は、人類の初期の社会である狩猟採集社会において、狩猟採集されたものは共有され、消費され、富の余剰はなく、私有財産も階級支配がないという社会的なシステムです。

封建制度は、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有し、土地の人民を統治するし、諸侯たちが君主に対して、貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、君主と諸侯たちは世襲で権力を維持する社会的なシステムです。

資本主義は、お金を持っている資本家、またはお金を借りた起業家が、労働者から労働力と商品、またはサービスを生産する手段を買い、価値のある商品、またはサービスを生産し、資本家、または起業家が利潤を得るという社会的なシステムです。

資本家は、お金を持って、労働者から労働力と商品、またはサービスを生産する手段を買い、価値のある商品、またはサービスを生産し、利潤を得る人です。

起業家は、お金を借りて、労働者から労働力と商品、またはサービスを生産する手段を買い、価値のある商品、またはサービスを生産し、利潤を得る人です。

共産主義は、資本と商品、またはサービスを生産する手段を社会的に共有し、労働者が価値のある商品、またはサービスを生産し、労働者が利潤を得るという社会的なシステムです。

共産主義者は、共産主義を信じて、実現し、維持する人々です。

共産党は、共産主義を提唱する政党です。

共産党員は、共産党に所属する共産主義者です。

共産党宣言は、1848年にマルクスとエンゲルスによって書かれ、共産主義の目的と見解を明らかにした本です。

資本論は、マルクスが第1部を書き、エンゲルスがマルクスの死後、マルクスの遺稿をもとに、第2部と第3部を書き、資本の生産過程、資本の流通過程、資本主義的生産の過程を明らかにした本です。

弁証法的唯物論は、マルクスが提唱した階級闘争の理論で、歴史発展の法則である唯物史観の哲学的根拠でもあります。

マルクス主義は、マルクスとエンゲルスによって展開された思想をベースとして確立された共産主義思想体系です。

マルキシストは、マルクス主義を信じ、実戦する人々です。

私有財産の消滅は、個人が自由に管理・使用・処分することのできるお金、不動産を個人が自由に管理・使用・処分することができなくなることです。

生産手段の国有化は、国家が資本と商品、またはサービスを生産する手段を所有し、管理することです。

社会主義経済改革は、私有財産の消滅し、生産手段の国有化し、国が経済を管理して、社会が平等になるようにしようとする改革です。

左翼活動家は、より平等な社会を目指すための社会変化を支持する人々で、リベラル、共産主義、全体主義、無政府主義などの傾向がある人々です。

階級闘争は、社会階級が対立し、社会階級を克服することです。

社会階級は、生まれた人種によって認められた階級、法律によって認められた階級、権力によって認められた階級、資本主義によって生まれた貧富の差によって認められ階級などがあります。

階級制度は、社会階級を作り、維持する制度です。

解放闘争は、アフリカ人を閉じ込めている制度から解放し、アフリカ人の土地や権利を取り戻すために、戦うということです。

博愛主義は、人は誰でも平等に分け隔てなく互いに協力し合うべきだとする考え方です。

融和主義は、差別撤廃をめぐる運動や政策において協調し、改良するという考え方です。

民族主義は、国家ではなく民族を中心に考えて政策を決定したり、文化を守るという考え方です。

アフリカーナー民族主義は、南アフリカにおいて、アパルトヘイトに反対し、アフリカーナー民族を中心に考えて政策を決定したり、文化を守るという考え方です。

国家主義は、国家を最高の価値あるものや人間社会の最高の組織と見なし、個人よりも国家に絶対的な優位性があるとする考え方です。

非暴力主義は、暴力的な攻撃を受けても、自らを守らなくてはならないときもあるという考え方です。

平和主義は、暴力的な攻撃を受けても、自らを守ろうとしないという考え方です。

革命主義者は、あらゆる犠牲を支払って、真っ向から体制と闘う人々です。

民族主義者は、民族主義を信じて、実現し、維持する人々です。

愛国主義者は、国家主義を信じて、実現し、維持する人々です。

大衆行動は、特定の要求や目標を達成するために、一定期間に展開される集団行動です。

煽動家は、特定の要求や目標を達成するために、大衆行動を率先し、指揮する人です。

ストライキ(通称は、スト)は、労働者が問題の解決を求めて、労働を行わないで抗議する行為です。

政治ストライキは、政治的な不満という漠然とした大きな問題の解決を求めて行うストライキです。

経済ストライキは、賃上げや労働時間短縮という分かりやすい問題の解決を求めて行うストライキです。

在宅ストは、労働者が問題の解決を求めて、自宅に留まり、職場に行かず、労働を行わないで抗議する行為です。

ゼネストは、企業や組織で行われるストライキではなく、全ての労働者が参加し、全国的な規模で行われるストライキです。

全面ストは、在宅ストとは異なり、ピケやデモ行進を行います。

ピケは、企業、組織や学校の入り口などを封鎖し、労働者を職場に行かず、労働を行わせない行為で、学生を学校に通わせない行為です。

デモ行進は、特定の意思や主張をもった人々が集まり、行進することで、特定の意思や主張を示す行為です。

抗議デモは、特定の意思や主張をもった人々が集まり、暴動などの違法行為をすることで、特定の意思や主張を示す行為です。

消極的抵抗は、武器を使用せずに、断食や抗議デモを行い特定の意思や主張を示す行為です。

消極的抵抗運動は、断食や抗議デモを行うことです。

ボイコットは、消費者が考えや要求を実現させるために、提供者に対して商品を買わない、またはサービスを利用しないことです。

公的義務の拒否は、法律で定められた国民の義務を拒否することで、特定の意思や主張を示す行為です。

対政府非協力と非協力は、政府に対して協力しないことで、特定の意思や主張を示す行為です。

労働停止は、労働者が働かないことで、特定の意思や主張を示す行為です。

非暴力的抗議は、国家権力による圧制、暴政、不正な政策や法律に対し、非暴力によって抗議します。

超法規的行動は、不服従運動を行う行動です。

不服従運動は、わざと法律を破り、投獄されるという行動で、リーダーが事前に警察に通報し、あらかじめ選んだ法律に違反し、騒ぎが大きくならないうちに逮捕されるという運動です。
あらかじめ選んだ法律に違反するということは、白人専用の入口から鉄道駅に入り、白人専用の列車の客室に入る、許可を得ずに禁止区域に入る、郵便局の入口を利用したり、白人専用のトイレを利用し、外出禁止時間を過ぎても街に居残るなどを行うということです。

非暴力原則は、暴力的な手段を使用しないという原則です。

サティーヤグラハは、マハトマ・ガンジーが南アフリカで、真理と非暴力への絶対的信頼によって、社会変革または政治変革を達成する方法です。

ハンストは、マハトマ・ガンジーが始めた、主張を広めるために、断食を行う非暴力抵抗運動です。
南アフリカ政府は、スティーヴ・ビコの死因をハンストにしています。
日本維新の会・梅村みずほ参院議員は、国会で「ウィシュマさんは、ハンガーストライキによって亡くなったかもしれない」と発言しました。

暴力発動には、破壊工作、ゲリラ戦、テロと革命があります。

破壊工作は、軍事施設、発電所、輸送網と官庁の建物を破壊し、政府を脅かし、外国資本に国から撤退を促し、国の経済を弱体化さます。

ゲリラ戦は、政府軍に対して奇襲、待ち伏せ、後方支援の破壊、攪乱や攻撃を行う戦法、または戦闘です。

テロは、国民や非戦闘員に対して殺害または重大な身体的危害を与える戦法、または戦闘です。

革命は、社会変革または政治変革を達成することです。

暴力革命は、武装闘争や内戦を起こすなど暴力や武力を使用した革命です。

武装闘争は、合法的手段によらず、暴力や武力で政府を打倒することです。

内戦は、政府と非政府による組織が、武力を使用して戦うことです。

マイブイェ作戦は、破壊工作では成果を上がられなかった場合、ゲリラ戦に移行するという計画です。

覚書は、当事者同士が約束・合意した内容を忘れないようにまとめた書類です。

民主主義は、国民が多数決により、権力を握り、行使する政治原理、政治運動、政治思想です。

普通選挙は、性別や人種によって差別されることはなく、全ての成人が一人一票で選挙権を行使できる選挙です。

総選挙は、立法府の議員を一度に変える選挙で、日本では衆議院選挙のことです。

制憲議会は、新しい憲法を起草することを目的とした臨時の立法機関で、普通選挙で選ばれた議員によって成り立つ会議です。

三権分立は、立法権、行政権と司法権という三つの権力を、国会が立法権を、内閣が行政権を、裁判所が司法権というように分けて持つ社会システムです。

多数決は、意思決定を行うために、多数派の意見を採用する方法です。

満場一致は、意思決定を行うために、全員が一致する意見を採用する方法です。

軍事訓練は、一般市民が受ける軍事的な体力や技能を習得するための訓練です。

自動小銃は、弾丸の発砲時のエネルギーを利用して自動的に空になった薬莢を排出し、次弾の装填を行う小銃です。

自動拳銃は、弾丸の発砲時のエネルギーを利用して自動的に空になった薬莢を排出し、次弾の装填を行う拳銃です。

リヴォルヴァーは、回転式拳銃です。

ホルスターは、拳銃を収めて携行し、拳銃を素早く抜けるものです。

標的射撃は、射撃場で標的と指定された的に向かって銃を発射することです。

迫撃砲は、照準を調整した後は砲弾を砲身内へ落とし込むだけというシンプルな射撃メカニズムで、少人数で運用でき操作も簡便なため、歩兵の装備で、最前線の戦闘部隊にとっては直協支援火器で、射程は短く、命中精度は低いですが、破壊力が大きく、砲弾が大きく湾曲した曲射弾道を描き垂直に近い角度で着弾することから、遮蔽物によって防御された目標に対して直上から攻撃できます。

地雷は、地上または地中に設置され、人や車両の接触によって爆発し、人や車両に危害を加える兵器です。

ディンガネの日は、1838年12月16日、南アフリカの白人たちが、南アフリカ最強の国家を治めていたズールー族の指導者ディンガネを打ち破ったことを祝う日です。

チェスは、日本の将棋のような、二人で行うボードゲームです。

チェッカーは、日本の碁のような、二人で行うボードゲームです。

スクラブルは、単語を作成して得点を競う、二人で行うボードゲームです。

ブリッジは、交互にボード上にコマを置いて、一直線に、端から端を繋ぐことを競う、二人で行うボードゲームです。

映画「十戒」は、旧約聖書の出エジプト記を原作として制作されたスペクタクル映画です。

映画「王様と私」は、タイ王国のラーマ4世の子供たちの教師となったアナ・リオノウンズの回顧録を原作として制作されたミュージカル映画です。

映画「クレオパトラ」は、クレオパトラとエジプト王朝(プトレマイオス朝)の最後を描いた歴史映画です。

イヌイットは、カナダ北部などの氷雪地帯に住む先住民族のエスキモー系諸民族の1つで、人種的には日本と同じモンゴロイドです。

エスキモーは、北極圏のシベリア極東部・アラスカ・カナダ北部・グリーンランドに至るまでのツンドラ地帯に住む先住民族グループです。

インターカムは、一斉に音声で情報を伝えることができる構内放送です。

肺結核は、結核菌に感染することによって発症する肺の感染症で、症状は長引く咳や痰などで、結核性胸膜炎になり、胸に水が貯まり、手術をして胸に貯まった水を抜き、6ヶ月以上薬の内服を続ければ治せる病気です。

ソヴィエト連邦は、1917年11月7日、レーニン率いる人々によって作られた世界初の社会主義国家で、植民地住民による民族闘争を支援していました。

バティスタ政権は、キューバで、1952年3月10日~1959年1月1日までの間、バティスタ大統領によって作られた親米政権で、独裁政権で、キューバ革命によって崩壊した政権です。

キューバ共産党は、キューバで、独裁体制を維持している共産主義の政党です。

ソクラテスは、紀元前470年頃にアテナイに生まれた哲学者で、対話を通して、人々に教え、紀元前399年に死刑を言い渡され、服毒自殺をします。

ブルータスは、紀元前85年に生まれて、紀元前42年10月23日に亡くなった、シーザーを裏切り、暗殺した、共和政ローマの政務官です。
シーザーは、紀元前100年に生まれて、紀元前44年3月15日にブルータスたちに暗殺された共和政ローマの政務官です。
映画「クレオパトラ」

シェイクスピアは、1564年4月26日に生まれて、1616年4月23日に亡くなった、イギリスの劇作家、詩人です。

ウェリントン公は、アーサー・ウェルズリーのことで、ワーテルローの戦いでイギリス軍主体の反仏連合軍の指揮を執ってナポレオンを再度の失脚に追い込んだ戦功により、1814年5月11日にはウェリントン公爵に叙された。

マルクスは、1818年5月5日に生まれて、1883年3月14日に亡くなった、ドイツのジャーナリスト、経済学者、思想家、哲学者で、共産主義の世界観を構築し、共産主義が到来すると考え、共産党宣言と資本論を書きました。

エンゲルスは、1820年11月28日に生まれて、1895年8月5日に亡くなった、ドイツの実業家、ジャーナリスト、思想家、哲学者で、マルクスを支え、協力して、社会主義の世界観を構築し、共産主義が到来すると考え、共産党宣言と資本論を書きました。

ウッドロー・ウィルソンは、1856年12月28日に生まれて、1924年2月3日に亡くなった、アメリカの大統領です。

レーニンは、1870年4月22日に生まれて、1924年1月21日に亡くなった、ロシアの革命家、政治家で、ソビエト連邦の初代人民委員会議議長です。

スターリンは、1878年12月21日に生まれて、1953年3月5日に亡くなった、ソビエト連邦の政治家で、レーニンの後継者で、ソビエト連邦の初代閣僚会議議長です。

毛沢東は、1893年12月26日に生まれて、1976年9月9日に亡くなった、中国の政治家で、中国共産党の創立党員の1人で、中国共産党中央委員会主席です。

ジョージ六世は、1895年12月14日に生まれて、1952年2月6日に亡くなった、イギリスの国王です。

エイブラハム・リンカーンは、1809年2月12日に生まれて、1865年4月15日にジョン・ウィルクス・ブースによって暗殺されたアメリカの大統領で、1863年11月9日に行ったゲティスバーグ演説の「人民の人民による人民のための政治」という言葉で有名です。
映画「リンカーン」

オスカー・ワイルドは、1854年10月16日に生まれて、1900年11月30日に亡くなった、アイルランドの詩人、作家、劇作家です。

ウィンストン・チャーチルは、1874年11月30日に生まれて、1965年1月24日に亡くなった、イギリスの軍人で、首相で、作家です。
映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」

フランクリン・ローズヴェルトは、1882年1月30日に生まれて、1945年4月12日に亡くなった、アメリカの大統領です。

ムッソリーニは、1883年7月29日に生まれて、1945年4月28日に処刑されたイタリアの首相です。

劉少奇は、1898年11月24日に生まれて、1969年11月12日に亡くなった、中国の国家主席です。

マハトマ・ガンジーは、1869年10月2日に生まれて、1948年1月30日に暗殺された南アフリカとインドで活動した弁護士で、政治指導者です。
映画「ガンジー」

メナヘム・ベギンは、1913年8月16日に生まれて、1992年3月9日に亡くなった、イスラエルの首相です。

カストロは、1926年8月13日に生まれて、2016年11月25日に亡くなった、キューバの弁護士、軍人、革命家、政治家、独裁者で、キューバ共産党の初代 中央委員会第一書記です。

チェ・ゲバラは、1928年6月14日に生まれて、1967年10月9日に銃殺された、アルゼンチンの医者で、キューバの革命家、政治家で、ゲリラ指導者です。

マーティン・ルーサー・キング牧師は、1929年1月15日に生まれて、1968年4月4日に暗殺された、アメリカのアフリカ系アメリカ人公民権運動を非暴力差別抵抗活動で行う指導者です。
映画「グローリー/明日への行進」

フランソワ・ミッテランは、1916年10月26日に生まれて、1981年5月10日から1995年5月17日までフランスの大統領を務め、1996年1月8日に亡くなります。

W・E・B・ドゥボイスは、1868年2月23日に生まれて、1963年4月27日に亡くなった、アメリカの社会主義者、歴史学者、公民権運動家、パン・アフリカ主義者です。

マーカス・ガーヴェイは、1887年8月17日に生まれて、1940年6月10日に亡くなった、ジャマイカの黒人民族主義の指導者、ジャーナリスト、企業家です。

ジョー・ルイスは、1914年5月13日に生まれて、1981年4月12日に亡くなった、アメリカのプロボクサーで、ヘビー級王者で、”褐色の爆撃機”と呼ばれます。

ジョージ・H・W・ブッシュは、1924年6月12日に生まれて、1989年1月20日から1993年1月20日までアメリカの大統領を務め、2018年11月30日に亡くなります。

ジョージ・ワシントンは、1732年2月22日に生まれて、1789年4月30日から1797年3月4日までアメリカ初代大統領を務め、1799年12月14日に亡くなります。

トマス・ジェファーソンは、1743年4月13日に生まれて、1801年3月4日から1809年3月4日までアメリカの大統領を務め、1826年7月4日に亡くなります。

ブライアン・マルルーニーは、1939年3月20日に生まれて、1984年9月17日から1993年6月25日までカナダの首相を務めます。

マーガレット・サッチャーは、1925年10月13日に生まれて、1979年5月4日から1990年11月28日までイギリスの首相を務めた女性で、2013年4月8日に亡くなります。

アン王女は、イギリス女王エリザベス2世とエディンバラ公フィリップ夫妻の長女です。

マーク・フィリップスは、イギリスの馬術選手でイギリスのオリンピック金メダリスで、アン王女と結婚します。

ジェリー・モロイは、ボクシングクラブの花形ボクサーで、トランスヴァールのライト級チャンピオンになる、ネルソン・マンデラのスパーリング・パートナーです。

キリスト教は、十字架にかけられ、復活したイエス・キリストを救い主として、聖書(旧約聖書と新約聖書)を信じる宗教です。

ローマ・カトリックは、ローマ教皇を最高指導者とするキリスト教最大の教派です。

英国国教会は、ローマ・カトリックから分かれて、英国国王を最高指導者とするキリスト教の教派です。

オランダ改革派教会は、宗教改革により、ローマ・カトリックから分かれて、オランダで派生したプロテスタント教派です。

統一ユダヤ改革派教会は、キリスト教の教会の要素を取り入れたユダヤ教の教派です。

安息日再臨派は、キリスト教のプロテスタント教派から分かれて、アメリカで派生したプロテスタント教派です。

メソジスト教会は、キリスト教のプロテスタント教派から分かれて、英国で派生したプロテスタント教派です。

エホバの証人は、アメリカで派生したキリスト教系の新宗教団体で、「ものみの塔」という月刊誌を発行しています。

教会は、教会が所有する宗教施設で、日曜礼拝などが行われます。

日曜礼拝、または礼拝は、日曜日の朝に行われ、祈り、賛美歌、聖書朗読、牧師または神父のお話が行われます。

讃美歌は、教会において、日曜礼拝などで歌われる神をたたえる歌のことです。

聖書は、旧約聖書と新約聖書があります。

お説教は、牧師または神父のお話です。

伝道は、キリスト教を信じない人々に、キリスト教のを伝え、キリスト教徒にすることです。

伝道団は、組織的に伝道を行うことです。

ルーテル派伝道団は、キリスト教ルーテル派を伝道する人々です。

シオニスト教会は、旧約聖書の創世記に基づき、パレスチナにユダヤ人の民族的拠点を設置しようとする思想、および運動を行う教会です。

ミッションスクールは、キリスト教を広めるために伝道団体などによって作られた学校です。
国際基督教大学、青山学院大学、上智大学、明治学院大学などがミッションスクールです。

寄宿学校は、生徒は家族と離れ、寄宿舎に住み込み、教師の指導、監督のもとで共同生活をさせる学校です。
北海道函館市にある全寮制男子学校ラ・サール学園(中学・高等学校)が寄宿学校です。

洗礼は、キリスト教徒になる時に行われる通過儀式です。

割礼は、男の子供が、大人としてみなされ、社会の一員になるための通過儀式です。

黄金律は、キリストの山上の垂訓の一節で、「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ」ということです。

復活祭は、磔刑にされて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念し、記憶するというキリスト教においては最も重要とされる祭で、春分の日の後の最初の満月の次の日曜日、3月22日から4月25日の間の日曜日に行われます。

政治的信条は、政治に関する堅く信じて守っている意見や考え方です。

スローガンは、政治的な運動の目的を簡潔に言い表した覚えやすい言葉です。

アメリカの独立宣言は、1776年7月4日に採択され、基本的人権、国民主権、生命・自由・幸福の追求などからなる宣言です。

フランスの人権宣言は、1789年8月26日に採択され、自由と平等、人民主権、言論の自由、三権分立、所有権などからなる宣言です。

大西洋憲章は、1941年8月14日、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相が大西洋のプラセンティア湾で会談し、第二次世界大戦でアメリカがイギリスを支持し、第二次世界大戦後のアメリカとイギリスの目標を示した声明ですが、アメリカがイギリスを軍事的に支援するという内容ではありません。

マグナカルタは、1215年6月19日に施行され、自由の大憲章で、王の権限を制限したことで憲法史の草分けで、現在でもイギリスの憲法の最も重要な部分となっています。

権利の請願は、1628年7月7日に施行され、イングランドの議会から国王に対して出された、議会の同意無しでは課税などをできないようにした請願のことで、現在でもイギリスの最も重要な部分となっています。

権利の章典は、1689年12月16日に施行され、国王に忠誠を誓う議会および国民のみが享受できる権利と自由を定めた章典のことで、現在でもイギリスの最も重要な部分となっています。

