映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」~あらすじ【ネタばれ有り】と感想

希望をはこぶ人」の中で、ジョーンズがアンディに読むように勧めた本の「ウィンストン・チャーチル」について知りたいと感じました。
伝記は、登場人物が多く、長く、読むのは大変ですが、映画を見る方が簡単です。
いきなり伝記を読むより、映画を鑑賞しておくと、伝記も読みやすいです。
映画「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」を鑑賞し、レビューします。

映画「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」を鑑賞してもわからない人やもっと知りたい人は、この映画の原作となった「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」も読むと良いです。
原題は「Darkest Hour」で、「最も暗い時間」という意味です。

基本情報・スタッフ

監督    ジョー・ライト
脚本    アンソニー・マクカーテン(英語版)
製作    ティム・ビーヴァン
      リサ・ブルース(英語版)
      エリック・フェルナー
      アンソニー・マクカーテン
      ダグラス・アーバンスキー(英語版)
製作総指揮 ジェームズ・ビドル
      ルーカス・ウェブ
      ライザ・チェイシン
音楽    ダリオ・マリアネッリ
撮影    ブリュノ・デルボネル
編集    ヴァレリオ・ボネッリ
製作会社  パーフェクト・ワールド・ピクチャーズ
      ワーキング・タイトル・フィルムズ
配給    フォーカス・フィーチャーズ/ユニバーサル・ピクチャーズ
      ビターズ・エンド/パルコ
公開    2018年3月30日
上映時間  125分
映倫    G
公式ホームページ

予告動画

舞台となる場所


ロンドンは、イギリスの首都で、ウィンストン・チャーチルがいる場所で、この映画の舞台です。
ドーバーは、白い断崖が有名で、対岸のカレーまでの距離は約34kmで、バートラム・ラムゼー司令官がいる場所で、ダイナモ作戦、いわゆるダンケルク撤退を指揮している場所です。
イギリスとフランスの間にあるのが、ドーバー海峡です。
カレーは、フランス都市で、イギリス軍4000人が守備しています。
ダンケルクは、フランス海岸で、イギリス軍30万人が救助を待っています。

あらすじ

1940年5月9日~6月4日までの、ドイツがオランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスへ侵攻したことに対して、イギリスがどのように対応したのかが描かれています。
イギリス国内では、野党労働党党首であるクレメント・アトリーは、挙国一致政権に協力する条件として、ドイツに対して宥和政策をとってきたネヴィル・チェンバレン首相に、辞任を要求します。
ネヴィル・チェンバレン首相は、辞任を決意し、ハリファックス子爵を首相に推薦しようとします。
ハリファックス子爵は、庶民議員ではないこと、宥和政策に反対し、徹底抗戦を考えているウィンストン・チャーチルを排除するために、首相になることを断ります。
ネヴィル・チェンバレン首相は、国王ジョージ6世に、辞任を伝え、後任にウィンストン・チャーチルを推薦します。
国王ジョージ6世は、ウィンストン・チャーチルを首相に任命しますが、納得はしていません。
ウィンストン・チャーチルは首相になりますが、宥和政策を推進するネヴィル・チェンバレン枢密院議長やハリファックス外務大臣から、宥和政策を検討さえしないことを理由に、辞職するように追い込まれます。
ウィンストン・チャーチルが辞職すれば、ハリファックス外務大臣が首相になり、再び宥和政策を進めることができるということです。

イギリスの首相は、庶民院に内閣不信任案が提出され、庶民院で内閣不信任案で可決されると、総辞職するか、庶民院を解散し、総選挙を行います。
イギリスの首相は、庶民院に内閣不信任案が提出されないように、庶民院で内閣不信任案が可決されないように、権力を行使しなければなりません。
イギリスの首相は、閣僚が辞任することをきっかけに、庶民院に内閣不信任案が提出されないようにします。
イギリスの首相は、閣僚が辞任することが避けられないなら、閣外大臣、庶民院議員の支持を得て、庶民院で内閣不信任案で可決させないようにしなければなりません。
ドイツ軍が侵攻を開始している状況では、イギリスの首相は、庶民院で内閣不信任案で可決された場合、庶民院を解散し、総選挙を行う時間はなく、総辞職するしかありません。
ドイツ軍が侵攻を開始している状況では、イギリスの首相は、ドイツ軍と軍事的に戦いながら、イギリスの閣僚や議員と政治的に戦い、ドイツ軍に対して軍事的に勝ち、イギリスの閣僚や議員に対して政治的に勝たなければならないということです。

この間にも、戦局は悪化し続けます。
1940年5月10日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、小型でガソリンエンジンを搭載したI号戦車、II号戦車で構成され、アルデンヌ森林地帯を抜け、Ju87シュトゥーカ急降下爆撃機による正確な支援爆撃を受けて、ムーズ川を渡り、敵国のガソリンスタンドを補給に利用し、早い速度で進軍し、連合国軍の背後に回り、攻撃することで、連合国軍を総撤退させ、英仏海峡を目指します。
ドイツ軍の空挺部隊は、防御陣地に降下して、爆破し、歩兵主力のB軍集団が防御陣地を制圧し、ベルギーとオランダに侵攻しました。
ドイツ軍のC軍集団は、マジノ線に侵攻し、マジノ線の要塞群に立てこもるフランス軍守備隊を釘づけにしました。
1940年5月15日、ドイツ軍の歩兵主力のB軍集団は、オランダを占領しました。
1940年5月16日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団がイギリス軍とフランス軍の背後へ回り込んだことを知らされたイギリス軍とフランス軍は、総退却を開始し、機動力に勝るドイツ軍のA軍集団にパリ方面への退却を阻まれ、イギリス海峡方面へと退却しました。
1940年5月20日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、英仏海峡に到達し、イギリス軍とフランス軍を包囲しました。
1940年5月26日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、カレーを陥落しました。
1940年5月28日、ドイツ軍の歩兵主力のB軍集団は、ベルギーを占領しました。

ウィンストン・チャーチルは、庶民院、ラジオで演説を行います。
ウィンストン・チャーチルは、ダイナモ作戦、いわゆるダンケルク撤退戦を行い、ダンケルク撤退戦から30万もの兵士をイギリスに撤退することができたので、軍事的な窮地を切り抜けました。
ウィンストン・チャーチルは、勝利することを信じて、閣外大臣、再び庶民院で演説をすることで、閣外大臣、再び庶民院議員に勝利することを信じさせ、政治的な窮地を切り抜けました。
ウィンストン・チャーチルは、イギリスを勝利に導き、戦勝国として、国際連合安全保障理事会で拒否権を持つ常任理事国にしました。

