「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」あらすじと感想

映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」を鑑賞し、理解するために読みました。
この映画を鑑賞しても、理解できない場合、この本を読むと良いでしょう。
映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」を鑑賞し「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」を読み直すと、挫折することなく、読むことができます。

公式サイト

あらすじ

1940年5月7日から1940年6月4日までの間にウィンストン・チャーチルが行ったこと、ウィンストン・チャーチルがどのような人物なのか、どのような日常生活を過ごしていたのかとどのようにして第二次世界大戦がはじまったのかについて記述されています。

イギリスは、戦争になってから八ヶ月が経過し、戦況は悪化の一途をたどり、戦況を変えるためには、速やかに戦略を立案し、遂行するために、与野党が協力する挙国一致政権が必要になりました。

1940年5月7日、イギリス下院議員で、バーミンガム・スパークブルック選出のレオ・アメリー議員は、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンに「神の名にかけて、立ち去るがいい」と辞職を要求します。

1940年5月7日、イギリス下院議員は、内閣不信任案を採決することに決めました。
内閣不信任案は、281対200で、否決されましたが、与党から造反者が41名でました。
野党の支持は得られず、与党からも造反者が出て、挙国一致政権を作ることは絶望的になりました。

1940年5月8日、国王であるジョージ6世と与党下議員達は、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンの唯一正当な後継者は、上院議員のハリファックス卿と考えていました。

1940年5月9日、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは、ウィンストン・チャーチル、ハリファックス卿と院内幹事長のディヴィッド・マーゲソンを集めて、話し合い、辞職することを決意し、ウィンストン・チャーチルを後継のイギリス首相に指名することに決めました。
ウィンストン・チャーチルは、息子のランドルフに「おそらく明日、首相になる」と電話で告げました。

1940年5月10日、ナチスドイツは、午前3時、オランダ、ベルギー、フランス国境にいる陸軍と空軍に出動命令が下され、電撃戦を始めました。
ウィンストン・チャーチル首相は、午前5時30分に、ナチスドイツがオランダに侵攻したという電報で起こされました。
ウィンストン・チャーチル達は、プランDとして事前に決められていたイギリス海外派遣軍のベルギーへの派兵を検討し始めると、ナチスドイツがベルギーに侵攻していることが判明しました。
ナチスドイツは、ルクセンブルクにも進行していることが判明しました。
ウィンストン・チャーチル達は、プランDとして事前に決められていたプラン通りイギリス海外派遣軍のベルギーへの派兵とフランスの状況確認を決めました。
ウィンストン・チャーチル達は、報復攻撃を24時間延期することにしました。
イギリス首相ネヴィル・チェンバレンは、バッキンガム宮殿で国王ジョージ6世に拝謁し、正式に首相を辞任を申し出て、後任にウィンストン・チャーチルを指名しました。
ウィンストン・チャーチルは、バッキンガム宮殿で国王ジョージ6世に拝謁し、正式に首相に就任しました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ネヴィル・チェンバレンとハリファックス卿に手紙を書き、支持をお願いしました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ネヴィル・チェンバレンを枢密院議長、ハリファックス卿を外務大臣、野党からはクレメント・アトリーを王璽尚書、アーサー・グリーンウッドを無任所大臣にすることにしました。
ウィンストン・チャーチル首相は、国防担当閣外大臣を新設し、自ら兼任し、戦争に関する政策を自ら立案し、遂行できるようにしました。

1940年5月11日、ナチスドイツは、オランダ、ベルギーを蹂躙し、フランス国境に迫っていました。
ウィンストン・チャーチル首相は、戦時内閣を組閣しましたが、与党からも野党からも、組閣に反対され、支持は得られていません。
大臣達は、夜遅くまで続く会議に対するウィンストン・チャーチル首相への不満がありました。

1940年5月13日、ナチスドイツは、アルデンヌの森を超えフランスに侵攻しました。
オランダ女王ウィルヘルミナは、イギリスに亡命しました。
ウィンストン・チャーチル首相は、就任演説を行いました。