偽善者は、政治的信条を偽り、国民をだまし、政治的利益を得ようとする人です。

威嚇射撃は、暴動を起こしている国民に対して、国民を狙わずに、銃器を発砲し、威嚇することです。

発砲事件は、暴動を起こしている国民に対して、国民を狙い、銃器を発砲し、死傷者が出る事件です。

単独政党制は、野党が存在しているが、与党が全ての権力を握り、事実上の野党は存在しない制度です。

複数政党制は、野党が存在し、与党が野党と協力することで権力を行使しする制度です。

専制政治は、支配者層が被支配者層の政治的関与を認めずに統治を行う政治体制です。

非合法組織は、法律で認められていない組織で、組織に所属することも、組織に協力することも違法とされ、刑罰が与えらる組織です。

基調演説は、集会において、基本方針について説明する講演です。

国民会議は、アフリカ人、白人、インド人もカラードが、一堂に会して、この国全体の理想を反映させた民主憲法を作るための会議です。

民主憲法は、人種差別のない憲法です。

検問は、警察が犯罪捜査や治安維持のために、通行車両を停止させて確認することです。

軍事行動は、非暴力ではなく、軍事組織を創設し、暴力を用いて、政治的な大きな問題の解決を求めて行うことです。

階級意識は、自分の属する階級の社会的な立場、歴史的な立場、経済的利害関係に対して持つ意識、および自分の属する階級を発展・向上させようとする意識です。

帝国主義者は、一つの国家が利益と領土の拡大を目指して、政治的、経済的と軍事的に他国を侵略、支配と抑圧し、強大な国家を作ろうとする人です。

独裁者は、国家の中における権力を独占し、国家を支配して独裁的な統治を行う人です。

ファシズムは、イタリアのムッソリーニが率いた国家ファシスト党が提唱した思想で、独裁体制で、国内の労働者を権力で押さえ、外国に対しては侵略を行います。

皇帝は、複数の異民族で構成される国家の支配者です。

議会制度は、議会の構成、権限と運営に関する制度です。

法律は、国民の自由と財産を制限するために、議会の議決を経て、統治者により制定されます。

法律観は、法律の意味や本質を捉えることです。

行政官は、行政府(中央省庁、地方公共団体)の職員で、法律に従い、国民や領土を支配または統治する人です。

治安警察は、国民の集会、言論や共通の目的のための組織の自由などを制限するために組織された警察です。

国家保安局(BOSS)は、南アフリカ政府の秘密諜報機関で、ネルソン・マンデラたちに脱獄計画を持ち掛け、殺害しようと試みます。

暴動は、多数の国民が、暴行や破壊などの暴力的なことを行うことです。

戒厳令は、暴動等の緊急事態において軍隊をもって国内を警備する場合に、憲法と法律の一部の効力を停止し、行政権と司法権の一部ないし全部を軍隊の指揮下に移行します。

戒厳令下は、戒厳令が発令されている状態です。

非常事態宣言は、暴動等の緊急事態において行政が非常事態規則を発動するために、公衆に注意を促すために行う宣言です。

非常事態規則は、暴動等に伴う混乱、または社会秩序が重大な危機に直面した状態に適用される規則で、夜間外出禁止等です。

強制捜索は、同意を得ずに、捜査の目的で行う捜索で、被疑者を逮捕し、身体検査し、勾留し、証拠を捜索し、差押え、検証します。

逮捕、または正式逮捕は、警察が裁判所に対して逮捕状を請求し、裁判所が認めて逮捕状が正式に発行されれば、警察が逮捕状を被疑者に示して、被疑者を逮捕します。

逮捕状は、警察が被疑者を正式逮捕する際に、警察の請求を受けて裁判所が発付する書面です。

現行犯逮捕は、現行犯人を逮捕することで、逮捕状なしで誰でもできます。

不当逮捕は、被疑者が罪を犯していないのに、被疑者を逮捕することです。

反逆罪は、暴力行為を計画して、国家を転覆させるという犯罪です。

公務執行妨害は、公務員が職務を執行するに当たり、これに対して暴行または脅迫を加えるという犯罪です。

法廷侮辱罪は、裁判所の権能、正義および権威に反抗し、またはこれを毀損する犯罪です。

留置所は、警察が被疑者の逃走や証拠隠滅を防ぐために、被疑者を拘束しておく施設です。

拘留は、暴行罪や侮辱罪等の比較的軽微な犯罪の被告人に対して刑罰として、施設に収容する刑罰のことです。

違法拘留は、拘留された事実と無関係なことに関して取り調べを行うことです。

投獄は、被疑者、被告人、または刑確定者を施設に収容することです。

監房は、刑務所や拘置所などにある受刑者、被疑者や被告人などを入れておく部屋です。

雑居房は、刑務所や拘置所などにある複数の受刑者、被疑者や被告人などを入れておく部屋です。

隔離房は、極悪人を罰するための場所で、囚人1人を隔離する部屋です。

請願書は、刑務所等の国の機関に対して、その職務に関する事柄についての異議を文書で希望を申したてることです。

取り調べは、警察官が被疑者や被告人から、事件に関する供述を求めることです。

保釈は、拘留されている被告人に対して、公判への出頭等を確保するために、保証金の納付等を条件として、身柄の拘束を解くことです。

保釈金は、拘留されている被告人が、身柄の拘束を解いてもらうために支払うお金で、公判への出頭等をしなければ、没収されます。

召喚状は、裁判所が被告人や証人などを呼び出すときに発行する令状です。

法曹界は、法律を扱う専門職としてその実務に携わる人で、判事(裁判官)、検事と弁護士です。

起訴は、刑事事件と民事事件の2種類があります。

刑事事件は、検事が起訴状を提出し、被告に対して公訴提起処分を行います。

民事事件は、原告が訴状を裁判所に提出し、被告に対して訴状が送達されます。

起訴状は、検事が判事に被告に対して有罪判決を出すように請求する書類で、被告を特定する事実(氏名、住所、年齢、出生地)、訴因と罪名が記載されています。

訴因は、起訴状に記載された犯罪の具体的事実です。

訴因変更は、起訴状に記載された犯罪の具体的事実を、審理の途中で追加、撤回、または変更することです。

裁判は、原告と被告の間のある利害の衝突や紛争を調整し、解決するために、一定の権威を持つ第三者である判事が下す法的な拘束力のある判定です。

法廷は、裁判が行われる場所です。

下級裁判所は、全ての事件が最初に裁かれる裁判所です。

原告は、裁判所に訴えた人のことです。

検察官や検事は、刑事事件では、裁判の原告になります。

被告は、裁判所で訴えられた人のことです。

被告団は、複数の被告が団結し、裁判に取り組むことです。

弁護士は、違法な手続が見逃されたり、行き過ぎた刑罰が科されたりしないようにするために、原告、または被告の立場から裁判所で意見を述べ、証拠を提出し、証人を請求し、証人を尋問し、反対尋問し、衝突や紛争を調整し、解決するために活動します。

資格証明書は、弁護士であることを示す証明書で、常に携帯する必要はなく、事務所の壁に飾っておくようなものです。

弁護団は、複数の弁護士により、弁護活動を行う人々です。

法廷弁護士は、法廷での弁護士の職務を独占する弁護士です。

証人は、原告、または被告の弁護士によって申請され、裁判所に出廷し、裁判所で宣誓し、知り得た事実を述べ、原告と被告の弁護士から尋問と反対尋問を受けて、答える人です。

鑑定証人は、原告、または被告の弁護士によって申請され、裁判所に出廷し、裁判所で宣誓し、特別の学識経験で知り得た事実について述べ、原告と被告の弁護士から尋問と反対尋問を受けて、答える人です。

審問は、裁判に先立つ法的手続きで、裁判を進めるかを決定するための質疑応答です

予備審問は、略称は予審で、原告が起訴を最高裁判所の公判にかける証拠を持っているかどうかを決めます。
原告が、判事に公判に対する十分な証拠があると認められれば、被告は最高裁判所の公判で審理されます。
原告が、判事に公判に対する十分な証拠があると認められなければ、被告は釈放されます。

本裁判は、予備審問で、判事に公判に対する十分な証拠があると認められ、最高裁判所で行われる公判のことです。

最高裁判所は、南アフリカにおける司法府の最高機関で、下された判決に対して上訴することはできません。

三裁判官制は、1人の判事が首席、2人の判事が陪席を務める裁判で、3人の判事が裁判を行い、判決を下します。

判事は、裁判官とも言います。

司法官は、判事のことです。

裁判官隠避は、日本では裁判官を変えることはできませんが、南アフリカでは判事を不適切と申請し、認められれば変えることができるということです。

公判は、裁判所に判事、原告、被告、弁護士、証人、傍聴人が集まり、行われる法的な手続です。

傍聴人は、傍聴人に必要となる条件はなく、誰でも、裁判所にある傍聴席で公判を見ることができる人です。

法廷警備員は、法廷内の秩序を維持し、裁判所職員及び法廷その他の施設の安全を保持する人々です。

英国法は、イングランドで採用されている法律で、当事者の申立てを比べあわせて伝統や慣習、先例に基づき裁判を行います。

ローマ・オランダ法は、ヨーロッパ大陸で採用されている法律で、過去の判例によって積み上げられた合意に基づき裁判を行います。

裁判弁論書は、被告が起訴状を受け取り、意見や反論等がある場合は、意見や反論等を書いた文書です。

罪状認否は、原告が起訴状を裁判所で読み上げ、首席判事が被告に黙秘権があることを告知し、被告人が罪状を認めるか、否定をするか、黙秘することです。

冒頭弁論は、原告と被告が証拠により証明しようとする事実を説明します。

陳述は、原告と被告の弁護士が証拠により証明しようとする事実を説明します。

検察側陳実は、検察が証拠により証明しようとする事実を説明します。

直接尋問は、証人申請をした原告か被告の弁護士が証人に対する質問を行います。

反対尋問は、直接尋問の後に、証人申請をされた原告か被告の弁護士が証人に対する質問を行います。

証拠申請は、原告か被告の弁護士が事実を証明するために、証人や証拠を申請することで、裁判の始めに行う必要があり、判決が出るときに申請しても認められません。

最終弁論は、証拠を取り調べ、証人の尋問が終わった後で、原告の弁護士は有罪を主張し、刑罰を明らかにし、被告の弁護士は無罪を主張するか、減刑を求めます。

未決囚は、逮捕され、起訴され、裁判での判決を待っている人です。

既決囚は、有罪の判決が確定し、刑の執行を受けている囚人です。

罰金は、有罪となった被告の財産を奪う財産刑です。

終身刑は、有罪となった被告を終身に渡り服役することです。

絞首刑は、有罪となった被告を絞殺によって死刑にすることです。

釈放は、裁判で無罪になった被告が身体拘束から解放されることです。

棄却は、原告の訴えを、理由がないとして、認めず、被告を無罪として、裁判を終了することです。

アフリカ民族会議(ANC)は、土地法に反対し、マハトマ・ガンジーの影響を受けて非暴力主義を掲げて、1912年に設立された南アフリカの全国組織で、アパルトヘイトに反対し、人種差別を糾弾し、南アフリカに住む人を南アフリカの国民にするために、非暴力的抗議を行い、自由の憲章を作成し、メンバーが反逆罪で逮捕され、初代最高議長はジョン・ドューベが務め、以降、最高議長には、アルーバート・ルツーリ首長、オリヴァー・タンボやネルソン・マンデラたちが務めています。
ザッケウス・マハバネ師は、最高議長を二度務めています。

親指を立てたANC式敬礼は、映画「マンデラの名もなき看守」の中で描写されます。

南アフリカ原住民代表会議(SANNC)は、アフリカ民族会議(ANC)が設立した当初に使用していた組織名です。

民族の槍(ウムコント・ウェ・シズウェ、通称は、MK)は、アフリカ民族会議(ANC)とは独立した組織ですが、アフリカ民族会議(ANC)の承認を得て、全面的な支配を受ける、ネルソン・マンデラが創立した暴力運動を行う組織です。

パンアフリカニスト会議(PAC)は、元ANC青年同盟のメンバーが、多人種主義のANCに対抗して、1959年に設立されたアフリカ民族主義で、アフリカ人のために白人支配を倒し、アフリカ人による民主主義の政府を1963年末までに打ち立てようとする組織です。

黒人労働組合ICU(商工労働者組合)は、クレメンツ・カダリーが1919年に設立したケープタウンの港湾労働者を組織です。

アフリカ人鉱山労働者組合(AMWU)は、南アフリカの鉱山労働が賃金向上のためのストライキを行います。

トランスヴァール・インド人会議(TIC)は、マハトマ・ガンジーの影響を受けて、1903年に設立され、南アフリカのトランスヴァール州で、インド人に対する差別と戦う組織で、アフリカ民族会議(ANC)が作成した自由の憲章にに署名し、メンバーが反逆罪で逮捕されます。

ナタール・インド人会議(NIC)は、マハトマ・ガンジーが提案し、1894年に設立され、南アフリカのナタール州で、インド人に対する差別と戦う組織で、アフリカ民族会議(ANC)が作成した自由の憲章にに署名し、メンバーが反逆罪で逮捕されます。

アフリカ人民機構(APO)は、1902年に設立され、南アフリカのケープタウンで、南アフリカのカラードが南アフリカ法に反対する組織です。

全アフリカ人会議(AAC)は、南アフリカ人が南アフリカ政府に抵抗するために集結し、開催される会議です。

南アフリカ・インド人会議(SAIC)は、1924年に設立され、マハトマ・ガンジーも参加し、マハトマ・ガンジーの息子であるマニラル・ガンジーは、インド人で、「インディアン・オピニオン」紙の編集委員で、有力なメンバーである組織です。

南アフリカ・カラード人民機構(SACPO)は、1953年9月に設立され、ケープタウンでカラードの指導者とカラードの労働者が集まり、カラードの利益を守るための組織です。

民主主義者会議(COD)は、1953年末に設立され、白人と黒人の完全な平等を主張する白人の反政府左翼急進主義者たちの組織です。

非ヨーロッパ人統一運動(NEUM)は、1943年に設立され、南アフリカに住むカラードの知識人らにより結成され、非人種主義を強調し、人種に基づく組織化を拒否する組織です。

南アフリカ労働組合評議会(SACTU)は、1954年に設立され、南アフリカの労働組合が所属し、経済的および政治的権利のための戦いは同じであるという組織です。

南アフリカ放送協会(SABC)は、南アフリカの国営放送局で、1923年からラジオを放送し、1976年からはテレビを放送している組織です。

南西アフリカ人民機構(SWAPO)は、1962年に設立され、ナミビアで南アフリカ国防軍と戦うためにゲリラ戦をする組織です。

全国行動評議会は、南アフリカ共和国宣言に対して、3日間の在宅ストを行うことを決めた組織です。

南アフリカ共和国宣言は、アパルトヘイトに反対するイギリスから離れて、アパルトヘイトを行う共和国となるという宣言です。

民主主義者会議(COD)は、1952年に設立され、急進的な左翼の白人反アパルトヘイト組織です。

パンアフリカ自由運動(PAFMECSA)は、1958年に設立され、アフリカ大陸の国々を植民地と白人少数派の支配から解放する組織です。

労働者募集機関(WNLA)は、リーフ一帯の鉱山の労働者募集機関で、多人種・多言語の共同体で、来訪する首長の中継地で、ネルソン・マンデラが住んでいた場所です。

人民会議協議会は、”自由の憲章”を起草するために、ANCが設立した組織で、議長はアルーバート・ルツーリ首長です。

人民大会は、”自由の憲章”を起草するため人民会議協議会のことです。

北ローデシアの統一民族独立党(UNIP)は、1960年に設立され、イギリス領だった北ローデシアで、イギリスからの独立し、ザンビアを建国し、南アフリカのアフリカ民族会議(ANC)を支援した組織です。

黒人意識運動(BCM)は、黒人が白人によって作り出された劣等感から自らを開放し、自信を持って立ち上がり、白人の支配を終わらせるという考えです。

統一民主戦線(UDF)は、1983年の新しいアパルトヘイト憲法、1984年の人種差別三院制会議の第一回選挙に対する抗議行動を取りまとめるために組織され、600を超える反アパルトヘイト団体を統合し、ANCと深いつながりを持ち、草の根政治運動の中心組織で、ネルソン・マンデラは賛助会員に指名されています。

民主南アフリカ会議(CODESA)は、南アフリカ政界の全域にわたる18の代表団と国連、イギリス連邦、ヨーロッパ共同体とアフリカ統一帰国のからのオブザーバーで構成されましたが、パンアフリカニスト会議(PAC)とマンゴスツ・ブテレジ首長はボイコットをしましたが、新しい南アフリカを創り出す会議です。

人種隔離政策(アパルトヘイト)

人頭税は、南アフリカに居住するアフリカ人に、定額の税金を義務付けました。
南アフリカに居住するアフリカ人は、人頭税を支払うために、鉱山等で労働に従事し、現金収入を得なければなりませんでした。

家畜制限法は、家畜が牧草を食べすぎるのを抑制するという名目で、アフリカ人からさらに土地を奪うという法律です。

鉱山労働法は、1911年に成立し、人種により職種や賃金を制限し、熟練労働を白人のみに制限しました。

土地法は、1913年に成立し、アフリカ人が白人から南アフリカの87%にあたる土地を購入と賃貸することを禁止し、アフリカ人は白人が所有する南アフリカの87%にあたる土地で農業を行うことができず、鉱山等で労働に従事しなければなりませんでした。

都市地域法は、1923年に成立し、アフリカ人が都市に流入することを規制し、都市に住むアフリカ人を郊外の専用居住区に登録・居住させました。

カラー・バー法(産業調整法)は、1926年に成立し、白人だけが熟練労働を行うことができ、アフリカ人が熟練労働を行うことがでなくさせました。

原住民行政法は、1927年に成立し、行政府にアフリカ人が住む専用居住区とアフリカ人が住む専用居住区に住むアフリカ人を管理する広範な権限を与えました。

背徳法は、1927年に成立し、白人と非白人の性交渉を非合法化しました。

原住民代表法は、1936年に成立し、普通選挙人候補からアフリカ人候補を削除して、アフリカ人の代表は定められた人数に限られました。

アジア人土地保有法は、1946年に成立し、アジア人が町や都市におけるによる土地所有を制限し、ゲットー法として知られていました。

雑婚禁止法は、1949年に成立し、異なる人種間での結婚を禁止しました。

人口登録法は、1950年に成立し、全ての南アフリカに居住する人は、白人、カラード、インド人とアフリカ人で分類することを公式に認めました。
日本人は、名誉白人として登録されましたが、永住権と不動産取得は認められず、白人と性交渉をすると背徳法により有罪になりました。

集団地域法またはゲットー法は、1950年に成立し、各人種にそれぞれの個別の市街区画を割り当て、強制移住をさせます。

共産主義弾圧法は、1950年に成立し、南アフリカ共産党を非合法化し、共産党の党員になったり、共産党のための活動をすることが犯罪になり、最高で懲役10年を科します。

投票者分離代表法は、1951年に成立し、白人以外の人々から議会代表権を取り上げ、白人以外の人々から分離投票者名簿へ移し、白人以外の人々から参政権を制限しました。

バンツー政庁法またはバンツー統治機構法は、1951年に成立し、パンツー政庁が設立され、アフリカ人の間接的民族代表機関を廃止し、アフリカ人を部族に分類し、部族ごとにパンツースタンを割り振って、南アフリカ政府の指名する部族首長による地域統治機構という行政機関を設置し、アフリカ人を部族ごとに名目的な国に所属させ、アフリカ人を外国人労働者にして、南アフリカの選挙権も市民権もなくします。

パス法は、1952年に成立し、南アフリカに居住する16歳以上のアフリカ人にパスの携帯を義務付け、アフリカ人の移動の自由を制限しました。
パスには、氏名、写真、指紋、雇用主の氏名・連絡先が掲載され、雇用主は南アフリカ国民で白人に限定されていました。

公安法は、1953年に成立し、裁判なしで、国民を拘留することを認める法律です。

修正刑法は、1953年に成立し、不服従者に体罰を認める法律です。

バンツー教育法は、1953年に成立し、アアフリカ人を教育する管轄官庁を教育省から原住民問題省に移管し、南アフリカ政府や学校を批判することを禁止し、教育における白人至上主義であり、アフリカ人に劣等意識を持たせ、アフリカ人を下等な労働者として、白人に従属するように教育するという法律です。

バンツー自治促進法は、1959年に成立し、部族別に分離した八つのパンツースタンを設け、自分の部族のパンツースタンでしか市民権を得られなくする法律です。

バンツースタン制度は、人種融和を否定し、白人とアフリカ人を分離し、発展させるために、白人が南アフリカの87%の土地を所有し、アフリカ人たちは南アフリカの13%の土地に押し込め、アフリカ人を南アフリカ人ではない外国人として扱いました。

大学教育拡張法は、1959年に成立し、人種的に開かれていた大学から非白人を締め出すための法律です。

活動禁止は、組織からの強制的な辞任をさせ、あらゆる集会への参加を禁止し、活動禁止に従わない場合は、投獄することができます。
ありとあらゆる集会というのは、政治に関係のない集会も含まれ、息子の誕生日パーティーにでさえも出席することはできません。
一度にふたり以上の人間と話すことも禁じられ、自分で自分を抑制するように仕向けます。

破壊活動防止法は、1962年に成立し、破壊運動に対して自宅監禁や活動禁止を行い、刑罰も最高刑の極刑へと引き上げられます。

九十日拘留法は、1963年に成立し、警察官が逮捕令状なしに政治犯罪の容疑者を逮捕し、逮捕された容疑者の法的保護を受ける権利を取り上げ、最大90日まで拘禁するための法律です。

テロ行為法は、1967年に成立し、警察がテロリスト容疑者やテロリストに関する情報を持っていると警察が認めた人物に対して、逮捕令状や裁判無しで最長60日間拘留するための法律です。