登場人物

ウィンストン・チャーチルは、ゲイリー・オールドマンが演じる保守党の海軍大臣から第61代イギリス首相で、国防担当閣外大臣になります。
ウィンストン・チャーチルは、戦争省を創設し、戦争省を担当する国防担当閣外大臣を新設し、兼任したのは、自ら戦争の指揮を執るためです。
閣議には、陸軍大臣、海軍大臣、空軍大臣を出席させませんでした。

クレメンティーン・チャーチルは、クリスティン・スコット・トーマスが演じるウィンストン・チャーチルの妻です。

チャーチル夫婦には、長女のダイアナ、長男のランドルフ、次女のサラ、三女マリーゴールド、四女メアリーがいます。
ウィンストン・チャーチルは、クレメンティーン・チャーチルのことを「猫」と呼び、クレメンティーン・チャーチルは、ウィンストン・チャーチルのことを「豚」と呼び合っています。

エリザベス・レイトンは、リリー・ジェームズが演じるウィンストン・チャーチルのタイピストです。

国王ジョージ6世は、ベン・メンデルソーンが演じるイギリス国王です。
ウィンストン・チャーチルは、ジョージ6世の兄であるジョージ8世を既婚者女性であるウォリス・シンプソンの結婚を手助けし、退位させ、イギリスから追放することになりました。

ハリファックス子爵は、スティーヴン・ディレインが演じるイギリス貴族院議員で、外務大臣です。

ネヴィル・チェンバレンは、ロナルド・ピックアップが演じる保守党の第60代イギリス首相で、枢密院議長です。

サイモン子爵は、ニコラス・ジョーンズが演じるイギリス貴族院議長です。

アンソニー・イーデンは、サミュエル・ウェストが演じる保守党の陸軍大臣です。

クレメント・アトリーは、デヴィッド・スコフィールドが演じる労働党の党首で、王璽尚書です。

ヘイスティングス・イスメイは、リチャード・ラムスデンが演じる軍事首席補佐官・参謀です。

エドムンド・アイアンサイドは、マルコルム・ストッリーが演じる帝国参謀本部総長です。

アーサー・グリーンウッドは、ヒルトン・マクライが演じる野党労働党の無任所大臣です。

ジョン・エヴァンスは、ジョー・アームストロングが演じるウィンストン・チャーチルの秘書です。

ヒュー・ダウディングは、アドリアン・ラウリンズが演じるイギリス空軍戦闘機軍団を指揮し、ダンケルク撤退を支援します。

バートラム・ラムゼーは、デヴィッド・バンバーが演じるドーバー司令官で、ウィンストン・チャーチルとは友人で、バーディーと呼ばれ、ダイナモ作戦、いわゆるダンケルク撤退の責任者です。

ダドリー・パウンドは、ポール・レナードが演じるイギリス海軍軍人で最高武官です。

フランクリン・ルーズベルトは、デヴィッド・ストラザーンが演じるアメリカ合衆国大統領です。

ポール・レノーは、フランス首相です。

ゴート卿は、イギリスの海外派遣軍司令官を務めて、ドイツ軍の電撃戦を迎え討つも、敗北してダンケルクへ撤退しました。

ニコルソン准将は、イギリス軍のカレー守備隊を指揮しています。

アーチボルト・シンクレアは、自由党党首で、空軍大臣です。

A・V・アレグザンダーは、労働党で、海軍大臣です。

アドルフ・ヒトラーは、ドイツの総統で、独裁者です。

ベニート・ムッソリーニは、イタリア首相で、独裁者です。

ウィンストン・チャーチル、国王ジョージ6世とフランクリン・ルーズベルトはフリーメイソンでした。

単語説明

庶民院は、選挙で選ばれた議員構成されます。

貴族院は、選挙で選ばれることのない貴族議員で構成されます。

挙国一致政権は、国家の危機に際して、全ての政党の議員が閣僚になって作られる政権です。
連立政権は、2つ以上の政党が政策を協議し、議員定数の過半数の議席を獲得し、安定した政権運営するために作られる政権です。

宥和政策は、戦争を避けて、外交交渉で、平和を実現する政策です。

閣外大臣は、閣議に参加しない大臣です。

イギリス国王は、首相の辞任を受けて、推薦された庶民院議員を首相に公務として任命します。

戦争省には、作戦室、閣議室、タイプ室、ベッド室、ウィンストン・チャーチル専用のトイレがありました。

枢密院議長は、イギリス女王(国王)の諮問機関で、国王大権の行使に関する助言を行うイギリス内閣の閣僚です。

王璽尚書は、国王の御璽の管理、およびそれに関連する行政事務を行うイギリス内閣の閣僚です。

無任所大臣は、政府の特定部局の長とならない閣僚です。

「裏ピース」は、「俺の指はまだあるから殺せるぜ、バーカ」という意味になります。
百年戦争の頃、イギリス人は、弓矢でフランス人を殺していました。
フランス人は、イギリス人を捕虜にすると、弓矢を射ることができないように、人差し指と中指を切断していました。
イギリス人は、人差し指と中指を「裏ピース」で見せることで、「俺の指はまだあるから殺せるぜ、バーカ」を示したということです。

マジノ線は、フランス軍がフランス・ドイツ国境を中心に構築した対ドイツ要塞線です。
フランス・ベルギー国境部分に関しては、マジノ線は構築されていませんでした。
アルデンヌ森林地帯は、自然の要害で、重砲や戦車は通れず行軍は不可能であると判定していたためマジノ線は構築されていませんでした。

ドイツ軍の電撃戦は、制空権を確保し、Ju87シュトゥーカ急降下爆撃機が正確な支援爆撃を行い、空挺部隊が敵国に降下して、占領し、小型でガソリンエンジンを搭載したI号戦車、II号戦車で構成された機甲部隊の高い機動能力を活用し、敵国のガソリンスタンドを補給に利用し、早い速度で進軍し、連合国軍の側面・背後に回り、攻撃することで、連合国を降伏させました。

覚書は、当事者間の合意事項を書面化した書類です。
草案は、覚書を作成するために作成される下書きです。

バッキンガム宮殿は、イギリス王室の公式の宮殿です。
ウィンザー城は、イギリス王室の所有で、女王エリザベス2世が週末に過ごす場所です。
ピカデリーは、ロンドンの繁華街です。

キケロは、古代ローマの政治家、文筆家、哲学者で、後世のヨーロッパに大きな影響を与えた人物であり、キケロが提唱した思想の数々は、そのままヨーロッパの思想史になるとまで言われています。

主権は、国民および領土を統治し、他国の支配に服従せず、政治のあり方を決める権利です。
隷属は、主権を失い、他国の支配に服従し、国民および領土を統治できず、政治のあり方を決める権利はない状態です。
奴隷国家は、隷属している国家です。