「「私が差し出せるものは、血と苦労と汗と涙しかない」と。
我々の前には、これ以上ない苦難が待ち構えています。我々の前には、何ヵ月にもおよぶ戦いと苦しみが待っています。我々はどんな方針を掲げるべきか、と尋ねる人もいるでしょう。その問いに私は、こう答えます。戦うことです。海で、陸で、空で、全力をあげて、神から授かったすべての力を尽くして戦うことです。人類が犯した罪の、邪悪で嘆かわしい一覧表のなかに入れてもけっしてひけをとらない極悪非道の暴政と戦うことです。それが我々の方針なのです。我々の目標が何かと問われたならば、私は一言で答えられます。勝つことです。いかなる犠牲を支払っても勝つこと。あらゆる恐怖に臆せず勝つこと。どれほど長く苦しい道のりであろうと勝つことです。なぜなら、勝たなければ我々は生き残れないからです。はっきり言っておきましょう。大英帝国は生き残れないのです。大英帝国が支持するものすべてが生き残れない。人類が目標に向かって前進するよう駆り立てる時代の推進力も生き残れないのです。しかし、私はこの仕事に気力と希望を失わずに取り組むつもりです。私は、我々が目標を達成できないことはありえないと確信しています。いまこのときは、すべての人の助力を要請する資格が私にはあると考えています。こう言わせてください。「さあ、我々の団結の力で前に進もうではないか」と。」
<アンソニー・マクカーテン著/染田屋 茂・井上 大剛共訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』角川文庫 p.140, ISBN-13:978-4041066454>

1940年5月14日、ナチスドイツは、オランダを侵略し、ムーズ川を渡ってフランスに侵攻しました。
フランス首相ポール・レイノーは、電話でイギリス首相ウィンストン・チャーチルに空軍の増援なしに、パリは守れないと伝えてきました。

1940年5月15日、フランス首相ポール・レイノーは、電話でウィンストン・チャーチル首相に、戦いに負けて、パリへの道は開かれたとフランスがナチスドイツに降伏するだろうと伝えました。
オランダは、ナチスドイツに降伏しました。
イタリアが、フランスに侵攻する可能性が現実になってきました。
ウィンストン・チャーチル首相は、手紙でアメリカ合衆国ルーズベルト大統領に支援を要請しました。
ウィンストン・チャーチル首相は、手紙でイタリア首相ムッソリーニに戦争に加わらないように要請しました。

1940年5月16日、ナチスドイツは、マジノ線の弱点を突き、突破しました。
ウィンストン・チャーチル首相は、フランスへ飛行機で行き、フランス首相ポール・レイノーを激励し、飛行中隊の派遣を決めたことを伝えました。

1940年5月17日、ウィンストン・チャーチル首相は、フランスからイギリスに飛行機で戻りました。

1940年5月19日、ウィンストン・チャーチル首相は、ラジオを通して、イギリス国民に、以下のように演説しました。

「首相として、ここに国民の皆さんに向けて初めてお話します。現在、我が国の命、帝国の命、同盟国の命、そして何より自由の大義の命のことを厳粛に受け止めるときにあります。フランスとフランデルでは今、すさまじい戦闘が起きています。ドイツは空爆と重戦車を巧みに組み合わせ、マジノ線の北部でフランスの守備を突破しました。装甲車両が列をなして無防備な国を踏みにじり、最初の1日2日は防衛する者もいませんでした。装甲車両は深くフランス領土に侵入し、道中で恐怖と混乱を広げています。その後ろにはトラックに乗った歩兵が現れ、さらにその背後で大軍が前進しつつあります。フランス軍はふたたび敵に立ち向かい、攻撃を加えるべく懸命に立て直しを図っています。その試みはイギリス空軍の立派な努力によって大いに助けながら、数日間続いています」<アンソニー・マクカーテン著/染田屋 茂・井上 大剛共訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』角川文庫 p.174-175, ISBN-13:978-4041066454>

イギリス国民を戦争に立ち向かわせるために、ドイツ軍に関する情報は正確ですが、実際には、武器を放棄し、ダンケルクに向かって総退却しているフランス軍とイギリス軍についての説明は嘘です。

ナチスドイツは、フランス海岸アブヴィルに到達しました。

1940年5月20日、ナチスドイツは、フランス第9軍を全滅させ、フランス軍の反撃の可能性は消えました。
イギリス海外派遣軍は、ダンケルクとカレーに撤退しました。
ウィンストン・チャーチル首相は、アイアンサイド将軍をフランスに派遣し、情報収集させました。
ウィンストン・チャーチル首相は、電信でアメリカ合衆国ルーズベルト大統領に支援を要請しました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ドーバーを指揮するバートラス・ラムゼイ海軍中将に海軍本部が多数の民間の小型船を集め、フランスの港や入り江へ向かわせる準備を始めさせました。