テロリストは、政治的な目的を達成するために暴力を使用する人です。

ネルソン・マンデラの年表

1918年7月18日、ネルソン・マンデラは、トランスカイ自治区の中心地ウタムタにあるムバシェ川沿いのムヴェゾで、部族の指導者の相談役の子として、生まれました。

1923年、ネルソンマンデラは、5歳になると牧草地で羊や子牛の世話をして、棒術などを学びます。

1925年、ネルソンマンデラは、7歳で、小学校に通い、小学校の先生にネルソンという英語の名前を付けられます。

1927年、ネルソンマンデラは、9歳で、父親が亡くなり、ムケケズウェニに連れていかれ、デンブ族の摂政であるジョンギンタバ・ダリンディエボの息子として育てられます。

1934年9月、ネルソン・マンデラは、16歳で、割礼を受け、成人し、エングコボ地区にある最古のメソジスト派布教区にあるクラークベリー寄宿学校に入学します。

1937年9月、ネルソン・マンデラは、19歳で、フォートボーフォートにあるメソジスト派の高等教育ヒールタウンに入学します。

1939年9月、ネルソン・マンデラは、21歳で、アリス市にあるフォートヘア大学へ入学します。

1941年、ネルソン・マンデラは、23歳で、ジョハネスバーグへ家出し、不動産業を営むウォーター・シスルに出会い、白人弁護士のレイザー・サイデルスキーを紹介し、ジョハネスバーグでも最大手の法律事務所で助手として雇用され、南アフリカ大学の通信教育課程に入学します。

1941年11月7日、ジェイムズ・グレゴリーが生まれます。

1942年末、ネルソン・マンデラは、24歳で、南アフリカ大学の通信教育課程で学び、BA(学士号)の最終試験に合格し、BA(学士号)を取得します。

1943年初め、ネルソン・マンデラは、25歳で、ジョハネスバーグでも最大手の法律事務所で実務研修生として雇用され、アリス市にあるフォートヘア大学で卒業式に出席し、弁護士になる準備段階として法学士を取得するために、ウィットウォーターランド大学に入学します。

1943年8月、ネルソン・マンデラは、アレクサンドラで、バス料金の値上げに抗議し、バス・ボイコットの大行進に参加します。

1943年12月、ネルソン・マンデラたちは、ブルームフォンテインで開催されたANC年次総会で、ウィリアム・ンコムを委員長とするANC青年同盟の設立を提案し、承認されます。

1944年4月9日、ANC青年同盟がエロフ・ストリートのパンツー男子社交センターで結成され、ネルソン・マンデラは、26歳で、ANC青年同盟の執行委員を務めることになります。

1944年、ネルソン・マンデラは、エヴリン・マセと結婚します。

1946年、ネルソン・マンデラは、ANCのメンバーがアフリカ人鉱山労働者組合(AMWU)を結成し、数万人ものアフリカ人鉱山労働者がストライキに参加し、南アフリカ政府に弾圧されても屈することありませんが、鎮圧されるのを見ます。
ネルソン・マンデラは、南アフリカ政府がアジア人土地保有法を成立させ、インド人が2年間の消極的抵抗という統一行動を開始し、逮捕され、刑務所に入れられることを恐れず、インド人の苦痛や犠牲をいとわない決意を見ます。
ネルソン・マンデラは、28歳で、テンビという息子が生まれ、ウェストクリフに家を持ちます。

1947年、ネルソン・マンデラは、29歳で、3年間の法律事務所で実務研修生を終了し、マカジウェという娘が生まれ、生後9ヶ月で亡くなり、トランスヴァールANCの執行委員に選ばれます。

1948年7月4日、南アフリカの総選挙で、アパルトヘイトを支持する国民党がアパルトヘイトを支持しない連合党に勝利し、ヤン・クリスティアーン・スマッツ首相が辞任し、ダニエル・フランソワ・マランが南アフリカの首相に就任します。

1949年、ANC青年同盟は、ブルームフォンテインで開催されたANC年次総会で、ANC議長としてモロカ博士を支持し、ANC議長のクマ博士を退陣させ、ボイコット、ストライキ、在宅スト、消極的抵抗、抗議デモ等の太守行動を提案し、採択されます。
ネルソン・マンデラは、31歳で、全国執行委員会の一員になります。

ネルソン・マンデラは、ANCが主導しない、共産党とインド人会議が主導する自由の日のゼネストに反対し、アーメド・カトラダと出会います。

1950年5月1日、共産党とインド人会議は、自由の日のゼネストを行います。

1950年6月26日、ANCは、他の組織と連携し、共産党弾圧法に抗議するために、国民抗議の日という政治ストを実行します。

ネルソン・マンデラは、32歳で、次男が生まれ、共産主義を理解するために共産党宣言等の本を読み、共産主義者に対する見方を改め、共産主義者をANCに受け入れ、ANCの青年同盟の全国議長になり、自動車の運転免許を取得します。

南アフリカ政府は、ジョハネスバーク西部地域移転計画を作り、ソフィアタウン、マーティンデールとニュークレアからアフリカ人を市外から20km離れたメドーランドに強制移住させ、ソフィアタウン、マーティンデールとニュークレアを白人居住区に指定します。

1951年、ネルソン・マンデラは、33歳で、テルブランシュ・アンド・ブリギッシュ法律事務所で、裁判が始まる前に弁護士がしなければならない仕事を行い、アフリカ人に白人より高い料金を請求していることを知り、アフリカ人に妥当な料金を請求し、アフリカ人への教育に熱心で、リベラルなヘルマン・アンド・マイケル法律事務所へ移ります。

1952年、ネルソン・マンデラは、34歳で、資格試験に合格し、H・M・バスナー法律事務所で正規の弁護士として働き始めます。

1952年2月29日、ネルソン・マンデラたちは、アパルトヘイト関連法案を撤廃することを政府に要求することを決議し、南アフリカのダニエル・フランソワ・マラン首相に手紙を送付し、いかなる行動も全力を挙げて鎮圧すると脅されます。

1952年4月6日、ネルソン・マンデラたちは、デモを行います。

1952年5月31日、ネルソン・マンデラたちは、会合を開き、6月26日に不服従運動を始めることを決議し、発表します。

1952年6月22日、ネルソン・マンデラたちは、ダーバンで、有志の日という集会を開き、ネルソン・マンデラは、基調演説を行います。

1952年6月26日、ネルソン・マンデラたちは、南アフリカで、不服従運動が始めます。
ネルソン・マンデラは、不服従運動を深夜まで統括し、帰宅しようとして、警察官に逮捕されます。

1952年6月29日、ネルソン・マンデラは、釈放されます。

1952年7月30日、ネルソン・マンデラたちは、共産主義弾圧法違反の容疑で、H・M・バスナー法律事務所で逮捕されます。

1952年8月、ネルソン・マンデラは、オリヴァー・タンボと一緒に、マンデラ・アンド・タンボ法律事務所を開設します。

1952年10月、ネルソン・マンデラは、トランスヴァール支部の議長になります。

1952年12月2日、ネルソン・マンデラたちは、共産主義弾圧法違反の容疑で、有罪の宣告を受け、懲役9ヶ月と重労働の刑を執行猶予2年付きで言い渡されます。

1952年末、ネルソン・マンデラは、34歳で、6ヶ月間の活動禁止処分を受け、あらゆる会合や集会に参加できなくなりますが、ANCが組織として地下で活動できるようにする対策案であるマンデラ計画(通称は、M計画)を作り、承認され、実行されます。
アルバート・ルツーリ首長がANC議長に選ばれます。

1953年6月、ANCは、南アフリカ政府が推進するソフィアタウン移転計画に反対します。
ネルソン・マンデラは、活動禁止期間が終わっていたので、ソフィアタウン移転計画に反対する演説を行います。

1952年9月3日、ネルソン・マンデラは、35歳で、共産主義弾圧法により、ANCから退任させられ、二度目の2年間の活動禁止処分を受けます。

1954年、ネルソン・マンデラは、36歳で、認定弁護士の削除申請が行われますが、却下されます。

1955年2月9日、南アフリカ政府は、ソフィアタウン移転を実行します。
1955年4月1日、南アフリカ政府は、パンツー教育法が施行され、アフリカ人学校を教育省から原住民問題省に移管します。
1955年6月25~26日、人民会議は、クリップタウンで、人民会議を開催し、自由の憲章を採択します。

1955年9月、ネルソン・マンデラは、37歳で、活動禁止が解け、仕事と休暇を兼ねて、生まれ故郷のトランスカイへ行きます。
1955年9月27日、南アフリカ政府は、史上最大規模の全国的な手入れを行います。

1956年3月25日、ネルソン・マンデラは、三度目の5年間の活動禁止処分を受けます。
1956年12月5日、ネルソン・マンデラは、38歳で、ルソー主任刑事によって、逮捕され、刑務所に連れていかれ、法廷に呼び出され、起訴され、刑務所に拘留されます。
1956年12月19日、ネルソン・マンデラたちは、予備審問に出廷し、反逆罪、原稿政権打倒、共産主義国樹立の陰謀で起訴されます。
ネルソン・マンデラは、妻のエヴリン・マセが3人の子供を連れて、実業家である兄のところへ行きます。

1957年1月9日、ネルソン・マンデラたちは、予備審問が始まり、南アフリカ政府が起訴状に対して、証拠を提示し、証人の証言させ、弁護士が反論します。
1957年9月2日、ネルソン・マンデラたちは、予備審問の検察側陳述が終了し、弁護側に証拠を吟味する時間として、4ヶ月の時間を与えられます。
1958年1月、ネルソン・マンデラたちは、予備審問を経て、正式に起訴されます。
ネルソン・マンデラは、39歳で、ノムザモ・ウィニフレッド・マディキ、通称ウイニーと出会い、一目惚れし、プロポーズします。
ネルソン・マンデラは、妻のエヴリン・マセとの離婚届を提出します。
1958年6月14日、ネルソン・マンデラは、ウイニーと結婚します。
ネルソン・マンデラの妻のウイニーは、女性パス問題に対するデモに参加し、逮捕され、保釈されます。

1958年8月24日、南アフリカのヨハネス・ストレイダム首相は、ガンで亡くなりました。

1958年8月、南アフリカで総選挙が行われます。
ネルソン・マンデラたちは、3日間のストを行いますが、失敗し、1日で終了します。
アパルトヘイトを支持し、実行する国民党が勝利します。
ネルソン・マンデラたちは、本裁判が始まります。

1958年9月2日、国民党のヘンドリック・フルウールトは、南アフリカ共和国の首相に就任しました。

1958年10月13日、南アフリカ政府は、ネルソン・マンデラたちへの起訴を取り下げます。
1958年11月、南アフリカ政府は、新たな起訴状に基づいて、ネルソン・マンデラを含むANCのメンバーだけを起訴します。

1959年2月4日、ネルソン・マンデラは、40歳で、ウイニーとの間に、娘が生まれ、ゼナニと名付けます。

1959年4月6日、ANCの多人種主義に対抗し、アフリカ人が白人支配を打ち倒そうとするパンアフリカニスト会議(PAC)が組織されます。

1959年、南アフリカ政府は、パンツー自治促進法、大学教育拡張法を採択します。

1959年8月3日、41歳になるネルソン・マンデラを含むANCのメンバーだけに対する本裁判が始まり、ネルソン・マンデラたちは無罪を主張します。
1960年3月10日、ネルソン・マンデラを含むANCのメンバーだけに対する本裁判に対する検察側の陳実が終了します。
1960年3月14日、ネルソン・マンデラを含むANCのメンバーだけに対する本裁判に対する弁護側の証人が証言します。

ANCは、1960年3月31日にパス法に対する抗議活動を決めます。
ANCに対抗するPACは、1960年3月21日にパス法に対する抗議活動を決めます。
1960年3月21日、PACが組織した数千人は、逮捕を覚悟で身分証を持たずにシャーブヴィルのフェレーニヒングで抗議行動を開始し、警察官は数千人に対して発砲を開始し、700発以上の銃弾を発砲し、69人が死亡、400人以上が負傷します。
シャーブヴィルでの大虐殺は、世界中の新聞の一面で報道されます。
1960年3月26日、ANCは、ルツーリ首長が、ブレトリアでパスを燃やし、ハスを燃やすように呼びかけます。
1960年3月28日、ANCは、シャーブヴィルでの大虐殺に対して、追悼と抗議のために、在宅ストを行います。
1960年3月30日、南アフリカ政府は、非常事態を宣言し、ネルソン・マンデラを含む18,000人以上を拘留します。
1960年4月1日、国際連合安全保障理事会は、決議134を可決します。
1960年4月8日、南アフリカ政府は、ANCとPACを非合法団体に指定します。

ネルソン・マンデラを含むANCのメンバーだけは、裁判のために、ブレトリア刑務所へ移送され、裁判が行われます。
1960年4月26日、ネルソン・マンデラを含むANCのメンバーだけに対する本裁判に対する弁護団は弁護を辞めて、退廷します。
ネルソン・マンデラを含むANCのメンバーは、裁判を引き延ばすために、自分で証人として証言し、弁護を行います。

1960年8月31日、南アフリカ政府は、非常事態を解除します。
ネルソン・マンデラは、42歳で、帰宅します。

1960年9月、ネルソン・マンデラたちは、非合法団体に指定されたANCの活動を地下で続けるために、青年同盟と女性同盟を解散し、ANCの活動に関わる人を絞り込みます。
ネルソン・マンデラは、マンデラ・アンド・タンポ法律事務所を閉鎖します。

1960年10月5日、南アフリカ政府が、アパルトヘイトを維持するために、共和国へ移行し、イギリス連邦を脱退する国民投票を実施し、勝利します。

1961年1月、ネルソン・マンデラは、42歳で、ウイニーとの間に、娘が生まれ、ジンジスワと名付けます。

1961年3月25日、ネルソン・マンデラは、三度目の5年間の活動禁止処分が終わり、ANCの地下活動に専念するために、家を出て、家族と別れ、5年ぶりにピーターマリッパーグで開催された国民会議で演説をします。

1961年3月29日、ネルソン・マンデラを含むANCのメンバーは、反逆罪に対して、無罪判決を受けて、釈放されますが、ANCの地下活動を行うために潜伏し、全国を回り始めます。

1961年5月29~31日、ネルソン・マンデラたちは、南アフリカ共和国へ移行することに反対するために最大規模の在宅ストを計画し、実行します。
1961年5月30日、ネルソン・マンデラたちは、南アフリカ共和国へ移行することに反対する在宅ストを中止し、非暴力運動の限界を感じ、暴力運動へ向かいます。

ANCは、全国執行委員会において、ANCとつながりを持ち、全面的な支配を受けながらも、独立した軍事行動を行う組織を、議論を経なかったことにして、承認します。

ネルソン・マンデラは、軍事行動を行う組織「民族の槍(通称、MK)」を創設し、全国最高司令部、各州に地方司令部、地方司令部の下に細胞を組織し、住まいを転々としながら、職業や名前を変えて、武装闘争についての本を読み、規約を作ります。

1961年5月31日、南アフリカ政府は、アパルトヘイトに反対するイギリスから離れて、共和国になります。

1961年6月26日、ネルソン・マンデラは、全国各紙へ宛てて、地下から手紙を送り、軍事行動を行うことを宣言します。

1961年12月10日、アルーバート・ルツーリ首長にノーベル平和賞が授与されます。

1961年12月16日(ディンガネの日)、ネルソン・マンデラが率いる「民族の槍(通称、MK)」は、発電所、官庁の建物を手製の爆弾で爆破し、MK兵士のペトラス・モリフェが死亡します。

1961年12月31日、ネルソン・マンデラが率いる「民族の槍(通称、MK)」は、再び破壊工作を行います。

1962年2月、ネルソン・マンデラは、43歳で、南アフリカを離れ、PAFMECSAがエチオピアの首都であるアディスアベバで開催される会議に出席し、演説し、ANCとネルソン・マンデラが率いる「民族の槍(通称、MK)」に対する理解と支持を得て、白人のアフリカ人には西洋文化に匹敵する文化がないということに異議を唱えるために、アフリカの歴史を学び、軍事訓練への協力、武器調達に対する資金援助と物資援助を得で、アディスアベバで軍事訓練を受けます。

1962年8月5日、ネルソン・マンデラは、44歳で、逮捕されます。
1962年10月15日、ネルソン・マンデラへの審問が、始まります。
検察官は、多くの証人を出廷させ、在宅ストを煽動し、不法に国を離れた罪で起訴し、立証します。
1962年10月、判事は、ネルソン・マンデラに有罪を言い渡し、煽動をしてストを行った罪に懲役3年、旅券を持たずに出国した罪に懲役2年、執行猶予はなしの判決を言い渡し、プレトリア刑務所に収容され、ロベン島の刑務所へ移送されます。

1962年10月、非合法組織とされているANCが年次総会を行い、MKをANCの闘争の軍事部門として認めます。

1962年、南アフリカ政府は、破壊発動に対して自宅監禁や活動禁止を行い、刑罰も最高刑は極刑へと引き上げる破壊活動防止法を制定します。
不法侵入や銃器の不法所持も破壊活動に含まれます。

1962年12月、南アフリカ政府は、活動禁止になった人の声明を新聞や雑誌で公表することを禁止にして、新聞や雑誌を発行禁止にします。

1963年5月1日、南アフリカ政府は、警察官が逮捕令状なしに政治犯罪の容疑者を逮捕し、逮捕された容疑者の法的保護を受ける権利を取り上げ、最大90日まで拘禁できる九十日拘留法を制定します。

1963年7月11日、南アフリカ政府は、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアにあるリリーズリーフ農場を摘発し、ウォルター・シスル、アーメド・カトラダたちを逮捕します。
1963年10月9日、ネルソン・マンデラたちを破壊活動の罪状で裁くリヴォニア裁判がブレトリアの司法宮で始まります。
1964年2月29日、南アフリカ政府側の陳実が終わります。
1964年4月20日、弁護側の反対尋問が始まります。
1964年5月20日、南アフリカ政府側と被告側弁護士の最終弁論を行います。
1964年6月11日、クアルトゥス・デヴェット首席判事は、ネルソン・マンデラたちに対して有罪か、無罪かを言い渡し、量刑については言い渡しません。
1964年6月12日、クアルトゥス・デヴェット首席判事は、ネルソン・マンデラたちに対して、終身刑を言い渡します。
1964年6月13日、ネルソン・マンデラたちはロペン島に収監されます。

1965年夏、国際十字の視察団が、ネルソン・マンデラたちを視察し、ネルソン・マンデラたちの苦情に耳を傾け、苦情に対して対応します。

1966年9月6日、南アフリカのヘンドリック・フルウールト首相は、白人の反アパルトヘイト主義者で守衛のディミトリオス・ツァフェンダスに刺殺されます。

1968年6月、ジェイムズ・グレゴリーは、ネルソン・マンデラらが収容されていたロベン刑務所で、手紙検閲および看守の任務に就きます。
映画「マンデラの名もなき看守」

1967年7月21日、アルバート・ルツーリ首長が亡くなります。
1968年9月26日、ネルソン・マンデラの母のノセケニ・ファニーが亡くなります。
1969年5月12日、ウィニーは、テロ行為法にもとづき逮捕されます。
1969年7月、テンビ・マンデラは、25歳で、二人の父親ですが、自動車事故で亡くなります。

1970年9月14日、ウィニー・マンデラは、1年4ヶ月の独房監禁の後、釈放されます。

1971年11月、スティーヴ・ビコは、ケープタウン大学で「白人の人種差別主義と黒人意識」に関する論文を発表します。
1973年3月、スティーヴ・ビコは、活動禁止処分を受け、故郷のキングウィリアムズタウンに移転させられます。

1973年11月14日、アン王女とマーク・フィリップスが結婚します。

1976年、南アフリカの国民党議員で、警察、刑務所と司法を担当する大臣であるジミー・クルーガーは、ネルソン・マンデラにトランスカイ自治区政府の正当性を認め、トランスカイの刑務所に移り、刑期の短縮を提案します。

1976年6月16日、1万5千人ものアフリカ人学生達は、中学校の全クラスの半数はアフリカーン語で教えなくてはいけないという南アフリカ政府の決定に抗議するために、ソウェトで蜂起し、警察が発砲し、暴動に発展します。

1976年8月、ウィニーは、治安維持法によって4ヶ月間収監されます。
1976年12月、ウィニーは、釈放されます。
1977年5月16日、南アフリカ政府は、ウィニーをオレンジ州のブランドフォードへ流刑にします。

1977年9月12日、スティーヴ・ビコは、拷問により重体になり、プレトリア重犯罪刑務所まで移送され、移送の途中で、30歳で亡くなります。
映画「遠い夜明け」

1980年3月、ANC本部が、ネルソン・マンデラたちの釈放を求める”マンデラに自由を!”というキャンペーンが行われます。

1982年3月、ウィニーが交通事故にあい、入院しますが、命に別状はありません。
ネルソン・マンデラたちの4人の囚人は、ロベン島刑務所から、ポールスムーア重警備刑務所へ移送します。

1983年5月、MKは、プレトリアの中心部にある空軍と軍情報部の共同事務所を標的に、自動車爆弾で攻撃し、一般市民を含む、19人が死亡し、200人以上が負傷します。

1984年5月、ネルソン・マンデラは、接触面会が許され、21年ぶりに、ウィニー、ゼニとゼニの末の娘を抱き合います。

1984年12月、デズモンド・ツツ主教がノーベル平和賞を授与されます。

1985年1月31日、南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領は、国会の会議で「政治的な道具として暴力を用いることを無条件で放棄するなら、政治囚は釈放する」と演説し、提案します。