和平交渉は、戦争状態を終結させるための交渉です。
戦争が不利な状態である場合には、不利な条件を認めてでも、戦争を終結します。
戦争が有利な状態である場合には、有利な条件を押し付けてでも、戦争を終結させられます。

徴用は、国家が国民の所有物を強制的に取り上げて、国民を強制的に一定の仕事に就かせることです。

最後のセリフ

言葉という武器を戦場に送り込んだ

時代背景

時代背景は、第一次世界大戦と第二次世界大戦です。
第一次世界大戦と第二次世界大戦に関する映画は、たくさん製作され、公開されています。
これからも、多くの映画が製作され、公開されるでしょう。
学校では教えてくれない、教科書には書かれていない、教師が教えてくれない第一次世界大戦と第二次世界大戦について知っておくことは、人生のどこかできっと役に立ちます。

1915年10月24日、イギリスは、アラブ人に対トルコ戦協力を条件にパレスチナ独立支持を約束した「フサイン=マクマホン協定」を結びました。

1916年5月16日、イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定、「サイクス・ピコ協定」を結びました。
この協定では、アラブ人のパレスチナ独立支持を認めない内容でした。

1917年11月2日、「バルフォア宣言」として、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を示し、その支援を約束しました。

1919年1月5日、ミュンヘンの「フュルステンフェルダー・ホーフ」というビアホールでドレクスラーが労働者24人と共にミュンヘンで「ドイツ労働者党」を結成しました。

1919年6月28日、連合国とドイツが、ヴェルサイユで講和条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。
ドイツは、ドイツの領土は縮小され、植民地を放棄し、軍備・兵器は制限され、賠償総額が1320億金マルクとされました。

1919年10月19日、アドルフ・ヒトラーは、「ドイツ労働者党」に入党しました。

1920年1月5日、アントン・ドレクスラーは、政党名を「ドイツ労働者党」から「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」に変更しました。
アドルフ・ヒトラーは、ナチスの第一宣伝部長に就任しました。

1921年7月29日、アドルフ・ヒトラーは、ナチスの議長に選出されました。

1923年1月11日、フランスとベルギーは、賠償金を支払わないドイツの石炭の73%、鉄鋼の83%を生産するルール地方の占領を開始しました。
ドイツは、ルール地方でストライキを行い、ドイツ経済は破綻し、ハイパーインフレーションに陥りました。

1923年11月8日、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーというビアホールで行われていたバイエルン州総督グスタフ・フォン・カールの演説会に、アドルフ・ヒトラーらが乱入し、クーデター未遂事件を起こしましたが、1日で鎮圧されました。
1923年11月9日、バイエルン州は、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。
1923年11月23日、ドイツは、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。

1924年4月1日、アドルフ・ヒトラーは、ランツベルク・アム・レヒの要塞刑務所の7号室で5年の城塞禁固刑となりました。
アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の執筆を開始しました。
1924年5月4日、ドイツの総選挙において、ナチスの偽装政党である「国家社会主義自由運動」が32議席を獲得しました。

1924年9月26日、米国は、フランスにルール占領の解消、賠償金額の免除と段階的引き上げにするドーズ案を受け入れさせました。
1924年10月、フランスとベルギーは、ドイツのルール地方から撤退を開始しました。

1924年12月20日、アドルフ・ヒトラーは、保護観察処分に減刑され、仮出獄されました。

1925年2月16日、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトは、ナチス再結成を許可しました。
1925年2月27日、ナチスはビュルガーブロイケラーでナチス再結党大会という集会を開催し、アドルフ・ヒトラーは演説をしました。
1925年7月18日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第1巻を出版しました。
1926年12月11日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第2巻を出版しました。
1928年5月20日、ナチスは、初めての国政選挙で、12議席を獲得しました。

1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所の株が大暴落することから始まり、日本を含む世界中の株が大暴落した世界大恐慌が発生しました。
日本では、昭和恐慌と呼ばれています。

1930年9月14日、ナチスは、国政選挙で、107議席を獲得し、第二党になりました。

1931年9月18日、日本軍は、満洲事変を起こして満洲全土を占領しました。
1932年3月1日、日本は、満州国の独立を宣言しました。

1932年3月13日、ドイツの大統領選挙で、アドルフ・ヒトラーは、30%の票を獲得しますが、大統領には選出されませんでした。

1932年7月31日、ナチスは、国政選挙で、203議席を獲得し、第一党になりました。

1932年9月15日、日本は、満州国の独立を承認しました。
1932年10月1日、国際連盟理事会に満州国の独立を認めないリットン報告書が提出されました。

1932年11月6日、ナチスは、国政選挙で、196議席を獲得し、第一党を維持しました。
1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、アドルフ・ヒトラー内閣が成立します。

1933年2月24日、国際連盟理事会は、リットン報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)、投票不参加1国(チリ)となり、満州国は認められませんでした。

1933年2月27日、ドイツの国会議事堂が放火され、炎上しました。
1933年2月28日、ドイツは、国家防衛緊急令を公布しました。
1933年3月1日、ドイツは、反逆防止緊急令を公布しました。
ドイツの言論の自由や所有権は著しく制限されました。
ドイツ政府は、連邦各州の全権を掌握し、反ナチスとみなす人、左翼思想家を強制収容所へ送り込む法的根拠となりました。

1933年3月8日、日本は、国際連盟を脱退しました。

1933年3月24日、ドイツは、全権委任法が成立しました。
アドルフ・ヒトラーは、議会を通すことなく、法律を作ることができることになり、ドイツの議会政治は終わり、独裁政治が始まりました。
ドイツでは、ユダヤ系ドイツ人に激しい迫害が加えられましたが、国交を結んでいるユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていました。
1933年10月14日、ドイツは、国際連盟を脱退しました。
1934年11月12日、ドイツの国際連盟脱退の是非を直接国民に問うために国民投票を実施し、95.1%という圧倒的多数の賛成により、ドイツの国際連盟脱退が支持されました。
1935年3月16日、ドイツは、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言しました。

1935年3月27日、日本は、国際連盟の脱退が正式に発効されました。

1935年8月31日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、「中立法」を制定しました。
「中立法」は、戦争状態にある国が存在していること、または内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物質の輸出を禁止します。

1937年5月28日、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が首相に就任しました。

1937年、ドイツは、反社会分子とみなす人、暴力団、売春婦、乞食、浮浪者、住所不特定の者、労働忌避者、同性愛者、アルコール中毒者、訴訟を大量に起こしている者、交通規則違反者、絶えず職場に遅刻する者、無断で休暇を取る者、自分の職務以外の仕事を勝手に引き受けている者を強制収容所へ送り込むようになりました。

1938年3月13日、ドイツは、オーストリアを併合しました。

1938年9月29~30日、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介し、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統がドイツのミュンヘンで会談を行い、ドイツとの戦争を回避するために、ドイツの主張を受け入れ、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツへ譲渡することを認めるという融和政策で問題を解決しました。