1940年5月21日、アイアンサイド将軍は、フランスから戻り、イギリス海外派遣軍は、ブルゴーニュー、ダンケルクとカレーで孤立していると伝えました。

1940年5月22日、ウィンストン・チャーチル首相は、フランスへ飛行機で行き、ウェイガン将軍からの報告を受けて、戦況に楽観し、ロンドンへ戻りました。
フランス政府からイギリス政府に、翌日に南北から同時にナチスドイツを攻撃するとうい報告を受けました。

1940年5月23日、ナチスドイツは、フランス政府の予想をはるかに上回る部隊が侵攻してきました。
フランス軍は、南からも北からもナチスドイツを攻撃しませんでした。
ナチスドイツは、ブルゴーニューのイギリス海外派遣軍を攻撃し、カレーに退却させました。
イギリス海外派遣軍は、ダンケルクとカレーで孤立しました。

1940年5月24日、ハリファックス外務大臣は、イタリア政府を参戦を遅らせるように。参戦させないように、外交的手段で試みることを提案し、戦時内閣で了承され、実行しました。

1940年5月25日、ウィンストン・チャーチル首相は、ナチスドイツをカレーに向かわせ、ダンケルクに向かわせないために、カレーにいるニコルソン准将に電信を送信しました。

「ニコルソン准将。カレーを極限まで防衛すること、これはわが国とフランスとの協力の継続を象徴する最高度の重要性を帯びた任務である。帝国の人々の視線はカレーの防衛へ注がれている。また国王陛下の政府は、貴君と貴君の勇敢な連帯がイギリスの名に恥じない手柄を挙げてくれると確信している」<アンソニー・マクカーテン著/染田屋 茂・井上 大剛共訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』角川文庫 p.196, ISBN-13:978-4041066454>

ウィンストン・チャーチル首相は、ダンケルクのイギリス海外派遣軍を撤退させることを決意し、ハリファックス外務大臣によるイタリア政府との交渉を極秘裏に行うことで認めました。

1940年5月26日、何も知らない新聞は、楽観的な戦況を報道し続けました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ハリファックス外務大臣にナチスドイツによるヨーロッパの平和と安全を決して受け入れないし、ナチスドイツはフランスに魅力的な和平交渉の条件を提示し、ナチスドイツの敵はフランスではなくイギリスだと伝えるだろうと言いました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ハリファックス外務大臣によるナチスドイツとの和平交渉について非公式にありがたいと認めました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ナチスドイツやイタリア政府との和平交渉の条件はダンケルクからどれだけの兵力を撤退できるかにかかっていると考えました。
バートラス・ラムゼイ海軍中将は、800もの小型船を集めました。
ウィンストン・チャーチル首相は、小型船によるダンケルクのイギリス海外派遣軍の撤退作戦、ダイナモ作戦を指令しました。

1940年5月27日、ベルギー政府は、ナチスドイツに敗戦を認め、降伏を検討し始めました。
ベルギー軍は、イギリス海外派遣軍のいるダンケルクの北側を守っていました。
ベルギー軍が撤退すれば、イギリス海外派遣軍のいるダンケルクを守る軍はいなくなります。
ウィンストン・チャーチル首相は、ナチスドイツの暴政に蹂躙された国々のために最後まで戦って敗れるというのも悪くないのではないかとまで言い出します。
ウィンストン・チャーチル首相は、ハリファックス外務大臣による和平交渉を認めますん。
ハリファックス外務大臣は、ウィンストン・チャーチル首相が和平交渉を認めないことを記録に残し、和平交渉を認めないことを理由に辞任し、不信任案を提出し、投票し、可決することを目指します。
ウィンストン・チャーチル首相は、ハリファックス外務大臣の動きを抑えるために、和平交渉を考慮する用意はあると伝えます。
ベルギー政府は、イギリス政府に、ナチスドイツに休戦条約を結び、停戦すると伝えてきました。