1985年2月10日、ソウェトのジャブラニ・スタジアムで開かれる統一民主戦線(UDF)の日曜日の集会で、シンジ・マンデラが父であるネルソン・マンデラの演説の原稿を代読します。

1985年7月13日、イギリスのロンドンにあるウェンブリー・スタジアムで、クィーン等が出演し、20世紀最大のチャリティーコンサート「ライヴエイド」が行われます。

1985年10月、ナッソーで開かれた英連邦会議で、英国のマーガレット・サッチャー首相が反対したので、南アフリカ政府に対する国際的な制裁に加わることで、合意に達することはできません。

1986年5月、南アフリカ政府は、ボツワナ、ザンビアとジンバブエにあるANCの基地に空爆と奇襲攻撃をします。

1986年6月12日、南アフリカ政府は、国家非常事態を宣言します。

1986年10月2日、アメリカの上院と下院が大統領拒否権を覆し、強硬な経済制裁に踏み切ります。

1987年、ANCは、75周年を祝い、タンザニアで開かれた総会には、50ヶ国以上の代表者が出席します。

1988年5月、ネルソン・マンデラは、委員会との初会合で、話し合います。
初めの数ヶ月は、毎週のように集まり、一ヶ月間が空き、また毎週のように集まるというように会合が行われます。
ネルソン・マンデラは、肺結核になり、入院し、手術し、療養し、転院します。

1988年6月11日、イギリスのロンドンにあるウェンブリー・スタジアムで、ネルソン・マンデラの70歳誕生日コンサート「The Nelson Mandela 70th Birthday Tribute」が開催され、「フリー マンデラ(マンデラを開放しろ)」という運動が起きます。

1988年12月9日、ネルソン・マンデラは、退院し、ヴィクター・フェルスター刑務所に移送され、大ききな台所に、隣接した居間、奥には広い寝室、小さめの2つの寝室、裏庭にはプールがあり、料理人はスヴァルト准尉です。

1989年1月、ネルソン・マンデラは、ANCの同志たちと大統領に送る覚書に話し合います。
南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領は、心臓発作で倒れ、国民党の党首を辞任します。
フレデリック・ウィレム・デクラークが、国民党の党首に就任します。

1989年7月5日、南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領は、ネルソン・マンデラと面会します。

1989年7月18日、ネルソン・マンデラは、71歳の誕生日に、家族のほぼ全員をヴィクター・フェルスター刑務所に呼んで、祝います。

1989年8月15日、南アフリカのピーター・ウィレム・ボタ大統領は、辞任します。
フレデリック・ウィレム・デクラークは、南アフリカの大統領代行に就任します。

1989年10月10日、南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、ウォルター・シスル、レイモンド・ムシュラバ、アーメド・カトラダ、アンドルー・ムランゲニ、イライアス・モツォアレディたちを釈放すると発表します。

1989年10月15日、南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、ウォルター・シスル、レイモンド・ムシュラバ、アーメド・カトラダ、アンドルー・ムランゲニ、イライアス・モツォアレディたちを釈放します。

1989年12月13日、南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、ネルソン・マンデラと面会します。

1990年2月2日、南アフリカのフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、国会で、恒例の開会演説を行い、アパルトヘイト制度を解体し、反アパルトヘイトの非合法組織に対する活動禁止措置を解除し、政治囚を釈放し、非常事態にともなう規制を撤廃を発表します。

1990年2月11日、南アフリカ共和国のフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、71歳になるネルソン・マンデラを釈放します。
ネルソン・マンデラは、ヴィクター・フェルスター刑務所の門から歩いて出て行き、ケープタウンのグランドパレードで、演説します。
映画「マンデラの名もなき看守」
1990年2月12日、ネルソン・マンデラは、記者会見を行います。
1990年2月13日、ネルソン・マンデラは、ソウェトのファースト・ナショナル・バンク・スタジアムで演説をします。
ネルソン・マンデラは、ダーバンにあるキングス・パークで「あなたがたの銃を、ナイフを、バンガ刀を、海へ投げ捨てなさい」という演説をします。

1990年2月27日、ネルソン・マンデラは、ザンビアの首都ルサカで開催される全国執行委員会に出席し、同志たちと再会し、釈放されるまでの経緯を報告し、副議長に選出され、武装闘争の目的が達成されていないので、武装闘争を中止するのは、時期尚早だと答え、アフリカ諸国歴訪へと向かいます。

1990年3月26日、警察隊が、予告もなく、セボケング居住区からフェリーニヒングまで行進していたANCのデモ行進に発砲し、12人が死亡し、数百人が負傷します。

1990年4月16日、ネルソン・マンデラは、イギリスのロンドンにあるウェンブリー・スタジアムで開催される「Nelson Mandela: An International Tribute for a Free South Africa」に出席し、世界60か国以上に中継され、反アパルトヘイト勢力に向け、労力、支持と連帯への感謝の言葉を述べます。

1990年4月、ネルソン・マンデラは、生まれ故郷のクヌに行き、母親のお墓参りをして、ロベン島へ行き、政治囚に南アフリカ政府の恩赦を受け入れるように説得します。

1990年5月、ネルソン・マンデラたちは、フルーテ・スキールという大邸宅で南アフリカ政府と3日間の第一回の会議を行います。

1990年6月、ネルソン・マンデラは、欧米諸国を訪れ、感謝をして、演説を行い、南アフリカでアパルトヘイト制度が完全に解体されるまで、制裁継続をもとめます。

1990年7月、ネルソン・マンデラは、ウガンダ、ケニア、モザンビークを訪問し、南アフリカに戻ります。
治安部隊は、ANCの会員を逮捕し、立ち消えた共産党による政府転覆計画というヴュラ作戦の資料を押収します。
ネルソン・マンデラは、ヴュラ作戦の資料を読み、ジョー・スロヴォと話し、政府転覆計画ないとこを示すために、全国執行委員会で武装闘争を停止を承認させます。
1990年8月6日、ネルソン・マンデラは、南アフリカ政府と武装闘争を停止し、政治囚を釈放し、治安維持特報を見直すプレトリア文書に著名します。
1990年9月、公安警察関係者は、南アフリカ政府とANCの和平交渉を妨害するために、インカタ党員にANCの会員を虐殺させ、南アフリカ政府は黙認します。
ネルソン・マンデラは、惨殺事件が起こるようなら、武器を手にして戦うしかないと記者会見で発表します。
1990年11月、公安警察関係者は、南アフリカ政府とANCの和平交渉を妨害するために、インカタ党員にANCの会員を虐殺させ、南アフリカ政府は黙認します。

1990年12月、ANC議長のオリヴァー・タンボは、30年ぶりに、南アフリカに帰国します。

1991年1月、ネルソン・マンデラは、インカタ党のマンゴスツ・ブテレジ党首と会議し、行動規範を含む協定に著名します。
1991年4月、ネルソン・マンデラは、インカタ党のマンゴスツ・ブテレジ党首と会議し、行動規範を含む協定に著名します。
ネルソン・マンデラたちは、南アフリカ政府が流血事件を助長していると指摘し、南アフリカ政府に国防大臣と法務治安大臣の解任、対破壊活動秘密部隊の解体、不法行為を調査する独立委員会の設置、武器の携帯禁止等を求め、期限を定め、以降は対話を停止すると伝えます。

1991年7月7日、ネルソン・マンデラは、ANCの年次総会で満場一致で、ANC議長に選ばれます。

1991年12月20日、第一回民主南アフリカ会議(CODESA)がO・R・タンボ国際空港(ヤン・スマッシュ空港)の近くの世界貿易センターで行われます。

1992年4月13日、ANC議長のネルソン・マンデラは、ウィニー・マンデラとの別居の記者会見を行います。

1992年5月15日、第二回民主南アフリカ会議(CODESA)がヤン・スマッシュ空港(現在、O・R・タンボ国際空港)の近くの世界貿易センターで行われますが、南アフリカ政府が白人の権力を保持するために提案を行ったために、ANCと南アフリカ政府が解決に向けて、作業をするために、会談を継続することで、合意します。

1992年6月16日、ANCのネルソン・マンデラたちは、波状大衆行動という方針に基づき、スト、デモ、ボイコットを始めます。
1992年6月17日、インカタ党員は、本格的に武装し、ボイバトンのヴァール居住区のANCの会員を虐殺します。
1992年8月3~4日、ANCのネルソン・マンデラたちは、全国ストを行います。
1992年9月7日、ANCの会員は、東ケープのシスカイというホームランドの首都ビショヘへのデモ行進を行い、兵士から銃撃を受けて、虐殺されます。
1992年9月26日、ANC議長のネルソン・マンデラは、南アフリカ共和国のフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領と会談し、”和解の記録”に著名し、選挙による一院制の制憲会議に同意します。
1992年10月、ジョー・スロヴォは、国民統一政府などを提案します。
1992年11月18日、ANCの全国執行委員会は、国民統一政府を承認します。

1992年12月、ANCのネルソン・マンデラたちは、南アフリカ政府と秘密交渉を開始します。
1993年2月、ANCのネルソン・マンデラたちと南アフリカ政府は、5年間の国民統一政府、連立内閣、暫定執行評議会の設置に関する基本合意を発表します。

1993年4月10日、クリス・ハニが、戦闘的な右翼組織の一員のクライヴ・ダービー・ルイスにより、銃殺されます。
1993年4月24日、オリヴァー・タンボは、脳卒中の再発による合併症のために亡くなります。

1993年6月3日、多党派フォーラムは、世界貿易センターで、南アフリカで最初の、全国的な、人種差別のない、一人一票制による選挙の実施を1994年4月27日とすると投票で決めます。

1993年12月10日、ANC議長のネルソン・マンデラとフレデリック・ウィレム・デクラークは、ノーベル平和賞を受賞します。

1994年2月、選挙運動が始まります。

1994年2月12日、党派登録の最終期限です。

1994年3月1日、ANC議長のネルソン・マンデラは、ナタール州ダーバンで、インカタ党を率いるマンゴスツ・ブテレジ首長に会い、国際的な調停団に委ねることを条件に、選挙に仮登録することに同意します。

1994年3月、ボブタツワナ・ホームランドのルーカス・マンゴベ大統領は、軍のクーデターにより、追放されます。

1994年3月28日、インカタ党の支持者は、槍や投げ棒を振りかざしながら、ジョハネスバーグで、練り歩き、ANCの本部を襲撃し、警備団と殺戮を行います。

1994年4月13日、元英国外務大臣のキャリントン卿と元アメリカ国務長官のヘンリー・キッシンジャーが率いる調停団が到着します。

1994年4月17日、ANC議長のネルソン・マンデラは、南アフリカののフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領とテレビ討論を行います。

1994年4月19日、マンゴスツ・ブテレジ首長は、選挙に参加することにします。

1994年4月27日、選挙の投票が始まります。
ANC議長のネルソン・マンデラは、ナタール州ダーバンのすぐ北にあるイナンダ居住区にあるオーランゲ高校で、ANCに投票します。

ANC議長のネルソン・マンデラが率いるANCは、62.6%の得票数を獲得し、400議席中の252議席を与えられますが、三分の二には達せず、他の党と協力して、憲法を起草することになります。

1994年5月2日、南アフリカののフレデリック・ウィレム・デクラーク大統領は、権限委譲の演説をします。
ANC議長のネルソン・マンデラは、ジョハネスバーグのカールトン・ホテルの大広間で行われている、勝利の祝典で、演説します。

1994年5月10日に、ネルソン・マンデラは、75歳で、南アフリカ共和国大統領に就任し、プレトリアのユニオンビル前の野外劇場で、就任式を行います。
南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ大統領は、世界中から集まった来賓と注目している全世界に向かって、演説をします。

1995年5月25日、ラグビーワールドカップ1995が開幕し、南アフリカのスプリングボクスは、前回大会の覇者オーストラリアと対戦し、27―18で勝利します。

南アフリカのスプリングボクスは、カナダ代表チームと対戦し、20-0で勝利します。
南アフリカのスプリングボクスは、ルーマニア代表チームと対戦し、21-8で勝利します。
南アフリカの代表チームのスプリングボクスは、3戦全勝で、予選リーグを1位で通過します。

1995年6月10日、南アフリカのスプリングボクスは、エリス・パークで行われた準々決勝で西サモア代表チームと対戦し、42-14で勝利し、準決勝に進出します。
1995年6月17日、南アフリカのスプリングボクスは、キングス・パークで行われた準決勝でフランス代表チームと対戦し、19-15で勝利し、決勝に進出します。
1995年6月24日、南アフリカのスプリングボクスは、ジョハネスバーグのエリス・パークで行われた決勝戦で、ニュージーランドのオールブラックスをノートライのまま9―9で史上初の延長戦に突入し、ジョエル・ストランスキーのドロップ・ゴールで決勝点を挙げて優勝し、ラグビーワールドカップ1995が閉幕します。
映画「インビクタス/負けざる者たち」

1996年3月、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ大統領は、ウィニー・マンデラと正式に離婚します。

1996年10月11日、南アフリカ共和国の新憲法が成立されます。
1996年12月18日、南アフリカ共和国の新憲法が公布されます。
1997年2月4日、南アフリカ共和国の新憲法が施行されます。

1997年12月、ANC党大会でネルソン・マンデラANC議長は、ターボ・ムベキに議長の座を譲ります。

1998年7月18日、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ大統領は、グラサ マシェルと結婚します。

1999年6月14日、南アフリカ共和国のネルソン・マンデラ大統領は、任期満了に伴い大統領職を退任します。

2013年12月5日、ネルソン・マンデラは、95歳で、亡くなります。

社会的背景

1652年4月6日、ヤン・ファン・リーベック率いるオランダ東インド会社の4隻の船が南アフリカのテーブル湾に上陸し、補給を目的とした入植地を建設しました。

1779年~1879年、南アフリカに入植した英国人とコーサ族との間で、領土を巡り、国境戦争が起こりました。

1838年12月16日、南アフリカの白人たちが、南アフリカ最強の国家を治めていたズールー族の指導者ディンガネを打ち破りました。

1848年2月21日、マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」を発表しました。

1952年4月6日、オランダ人のヤン・ファン・リーベックは、ケープタウンのに上陸し、東インドとオランダの貿易航路の中継地を作りました。

1880年12月16日~1881年3月23日、オランダ系アフリカーナーは、第一次ボーア戦争で、イギリスに勝利します。

1893年、ガンジーは、24歳で、南アフリカで弁護士になりました。
1894年、ガンジーは、南アフリカでナタール・インド人会議派を設立しました。

1899年10月11日~1902年5月31日、イギリスが、第二次ボーア戦争で、オランダ系アフリカーナーに勝利します。
ガンジーは、南アフリカでボーア戦争が起きて、イギリス軍のインド人衛生看護部隊を組織し、戦争に参加しました。

1903年、ガンジーは、南アフリカのトランスヴァールの弁護士資格を取得し、ヨハネスブルグで弁護士事務所を開業しました。

1904年、ガンジーは、インディアン・オピニオンという週刊新聞を発行し、ダーバン近郊にフェニックス農場を建設しました。

1906年、ガンジーは、南アフリカでトランスヴァール植民地のインド移民に対するアジア人登録法案に反対し、サティヤーグラハを始めました。
ガンジーは、南アフリカでズールー人の反乱が起きて、インド人衛生看護部隊を組織し、戦争に参加しました。
ガンジーは、南アフリカでアジア人登録法案に反対しました。

1907年、ガンジーは、南アフリカでアジア人登録法案に反対し、サティヤーグラハを始めました。

1908年、ガンジーは、南アフリカで逮捕され、投獄されました。

1908年8月16日、ガンジーは、約3,000人の支援者とともに南アフリカのハミディア寺院に集まり、大きな釜でこの身分証明書を焼却しました。
映画「ガンジー」

1909年、ガンジーは、ロンドンに向かい、南アフリカのインド人移民問題について訴えました。
ガンジーは、南アフリカに戻る船の中で、「ヒンド・スワラージ」を書きました。

1912年1月8日、ANCは設立されました。

1912年4月14日、タイタニックは、氷山に衝突しました。
1912年4月15日、タイタニックは、沈没しました。
映画「タイタニック」

1913年、ガンジーは、キリスト教式ではないインド人の結婚を無効化する法案に反対し、サティヤーグラハを始めました。
ガンジーは、ナタール州からトランスヴァール州への2,000人以上でトランスヴァール大行進を行い、3回逮捕されました。
行進に参加した人々は、ナタール州へ戻されました。

1914年、ガンジーは、南アフリカで、インド人救済法を成立させ、三ポンド税を廃止し、インド人の結婚を認めさせました。

1918年11月11日、第一次世界大戦が、フランスのコンピエーニュの森に置かれた列車の車両で、連合国とドイツの休戦協定により、終わりました。

1918年~1920年、スペイン風邪が、世界的に流行し、死亡者数は推定で1億人以上でした。

1919年6月28日、連合国とドイツが、ヴェルサイユで講和条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。
アフリカ民族会議(ANC)は、ヴェルサイユ講和会議に出席しました。
ドイツは、ドイツの領土は縮小され、植民地を放棄し、軍備・兵器は制限され、賠償総額が1320億金マルクとされました。

1919年9月3日、南アフリカ党のヤン・クリスティアーン・スマッツは、南アフリカの首相に就任します。

1919年10月19日、アドルフ・ヒトラーは、「ドイツ労働者党」に入党しました。

1920年1月5日、アントン・ドレクスラーは、政党名を「ドイツ労働者党」から「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」に変更しました。
アドルフ・ヒトラーは、ナチスの第一宣伝部長に就任しました。

1921年7月29日、アドルフ・ヒトラーは、ナチスの議長に選出されました。

1923年1月11日、フランスとベルギーは、賠償金を支払わないドイツの石炭の73%、鉄鋼の83%を生産するルール地方の占領を開始しました。
ドイツは、ルール地方でストライキを行い、ドイツ経済は破綻し、ハイパーインフレーションに陥りました。

1923年11月8日、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーというビアホールで行われていたバイエルン州総督グスタフ・フォン・カールの演説会に、アドルフ・ヒトラーらが乱入し、クーデター未遂事件を起こしましたが、1日で鎮圧されました。

1923年11月9日、バイエルン州は、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。

1923年11月23日、ドイツは、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。

1924年4月1日、アドルフ・ヒトラーは、ランツベルク・アム・レヒの要塞刑務所の7号室で5年の城塞禁固刑となりました。
アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の執筆を開始しました。

1924年5月4日、ドイツの総選挙において、ナチスの偽装政党である「国家社会主義自由運動」が32議席を獲得しました。

1924年6月30日、総選挙で統一党は南アフリカ党に勝利し、南アフリカのヤン・クリスティアーン・スマッツ首相は辞任し、ジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォークは、南アフリカの首相に就任します。

1924年9月26日、米国は、フランスにルール占領の解消、賠償金額の免除と段階的引き上げにするドーズ案を受け入れさせました。

1924年10月、フランスとベルギーは、ドイツのルール地方から撤退を開始しました。

1924年12月20日、アドルフ・ヒトラーは、保護観察処分に減刑され、仮出獄されました。

1925年2月16日、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトは、ナチス再結成を許可しました。

1925年2月27日、ナチスはビュルガーブロイケラーでナチス再結党大会という集会を開催し、アドルフ・ヒトラーは演説をしました。

1925年7月18日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第1巻を出版しました。

1926年12月11日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第2巻を出版しました。

1928年5月20日、ナチスは、初めての国政選挙で、12議席を獲得しました。

1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所の株が大暴落することから始まり、日本を含む世界中の株が大暴落した世界大恐慌が発生しました。
日本では、昭和恐慌と呼ばれています。

1930年3月12日、ガンジーは、「塩の行進」をアーメダバードから始めました。
1930年4月6日、ガンジーは、「塩の行進」をダーンディーに到着し、世界中のメディアが伝えました。
映画「ガンジー」

1930年9月14日、ナチスは、国政選挙で、107議席を獲得し、第二党になりました。

1931年9月18日、日本軍は、満洲事変を起こして満洲全土を占領しました。

1932年3月1日、日本は、満州国の独立を宣言しました。

1932年3月13日、ドイツの大統領選挙で、アドルフ・ヒトラーは、30%の票を獲得しますが、大統領には選出されませんでした。

1932年7月31日、ナチスは、国政選挙で、203議席を獲得し、第一党になりました。

1932年9月15日、日本は、満州国の独立を承認しました。

1932年10月1日、国際連盟理事会に満州国の独立を認めないリットン報告書が提出されました。

1932年11月6日、ナチスは、国政選挙で、196議席を獲得し、第一党を維持しました。

1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、アドルフ・ヒトラー内閣が成立しました。

1933年2月24日、国際連盟理事会は、リットン報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)、投票不参加1国(チリ)となり、満州国は認められませんでした。

1933年2月27日、ドイツの国会議事堂が放火され、炎上しました。

1933年2月28日、ドイツは、国家防衛緊急令を公布しました。

1933年3月1日、ドイツは、反逆防止緊急令を公布しました。
ドイツの言論の自由や所有権は著しく制限されました。
ドイツ政府は、連邦各州の全権を掌握し、反ナチスとみなす人、左翼思想家を強制収容所へ送り込む法的根拠となりました。

1933年3月8日、日本は、国際連盟を脱退しました。

1933年3月24日、ドイツは、全権委任法が成立しました。
アドルフ・ヒトラーは、議会を通すことなく、法律を作ることができることになり、ドイツの議会政治は終わり、独裁政治が始まりました。
ドイツでは、ユダヤ系ドイツ人に激しい迫害が加えられましたが、国交を結んでいるユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていました。

1933年6月19日、オーストリアのドルフース首相は、オーストリア・ナチスを非合法化して活動を禁止しました。

1933年10月14日、ドイツは、国際連盟を脱退しました。

1934年7月25日、オーストリア・ナチスの党員は、オーストリア首相官邸に押し入ってドルフース首相を射殺し、クーデターを試みましたが、反対派によって鎮圧されました。