1938年10月6日、ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効にすることを決定しました。
1938年10月28日、ドイツは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効が無効になる前に、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人をポーランドに移送しました。
ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の入国を拒否しました。
ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人は、国境地帯で放浪し、窮乏し、餓死しました。

1938年11月7日、ドイツによって追放されたポーランド系ユダヤ人のヘルシェル・グリュンシュパン(17歳)は、ドイツ警察から非道の仕打ちを受けていることを世界に訴えるために、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んで、殺害しました。
1938年11月9日、ドイツのSA(突撃隊)がユダヤ人の商店や企業を破壊しました。
1939年3月、ドイツは、ミュンヘン会談の合意に従わずに、チェコスロバキアを支配下にしました。

1939年5月~9月、日本とソ連は、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐっての間で断続的に日ソ国境紛争が発生しました。

1939年8月23日、ドイツとソ連は不可侵条約を締結するだけでなく、ドイツとソ連がポーランドへ進行することを認めていました。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻しました。
ポーランドのダンツィヒ郊外にシュトゥットホーフ強制収容所が設置されました。

1939年9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告しました。
1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻し、デンマークを占領しました。

1940年4月、ドイツが占領していたポーランドのアウシュヴィッツに巨大な強制収容所の建設を命じました。
ドイツは、ヨーロッパ中に強制収容所を建設しました。

1940年5月10日、ドイツ軍はフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻を開始しました。
イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が辞職し、ウィンストン・チャーチルが首相に就任しました。
1940年5月15日、ドイツ軍はオランダを占領しました。
1940年5月20日、ドイツ軍は英仏海峡に到達し、イギリス軍とフランス軍を包囲しました。
1940年5月21日、イギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍の侵攻を遅らせるためにカレーから進軍し、ドイツ軍を反撃し、ダメージを与えました。
1940年5月22日、ドイツ軍は、カレーに向かって進軍しました。
1940年5月23日、イギリス軍とフランス軍は、カレーに後退しました。
1940年5月24日、ドイツ軍は、カレーを包囲し、降伏するよう説得しました。
イギリスとフランスからの抵抗せよという命令を受けたイギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍に抗戦しました。
1940年5月25日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから「ダイナモ作戦」と名づけられました。
1940年5月26日、イギリスは、「ダイナモ作戦」を実施し、ダンケルクから33万の連合軍兵士を撤退を開始しました。
カレーのイギリス軍とフランス軍は降伏しました。
1940年5月28日、ドイツ軍はベルギーを占領しました。
1940年6月4日、イギリスは、「ダイナモ作戦」によって、ダンケルクから30万の連合軍兵士を撤退させるのに成功しました。
映画「ダンケルク」
1940年6月7日、ノルウェー国王は家族とともに英国に亡命しました。
1940年6月8日、連合国派遣軍は、ノルウェーからの撤退しました。
1940年6月9日、ドイツは、ノルウェーを占領しました。
1940年6月10日、イタリアが、イギリスとフランスに宣戦しました。
1940年6月14日、ドイツ軍は、パリに進軍しました。
1940年6月16日、フランスは、ドイツに休戦を申し入れました。
1940年6月22日、ドイツとフランスは、休戦条約に調印しました。
ドイツ軍は、パリを含む北部フランスを占領し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を設立しました。
ドイツ軍は、フランス軍空軍基地をイギリス前進基地として使用可能になりました。
ドイツ軍は、ソ連への侵攻を開始しました。
日本は、イギリスにビルマおよび香港を経由する中国への物資輸送を閉鎖させました。

1940年7月1日、ドイツ軍は英国領チャンネル諸島を占領しました。
1940年7月10日、ドイツ空軍がイギリス空軍を発見し、攻撃しました。
1940年7月16日、ドイツは、イギリス上陸作戦の準備を始めました。
1940年7月22日、イギリスは、ドイツの和平案を拒否しました。
1940年8月1日、ドイツは、ドイツ空軍がイギリスの制空権を確保することを前提したイギリス上陸作戦を決定しました。
ドイツ空軍は、イギリス空軍の殲滅を第一に掲げられ、戦闘機の殲滅と飛行場や航空機産業も攻撃の対象にするよう指令を出しました。
1940年8月30日、ドイツは、爆撃目標をロンドンに変更しました。
1940年9月15日、ドイツ空軍は、大規模なロンドン空爆を行いましたが、大きな損害を出しました。
ドイツ空軍は、イギリスの制空権を取ることができませんでした。
ドイツ軍が初めて大敗を喫した戦いでした。
1940年9月17日、ドイツはイギリス上陸作戦を中止しました。

1940年9月27日、日本とドイツとイタリアは、日独伊三国同盟を締結しました。

1940年11月9日、ネヴィル・チェンバレンは亡くなりました。

1941年3月11日、アメリカ合衆国は、レンドリース法成立させ、その国の防衛がアメリカ合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考えるような国に対して、あらゆる軍需物資を、売却し、譲渡し、交換し、貸与し、賃貸し、あるいは処分することができるようになりました。

1941年4月13日、日本とソビエト連邦は、「日本国及ソヴイエト連邦間中立条約(日ソ中立条約)」を締結し、相互不可侵、一方が第三国に軍事攻撃された場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、および、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた声明書から構成され、有効期間は5年間で、有効期間満了1年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は5年間自動延長されるとしている。

1941年8月1日、アメリカ合衆国は、日本への石油の全面禁輸を行いました。
日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく、石油がなくなる前に東南アジアの産油地帯を攻略することになりました。
東南アジアの攻略と資源の輸送ルートを考慮すると、アメリカ合衆国の植民地だったフィリピンおよびグアムの攻略も不可欠であり、アメリカ合衆国への開戦することになりました。日本への石油の全面禁輸と日本の東南アジアの攻略は、日本とアメリカ合衆国による太平洋戦争の原因になりました。

1941年8月、ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることにしました。
1941年10月、ドイツは、アウシュヴィッツ強制収容所兼絶滅収容所でユダヤ人をガスで殺害し始めました。

1941年11月27日、アメリカ合衆国から日本に提示された交渉文書であるハル・ノートをもとにした交渉が決裂しました。

1941年12月8日、日本軍は、アメリカ合衆国ハワイのオアフ島の真珠湾にある米軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃しました。
日本海軍は、航空機54機を失い、航空機74機が損傷しました。
アメリカ海軍は、戦艦アリゾナ、戦艦オクラホマ、標的艦ユタ、戦艦カリフォルニアが沈没し、戦艦ウエストバージニア、機雷敷設艦オグララ、戦艦ネバダ、駆逐艦ショー、駆逐艦ダウンズ、駆逐艦カッシン、工作艦ヴェスタルが大破し、戦艦テネシー、戦艦メリーランド、戦艦ペンシルベニア、軽巡洋艦ロウリー、駆逐艦母艦ドビン、水上機母艦カーチスを損傷し、航空機188機を失い、航空機159機が損傷しました。