1940年5月28日、ウィンストン・チャーチル首相は、議会で、ベルギー政府が降伏したこと、戦況についての評価が行われたら伝えると発表しました。
バートラス・ラムゼイ海軍中将は、ウィンストン・チャーチル首相に、ダンケルクの海岸にに1万4千名のイギリス海外派遣軍が到着し、2,500名のイギリス海外派遣軍がドーバー海峡を横断中と報告しました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ハリファックス外務大臣にナチスドイツとの和平交渉は意味がないと伝えました。
ウィンストン・チャーチル首相は、戦時内閣外の大臣達に召集をかけ、演説しました。

「ドイツはわが艦隊を要求し、武装解除と呼ぶだろう。我々の海軍基地その他を要求するだろう。我が国は奴隷国家となり、モズリーあたりを首相に据えるだろう。そんなことになれば、我々の行く末はどうなるか。一方で、我々には膨大な貯えと強みがある。それに私は確信している。もし、私が一瞬たりとも和平交渉や降伏を意図したら、君たち毅然と立ち上がり、私の今の地位から引きずりおろそうであろうことを。だからこう言っておこう。「我々は本土であれどこであれ、前進しつづけ、戦い抜く。もしこの国の長い歴史がそれで終わることになっても、本当に終わるのは我々全員が血で喉を詰まらせて大地に横たわるときだ」と」<アンソニー・マクカーテン著/染田屋 茂・井上 大剛共訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』角川文庫 p.249, ISBN-13:978-4041066454>

戦時内閣外の大臣達、下院全体、国民全体は、ウィンストン・チャーチル首相を支持しました。
ハリファックス外務大臣とネヴィル・チェンバレン枢密院議長は、ナチスドイツとの和平交渉を断念しました。

1940年5月29日、1時間に2,000名のイギリス海外派遣軍が撤退し、4万のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還しました。
ドイツ空軍は、ダンケルクの港を破壊し、25隻もの船を撃沈し、ダンケルクの港に船が入港でいないようにしました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ダンケルクにいるゴート卿に「できるだけ多くの兵士を救出する時間を稼ぐぐために戦い続けろ、ドイツ側に最大限の損害を与えよ」と命令しました。

1940年5月30日、ウィンストン・チャーチル首相は、10万のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還したと報告を受けました。

1940年5月31日、ウィンストン・チャーチル首相は、フランスへ飛行機で行き、フランス首相ポール・レイノーに状況を説明し、激励し、イギリスは単独でも、戦う場所を変えてでも、ナチスドイツと戦い続けるので、イギリス海外派遣軍をどれだけイギリス本土に帰還させられるかで、今後のことが決まると伝えました。

1940年6月1日、ウィンストン・チャーチル首相は、イギリスに飛行機で戻りました。
ウィンストン・チャーチル首相は、22万5,000のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還したと報告を受けました。

1940年6月2日、イギリスの新聞は、27万6,030のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還したと報道しました。

1940年6月3日、29万2,380のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還しました。

1940年6月4日、33万のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還し、ダイナモ作戦は完了しました。
1940年6月4日、ウィンストン・チャーチルは、下院議員で、演説しました。

「我々は、最後までやり抜きます。我々はフランスで戦い、海で大洋で戦い、自信を強め力を増して空で戦い、どんな犠牲を払っても本土を守り抜きます。我々は海岸で戦い、上陸地点で戦い、野原で戦い、道端で戦い、丘で戦います。我々は、けっして降伏しません。私自身、一瞬たりともそんあると思ったことはありませんが、もし本土全体、あるいは大部分が征服され、飢餓状態に置かれたとしても、時が来れば海の向こうの大英帝国が武装し、イギリス海軍に警護されて、戦いを継続してくれるでしょう。新世界がその軍事力と能力のすべてを注いで、旧世界の救援と解放に乗り出してくるでしょう。」<アンソニー・マクカーテン著/染田屋 茂・井上 大剛共訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』角川文庫 p.277, ISBN-13:978-4041066454>

感想

ウィンストン・チャーチルは、反対するハリファックスとネヴィル・チェンバレンを異動させるのではなく、ハリファックス外務大臣とネヴィル・チェンバレン枢密院議長として戦時閣内に登用し、反対する意見も聞くことで、裸の首相にならずに、自ら見失うことなく、意志を決定し、成功に導いたところが、重要なところです。

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