1934年11月12日、ドイツの国際連盟脱退の是非を直接国民に問うために国民投票を実施し、95.1%という圧倒的多数の賛成により、ドイツの国際連盟脱退が支持されました。

1935年3月16日、ドイツは、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言し、徴兵制の復活を宣言しました。

1935年3月27日、日本は、国際連盟の脱退が正式に発効されました。

1935年6月18日、英国は、ヴェルサイユ条約を無視して、融和政策として、ドイツに対して、再軍備を公認し、イギリスの35%までの軍艦を保有できること、潜水艦はイギリスの60%まで建造できることを、
商船攻撃には使用しないという英独海軍協定を承認しました。
ドイツのアドルフ・ヒトラーは協定によって戦艦、潜水艦の建造が認められたとして、建造を急速に進めました。

1935年8月31日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、「中立法」を制定しました。
「中立法」は、戦争状態にある国が存在していること、または内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物質の輸出を禁止します。

1937年5月28日、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が首相に就任しました。

1937年、ドイツは、反社会分子とみなす人、暴力団、売春婦、乞食、浮浪者、住所不特定の者、労働忌避者、同性愛者、アルコール中毒者、訴訟を大量に起こしている者、交通規則違反者、絶えず職場に遅刻する者、無断で休暇を取る者、自分の職務以外の仕事を勝手に引き受けている者を強制収容所へ送り込むようになりました。

1938年3月13日、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、オーストリアへ進駐し、歓迎を受けて、統合しました。
オーストリアは、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」を決議し、発布しました。
ドイツは、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」が公布されました。

1938年9月29~30日、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介し、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統がドイツのミュンヘン会談を行い、ドイツとの戦争を回避するために、ドイツの主張を受け入れ、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツへ譲渡することを認めるという融和政策で問題を解決しました。

1938年10月6日、ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効にすることを決定しました。

1938年10月28日、ドイツは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効が無効になる前に、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人をポーランドに移送しました。
ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の入国を拒否しました。
ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人は、国境地帯で放浪し、窮乏し、餓死しました。

1938年11月7日、ドイツによって追放されたポーランド系ユダヤ人のヘルシェル・グリュンシュパン(17歳)は、ドイツ警察から非道の仕打ちを受けていることを世界に訴えるために、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んで、殺害しました。

1938年11月9日、ドイツのSA(突撃隊)がユダヤ人の商店や企業を破壊しました。

1939年3月、ドイツは、ミュンヘン会談の合意に従わずに、チェコスロバキアを支配下にしました。

1939年4月28日、ドイツは、英独海軍協定とドイツ・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄すると演説しました。

1939年5月~9月、日本とソ連は、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐっての間で断続的に日ソ国境紛争が発生しました。

1939年8月23日、ドイツとソ連は、独ソ不可侵条約を締結するだけでなく、ドイツとソ連がポーランドへ侵攻することを認めていました。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻しました。
ポーランドのダンツィヒ郊外にシュトゥットホーフ強制収容所が設置されました。

1939年9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告しました。

1939年9月5日、南アフリカのジェームズ・バリー・ミューニック・ヘルツォーク首相は辞任し、統一党のヤン・クリスティアーン・スマッツは、南アフリカ共和国の首相に就任します。

1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻し、デンマークを占領しました。

1940年4月、ドイツが占領していたポーランドのアウシュヴィッツに巨大な強制収容所の建設を命じました。
ドイツは、ヨーロッパ中に強制収容所を建設しました。

1940年5月10日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、小型でガソリンエンジンを搭載したI号戦車、II号戦車で構成され、アルデンヌ森林地帯を抜け、Ju87シュトゥーカ急降下爆撃機による正確な支援爆撃を受けて、ムーズ川を渡り、敵国のガソリンスタンドを補給に利用し、早い速度で進軍し、連合国軍の背後に回り、攻撃することで、連合国軍を総撤退させ、英仏海峡を目指します。
ドイツ軍の空挺部隊は、防御陣地に降下して、爆破し、歩兵主力のB軍集団が防御陣地を制圧し、ベルギーとオランダに侵攻しました。
ドイツ軍のC軍集団は、マジノ線に侵攻し、マジノ線の要塞群に立てこもるフランス軍守備隊を釘づけにしました。
イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が辞職し、ウィンストン・チャーチルが首相に就任しました。

1940年5月15日、ドイツ軍の歩兵主力のB軍集団は、オランダを占領しました。

1940年5月16日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団がイギリス軍とフランス軍の背後へ回り込んだことを知らされたイギリス軍とフランス軍は、総退却を開始し、機動力に勝るドイツ軍のA軍集団にパリ方面への退却を阻まれ、イギリス海峡方面へと退却しました。

1940年5月20日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、英仏海峡に到達し、イギリス軍とフランス軍を包囲しました。

1940年5月21日、イギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍の侵攻を遅らせるためにカレーから進軍し、ドイツ軍を反撃し、ダメージを与えました。

1940年5月22日、ドイツ軍は、カレーに向かって進軍しました。

1940年5月23日、イギリス軍とフランス軍は、カレーに後退しました。

1940年5月24日、ドイツ軍は、カレーを包囲し、降伏するよう説得しました。
イギリスとフランスからの抵抗せよという命令を受けたイギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍に抗戦しました。

1940年5月25日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから「ダイナモ作戦」と名づけられました。

1940年5月26日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、カレーを陥落しました。
イギリスは、「ダイナモ作戦」を実施し、ダンケルクから33万の連合軍兵士を撤退を開始しました。
カレーのイギリス軍とフランス軍は降伏しました。

1940年5月28日、ドイツ軍の歩兵主力のB軍集団は、ベルギーを占領しました。

1940年6月4日、イギリスは、「ダイナモ作戦」によって、ダンケルクから33万の連合軍兵士を撤退させるのに成功しました。
映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」
映画「ダンケルク」

1940年6月7日、ノルウェー国王は家族とともに英国に亡命しました。

1940年6月8日、連合国派遣軍は、ノルウェーからの撤退しました。

1940年6月9日、ドイツは、ノルウェーを占領しました。

1940年6月10日、イタリアが、イギリスとフランスに宣戦しました。

1940年6月14日、ドイツ軍は、パリに進軍しました。

1940年6月16日、フランスは、ドイツに休戦を申し入れました。

1940年6月22日、ドイツとフランスは、休戦条約に調印しました。
ドイツ軍は、パリを含む北部フランスを占領し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を設立しました。
ドイツ軍は、フランス軍空軍基地をイギリス前進基地として使用可能になりました。
ドイツ軍は、ソ連への侵攻を開始しました。

日本は、イギリスにビルマおよび香港を経由する中国への物資輸送を閉鎖させました。

1940年7月1日、ドイツ軍は英国領チャンネル諸島を占領しました。

1940年7月10日、ドイツ空軍がイギリス空軍を発見し、攻撃しました。

1940年7月16日、ドイツは、イギリス上陸作戦の準備を始めました。

1940年7月22日、イギリスは、ドイツの和平案を拒否しました。

1940年8月1日、ドイツは、ドイツ空軍がイギリスの制空権を確保することを前提したイギリス上陸作戦を決定しました。
ドイツ空軍は、イギリス空軍の殲滅を第一に掲げられ、戦闘機の殲滅と飛行場や航空機産業も攻撃の対象にするよう指令を出しました。

1940年8月30日、ドイツは、爆撃目標をロンドンに変更しました。

1940年9月15日、ドイツ空軍は、大規模なロンドン空爆を行いましたが、大きな損害を出しました。
ドイツ空軍は、イギリスの制空権を取ることができませんでした。
ドイツ軍が初めて大敗を喫した戦いでした。

1940年9月17日、ドイツはイギリス上陸作戦を中止しました。

1940年9月27日、日本とドイツとイタリアは、日独伊三国同盟を締結しました。

1940年11月9日、ネヴィル・チェンバレンは亡くなりました。

1941年3月11日、アメリカ合衆国は、レンドリース法成立させ、その国の防衛がアメリカ合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考えるような国に対して、あらゆる軍需物資を、売却し、譲渡し、交換し、貸与し、賃貸し、あるいは処分することができるようになりました。

1941年4月13日、日本とソビエト連邦は、「日本国及ソヴイエト連邦間中立条約(日ソ中立条約)」を締結し、相互不可侵、一方が第三国に軍事攻撃された場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、および、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた声明書から構成され、有効期間は5年間で、有効期間満了1年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は5年間自動延長されるとしている。

1941年8月1日、アメリカ合衆国は、日本への石油の全面禁輸を行いました。
日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく、石油がなくなる前に東南アジアの産油地帯を攻略することになりました。
東南アジアの攻略と資源の輸送ルートを考慮すると、アメリカ合衆国の植民地だったフィリピンおよびグアムの攻略も不可欠であり、アメリカ合衆国への開戦することになりました。日本への石油の全面禁輸と日本の東南アジアの攻略は、日本とアメリカ合衆国による太平洋戦争の原因になりました。

1941年8月14日、アメリカ合衆国のルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は、大西洋のプラセンティア湾で会談し、第二次世界大戦でアメリカがイギリスを支持し、第二次世界大戦終了後のアメリカ合衆国とイギリスの目標を示した大西洋憲章を発表しましたが、アメリカがイギリスを軍事的に支援するという内容ではありません。

1941年8月、ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることにしました。
1941年10月、ドイツは、アウシュヴィッツ強制収容所兼絶滅収容所でユダヤ人をガスで殺害し始めました。

1941年11月27日、アメリカ合衆国から日本に提示された交渉文書であるハル・ノートをもとにした交渉が決裂しました。

1941年12月8日、日本海軍は、米国のハワイ準州のオアフ島にある米国海軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃しました。
日本海軍は、航空機54機を失い、航空機74機が損傷しました。
アメリカ海軍は、戦艦アリゾナ、戦艦オクラホマ、標的艦ユタ、戦艦カリフォルニアが沈没し、戦艦ウエストバージニア、機雷敷設艦オグララ、戦艦ネバダ、駆逐艦ショー、駆逐艦ダウンズ、駆逐艦カッシン、工作艦ヴェスタルが大破し、戦艦テネシー、戦艦メリーランド、戦艦ペンシルベニア、軽巡洋艦ロウリー、駆逐艦母艦ドビン、水上機母艦カーチスを損傷し、航空機188機を失い、航空機159機が損傷しました。

日本軍は、英国領の香港を陥落しました。

1942年1月20日、ドイツの高官15人は、ヴァンゼー湖のほとり、ベルリンの高級住宅街にある大邸宅で会議を行い、「ヨーロッパのユダヤ人問題に対する最終的解決」を話し合い、ヨーロッパのすべてのユダヤ人を意図的に慎重に計画的に抹殺することを決定しました。
ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることを正式に宣言しました。
ユダヤ人の絶滅を行ったのは、ベラルーシのマリィ・トロステネツ強制収容所、ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、マイダネク(ルブリン)強制収容所です。
数百万人のユダヤ人が殺害されました。

1942年1月25日、ヒトラーは、ユダヤ人をドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市にあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所への移送を命令しました。

1942年2月15日、日本軍は、英国領のシンガポールを陥落しました。

1942年4月18日、航空母艦ホーネットと航空母艦エンタープライズから発進したB-25双発爆撃機ミッチェル16機が、太平洋戦争で初めて日本本土(東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等)を爆撃しました。
日本本土爆撃を終えたB-25双発爆撃機ミッチェルのうち15機は中国大陸に不時着して放棄されました。
残りの1機は、ソビエト連邦支配地域に不時着して、搭乗員は抑留されました。

1942年5月4~8日、珊瑚海に進出する日本海軍の計画を知った米国海軍が、先に進出し、航空機で日本の空母部隊を空襲し、日本海軍が航空機で米国の空母部隊を捕捉し、空襲しました。
日本海軍は、空母祥鳳、駆逐艦菊月、掃海艇3隻が沈没し、空母翔鶴、駆逐艦夕月、敷設艦沖島が損傷し、航空機97機を失いました。
米国海軍は、空母レキシントン、油槽船ネオショー、駆逐艦シムスが沈没し、空母ヨークタウンが損傷し、航空機69機を失いました。

1942年5月27日、亡命チェコ軍人がラインハルト・ハイドリヒ暗殺を実行しました。

1942年6月4日、ラインハルト・ハイドリヒは死去しました。

1942年5月、連合国軍はビルマから総退却し、日本軍はビルマ全域を占領しました。
日本は、アメリカがビルマを経由して中国に物資輸送するルートを閉鎖しました。

1942年6月5日から7日、日本海軍とアメリカ海軍がミッドウェー海で交戦し、日本海軍はアメリカ海軍に敗北しました。
日本海軍は、航空母艦赤城、航空母艦加賀、航空母艦蒼龍、航空母艦飛龍、重巡洋艦三隈が沈没し、重巡洋艦最上、駆逐艦荒潮が損傷し、航空機289機を失いました。
アメリカ海軍は、航空母艦ヨークタウン、駆逐艦ハムマンが沈没し、航空機150機を失いました。

1942年11月26日、ノルウェー秘密国家警察・クヌート・ロッドは、警官とタクシー運転手らによって、ノルウェーに住むユダヤ人全員をオスロ港へと強制移送し、「ドナウ号」でアウシュヴィッツへ強制移送しました。

1943年1月14~23日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、モロッコのカサブランカで会談し、ドイツ、イタリアと日本に対して無条件降伏を要求すること、ビルマにおける本格的に反攻することなどに合意しました。

1943年7月4日から8月27日、ドイツ軍とソ連軍がクルスクで交戦し、ドイツ軍はソ連軍に敗北しました。

1943年9月8日、イタリアは、連合国に降伏しました。

1943年11月22~26日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蒋介石がエジプト王国のカイロで会談を行い、連合国が日本の無条件降伏まで戦うこと、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還することを提示し、中華民国が日本と単独講和をしないようにしました。
ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、中国の戦争からの脱落を防ぎ、日本軍が中国を攻撃することで、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻撃をできないようにしました。

1943年11月28日~12月1日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、イランのテヘランで会談を行い、ビルマ奪回作戦、ノルマンディー上陸作戦などの連合国側の作戦における各国間の調整を行い、ポーランド国境の確定、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦も話し合いました。

1944年4月7日、アルフレートとヴァルターは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の記録を持って、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から逃走するために、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、身を隠します。

1944年4月10日、アルフレートとヴァルターは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所からの脱出に成功しました。

1944年4月27日、アルフレートとヴァルターは、「アウシュヴィッツ・レポート」を書き上げました。

1944年5月、イギリス陸軍内にユダヤ人旅団が編成されました。

1944年6月、「アウシュヴィッツ・レポート」は、公開されました。

1944年6月4日、ニューヨークタイムズが、ガス室について説明し、ユダヤ人が処刑されていると報じました。

1944年6月5日、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始し、橋を確保し、砲台陣地を破壊し、ドイツの反撃を阻止しました。

1944年6月6日、米国とイギリスは、100万人を超える兵士で、ノルマンディー上陸作戦を行い、1日で上陸を果たしました。

1944年6月25日、教皇ピオ十二世は、「アウシュヴィッツ・レポート」を元に、ユダヤ人の強制送還の停止を呼びかけました。

1944年6月26日、フランクリン・D・ルーズベルト米国大統領は、「アウシュヴィッツ・レポート」を元に、ユダヤ人の強制送還の停止を呼びかけました。

1944年6月26日、ジュネーブのユダヤ機関のリチャード・リヒテイムは英国に電報を送り、連合国にハンガリー政府のメンバーに殺害の責任を個人的に負わせるよう呼びかけました。

1944年7月7日、ハンガリーの摂政ミクロス・ホーシーは、ユダヤ人の強制送還の停止を命じました。

1944年7月23日、ソ連軍は、マイダネク(ルブリン)強制収容所を開放しました。

1944年8月25日、連合軍は、パリを含むフランスを開放し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を打倒しました。

1945年1月27日、ソ連軍がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を解放しました。

1945年1月30日~2月3日、アメリカのエドワード・ステティニアス国務長官とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が、マルタ共和国のマルタで会談し、ソ連軍が中央ヨーロッパまで前進することは望ましくないと言うことで合意し、ホロコーストによる数百万人の難民をどうするについて話し合い、ソ連とのヤルタ会談の事前会談になりました。

1945年2月4~11日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で会談し、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治、ポーランド人民共和国の国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。
国際連合の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5カ国の拒否権を認めました。
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦、および千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇も決定し、北方領土問題の発端となりました。

1945年2月19日、アメリカ軍は、硫黄島への上陸作戦を始めました。
1945年3月17日、アメリカ軍は、硫黄島を制圧しました。

1945年3月23日、アメリカ軍は、沖縄県周辺への上陸作戦を始めました。

1945年4月11日、アメリカ軍は、ブーヘンヴァルト強制収容所を解放しました。

1945年4月15日、イギリス軍は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放しました。
アンネ・フランクは、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死亡していました。

1945年4月25日、アメリカ軍は、前田高地への攻撃を開始しました。

1945年4月29日、アメリカ軍は、ダッハウ強制収容所を解放しました。

1945年4月30日、ヒトラーは、総督官邸の地下壕で自殺しました。

1945年5月2日、ソ連は、ベルリンを占領しました。

1945年5月7日、ドイツは、連合国に無条件降伏しました。

1945年5月9日、イギリス領チャンネル諸島を占領していたドイツ軍は降伏しました。

1945年5月27日、沖縄守備軍は、首里を放棄し、南部への撤退を開始しました。

1945年6月23日、牛島満司令官達が自決しました。

1945年7月2日、アメリカ軍は、沖縄戦終了を宣言しました。

1945年7月17日~8月2日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連占領地域となったポツダムで会談し、第二次世界大戦の戦後処理を決定しました。
ポツダム宣言には、「日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである」と記述されています。
原子爆弾の準備ができたから、日本に投下するということです。

1945年8月6日、アメリカ軍は、日本の広島市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月9日、アメリカ軍は、日本の長崎市に原子爆弾を投下しました。

1945年8月14日、日本は、ポツダム宣言を受諾しました。

1945年8月15日、日本は、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明し、連合国に降伏しました。

1945年9月2日、日本は、ポツダム宣言に調印・即時発効(降伏文書)によって第二次世界大戦は終結しました。

1945年9月7日、沖縄守備軍は、降伏しました。

1945年11月20日、ニュルンベルク裁判が始まりました。
1946年10月1日、ニュルンベルク裁判が終わりました。

1947年8月14日および15日、イギリス領インドは、インドとパキスタンに分離独立をしました。
映画「ガンジー」

1948年5月14日、ユダヤ人たちは、イスラエル独立宣言を行いました。

1954年7月7日、アメリカ合衆国は、バオ・ダイ時代に内相をつとめ、反共産主義でカトリック教徒のジエムを南ベトナムの首相に初代就任させました。

1954年10月30日、南アフリカ共和国のダニエル・フランソワ・マラン首相は、引退します。

1954年11月30日、国民党のヨハネス・ストレイダムは、南アフリカ共和国の首相に就任します。

1955年6月14日、ジエムは自ら南ベトナムの国家元首に就任しました。

1955年10月26日、ジエムはベトナム共和国(通称「南ベトナム」)樹立宣言を行い、初代大統領に就任しました。

1960年5月11日、アドルフ・アイヒマンは、バスから降りて自宅へ帰る道中に、イスラエル諜報特務部に拘束れました。

1960年3月21日、南アフリカ政府は、南アフリカのトランスバール州ヨハネスブルグ近郊のシャープビルで、パス法に対する抗議活動に参加した人に発砲し、69人を死亡させ、180人以上を負傷させるという虐殺事件を起こしました。

1960年4月1日、国連安全保障理事会は決議134を可決しました。

1960年5月25日、イスラエルのダヴィド・ベン=グリオン首相は、アドルフ・アイヒマンの身柄確保を公式に発表しました。

1960年10月5日、南アフリカ政府が、アパルトヘイトを維持するために、共和国へ移行し、イギリス連邦を脱退する国民投票を実施し、勝利します。

1960年11月8日、ジョン・F・ケネディ民主党大統領候補は、リチャード・ニクソン共和党大統領候補に僅差で勝ち、アメリカ合衆国大統領に当選しました。

1960年12月20日、南ベトナム解放民族戦線は、ジエム大統領とアメリカ合衆国を打倒するために結成されました。

1961年1月20日、ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1961年4月11日、エルサレムで、アドルフ・アイヒマンの裁判が始まりました。
映画「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」

1961年4月17日、1,400人の亡命キューバ人部隊がピッグス湾に上陸し、キューバ政府軍の反撃に遭い、キューバ空軍の攻撃を受け、沖合に待機した艦船が撃沈、弾薬も食糧も欠乏する事態の中で海岸で部隊は孤立しました。
アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国正規軍の派遣を拒否し、ピッグス湾上陸作戦は失敗しました。

1961年5月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という、ゲリラに対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始しました。

1961年12月15日、アドルフ・アイヒマンは、全ての罪で有罪となり、死刑が宣告されました。
1962年6月1日、アドルフ・アイヒマンは、ラムラの刑務所で絞首刑になりました。

1962年10月14日、アメリカ合衆軍が、空中偵察によりキューバに核ミサイル基地を発見しました。
1962年10月22日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、海上封鎖を宣言し、新たなミサイルの配備を阻止し、ソ連にミサイルを解体、撤去することを要求しました。
1962年10月28日、ソ連のフルシチョフ最高指導者は、キューバから核ミサイル基地を撤去すると発表しました。

1962年2月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、南ベトナム軍事援助司令部を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなどにより、軍事顧問団という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げしました。

1962年5月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、南ベトナムとラオスへの支援を目的にタイ国内の基地に数百人規模のアメリカ海兵隊を送ることを決定しました。