日本軍は、英国領の香港を陥落しました。

1942年1月20日、ドイツの高官15人は、ヴァンゼー湖のほとり、ベルリンの高級住宅街にある大邸宅で会議を行い、「ヨーロッパのユダヤ人問題に対する最終的解決」を話し合い、ヨーロッパのすべてのユダヤ人を意図的に慎重に計画的に抹殺することを決定しました。
ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることを正式に宣言しました。
ユダヤ人の絶滅を行ったのは、ベラルーシのマリィ・トロステネツ強制収容所、ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、マイダネク(ルブリン)強制収容所です。
数百万人のユダヤ人が殺害されました。

1942年1月25日、ヒトラーは、ユダヤ人をドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市にあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所への移送を命令しました。

1942年2月15日、日本軍は、英国領のシンガポールを陥落しました。

1942年4月18日、航空母艦ホーネットと航空母艦エンタープライズから発進したB-25双発爆撃機ミッチェル16機が、太平洋戦争で初めて日本本土(東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等)を爆撃しました。
日本本土爆撃を終えたB-25双発爆撃機ミッチェルのうち15機は中国大陸に不時着して放棄されました。
残りの1機は、ソビエト連邦支配地域に不時着して、搭乗員は抑留されました。

1942年5月4~8日、珊瑚海に進出する日本海軍の計画を知った米国海軍が、先に進出し、航空機で日本の空母部隊を空襲し、日本海軍が航空機で米国の空母部隊を捕捉し、空襲しました。
日本海軍は、空母祥鳳、駆逐艦菊月、掃海艇3隻が沈没し、空母翔鶴、駆逐艦夕月、敷設艦沖島が損傷し、航空機97機を失いました。
米国海軍は、空母レキシントン、油槽船ネオショー、駆逐艦シムスが沈没し、空母ヨークタウンが損傷し、航空機69機を失いました。

1942年5月27日、亡命チェコ軍人がラインハルト・ハイドリヒ暗殺を実行しました。
1942年6月4日、ラインハルト・ハイドリヒは死去しました。

1942年5月、連合国軍はビルマから総退却し、日本軍はビルマ全域を占領しました。
日本は、アメリカがビルマを経由して中国に物資輸送するルートを閉鎖しました。

1942年6月5日から7日、日本海軍とアメリカ海軍がミッドウェー海で交戦し、日本海軍はアメリカ海軍に敗北しました。
日本海軍は、航空母艦赤城、航空母艦加賀、航空母艦蒼龍、航空母艦飛龍、重巡洋艦三隈が沈没し、重巡洋艦最上、駆逐艦荒潮が損傷し、航空機289機を失いました。
アメリカ海軍は、航空母艦ヨークタウン、駆逐艦ハムマンが沈没し、航空機150機を失いました。

1942年11月26日、ノルウェー秘密国家警察・クヌート・ロッドは、警官とタクシー運転手らによって、ノルウェーに住むユダヤ人全員をオスロ港へと強制移送し、「ドナウ号」でアウシュヴィッツへ強制移送しました。

1943年1月14~23日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、モロッコのカサブランカで会談し、ドイツ、イタリアと日本に対して無条件降伏を要求すること、ビルマにおける本格的に反攻することなどに合意しました。

1943年7月4日から8月27日、ドイツ軍とソ連軍がクルスクで交戦し、ドイツ軍はソ連軍に敗北しました。

1943年9月8日、イタリアは、連合国に降伏しました。

1943年11月22~26日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蒋介石がエジプト王国のカイロで会談を行い、連合国が日本の無条件降伏まで戦うこと、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還することを提示し、中華民国が日本と単独講和をしないようにしました。
ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、中国の戦争からの脱落を防ぎ、日本軍が中国を攻撃することで、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻撃をできないようにしました。

1943年11月28日~12月1日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、イランのテヘランで会談を行い、ビルマ奪回作戦、ノルマンディー上陸作戦などの連合国側の作戦における各国間の調整を行い、ポーランド国境の確定、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦も話し合いました。

1944年6月5日、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始し、橋を確保し、砲台陣地を破壊し、ドイツの反撃を阻止しました。

1944年6月6日、米国とイギリスは、100万人を超える兵士で、ノルマンディー上陸作戦を行い、1日で上陸を果たしました。

1944年7月23日、ソ連軍は、マイダネク(ルブリン)強制収容所を開放しました。

1944年8月25日、連合軍は、パリを含むフランスを開放し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を打倒しました。

1945年1月27日、ソ連軍は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を開放しました。

1945年1月30日~2月3日、アメリカのエドワード・ステティニアス国務長官とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が、マルタ共和国のマルタで会談し、ソ連軍が中央ヨーロッパまで前進することは望ましくないと言うことで合意し、ホロコーストによる数百万人の難民をどうするについて話し合い、ソ連とのヤルタ会談の事前会談になりました。

1945年2月4~11日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で会談し、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治、ポーランド人民共和国の国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。
国際連合の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5カ国の拒否権を認めました。
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦、および千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇も決定し、北方領土問題の発端となりました。

1945年2月19日、アメリカ軍は、硫黄島への上陸作戦を始めました。
1945年3月17日、アメリカ軍は、硫黄島を制圧しました。

1945年4月11日、アメリカ軍は、ブーヘンヴァルト強制収容所を解放しました。
1945年4月15日、イギリス軍は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放しました。
アンネ・フランクは、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死亡していました。

1945年4月25日、アメリカ軍は、前田高地への攻撃を開始しました。

1945年4月29日、アメリカ軍は、ダッハウ強制収容所を解放しました。
1945年4月30日、アドルフ・ヒトラーは、総督官邸の地下壕で自殺しました。

1945年5月6日、アメリカ軍は、前田高地を制圧しました。

1945年5月7日、ドイツは、連合国に無条件降伏しました。
1945年5月9日、イギリス領チャンネル諸島を占領していたドイツ軍は降伏しました。

1945年5月27日、沖縄守備軍は、首里を放棄し、南部への撤退を開始しました。
1945年6月23日、牛島満司令官達が自決しました。
1945年7月2日、アメリカ軍は、沖縄戦終了を宣言しました。

1945年7月17日~8月2日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連占領地域となったポツダムで会談し、第二次世界大戦の戦後処理を決定しました。
ポツダム宣言には、「日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである」と記述されています。
原子爆弾の準備ができたから、日本に投下するということです。