1963年1月2日、2000人で構成され装備の面で圧倒的に勝るアメリカ合衆軍及びベトナム共和国軍は、約200人で構成された南ベトナム解放民族戦線にアプバクで敗北しました。
アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、アメリカ軍を本格的にベトナムに投入することを決断し、アメリカ軍を16,263人に増加させました。
ジェム南ベトナム大統領は、軍事介入の拡大とともに内政干渉を行うアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディを敵対視するようになりました。

1963年2月、ハンナ・アーレントは、「ザ・ニューヨーカー」誌に「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を発表しました。
映画「ハンナ・アーレント」

1963年10月31日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、ゴ・ディン・ジェム南ベトナム大統領に揺さぶりをかけるために、「1963年の末までに軍事顧問団をベトナムから1,000人を引き上げる」と発表しました。

1963年11月22日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、43歳で、殺害されました。
リンドン・B・ジョンソンが、米国大統領に就任しました。

1964年6月21日、クー・クラックス・クラン(KKK)のメンバーが、ミシシッピー州フィラデルフィアで、3人の公民権運動家、黒人のジェムズ・チェイニー、ユダヤ人のアンドリュー・グッドマンとマイケル・シュワーナーを殺害しました。

1964年7月2日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは、公民権法に著名し、南部各州のジム・クロウ法は廃止となりました。

1964年8月2日、北ベトナム海軍の魚雷艇は、ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ合衆国海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃をしました。
1964年8月4日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンとアメリカ合衆国軍は、ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ合衆国海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃を捏造しました。
1964年8月5日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは、北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動(ピアス・アロー作戦)を行いました。
1964年8月7日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは、米国上下両院で民主党と共和党の議員の圧倒的な支持で承認されて、実質的な戦時大権を得ました。

1964年11月3日、リンドン・B・ジョンソンは、得票率61.1%を獲得し、538人の大統領選挙人の内486人の支持を得て、大統領選挙で圧勝しました。

1965年2月7日、アメリカ合衆国は、北ベトナムへの集中爆撃(北爆)を開始しました。

1965年2月21日、マルコムXは、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でスピーチしているときに、殺害されました。

1965年3月21日、キング牧師が率いる2,000名ほどの公民権運動家達は、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンが命じた連邦政府の管理下で米国陸軍とアラバマ州兵によって保護され、アラバマ州セルマを出発し、エドモンド・ペタス橋を渡り、州都モンゴメリーに向けてデモ行進を始めました。

1965年3月25日、キング牧師は、デモ隊と共にモンゴメリーに無事到着しました。
KKKのメンバーが、セルマから首都モンゴメリーへの行進に参加し、モンゴメリーからセルマに戻る車を運転中のヴィオラ・リッツォを射殺しました。
映画「グローリー/明日への行進」

1965年8月6日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンが国会議事堂で投票権法の協議会案に署名して法となり、キング牧師、ローザ・パークス、ジョン・ルイスなど公民権運動の指導者達が同席しました。
投票権法によって、投票権が州でなく、連邦政府によって監督され、執行されるようになりました。

1966年4月11日、ベトナム戦争で米軍は、極秘作戦「アビリーン作戦」を実施しました。
ウィリアム・ハート・ピッツェンバーガー上等空兵は、多くの米国陸軍兵士の命を救い、命を落としました。

1967年7月23日、アルジェ・モーテル事件が発生しました。

1968年1月30日、北ベトナム人民軍及び南ベトナム解放民族戦線は、テト攻勢を企画し、私服の戦闘員を各都市に浸透させ、拠点に武器を集積するなど準備したのち、一斉に蜂起しました。

1968年3月16日、アメリカ合衆国陸軍のうちウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県にあるソンミ村のミライ集落を無差別射撃などで虐殺した。集落は壊滅状態となり、生存者はわずか3人でした。

1968年4月4日、キング牧師は、テネシー州メンフィスで殺害されました。

1968年6月5日、ロバート・ケネディ上院議員は、カルフォルニア州ロサンゼルスで、暗殺されました。

1968年11月5日、リチャード・ニクソンは、得票率43.3%を獲得し、538人の大統領選挙人の内301人の支持を得て、大統領選挙で勝利しました。

1969年1月20日、リチャード・ニクソンは、米国大統領に就任しました。

1969年7月21日、ニール・アームストロング達は、月面着陸し、月面に降り立ちました。
映画「ファースト・マン」

1971年7月、マーク・フェルトは、FBI副長官に就任しました。

1971年6月13日、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者は、「ペンタゴン・ペーパーズ」の報道を始めました。

1972年5月2日、J・エドガー・フーバーFBI長官は亡くなりました。
アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは、マーク・フェルトFBI副長官などのFBI内部からFBI長官を任命するのではなく、リチャード・ニクソン米国大統領の腹心であるパトリック・グレイをFBI長官代行に任命しました。

1972年6月17日、ウォーターゲート事件は、ワシントンD.C.にあるウォーターゲート・ビルの警備員が、ドア上に奇妙なテープに気付き、ワシントン市警に通報したところから事件は始まります。
ワシントン市警察官の到着後、ウォーターゲート・ビルにある民主党全国委員会本部オフィスへの不法侵入の罪で、バーナード・バーカー、バージリオ・ゴンザレス、ユージニオ・マルチネス、ジェームズ・マッコード・ジュニアとフランク・スタージスが現行犯逮捕されました。
ハワード・ハントとゴードン・リディは、別室で指揮を執っていたため、現行犯逮捕されず、後日逮捕されました。

1972年11月7日、米国大統領選挙で、リチャード・ニクソン米国大統領は米国政治史上で稀に見る大差で再選を果たしました。

1972年1月20日、リチャード・ニクソンは2度目の米国大統領に就任しました。

1973年6月22日、マーク・フェルトFBI副長官は、FBIを退局しました。

1973年3月29日、アメリカ合衆国軍は、ベトナムからの撤退を開始し、撤退が完了しました。

1974年8月9日、リチャード・ニクソン米国大統領が辞任しました。

1974年9月8日、ジェラルド・R・フォード米国大統領は、リチャード・ニクソンに恩赦を与えました。

1976年7月、ロン・コーヴィックは、民主党全国大会の演壇での講演しました。

1979年5月4日、マーガレット・サッチャーは、イギリス首相に就任しました。

1981年7月29日、セント・ポール大聖堂で、チャールズ皇太子とダイアナが結婚しました。

1989年12月3日に、地中海のマルタ島沖のソビエト連邦客船マクシム・ゴーリキーの船内で、ハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフソビエト連邦最高会議議長兼ソビエト連邦共産党書記長とジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領が会談し、冷戦の終結を宣言しました。

1990年11月28日、マーガレット・サッチャーは、イギリス首相に辞任しました。

1996年8月28日、チャールズ皇太子とダイアナは、正式に離婚しました。

2001年9月11日、米国同時多発テロが発生しました。
2001年10月7日、米国が主導する諸国は、アフガニスタンのタリバンとアルカイダに対して、米国同時多発テロのウサマ・ビン・ラディン容疑者の引き渡し要求し、拒否されたことで、戦争が始まりました。

2002年1月23日、ダニエル・パールは、ヴィレッジ・レストランでジラニ師にインタビューしようとして誘拐されました。
2002年1月31日、ダニエル・パールは殺害されました。

2008年11月26日~29日、インドのムンバイで外国人向けのホテルや鉄道駅など複数の場所が、イスラム過激派と見られる勢力に襲撃され、多数の犠牲者を出したテロ事件が発生しました。

ネルソン・マンデラの名言

ネルソン・マンデラの名言
  • まず何よりも、自分に正直でありなさい。
    自分自身を変えなければ、社会に影響を与えることなど決してできません。
  • 成功するために大切なのは、どこから始めるのかではなく、どれだけ高く目標を定めるかである。
  • 生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
    転ぶたびに起き上がり続けることにある。
  • 指導者には、民衆を正しい方向へ導いているという自信のもとに、群れより先を行き、新たな針路を拓かなくてはならないときがある。
  • 我々が自分の持つ恐れから自らを解放するとき、我々の存在は、同時に他の人々をも解放することができるのである。
  • 教育とは、世界を変えるために用いることができる、最も強力な武器である。
  • 生まれたときから、肌の色、育ちや宗教で他人を憎む人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。
    もし憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる。愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく。
  • 勇気とは、恐れを知らないことではなく、それを克服することだと学びました。
    勇敢な人とは、恐怖を感じない人ではなく、その恐怖を乗り越える人なのです。
  • 人格は厳しい状況のもとでこそ計られる。
  • 何事も成功するまでは不可能に思えるものである。
  • 貧困は自然のものではなく、人間から発生したものだ。よって貧困は、人類の手で克服し、根絶できる。
  • 裁判とは、心の強さが試される闘いであり、道義を守る力と道義にそむく力とのぶつかり合いなのだ。
  • 私は民主的で自由な社会の実現のために生きている。
    しかし、もし必要あらば、その理想のために私は死ぬことを覚悟している。
  • 刑務所に入らずして、その国家を真に理解することはできない。
    国家は、どのように上流階級の市民を扱うかではなく、どのように下流階級を扱うかで判断されるべきだ。
  • 外見は大切。笑顔を忘れぬよう。
  • 私の長い道のりは、まだ終わっていない。

まず何よりも、自分に正直でありなさい。
自分自身を変えなければ、社会に影響を与えることなど決してできません。

自分は、自分に正直に生きてきたので、変えることはありません。
自分の周囲にいる人々は、嘘つきだらけなので、自分が社会に影響を与えることなど決してできません。

成功するために大切なのは、どこから始めるのかではなく、どれだけ高く目標を定めるかである。

自分で成功したなと感じることは、他人から押し付けられた目標ではなく、高く目標を自ら掲げたときでした。

生きるうえで最も偉大な栄光は、決して転ばないことにあるのではない。
転ぶたびに起き上がり続けることにある。

自分は、最も偉大な栄光を得たことはないですが、大きく転ぶこともありません。
自分は、転んでも、立ち上がり続けたので、今、生きています。

指導者には、民衆を正しい方向へ導いているという自信のもとに、群れより先を行き、新たな針路を拓かなくてはならないときがある。

自分は、民衆を正しい方向へ導いているという自信のもとに、群れより先を行き、新たな針路を拓く指導者を見たことはありません。

我々が自分の持つ恐れから自らを解放するとき、我々の存在は、同時に他の人々をも解放することができるのである。

自分は、恐れず、リスクを取り、楽しんできましたが、他の人々を開放することはありません。

教育とは、世界を変えるために用いることができる、最も強力な武器である。

自分は、小学校、中学校、高校、大学と教育を受けてきましたが、社会では役に立たず、武器にはなりませんでした。

生まれたときから、肌の色、育ちや宗教で他人を憎む人などいない。人は憎むことを学ぶのだ。
もし憎しみを学べるのなら、愛を教えることもできる。愛は、憎しみに比べ、より自然に人間の心にとどく。

自分は、周囲にいる人々を肌の色、育ちや宗教で憎しむことはありませんが、周囲にいる人々が嘘つきで、バカなので、憎むことを学びました。
嘘つきで、バカな人々を愛することはありません。

勇気とは、恐れを知らないことではなく、それを克服することだと学びました。
勇敢な人とは、恐怖を感じない人ではなく、その恐怖を乗り越える人なのです。

自分は、恐れを知り、克服しました。
自分は、責任を回避し、逃げ回る人しか見たことはありません。

人格は厳しい状況のもとでこそ計られる。

自分は、周囲の人々が厳しい状況から逃げまくるので、人格を計ったことはありません。

何事も成功するまでは不可能に思えるものである。

自分は、不可能と言われたプログラムを作成し、成功させました。

貧困は自然のものではなく、人間から発生したものだ。よって貧困は、人類の手で克服し、根絶できる。

資本主義や社会主義による貧富の格差は、社会を動かす人間から発生しています。
自分は、社会を動かす人間が、貧富の格差により、良い生活を送るので、根絶できるようには思いません。

裁判とは、心の強さが試される闘いであり、道義を守る力と道義にそむく力とのぶつかり合いなのだ。

自分は、被告としても、原告としても、裁判員としても、法廷に立ったことはなく、泣き寝入りをさせられてきました。
道義を守る力、道義にそむく力も道義を守る力と道義にそむく力とのぶつかり合いを見たことはありません。

私は民主的で自由な社会の実現のために生きている。
しかし、もし必要あらば、その理想のために私は死ぬことを覚悟している。

自分は、「攻殻機動隊」や「ライ麦畑でつかまえて」の中の「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」という言葉を思い出しました。
自分は、理想のために人生を捨てるくらいの覚悟はありますが、未熟でもありませんが、成熟もしていず、死ぬまでの覚悟はありません。

刑務所に入らずして、その国家を真に理解することはできない。
国家は、どのように上流階級の市民を扱うかではなく、どのように下流階級を扱うかで判断されるべきだ。

自分は、刑務所に入ったことがないので、国家を真に理解していません。
自分は、下流階級なので、国家を判断する資格はあります。

外見は大切。笑顔を忘れぬよう。

外見は大切ですが、嘘つきで、バカに笑顔で接するのは、困難です。

私の長い道のりは、まだ終わっていない。

自分は、退職しましたが、自分の長い人生は、まだ終わっていない。
残りの人生で、何か成し遂げたいです。

目次

第1章 田舎の少年時代

父から受け継いだもの

ネルソン・マンデラは、コーサ族の一部族であるテンブ王家に深いつながりを持ち、トランスカイを支配したデンブ人の首長の名に由来するマディバ氏族の一員としてムヴェゾで生まれ、ロリシュラシュラ(木の枝を引っ張る、トラブルメーカー)と名付けられ、部族の指導者に助言を与える相談役になるように育てられ、父親がイギリス政府に従わず、地位と収入を失ったので、やや大きいクヌという村に引っ越し、友人や親戚から援助を受けます。

クヌでの生活

ネルソン・マンデラは、”兄弟”、”姉妹”で人間関係が語られるという独自の文化の中で、叔父や叔母の息子は兄弟で、叔父や叔母の娘は姉妹と考え、関係に差別をせず、兄弟姉妹に囲まれて育ち、5歳になると牧草地で羊や子牛の世話をして、棒術などを学び、地方行政官、商店の経営者、警察官や旅行者の白人とは、畏れと敬意をもって接し、7歳になるとズボンをはいて、小学校に通い、小学校の先生にネルソンという英語の名前を付けられ、アフリカの文化ではなく、英国の考え方、文化、制度が無条件に優れたものという英国式の教育を受け、9歳になると父親が病死します。

摂政のもとへ

ネルソン・マンデラの父親が亡くなり、ネルソン・マンデラはムケケズウェニに連れていかれ、母親とは別れ、デンブ族の摂政であるジョンギンタバ・ダリンディエボの息子として育てら、新しい生活にもすぐに馴染み、英語やコーサ語、歴史、地理などを学校で学び、叔母のパティウェのおかげで、成績は良く、キリスト教に触れて、日曜日の礼拝に通い、ジョンギンタバ・ダリンディエボの息子であるジャスティスとは無二の親友になります。
ジョンギンタバ・ダリンディエボは、デンブランド中から人を集めて会議を開き、人は自由に意見を述べて、会議の最後に様々な意見から合意点を見出し、少数意見を尊重し、多数決ではなく、満場一致で結論を得るか、満場一致が得られず結論を得られないかを決まます。
ネルソン・マンデラは、アフリカの歴史に興味を持ち、成長にするにつれて、環境が大きな環境の中で過ごすことが、良い経験になります。

割礼

ネルソン・マンデラは、16歳になるとデンブの代々の王たちが割礼を受けた由緒ある場所で、デンブ族の由緒正しい割礼をデンブ族の摂政の後継ぎのジャスティスと共に受け、成人し、割礼名はダリブンガです。
メリグキリ首長は、南アフリカの置かれた現実を割礼を終えて、成人したネルソン・マンデラに白人に征服された無波アフリカの現状を話して聞かせます。

最高学府

ネルソン・マンデラは、デンブ族の摂政の相談役になるために、エングコボ地区にある1825年に創立された最古のメソジスト派布教区にあるクラークベリー寄宿学校に入学し、白人で学校の総長であるC・ハリス師に預けられ、他の生徒と同等に扱われ、学び、マナトという女性友達と過ごし、庭いじりと野菜作りという生涯の楽しみを身に付け、3年かかる中等教育課程を2年で修了します。

”黒い英国人”

ネルソン・マンデラは、19歳になると、デンブ族の摂政の相談役になるために、フォートボーフォートにあるメソジスト派の高等教育ヒールタウンに入学し、最良の思想は英国の思想で、最良の政府は英国政府で、最良の人種は英国人であると教えられ、信じましたが、異なる黒人部族間の夫婦、白人の学長に毅然と対応する黒人の博士を見て、意識が変化し、ボクシングに取り組み始め、級長を務め、ムカイの詩に共感し、第一にコーサ族であり、第二にアフリカ人であるという意識に達します。

岐路

ネルソン・マンデラは、21歳になるとデンブ族の摂政の相談役になるために、アリス市にあるフォートヘア大学へ入学し、1年目に、英語、人類学、政治学、原住民行政、ローマ・オランダ法を学び、黒人が就くことができる最高の地位である通訳か事務官を志し、2年目に、通訳過程を学び、物理学も学び、サッカー、クロスカントリー、演劇、社交ダンスを行い、学生代表会議の評議員に立候補するように指名を受け、評議員に選ばれますが、大学の食事も改善されず、大学の御用機関の評議会に加わることに反発し、辞任し、23歳になるとフォートヘア大学を退学する覚悟で、ムケケズウェニに戻ります。

家出

摂政であるジョンギンタバ・ダリンディエボは、ジャスティスとネルソン・マンデラの結婚を決まます。
ジャスティスとネルソン・マンデラは、決められた結婚に反対し、家出をして、ジョハネスバーグへ行きます。

第2章 ジョハネスバーグ

運命の罠

ネルソン・マンデラは、ジョハネスバーグで、嘘を言ってはバレて行き詰まり、ANCの最高議長を務めている、トランスカイ出身の医師であるA・B・クマ博士に会い、鉱山での職を斡旋されますが、嘘がバレて、鉱山から追い出され、行き詰まり、拳銃を所持していることで、警察に拘束され、起訴され、罰金刑を受け、友人に法律家になりたいと打ち明け、アフリカ人向け物件を扱う不動産事務所で、地域の指導者でもあるウォーター・シスルに出会い、アレクサンドラ居住区に住み、白人弁護士のレイザー・サイデルスキーを紹介され、ジョハネスバーグでも最大手の法律事務所で助手として雇用され、南アフリカ大学の通信教育課程に入学し、BA(学士号)を取得を目指し、人種を超えた共産党の講演会や集会に参加しますが、共産党員にはなりません。

政治の世界へ

ネルソン・マンデラは、南アフリカ大学の通信教育課程のBA(学士号)を取得し、フォートヘア大学を卒業し、ジョハネスバーグ中北部のブラームフォンテインにあるウィットウォーターランド大学に入学し、白人やインド人と交流を通じて、解放闘争という政治に向かい始めます。

第3章 自由の戦士の誕生

ANC青年同盟

ライオネル・マジョンボジ博士は、ネルソン・マンデラ達にANC青年同盟を結成することを提案します。
ネルソン・マンデラ、アントン・レンベデ、ピーター・ムダ、ウォルター・シスル、オリヴァー・タンボ、ウィリアム・ンコモは、ANC議長のクマ博士に会い、ANC青年同盟の綱領を示しますが、反対されます。
ネルソン・マンデラたちは、ウィリアム・ンコモを委員長として、ANC青年同盟の暫定委員会が組織し、ANC年次総会において、ANC青年同盟の設立を提案し、承認され、ANC青年同盟の執行委員を務めることになります。
ネルソン・マンデラは、エヴリン・マセに出会い、結婚します。

反政府活動

ネルソン・マンデラは、リーフ全域のアフリカ人鉱山労働者7万人が参加したストライキとインド人がアジア人土地保有法に反対し、2年間の消極的抵抗という統一行動を目にして、綿密な組織作り、戦闘的な大衆行動と苦痛や犠牲をいとわない決意によって闘うべきという考えに至ります。
ネルソン・マンデラは、エヴリンと息子のマディバ・テンベキレ(通称テンビ)と一緒にオーランドの市営住宅に引っ越します。
ネルソン・マンデラは、3年間の実務修習期間が終了し、独立して弁護士を開業するために、生活資金を借りて、法学士号を取得することに遷延します。
ネルソン・マンデラとエヴリンには、娘のエヴリンが生まれますが、生後9ヶ月で亡くなります。
アントン・レンベデが33歳で亡くなります。
ネルソン・マンデラは、トランスヴァールANCの執行委員に選ばれ、トランスヴァール地方議長の下で働き始めることで、ANCの活動に全面的に関わり、身も心もANCの運動にささげるという決意を固めます。
ANCは、トランスヴァール・インド人会議とナタール・インド人会議と統一し、アフリカ人民機構も加わります。
ネルソン・マンデラは、インド人会議と揉めて、トランスヴァール地方議長の呼びかけに従わず、トランスヴァール地方議長の退任の動議を提出します。

鬨の声

南アフリカの総選挙で、ナチス・ドイツを支持し、アパルトヘイトを支持する国民党と第二次世界大戦で連合国軍として参戦させた連合党が争い、予想を裏切り国民党が勝利します。
国民党のダニエル・フランソワ・マランが南アフリカの首相になり、アパルトヘイトを推し進めていきます。
南アフリカ首相ダニエル・フランソワ・マランが率いる白人達が、南アフリカに住むアフリカ人、インド人、カラードの敵になります。
南アフリカに住むアフリカ人、インド人、カラードは、それぞれの主張をして、まとまりませんでしたが、対白人ということで一つにまとまります。
A・ピーター・ムダは、アフリカ人が経済的に抑圧されているという共産主義の考えを退け、アフリカ人が自ら主導するという強力な民族主義を創り出し、白人による支配体制を打倒しようというANC青年同盟の文書を起草し、発表し、鬨の声になります。
ネルソン・マンデラは、共産主義者、インド人、カラード対して懐疑的です。
ANC議長のクマ博士は、ANC青年同盟はガンジーの行った大衆行動を呼びかけに、自身の経済基盤を失うことや投獄されることを恐れて、反対します。
ANC青年同盟は、ANC議長のクマ博士に、ANC青年同盟はガンジーの行った大衆行動を呼びかけに反対するなら、支持しないし、議長に再選できないと詰め寄ります。
ANC議長のクマ博士は怒って、ANC青年同盟の票など要らぬと言い、追い返します。
ANC青年同盟は、全アフリカ人会議(AAC)のJ.S.モロカ博士をANCに入会させ、ANC議長に立候補させて、当選し、就任します。
ウォルター・シスルは、ANC書記長に就任します。
ネルソン・マンデラとオリヴァー・タンボは、ANC全国執行委員に就任します。
ANCは、ANC青年同盟が呼びかけるガンジーの行った大衆行動のための行動計画を採択します。
ANCは、おだやかな抗議を行ってきた生え抜きの古参メンバーが去り、ANC青年同盟が中心となり、熾烈な闘争へと向かい始めます。
ネルソン・マンデラは、ANC総会に出席するための休暇が取れずに、ANC総会を欠席し、共産主義者とインド人との共闘には懐疑的で、共産主義者とインド人が主導する5月1日に行うゼネストに反対し、アーメド・カトラダとゼネストを巡り口論になります。
5月1日のゼネストは、ANCの支持なしに実行されます。
5月1日のゼネストに参加した人たちは、警察官に殴られ、拳銃で撃たれ、死亡したり、負傷したりします。
南アフリカ政府は、反政府活動をする人を全て犯罪者として拘束できる共産主義弾圧法を議会に提出します。
ネルソン・マンデラは、共産主義者とインド人への抑圧であっても、アフリカ人への抑圧とみなすことに賛成します。
ANCは、1950年6月26日を国民抗議の日として、全国的な初めての政治的なストライキを行うために、共産主義者とインド人との連携を強めます。
ウォルター・シスルは、1950年6月26日を国民抗議の日として、政治的なストライキを行うために、各地域の指導者と打ち合わせをします。
ネルソン・マンデラは、1950年6月26日を国民抗議の日として、政治的なストライキを行うために、ANC事務所を取り仕切ります。
ANCは、1950年6月26日を国民抗議の日として、全国的な初めての政治的なストライキを成功させます。
ネルソン・マンデラは、共産主義者との親交を深め、共産主義者を理解するためにマルクスとエンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東の著書を読み、「共産党宣言」に刺激を受け、「資本論」にはうんざりさせられ、階級のない社会に、アフリカの伝統文化に立脚した社会との共通点を見出し、「個々の能力から個々の必要へ」に大きな共感を得ます。
ネルソン・マンデラは、弁証法的唯物論により、白人対黒人という見方ではない見方で状況を見ることができるようになり、「商品の価値は、それに費やされた労働の量にもとずく」という考え方は、白人はアフリカ人を最低賃金で働かせ、商品価値とコストの差を得ている南アフリカにはふさわしいと感じ、共産主義者に対する考え方を改め、共産主義者をANCに受け入れることに賛成し、南アフリカにいる白人の支配からアフリカ人を開放するとためには、南アフリカはアフリカの一部であり、アフリカは世界の一部であるということに気が付き、独特で局地的な問題から、世界的な普遍的な問題として考えるように至ります。

非暴力主義

ネルソン・マンデラは、インド人とカラードとの共闘には反対する議題をANCの全国執行委員会に提出し、否決されます。
ANCは、1952年2月29日までにアパルトヘイトを南アフリカ政府に要求することと1952年4月6日にデモを行うことを決めます。
ネルソン・マンデラは、決議内容をANC議長のモロカ博士の名前で提出するために、自動車を運転し、ANC議長のモロカ博士の家へ行き、承諾を得ます。
決議内容は、南アフリカ政府に提出されます。
マラン首相は、白人には人種的独自性を保つために隔離された共同体を作る固有の権利があり、行動を起こすなら、鎮圧すると回答します。
ネルソン・マンデラは、この回答を宣戦布告と受け止め、不服従運動への準備を開始します。
1952年4月6日、ANCはデモを行い、ANC議長のモロカ博士が演説を行い、ネルソン・マンデラは、アフリカ人、インド人、カラードの数百人に、不服従運動を説明し、暴力に対して、非暴力で対応しなければならないと説明します。
1952年5月31日、ANCは、不服従運動を1952年6月26日に始めることを発表します。
ガンジーの息子であるマニラル・ガンジーは、不服従運動を支持します。
ネルソン・マンデラは、不服従運動を状況に応じて用いる戦術の一つとして支持します。
不服従運動は、二段階で準備されます。
第一段階は都市部で、リーダーが事前に警察に通報し、訓練された少数の有志が法律に違反し、逮捕されます。
第二段階は全国規模でのストや抗議行動を行います。
1952年6月22日、ネルソン・マンデラは、不服従運動について、約1万人の群衆に説明します。
1952年6月26日、レイモンド・ムシュラバの指揮のもと、33人の抗議者が白人専用の入り口から鉄道駅に入り、逮捕されます。
ネルソン・マンデラは、ANCの事務所で、不服従運動を監督し、その後の行動について話し合い、家に帰る途中で、警察に逮捕されます。
ネルソン・マンデラは、初めて刑務所で長時間、拘束されます。
この1日で、250人以上の有志が、法律に違反し、逮捕されます。
ネルソン・マンデラは、釈放後、全国を回り、人に会い、説明し、不服従運動を広めます。
その後5ヶ月間で、8,500人以上が不服従運動に参加し、法律に違反し、逮捕されます。
ANCの不服従運動が全国に知れ渡り、ANCの会員数が2万人から10万人へ増加します。
南アフリカ政府は、アフリカ人とインド人、穏健派と過激派が統一戦線を組んだことに対して、戒厳令を宣言し、裁判なしで拘留する法律、不服従者に体罰を認める法律を制定します。
南アフリカ政府は、不服従運動の参加者に、不服従運動の首謀者は浮かれいるというプロパガンダを行い、ANCにスパイを送り込んで、不服従運動を妨害します。
ネルソン・マンデラは、警察に勤務先で、共産主義弾圧法違反の容疑で逮捕され、自宅や事務所が捜索され、執行猶予2年、懲役9ヶ月と重労働の刑を言い渡されます。
ネルソン・マンデラは、不服従運動を半年以上も続け、都市部では成功し、農村部では失敗しますが、達成感と満足感を味わい、疑念や劣等感から解放され、自由の戦士となります。

第4章 闘争はわが人生

M計画

ネルソン・マンデラは、活動禁止処分を受け、ANCの1952年末の年次総会に出席できませんが、ANCの第一副議長になり、トランスヴァールANCの議長になります。
アルバート・ルツーリ首長がANC議長になります。
ネルソン・マンデラは、ANCとSAICが非合法組織と宣告された後、ANCとSAICが地下で活動できるように、ANCとSAICの上層部が意志決定を行い、会議を招集することなく、ANCとSAICの会員に決定された意志が速やかに伝わるような組織構造を作る、指導者たちが活動禁止処分を受けても組織を指導できるようにするように議題を提出し、承認され、実行されます。
この秘密計画は、マンデラ計画、略してM計画と呼ばれます。
M計画の一環として、「わたしたちの住む世界」、「支配の仕組み」と「改革の必要性」からなる政治学習講座を開講します。
ネルソン・マンデラは、政治学習講座の講師を行います。

法律事務所を開く

ネルソン・マンデラは、ヘルマン・アンド・マイケル法律事務所で働きながら、弁護士の資格試験の勉強をして、合格し、H・M・バスナー法律事務所で、正規の弁護士として働き始め、アフリカ人の依頼人の代理として、法廷に立ち、政治活動にも携わります。
ネルソン・マンデラは、オリヴァー・タンボ弁護士と一緒に下級裁判所の近くのチャンセラー・ハウスにマンデラ・アンド・タンボ法律事務所を開設し、南アフリカ初のアフリカ人だけの法律事務所となり、アフリカ人の依頼者が殺到し、毎朝、執務室にたどり着くまで、玄関で、会談で、小さな待合室で、大勢の人を通り抜けます。
ネルソン・マンデラは、普通のアフリカ人が日々の生活の中で味わわされる無数の屈辱を見たり、聞いたりします。
ネルソン・マンデラは、弁護士として法廷に立つことはできますが、能力面では変わりはないが、検事、司法官や判事には、決してなれないことを意識させられます。
ネルソン・マンデラは、都市地域法のもとで、担当大臣の許可がないと、市内に事務所を構えられないということで、チャンセラー・ハウスの事務所を居すわり、強制退去の脅しを受けます。
ネルソン・マンデラは、警官の暴行についての訴えも数多く手がけましたが、警察は被疑者の傷やあざが治るまで拘留し、証拠がなく、証言だけでは、勝訴することは難しいです。
ネルソン・マンデラは、法廷では派手に立ち回り、反対尋問をするときに、人種間の緊張感を逆手に取って、利用し、傍聴席はいつも満席です。
ネルソン・マンデラは、奥様の衣類を盗んだ罪で起訴された住み込みのアフリカ人女性の弁護をして、原告の奥様に婦人用の下着を取り上げて、「奥さん、これは・・・あなたのですか?」と反対尋問をして、奥さんは「いいえ」と答え、判事は訴えを退けます。

強制退去への抵抗

ジョハネスバーグの中心から西へ6キロにあるアフリカ人居住区のソフィアタウンがあります。
便利で、都市に近いソフィアタウンには、アフリカ人が住み、活気と落ち着きがあり、アフリカ人の文化があります。
南アフリカ政府は、ジョハネスバーグの西部移転計画により、ソフィアタウン、マーティンデールとニュークレアからアフリカ人を市外から20km離れたメドーランドに、人種グループに分けて、強制移住させ、都市地域を全て白人地域にしようとする計画です。
ウェストディーンとニューランズに住んでいる貧しい白人は、ソフィアタウンに住むアフリカ人を目障りに思っていたからです。
地元ANC執行部とトランスヴァール・インド人会議は、ジョハネスバーグの西部移転計画に反対します。
活動禁止期間が終わったネルソン・マンデラ達は、ソフィアタウンのオーディン映画館で行われた集会に参加し、演説します。
警察官は、ソフィアタウンのオーディン映画館を取り囲み、アフリカ人を逮捕し、一発触発という状態です。
ネルソン・マンデラは、演壇に駆け上り、革命家を歌い、アフリカ人に大合唱させ、暴動を防ぎます。
ANCは、毎週日曜日の夜に、ジョハネスバーグの西部移転計画の反対運動に多くの人を動員するために、ソフィアタウンのフリーダム・スクェアで演説をします。
ネルソン・マンデラは、合法的な抗議も超法規的な抗議も全くできなくなり、インドでガンジーが収めたような勝利は、南アフリカでは得られないと考えるようになります。
ネルソン・マンデラは、演説をして、聴衆を煽るだけでは、非暴力では白人政権を倒せないので、暴力で白人政権を倒すしかないとぶちあげます。
ANCは、ANCの方針から外れたネルソン・マンデラの演説は支持せず、ネルソン・マンデラを厳しく責め、訓戒を与えます。
ネルソン・マンデラは、非暴力では白人政権を倒せないと思います。
ウォルター・シスルは、ルーマニアのブカレストで開催される平和と友情のための世界青年学生大会に主賓として招かれます。
ネルソン・マンデラは、ウォルター・シスルが出席するための手配を行います。

活動禁止令

ネルソン・マンデラは、しゃれたスーツに身を固め、大きなオールズモビルを乗り回す都会人になり、オールズモビルでドライブを楽しみオレンジ州ヴァイリアーズに行き、裁判所に入る時に、共産主義弾圧法にもとづいて、ANCからの退任、行動範囲をジョハネスバーグに限定し、会合や集会への参加を向こう2年間禁じられます。

法律家の団結

ネルソン・マンデラは、共産主義弾圧法にもとづいて、活動禁止処分を受け、ANCトランスヴァール支部大会の「新しい政治闘争の形を生み出すことを必要としている」という内容の議長演説を代読してもらいます。
トランスヴァール弁護士会は、不服従運動のなかで有罪とされた政治活動が、職業倫理に反し、品位を損なうので、ネルソン・マンデラの名前を認定弁護士名簿から削除するよう求める申請を、最高裁判所に提出します。
この申請を不当だと考えた多くの法律家は団結し、ネルソン・マンデラを支援し、弁護します。
最高裁判所は、政治信条が政府と対立するものであっても、政治信条のために活動する権利を認め、トランスヴァール弁護士会の申請を却下します。

自由の憲章

ネルソン・マンデラたちは、ソフィアタウンからの移住について、「命ある限り」をスローガンにして反対します。
南アフリカ政府は、ソフィアタウンからの移住を推進しようとします。
ネルソン・マンデラたちの抵抗は、軍隊と警察により、活動禁止になるか、逮捕されるかして、崩れ去ります。

南アフリカ政府は、1955年2月9日、ソフィアタウンからの強制移住を開始し、トラックの轟音の中で、ソフィアタウンは消え去ります。
「命ある限り」をスローガンは、ANCと民衆をつなぎ、懸け橋になります。
失敗した場合、「命ある限り」をスローガンは、民衆はANCに不信感を抱きます。
ネルソン・マンデラは、暴力には暴力で対抗するしかないと思い至ります。

南アフリカ政府は、パンツー法を採択します。
ネルソン・マンデラたちは、パンツー法に反対し、1週間の登校ボイコットを決議します。
ANC年次総会では、無期限ボイコットが採択されます。
南アフリカ政府は、1955年4月1日、アフリカ人学校が原住民問題省へ移管されます。
ネルソン・マンデラたちは、無期限ボイコットを実行します。
南アフリカ政府は、ネルソン・マンデラたちによる無期限ボイコットを中止させ、アフリカ人をアフリカ人学校に通わせます。
ネルソン・マンデラたちは、パンツー法を廃止することもできず、アフリカ人学校を閉鎖することもできません。

Z・K・マシュー教授は、アメリカ合衆国で1年間客員教授をして、南アフリカに戻り、「自由の憲章」を起草することを提案をします。
ANCは、この提案を受け入れて、新しい南アフリカの土台となる原則として、「自由の憲章」を作るために、人民会議協議会を創設します。
人民会議協議会は、すべての参加組織と支持者たちに、「自由の憲章」への提案を寄せるように呼びかけ、提案を集め、整理し、さらに検討します。
人民会議協議会は、1955年6月25日、ジョハネスバーグのクリップタウンで、警察と公安官に囲まれながらもひるむことなく、開催され、「自由の憲章」を1節ごとに、英語、セソト語、コーサ語で高らかに読み上げられ、参加者は賛同の意を大喝采で賛同の意をしまします。
人民会議協議会は、1955年6月26日、ジョハネスバーグのクリップタウンで、「自由の憲章」の最後の承認が行われようとしたとき、警察と公安官の大部隊がなだれ込んできて、中止させられます。
「自由の憲章」の前文は、以下の通りです。

自由の憲章

われわれ南アフリカ国民は、わが国と世界の全ての人々に、以下のことを宣言する。

われわれ南アフリカは、黒人、白人を問わず、そこに住むすべての人々のものであり、いかなる政府も、国民の意思にもとづくものでない限り、権力の行使を正当化されない。
われわれ国民は、不正と不平等を奉ずる政府により、土地、自由、平和に関する生まれながらの権利を奪われ続けてきた。
わが国は、すべての国民が同胞となり、権利と機会の平等を与えられる日が来るまで、繁栄と自由を得ることができないだろう。
国民の意思にもとづく国家だけが、肌の色、人種、性別、信条にようる差別がなく、国民の生まれながらの権利を保障することができる。
ゆえに、われわれ南アフリカ国民は、黒人も白人もともに、対等な同国人、同胞として、この「自由憲章」を採択する。
そして、われわれは、ここに掲げた民主的改革を勝ち取るまで、力と勇気のおよぶ限り、ともに戦い抜くことを誓うものである。

国民が統治しなくてはならない!
すべての男女は、すべての立法機関への選挙権と被選挙権を持たなくてはならない。
すべての国民は、国家の運営に参加する資格が与えられなければならない。
国民ひとりひとりの権利は、諮問委員会、評議会、官庁は、民主的な自由組織に置き換えられなくてはならない。

すべての民族集団は平等な権利を持たなくてはならない!
国の機関、裁判所、学校などでは、すべての人種、民族集団に平等の地位が与えなくてはならない。
すべての民族集団は、その属する人種を、または民族の誇りを傷つけられることがないよう、法によって守られなくてはならない。
すべての国民は、それぞれ固有の言語を使用し、固有の民族文化と慣習を発展させる
平等の権利を持たなくてはならない。
民族、人種、肌の色の違いによる差別や侮辱を口にし、また実行することは、犯罪として罰せられなければならない。
アパルトヘイトの法律と慣行は、すべて廃止されなければならない。

国民が国の富を分け合わなければならない!
わが国の富とすべての南アフリカ人の遺産は、国民に還元されなくてはならない。
地下の鉱物資源、銀行、独占企業は、国民全体の所有に移されなくてはならない。
その他すべての産業と貿易は、国民の福利に役立つ管理されなくてはならない。
すべての国民は、みずからが選んだ場所で営業し、生産に従事し、
あらゆる職業に就く平等な権利を与えられなくてはならない。

土地は耕す者に分け与えられなくてはならない!
人種にもとづく土地の所有制限を撤廃し、また、飢えと奪い合いをなくすため、すべての土地はそこを耕す人に再分配されなくてはならない。
<ネルソン マンデラ 著/東江 一紀訳「自由への長い道」NHK出版 ISBN-10 ‏ : ‎ 4140802650>」

十三年ぶりの故郷

ネルソン・マンデラは、活動禁止が解け、故郷のトランスカイを訪れ、仕事を兼ねた休暇を取るために、自動車で、ラジオで流れるアフリカ音楽を聴きながら、トランスカイへ向かい、先々で、地方で活動する人々と会い、話し合います。
南アフリカ政府は、地方において、パンツー政庁法により、世襲制と封建体制を利用して、地方の民主主義の土台を切り崩し、部族間の対立をあおります。
警察は、ネルソン・マンデラを尾行し、ネルソン・マンデラが話した相手に「お前も逮捕されることになるぞ」と脅します。
ネルソン・マンデラは、ヌク村を訪れ、母親と再会し、自分の歩んできた道について、考えるようになります。
ネルソン・マンデラは、ムケケズウェニを訪れ、執政の未亡人のノーイングランドに再会します。
ネルソン・マンデラは、故郷を離れたことで、部族のことを考える人間から、南アフリカのアフリカ人のことを考える人間に成長していることを実感します。
ネルソン・マンデラは、故郷を後にして、ケープタウンに向かい、ケープタウンで活動する人々と会い、話し合い、ケープタウンを後にして、キンバリーに向かい、キンバリーで活動する人々と会い、話し合い、キンバリーを後にして、ジョハネスバーグへ戻ります。

ボクサー

ネルソン・マンデラは、ジョハネスバーグへ戻り、ANCの運営委員会に報告をします。
南アフリカ政府は、国際的な批判をかわすためのパンツースタン制度を創設して、ホームランド制度を導入し、人種を分離し、発展策を推進しようとします。
ネルソン・マンデラは、三度目の活動禁止処分を受けますが、ドナルドソン・オーランド・コミュニティーセンターで、息子のテンビを連れて、ボクシングの練習を始め、アフリカ人同士で揉めて、分裂します。
アフリカ人ボクサーは、困難な状況に置かれていますが、大きな成功を勝ち取ることもあり、大きな可能性があることを示しています。

第5章 反逆罪裁判

奇襲攻撃

1956年12月5日、南アフリカ政府は、全国規模で、ネルソン・マンデラたちの家宅や事務所を捜索して、禁止文書を探し、反逆罪と国家転覆の陰謀をくわだてた罪でで逮捕します。
ネルソン・マンデラたちは、マーシャル・スクェアにある大刑務所に収監され、起訴され、独房に入れられます。
逮捕されなかったアフリカ人たちは、全国各地で抗議集会やデモを行います。
ネルソン・マンデラは、雑居房で、全国の指導者たちと出会い、集会を開き、意見を交換し、経験を分かち合います。
1956年12月19日、ネルソン・マンデラたちは、アフリカ人支援者に囲まれて、予備審問に出廷し、不服従運動、ソフィアタウン移転反対運動、会議、自由の憲章が含まれ、反逆罪とされ、最高刑は死刑です。
ネルソン・マンデラたちは、人種により異なる保釈金を支払って、保釈されます。

離別

ネルソン・マンデラは、妻のエヴリンとの結婚生活にほころびが見え始めています。
ネルソン・マンデラは、妻や子供を顧みることなく、仕事と闘争に専念します。
妻のエヴリンは、上級の看護師資格を取得し、「エホバの証人」という宗教活動に専念します。
ネルソン・マンデラは、故郷に帰らず、南アフリカのために働き、活動したいと思います。
妻のエヴリンは、ネルソン・マンデラと子供たちと共に故郷に帰り、ネルソン・マンデラが弁護士として働き、首長の相談役になることを望んでいます。
ネルソン・マンデラは、子供たちに政治の話をします。
妻のエヴリンは、子供たちに宗教の話をします。
妻のエヴリンは、ネルソン・マンデラに、妻か、ANCかを選べと迫ります。
妻のエヴリンは、ネルソン・マンデラが逮捕されている間に、子供たちを連れて、家を出て、二度と戻ることはありません。