1945年8月6日、アメリカ軍は、日本の広島市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月9日、アメリカ軍は、日本の長崎市に原子爆弾を投下しました。

1945年8月14日、日本は、ポツダム宣言を受諾しました。

1945年8月15日、日本は、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明し、連合国に降伏しました。

1945年9月2日、日本は、ポツダム宣言に調印・即時発効(降伏文書)によって第二次世界大戦は終結しました。

1945年9月7日、沖縄守備軍は、降伏しました。

1961年4月11日、アドルフ・アイヒマンは、「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、裁判が始まりました。(映画「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」

1961年12月15日、アドルフ・アイヒマンは、すべての訴因で有罪が認められた結果、死刑の判決が下されました。

1962年6月1日、アドルフ・アイヒマンは、ラムラ刑務所で絞首刑が執行されました。

1963年、ハンナ・アーレントは、「ザ・ニューヨーカー」誌に「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を発表しました。
映画「ハンナ・アーレント」

ウィンストン・チャーチルの生涯

ウィンストン・チャーチルの父親は、イギリスの保守党の政治家です。
ウィンストン・チャーチルの母親は、アメリカの投資家レナード・ジェロームの次女です。
ウィンストン・チャーチルの乳母は、エリザベス・エヴェレストです。

1874年1月31日、ウィンストン・チャーチルの父親は、保守党の下院議員として当選しました。
1874年11月30日、ウィンストン・チャーチルが、生まれました。
1877年1月9日、ウィンストン・チャーチルの父親は、アイルランド総督に任命されました。
2歳となったウィンストン・チャーチルは、アイルランドに住むことになりました。
1880年3月3日、ウィリアム・グラッドストンを首相とする自由党政権が発足し、保守党は野党となったため、ウィンストン・チャーチルの父親は、アイルランド総督の任務が終わり、5歳となったウィンストン・チャーチルは、イギリスに帰国しました。

ウィンストン・チャーチルは、進学しますが、成績は悪く、サンドハースト王立陸軍士官学校に不合格し、予備校に通い、合格しました。
1894年12月、20歳となったウィンストン・チャーチルは、130人中20位という好成績でサンドハースト王立陸軍士官学校を卒業しました。
ウィンストン・チャーチルは、第二次キューバ独立戦争に、従軍記者として参加し、キューバ製葉巻を吸うようになり、実戦も経験しました。
1896年12月、22歳となったウィンストン・チャーチルは、イギリス領インド帝国に派遣され、暇な時間に多くの本を読みました。
ウィンストン・チャーチルは、実戦経験を基に書いた本が売れて、人気作家になりました。
ウィンストン・チャーチルは、スーダンに従軍記者として参加し、実戦も経験しました。
1899年、25歳となったウィンストン・チャーチルは、陸軍を除隊し、オールダム選挙区の庶民院議員補欠選挙に保守党候補として出馬しましたが、落選しました。
1899年10月、ウィンストン・チャーチルは、民間人として、第2次ボーア戦争に、従軍記者として参加し、捕虜となり、脱走し、中尉階級として再入隊し、参戦し、帰国しました。
1900年、26歳となったウィンストン・チャーチルは、オールダム選挙区の保守党の庶民院議員候補として出馬し、当選しました。
1901年5月24日、ウィンストン・チャーチルは、フリーメイソンに加入しました。
1906年、31歳となったウィンストン・チャーチルは、自由貿易支持を明確にして、自由党への移籍し、マンチェスター・ノース・ウェスト選挙区から自由党の庶民院議員として出馬し、当選しました。
ウィンストン・チャーチルは、植民地省政務次官になり、東アフリカを視察しました。
1908年4月、33歳となったウィンストン・チャーチルは、通商大臣になりましたが、マンチェスター・ノース・ウェスト選挙区では落選し、スコットランドのダンディー選挙区で当選しました。
1908年9月、ウィンストン・チャーチルは、クレメンティーン・ホージアーと結婚しました。
1908年8月15日、ウィンストン・チャーチルは、イギリスとドイツの海軍軍拡競争に対して「ドイツには戦う理由も、戦って得る利益も、戦う場所もない」と発言しました。
1910年1月、35歳となったウィンストン・チャーチルは、スコットランドのダンディー選挙区から自由党の庶民院議員として出馬し、当選しました。
ウィンストン・チャーチルは、内務大臣になり、軍隊を派遣してはストライキ弾圧を行いました。
1911年10月23日、ウィンストン・チャーチルは、海軍大臣に就任し、海軍軍備増強を進めました。

1914年7月28日、第一次世界大戦が勃発しました。
1914年8月1日、39歳となったウィンストン・チャーチルは、独断で海軍動員令を出しました。
1914年8月1日、イギリスは、対独参戦を決定しました。
1915年3月18日、イギリスとフランスは、ロシアの要請を受けて、海峡を突破し、ガリポリに上陸する作戦を遂行するために、艦隊を派遣しますが、オスマン帝国軍にの機雷と砲台からの集中砲火を受けて、失敗します。
40歳となったウィンストン・チャーチルは、再攻撃を行い、海峡を突破し、トルコ艦隊を撃破すべしと主張したしましたが、受け入れられませんでした。
1915年5月17日、ウィンストン・チャーチルは、ランカスター公領担当大臣に左遷されました。
1915年8月6日~10日、ウィンストン・チャーチルは、ガリポリに上陸する作戦を主張し、認められ、遂行されましたが、死傷者を増やすだけの結果に終わりました。
1915年11月15日、ウィンストン・チャーチルは、ランカスター公領担当大臣を辞職しました。
1915年11月19日、ウィンストン・チャーチルは、西部戦線に向かい、第6大隊長として従軍しました。
1916年4月、41歳となったウィンストン・チャーチルは、多くの戦死者を出して、第6大隊長を解任されました。
1916年1月9日、イギリスは、16万人もの死傷者を出して、オスマン帝国軍に敗北し、撤退しました。
1917年7月、42歳となったウィンストン・チャーチルは、軍需大臣に就任し、戦車を開発し、実戦で戦功をあげました。
1918年11月11日、イギリスは、第一次世界大戦で、ドイツに勝利しました。