予備尋問

1957年1月9日、ネルソン・マンデラたちは、ドリル・ホールに集まり、南アフリカ政府の起訴状に対して、無罪を立証するのではなく、道義的に正しい行動を南アフリカ政府に迫害されていると弁護側と共に反論します。
南アフリカ政府は、1万2千点もの証拠を提出し、証人を喚問し、ネルソン・マンデラたちの反逆罪を立証しようとします。
ネルソン・マンデラたちは、証拠と証人に反論します。
1957年9月2日、検察が、予備審問の検察側陳述を終えたことを告げます。
行政官は、ネルソン・マンデラたちに証拠と証言を吟味するために、4ヶ月の猶予を与えます。
検察は、被告の一部に対する起訴を取り下げます。
行政官は、ネルソン・マンデラたち95人に対して、トランスヴァール最高裁判所で反逆罪の公判を行うことを決めます。

ひと目惚れ

ネルソン・マンデラは、オーランドからウィットウォターズランド大学医学部まで行く途中、バナグワナト病院の前にあるバス停でバスを待っているウィニー・ノムザモにひと目惚れします。
ウィニー・ノムザモは、マンデラ・アンド・タンボ法律事務所へ法律問題の相談に行き、ネルソン・マンデラと出会います。
ネルソン・マンデラは、バナグワナト病院に電話をして、ウィニー・ノムザモに反逆罪裁判弁護基金のための寄付を募る手伝いを頼み、インド料理レストランで昼食に招待し、エルドラド公園を少し過ぎた草原地帯までドライブし、希望や反逆罪裁判の難しさを語り、プロポーズもします。
ウィニー・ノムザモは、ネルソン・マンデラに会いに、事務所にも、ジムにも、集会にも、政治討論の場にも訪れて、ネルソン・マンデラとの愛情を深めます。
ネルソン・マンデラは、妻のエヴリンとの離婚届を出して、ウィニー・ノムザモのウェディングドレスの仮縫いをしますが、反逆罪裁判のために、弁護士として働くことができず、経済難に陥り、結婚するウィニー・ノムザモに、事情を打ち明け、婚約指輪も、結婚指輪も変えないことを伝え、了承してもらいます。
ネルソン・マンデラは、ウィニー・ノムザモと結婚式をウィニー・ノムザモの出身地であるポンドランドのビザナで行います。
ウィニー・ノムザモの父親は、娘のウィニー・ノムザモに「闘争と結婚している男と結婚するのだ。おまえの夫が魔法使いなら、おまえは魔女になれ」と夫にどこまでもついていくように諭します。
ネルソン・マンデラは、ウィニー・ノムザモと新婚旅行に行く時間もお金もなく、反逆罪裁判の日々を過ごし、一緒にいられる時間さえありません。
ネルソン・マンデラは、ウィニー・ノムザモとの結婚に新しい希望を見出します。

失敗したスト

ネルソン・マンデラたちは、南アフリカの総選挙で与党である国民党を敗北させるために、3日間のストを計画します。
南アフリカ政府は、アフリカ人が10人以上集まることを違法とします。
アフリカ人たちは、ストに参加しません。
ネルソン・マンデラたちは、ストの初日にストの中止を決めます。
与党である国民党は、南アフリカの総選挙で、10%以上も得票を伸ばして、勝利します。

女性たちの抗議行動

南アフリカ政府は、アフリカ人女性たちにもパスを携帯させようとします。
アフリカ人女性たちは、パスを携帯することに反対し、パス交付所を包囲し、南アフリカ政府がアフリカ人女性たちにパスを交付することを妨害し、逮捕されます。
ネルソン・マンデラの妻のウィニーとウォルター・シスルの妻のアルベティナは、パスを携帯することに反対し、パス交付所を包囲し、逮捕されます。
マンデラ・アンド・タンボ法律事務所は逮捕されたアフリカ人女性たちの代理を務め、保釈の手続をして、2週間で保釈します。
保釈されたウィニー・マンデラは、保釈されても、疲れた様子を見せません。

危険な戦略

ネルソン・マンデラは、本裁判を待ち、備えています。
南アフリカ政府は、与党である国民党とつながりのあるF・L・ルンプラ判事を首席、ケネディー判事とルドルフ判事が陪席とする三裁判官制という特別法廷をジョハネスバークから50キロも離れた与党である国民党の地盤であるプレトリアに設けます。
ネルソン・マンデラたちの弁護団は、F・L・ルンプラ判事とルドルフ判事が本件を裁くのには公正ではないと主張します。
F・L・ルンプラ判事は、首席判事を続けます。
ルドルフ判事は、陪席を辞退します。
南アフリカ政府は、ルドルフ判事の代わりに、与党である国民党とつながりのないベッカー判事を陪席に任命します。
ネルソン・マンデラたちの弁護団は、反逆罪に対する暴力行為の計画がないことを指摘し、起訴を取り下げさせます。
ピロー検察官は、ネルソン・マンデラたちを起訴し、”自由の憲章”に謳われていた目標を達成するには、暴力によって国家を転覆させる必要があることを知っていたと主張します。
ネルソン・マンデラたちの弁護団と検察官は、不毛な法廷戦略を続けます。
南アフリカ政府は、この裁判をいつまでも続けると主張します。
ウィニー・マンデラは、ゼナニと名付けられる娘を出産し、自動車の運転を覚え、ネルソン・マンデラに頼らない自分の道を歩くようになります。

新しい政治組織

”自由憲章”とANCの首脳部に白人やインド人がいることにに反発し、ANC青年同盟から離脱し、多人種主義を否定し、「アフリカ人の、アフリカ人による、アフリカ人のための政府」というアフリカニストのPACが立ち上げられます。
ネルソン・マンデラは、PACに驚きはしませんが、嫉妬心や復讐心の捕らわれていては、闘争を前進させることはできないだけでなく、ANCの闘争と対立しますが、いつか連帯できると考えています。

”大アパルトヘイト”

南アフリカ政府は、パンツー自治促進法などを成立させ、南アフリカにいる人の70%にもなるアフリカ人を南アフリカの国土の13%にしか住まわせないようにしたうえ、自治権も取り上げようとします。
南アフリカ政府は、パンツー自治促進法などに反対するアフリカ人を逮捕し、起訴し、投獄し、暴行し、拷問し、殺します。
南アフリカにいるアフリカ人は、パンツー自治促進法などを巡り、対立します。

本裁判開始

ネルソン・マンデラたちは、逮捕されてから、2年8月後に、本裁判が始まり、無罪を主張します。
南アフリカ政府は、最初の2ヶ月間に、約2,000の書類を証拠申請し、公安部のスパイである200人の証人を出廷させます。
ネルソン・マンデラたちは、昼食を食べながら、政治について議論します。
南アフリカ政府は、証拠の提出を終えて、鑑定証人への直接尋問を始めます。
南アフリカ政府は、ネルソン・マンデラたちが暴力行為を企てたと立証できません。
ネルソン・マンデラたちは、ウィルソン・コンコ博士を証人として、ウィルソン・コンコ博士の業績を証言し、アルーバート・ルツーリ首長を証人として、ANCの運動方針を証言します。

シャープヴィルの大虐殺

ネルソン・マンデラたちは、パス反対デモを全国規模で行い、パスを焼くということを決めます。
ガーナが、共和国として独立し、パンアフリカニストが政権を握り、南アフリカの白人とアフリカ人に影響を与えます。
PACは、独自のパス反対デモを計画し、実施しますが、ほとんど無視されますが、シャープヴィルではパス反対デモが行われます。
白人警察官たちは、群がる黒人たちに突然発砲し、700発以上の銃弾が発射され、69人の黒人が亡くなり、400人以上の黒人が負傷します。
世界中の新聞が、この事件を報道します。
PACは、一躍注目を集めます。
南アフリカ政府は、シャープヴィルは共産主義者の陰謀だと主張します。
ネルソン・マンデラたちは、シャープヴィルの大虐殺への追悼と抗議のために、在宅ストを行い、カメラマンの前で、パスを燃やします。
南アフリカ政府は、非常事態宣言を宣言します。

非常事態宣言

ネルソン・マンデラは、午前1時30分ごろ、武装した治安警察官たちがドアを叩く音で起こされます。
治安警察官たちは、家の中を捜索し、探し出せる限りの文書を押収し、ネルソン・マンデラを逮捕状なしに逮捕し、ニューランズ警察所に連行します。
ネルソン・マンデラは、逮捕された40人と一緒に、ニューランズ警察所の中庭に押し込められ、朝に監獄へ移されます。
ネルソン・マンデラたちは、抗議するために、監獄を飛び出し、中庭に集まり、食事を与えられるまで、監獄に戻らないと言います。
ネルソン・マンデラたちは、与えられたうすいミーリがゆを食べて、劣悪な環境に抗議し、違法拘留を理由に釈放を求めます。
警察官は、ネルソン・マンデラたちを一人ずつ呼び出し、釈放し、非常事態規則により、再逮捕し、反逆罪裁判に出廷させるために、プレトリア刑務所に移送し、拘留します。

プレトリア刑務所

反逆罪裁判は、再開されます。
ネルソン・マンデラたちは、逮捕されているために、裁判所で証言できません。
判事は、ネルソン・マンデラたちを裁判所に出廷させ、家に帰ってよいとことにします。
警察官は、ネルソン・マンデラたちが法廷を出たところで、逮捕します。
南アフリカ政府は、ANCとPACを非合法団体の宣告を行い、ANCとPACの会員に懲役や罰金という重罪を科します。
ネルソン・マンデラたちは、反逆罪裁判の陳述を準備するたあめに、環境に対する苦情を申し入れ、受け入れら、反逆罪裁判の被告団が一緒に収容されます。
南アフリカ政府は、インド人とカラードとアフリカ人を食事等で差別します。
ネルソン・マンデラたちは、反逆罪裁判で、刑務所での食事について、証言します。
判事は、刑務所での食事を食べて、温かくして出すように注意します。
南アフリカ政府は、インド人とカラードとアフリカ人を食事を改善します。
ネルソン・マンデラは、マンデラ・アンド・タンボ法律事務所をたたむための残務整理のために、週末をジョハネスバーグへ行きます。

弁護団の撤退

被告であるネルソン・マンデラたちは、非常事態規則のために、弁護団と話し合うことが困難になります。
弁護団は、抗議のために、裁判から手を引くことを被告であるネルソン・マンデラたちに提案します。
被告であるネルソン・マンデラたちは、非常事態規則の不当さに光を当てるために、裁判を弁護団が裁判から手を引くことを満場一致で決定します。
弁護団は、判事たちに裁判から手を引くことを伝え、裁判所から退場します。
被告であるネルソン・マンデラたちは、非常事態が解除されるまで、裁判を引き延ばすために、被告たちは自分の弁護を自ら務め、自分以外の被告を証人として出廷させます。
ネルソン・マンデラは、人種差別のために、男性と女性、白人とアフリカ人の被告と会うことが禁じられて、法廷で判事が行う尋問の予行演習を行うことも困難です。
看守は、ネルソン・マンデラが被告たちとの面会を通して、裁判の内容を理解し、共感するようになります。
被告であるネルソン・マンデラたちは、裁判長に法廷弁護士に報酬が支払われないことを理由に、裁判長に直接話すようになります。
ネルソン・マンデラは、裁判所で、ANCは非暴力で、民主主義を求めていると証言します。
非常事態は、解除されます。
非常事態を理由として逮捕されていた被告であるネルソン・マンデラたちは、家に帰ることになります。
弁護団は、裁判に参加するようになります。

命がけの事業

ネルソン・マンデラたちは、ANCの会合を開き、非合法化されるであろうANCを地下で活動できるように、人員を絞り込み、青年同盟と女性同盟を解散します。
政治活動は、リスクのある職業から命がけの事業になります。
ネルソン・マンデラは、反逆裁判の準備、依頼人の弁護、妻の出産と息子の病気に対応し、忙しい日々を過ごします。

国民憲法会議の要求

ネルソン・マンデラは、活動禁止の期間が過ぎて、自由に移動し、集会に参加し、演説を行い、ANCが活動していることを示します。
ネルソン・マンデラたちは、ANCの活動を地下で続けるM計画を進め、全ての南アフリカにいる人種の区別なく、公正な投票による国民憲法会議を南アフリカのフルヴールト首相に要求し、受け入れなければ、3日間の在宅ストを全国的に実施すると伝えます。
南アフリカのフルヴールト首相は、この要求を「傲慢だ」と評します。
ネルソン・マンデラたちは、国家反逆罪で、有罪になれば刑務所に入るし、無罪になれば家族と別れ地下で活動することになります。
ネルソン・マンデラは、家族と別れる前に、家族に会います。

判決の意味

裁判官団は、被告のネルソン・マンデラたちに「国家反逆際には当たらないし、無罪として、釈放する」と言い渡します。
この判決は、優秀な弁護団と偏見のない裁判官団によってもたらされています。
南アフリカ政府は、屈辱的な敗北を受けて、個人を監禁し、暴行を加え、拷問し、情報を引き出すようになります。

第6章 黒はこべ

神出鬼没

ネルソン・マンデラは、活動禁止や逮捕される前に、地下活動について話し合い、新聞や週刊紙の取材を受け、”自由の憲章”について伝え、反人種差別の姿勢を強く訴えますが、人目に付かないように、日中は家に引きこもり、夜になると変装して外出し、全国を旅をして、人と話します。
南アフリカ警察は、逮捕状を得て、ネルソン・マンデラを捜索しますが、見つけることができません。
ネルソン・マンデラは、”黒はこべ”と呼ばれるようになります。
アフリカ人の警察官は、ネルソン・マンデラとANCを支持し、警察の動向を伝えます。

非暴力への疑念

南アフリカのフルヴートル首相が、アパルトヘイトに関する法制度の強化します。
南アフリカの軍隊と警察は、武力を誇示します。
ネルソン・マンデラたちは、共和国の日に対して、2日間の在宅ストを計画し、実行しますが、成果を上げることはできず、2日目の在宅ストを中止します。
ネルソン・マンデラは、南アフリカ政府が非暴力闘争を暴力で押しつぶすのなら、非暴力政策の章は幕を閉じようとしていると発言し、非暴力政策を支持しているANC委員たちを説得し、ANCが全面的に支配されるが、ANCとは独立した暴力闘争のための軍事組織を作ることになります。

地下からの手紙

ネルソン・マンデラは、戦闘を経験したことがないのに、「民族の槍(通称は、MK)」という軍隊を創設し、最高司令部を作り、既に破壊工作を実行している白人の共産主義者たちを軍隊に引き入れ、人には危害を加えず、国家には最大の損害を与えるという方針で、本を読み、専門家の話を聞き、革命を始めるための基本原則を捜し、ゲリラ戦と戦争の歴史について学び、体系的に分析し、南アフリカで軍事行動により、自由を勝ち取ると地下から全国各紙へ宛てて手紙を送ります。

住まいを転々と

ネルソン・マンデラは、地下に潜行し、住まいを転々としながら、戦争の歴史について学び、軍事行動の計画を練り、会合や打ち合わせを行い、爆発物のテストにも立ち会い、色々な職業を装い、存在を悟られないようにします。

演技

ネルソン・マンデラは、偽名を使い、ヨハネスバーグ郊外のリヴォニアにあるリリーズリーフ農場の管理人となり、「民族の槍(通称は、MK)」のメンバーや妻や娘とも過ごします。

破壊工作

ネルソン・マンデラは、革命、テロやゲリラ戦よりも人的被害が少ない軍事施設、発電所、電話線や輸送網への破壊工作から始めることを決め、南アフリカ政府への支持者を減らし、外国資本を南アフリカから撤退させ、南アフリカ政府を交渉のテーブルに着かせるように仕向けるために、全国最高司令部を頂点に、各州に地方司令部を置き、地方司令部の下に細胞を置き、自分や他人の命を危険に晒さないようにして、南アフリカの「ディンガネの日」という祝日に、初めての破壊工作を行い、「民族の槍(通称は、MK)」の誕生を知らせるビラをまき、南アフリカにいる白人権力者たちにショックを与え、南アフリカにいる黒人たちに白人権力者に立ち向かうことを示し、大晦日に2回目の破壊工作を行います。
南アフリカ政府は、これまでにない規模の非常な弾圧策を行い、暴力闘争を潰そうとします。

出国

ネルソン・マンデラは、東部・中央・南部アフリカのためのPAFMECSAの招待により、ANCの代表として、エチオピアの首都であるアディスアベバで開催される会議に出席し、「民族の槍(通称は、MK)」への支持や資金援助や訓練への協力を取り付けるために、ボツナワにある南アフリカとの国境にあるロバツェまで車で南アフリカを出国し、2週間待って、ジョー・マシューズと合流し、ザンビア、ジンバブエ、ボツナワとナミビアの4つの国境を接しているカサネへ飛行機で移動し、タンザニアのムベヤへ飛行機で移動し、タンザニアのタンガニーカ地方の最大の都市であるダルエスサラームへ移動し、スーダンのハルツームに寄港し、ガーナのアクラへ飛行機で移動し、エチオピアの首都であるアディスアベバに到着します。
ネルソン・マンデラは、人種差別のない公共の場所に感動し、アフリカ人の指導者がアフリカ人の民衆と共にいることにも感じ、飛行機のパイロットがアフリカ人であることに感動しました。

支援を得る旅

ネルソン・マンデラは、エチオピアの首都であるアディスアベバの会議で、南アフリカにおける解放闘争の歴史、アフリカ人に対して行われた数かすの残虐、南アフリカ政府に圧力をかけてくれることに感謝し、「民族の槍(通称は、MK)」の設立の経緯を説明し、南アフリカ政府との戦いを続けるために、南アフリカへ戻るという言葉で演説を締めくくり、大きな喝采を浴びます。
ネルソン・マンデラは、UNIPの党首で、のちのザンビアの大統領になるケネス・カウンダと話し、UNIPの副党首格であるサイモン・カブウェブウェの支持を取り付けます。
ネルソン・マンデラたちは、エジプトのカイロに行って、アフリカには西欧文明に匹敵するような文明がないという白人達への異議を唱えるために、白人が洞窟に住んでいた時代に、エジプト人は偉大な美術品や建造物を生み出していたことの証拠集めをします。
ネルソン・マンデラたちは、エジプト政府が、土地の個人所有を減らし、特定の経済分野を国有化し、急速な工業化を進め、教育を民主化し、南アフリカの陸・海・空軍に匹敵する軍隊を作ったことで、南アフリカにとって貴重なモデルでもあります。
ネルソン・マンデラたちは、チェニジアのチェニスでハビブ・ブルギバ大統領に面会し、南アフリカの現実を説明し、兵士の訓練と武器兆体の資金として5千ポンドを調達します。
ネルソン・マンデラたちは、モロッコのラバトでアフリカ大陸の自由の戦士と出会い、アフリカだけでなく世界中の情勢を知り、フランス軍と対峙している最前線のウージダを訪れます。
ネルソン・マンデラたちは、サハラ砂漠を超えて、マリの首都バコマ、ギニアを経由して、シエラレオネの首都フリータウンに行き、国会を傍聴し、大統領から物資援助を受けます。
ネルソン・マンデラたちは、リベリアに行き、タブマン大統領に会い、武器購入と訓練用の資金を得ます。
ネルソン・マンデラたちは、ガーナに行き、ギニア駐在行使に会い、ギニアではセクー・トーレ大統領に会い損ねたと伝えると、ギニアに呼ばれ、セクー・トーレ大統領に会い、資金援助を申し出て、秘密裏にギニア紙幣で、資金援助を受けます。
ネルソン・マンデラたちは、セネガルのダカールに行き、レオポール・サンゴール大統領に会い、外交旅券を発行され、イギリスのロンドンまでの旅費を負担してもらいます。

軍事訓練

ネルソン・マンデラは、イギリスのロンドンに行き、「オブザーヴァー」紙を発行するデイヴィッド・アスターに会い、南アフリカの現状を説明し、労働党党首ヒュー・ゲイツキと自由党党首ジョー・グリモンドに会います。
ネルソン・マンデラは、エチオピアの首都であるアディスアベバで、6ヵ月の軍事訓練を開始します。
ネルソン・マンデラは、2ヶ月の軍事訓練の途中で、南アフリカに帰国するために、スーダンの首都ハルツーム、タンザニアのタンガニーカ地方の最大の都市であるダルエスサラーム、タンザニアのムベヤ、ロバツッに行く予定が、カニェに降り、ロバツッに行き、「民族の槍(通称は、MK)」の隊員であり、白人のセシル・ウィリアムズの運転手になり、南アフリカのジョハネスバーグに向けて、発車します。

まとめ・感想

ネルソン・マンデラの生まれ育った環境、切り開いてきた人生について、書かれています。
ネルソン・マンデラは、用意されていたかのような環境の中ですが、環境に流されることなく、自らの意志で自らの人生を切り開いてきました。
ネルソン・マンデラが非暴力主義から暴力主義へなった社会的背景が理解できてよかったです。
自分は、特殊な家系に生まれ育ったわけではありませんが、初等教育も、高等教育も受け、大学を卒業しましたが、大学院に進学することはなく、法律家になることも、政治にかかわることもせず、環境に流されて人生を過ごしてきました。
自分は、ネルソン・マンデラのように生きたいとは思いませんが、ネルソン・マンデラのような人が生きていたということを知りたいですし、理解したいですし、多くの人に伝えたいです。

「自由への長い道 ネルソン・マンデラ自伝(下)」を読んで、ブログ記事にしました。
ご一読ください。

面白いと思った方は、クリックして、応援してね!
にほんブログ村 本ブログへ

にほんブログ村 シニア日記ブログへ   にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