1918年12月、43歳となったウィンストン・チャーチルは、スコットランドのダンディー選挙区で自由党候補として、出馬し、当選しました。
1918年1月、ウィンストン・チャーチルは、戦争大臣兼航空大臣に就任しました。
ウィンストン・チャーチルは、帝政派ロシア軍人を支援するために、イギリス軍を派遣し、イギリス軍撤退の無期限延期と新たな兵士を送り込むことを議会に諮る事もなく独断で約束しましたが、イギリス軍を撤退せざるえなくなり、撤退させました。
ウィンストン・チャーチルは、帝政派ロシア軍人を支援するために、大量の軍需品をポーランド軍に送りました。
ソビエト軍は、ポーランドのワルシャワ攻略に失敗してロシア本国に敗走しました。
1921年1月、46歳となったウィンストン・チャーチルは、植民地大臣に転任させられました。
1921年3月12~30日,ウィンストン・チャーチルは、カイロ会議を主催し,ヨルダン川を境としてパレスチナを二分し,東をトランス・ヨルダン,西をパレスチナとすることを決定しました。
ウィンストン・チャーチルは、「フサイン=マクマホン協定」に応えるために、ファイサルはイラク王に即位し、アブドゥッラーはトランスヨルダン王に即位することになりました。
ウィンストン・チャーチルは、「サイクス・ピコ協定」に応えるためにイギリスがパレスチナ、トランスヨルダン、イラクの実質的支配権、イランとの通商、エジプトのスエズ運河に利権を得られるようにしました。
ウィンストン・チャーチルは、「バルフォア宣言」に応えるために「この地域の経済力を超えない範囲、パレスチナ人の職が奪われない範囲内でのユダヤ人の移住促進」を認めました。
これが、パレスチナ問題の発端です。
1922年11月15日、ウィンストン・チャーチルは、スコットランドのダンディー選挙区の自由党候補として出馬し、で落選しました。
ウィンストン・チャーチルは、南フランスのカンヌへ移住し、第一次世界大戦に関する「世界の危機(The World Crisis)」を口述し、筆記させ、収入を得て、絵も描いていました。
1923年12月6日、48歳となったウィンストン・チャーチルは、レスター・ウェスト選挙区の自由党候補として出馬し、落選しました。
1924年3月、49歳となったウィンストン・チャーチルは、ウェストミンスター寺院選挙区で保守党候補として出馬し、落選しました。
1924年10月29日、ウィンストン・チャーチルは、エッピング選挙区で保守党候補として出馬し、当選しました。
1924年11月6日、ウィンストン・チャーチルは、大蔵大臣に就任しました。
1925年4月28日、50歳となったウィンストン・チャーチルは、イギリス金本位制に復帰することを宣言しました。
1929年5月30日、54歳となったウィンストン・チャーチルは、エッピング選挙区で保守党候補として出馬し、当選しました。

1939年9月3日、64歳となったウィンストン・チャーチルは、海軍大臣に就任しました。
ウィンストン・チャーチルは、イギリス・フランス軍をノルウェーに上陸させたものの、作戦は全て失敗し、ドイツ軍に敗北しました。
1940年5月10日、65歳となったウィンストン・チャーチルは、首相に就任しました。
1940年5月13日、ウィンストン・チャーチルは、庶民院で

「私が差し出せるものは、血と苦労と汗と涙しかない」と。
我々の前には、これ以上ない苦難が待ち構えています。我々の前には、何ヵ月にもおよぶ戦いと苦しみが待っています。我々はどんな方針を掲げるべきか、と尋ねる人もいるでしょう。その問いに私は、こう答えます。戦うことです。海で、陸で、空で、全力をあげて、神から授かったすべての力を尽くして戦うことです。人類が犯した罪の、邪悪で嘆かわしい一覧表のなかに入れてもけっしてひけをとらない極悪非道の暴政と戦うことです。それが我々の方針なのです。我々の目標が何かと問われたならば、私は一言で答えられます。勝つことです。いかなる犠牲を支払っても勝つこと。あらゆる恐怖に臆せず勝つこと。どれほど長く苦しい道のりであろうと勝つことです。なぜなら、勝たなければ我々は生き残れないからです。。はっきり言っておきましょう。大英帝国は生き残れないのです。大英帝国が支持するものすべてが生き残れない。人類が目標に向かって前進するよう駆り立てる時代の推進力も生き残れないのです。しかし、私はこの仕事に気力と希望を失わずに取り組むつもりです。私は、我々が目標を達成できないことはありえないと確信しています。いまこのときは、すべての人の助力を要請する資格が私にはあると考えています。こう言わせてください。「さあ、我々の団結の力で前に進もうではないか」と。」
<アンソニー・マクカーテン著/染田屋 茂・井上 大剛共訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』角川文庫 p.140, ISBN-13:978-4041066454>

と演説しました。

1940年5月14日、ナチスドイツは、オランダを侵略し、ムーズ川を渡ってフランスに侵攻しました。
フランス首相ポール・レイノーは、電話でイギリス首相ウィンストン・チャーチルに空軍の増援なしに、パリは守れないと伝えてきました。

1940年5月15日、フランス首相ポール・レイノーは、電話でウィンストン・チャーチルに、戦いに負けて、パリへの道は開かれたとフランスがナチスドイツに降伏するだろうと伝えました。
オランダは、ナチスドイツに降伏しました。
イタリアが、フランスに侵攻する可能性が現実になってきました。
ウィンストン・チャーチルは、手紙でアメリカ合衆国ルーズベルト大統領に支援を要請しました。
ウィンストン・チャーチルは、手紙でイタリア首相ムッソリーニに戦争に加わらないように要請しました。

1940年5月16日、ナチスドイツは、マジノ線の弱点を突き、突破しました。
ウィンストン・チャーチルは、フランスへ飛行機で行き、フランス首相ポール・レイノーを激励し、飛行中隊の派遣を決めたことを伝えました。

1940年5月17日、ウィンストン・チャーチルは、フランスからイギリスに飛行機で戻りました。

1940年5月19日、ウィンストン・チャーチルは、ラジオで

「首相として、ここに国民の皆さんに向けて初めてお話します。現在、我が国の命、帝国の命、同盟国の命、そして何より自由の大義の命のことを厳粛に受け止めるときにあります。フランスとフランデルでは今、すさまじい戦闘が起きています。ドイツは空爆と重戦車を巧みに組み合わせ、マジノ線の北部でフランスの守備を突破しました。装甲車両が列をなして無防備な国を踏みにじり、最初の1日2日は防衛する者もいませんでした。装甲車両は深くフランス領土に侵入し、道中で恐怖と混乱を広げています。その後ろにはトラックに乗った歩兵が現れ、さらにその背後で大軍が前進しつつあります。フランス軍はふたたび敵に立ち向かい、攻撃を加えるべく懸命に立て直しを図っています。その試みはイギリス空軍の立派な努力によって大いに助けながら、数日間続いています」<アンソニー・マクカーテン著/染田屋 茂・井上 大剛共訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』角川文庫 p.174-175, ISBN-13:978-4041066454>

と放送演説しました。イギリス国民を戦争に立ち向かわせるために、ドイツ軍に関する情報は正確ですが、実際には、武器を放棄し、ダンケルクに向かって総退却しているフランス軍とイギリス軍についての説明は嘘です。

ナチスドイツは、フランス海岸アブヴィルに到達しました。

1940年5月20日、ナチスドイツは、フランス第9軍を全滅させ、フランス軍の反撃の可能性は消えました。
イギリス海外派遣軍は、ダンケルクとカレーに撤退しました。
ウィンストン・チャーチル首相は、アイアンサイド将軍をフランスに派遣し、情報収集させました。
ウィンストン・チャーチル首相は、電信でアメリカ合衆国ルーズベルト大統領に支援を要請しました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ドーバーを指揮するバートラス・ラムゼイ海軍中将に海軍本部が多数の民間の小型船を集め、フランスの港や入り江へ向かわせる準備を始めさせました。

1940年5月21日、アイアンサイド将軍は、フランスから戻り、イギリス海外派遣軍は、ブルゴーニュー、ダンケルクとカレーで孤立していると伝えました。

1940年5月22日、ウィンストン・チャーチル首相は、フランスへ飛行機で行き、ウェイガン将軍からの報告を受けて、戦況に楽観し、ロンドンへ戻りました。
フランス政府からイギリス政府に、翌日に南北から同時にナチスドイツを攻撃するとうい報告を受けました。

1940年5月23日、ナチスドイツは、フランス政府の予想をはるかに上回る部隊が侵攻してきました。
フランス軍は、南からも北からもナチスドイツを攻撃しませんでした。
ナチスドイツは、ブルゴーニューのイギリス海外派遣軍を攻撃し、カレーに退却させました。
イギリス海外派遣軍は、ダンケルクとカレーで孤立しました。

1940年5月24日、ハリファックス外務大臣は、イタリア政府を参戦を遅らせるように。参戦させないように、外交的手段で試みることを提案し、戦時内閣で了承され、実行しました。

1940年5月25日、ウィンストン・チャーチル首相は、ナチスドイツをカレーに向かわせ、ダンケルクに向かわせないために、カレーにいるニコルソン准将に電信を送信しました。

「ニコルソン准将。カレーを極限まで防衛すること、これはわが国とフランスとの協力の継続を象徴する最高度の重要性を帯びた任務である。帝国の人々の視線はカレーの防衛へ注がれている。また国王陛下の政府は、貴君と貴君の勇敢な連帯がイギリスの名に恥じない手柄を挙げてくれると確信している」<アンソニー・マクカーテン著/染田屋 茂・井上 大剛共訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』角川文庫 p.196, ISBN-13:978-4041066454>

ウィンストン・チャーチル首相は、ダンケルクのイギリス海外派遣軍を撤退させることを決意し、ハリファックス外務大臣によるイタリア政府との交渉を極秘裏に行うことで認めました。

1940年5月26日、何も知らない新聞は、楽観的な戦況を報道し続けました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ハリファックス外務大臣にナチスドイツによるヨーロッパの平和と安全を決して受け入れないし、ナチスドイツはフランスに魅力的な和平交渉の条件を提示し、ナチスドイツの敵はフランスではなくイギリスだと伝えるだろうと言いました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ハリファックス外務大臣によるナチスドイツとの和平交渉について非公式にありがたいと認めました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ナチスドイツやイタリア政府との和平交渉の条件はダンケルクからどれだけの兵力を撤退できるかにかかっていると考えました。
バートラス・ラムゼイ海軍中将は、800もの小型船を集めました。
ウィンストン・チャーチル首相は、小型船によるダンケルクのイギリス海外派遣軍の撤退作戦、ダイナモ作戦を指令しました。

1940年5月27日、ベルギー政府は、ナチスドイツに敗戦を認め、降伏を検討し始めました。
ベルギー軍は、イギリス海外派遣軍のいるダンケルクの北側を守っていました。
ベルギー軍が撤退すれば、イギリス海外派遣軍のいるダンケルクを守る軍はいなくなります。
ウィンストン・チャーチル首相は、ナチスドイツの暴政に蹂躙された国々のために最後まで戦って敗れるというのも悪くないのではないかとまで言い出します。
ウィンストン・チャーチル首相は、ハリファックス外務大臣による和平交渉を認めません。
ハリファックス外務大臣は、ウィンストン・チャーチル首相が和平交渉を認めないことを記録に残し、和平交渉を認めないことを理由に辞任し、不信任案を提出し、投票し、可決することを目指します。
ウィンストン・チャーチル首相は、ハリファックス外務大臣の動きを抑えるために、和平交渉を考慮する用意はあると伝えます。
ベルギー政府は、イギリス政府に、ナチスドイツに休戦条約を結び、停戦すると伝えてきました。

1940年5月28日、ウィンストン・チャーチル首相は、議会で、ベルギー政府が降伏したこと、戦況についての評価が行われたら伝えると発表しました。
バートラス・ラムゼイ海軍中将は、ウィンストン・チャーチル首相に、ダンケルクの海岸に1万4千名のイギリス海外派遣軍が到着し、2,500名のイギリス海外派遣軍がドーバー海峡を横断中と報告しました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ハリファックス外務大臣にナチスドイツとの和平交渉は意味がないと伝えました。
ウィンストン・チャーチル首相は、戦時内閣外の大臣達に召集をかけ、演説しました。

「ドイツはわが艦隊を要求し、武装解除と呼ぶだろう。我々の海軍基地その他を要求するだろう。我が国は奴隷国家となり、モズリーあたりを首相に据えるだろう。そんなことになれば、我々の行く末はどうなるか。一方で、我々には膨大な貯えと強みがある。それに私は確信している。もし、私が一瞬たりとも和平交渉や降伏を意図したら、君たち毅然と立ち上がり、私の今の地位から引きずりおろそうであろうことを。だからこう言っておこう。「我々は本土であれどこであれ、前進しつづけ、戦い抜く。もしこの国の長い歴史がそれで終わることになっても、本当に終わるのは我々全員が血で喉を詰まらせて大地に横たわるときだ」と」<アンソニー・マクカーテン著/染田屋 茂・井上 大剛共訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』角川文庫 p.249, ISBN-13:978-4041066454>

戦時内閣外の大臣達、下院全体、国民全体は、ウィンストン・チャーチル首相を支持しました。
ハリファックス外務大臣とネヴィル・チェンバレン枢密院議長は、ナチスドイツとの和平交渉を断念しました。

1940年5月29日、1時間に2,000名のイギリス海外派遣軍が撤退し、4万のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還しました。
ドイツ空軍は、ダンケルクの港を破壊し、25隻もの船を撃沈し、ダンケルクの港に船が入港でいないようにしました。
ウィンストン・チャーチル首相は、ダンケルクにいるゴート卿に「できるだけ多くの兵士を救出する時間を稼ぐぐために戦い続けろ、ドイツ側に最大限の損害を与えよ」と命令しました。

1940年5月30日、ウィンストン・チャーチル首相は、10万のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還したと報告を受けました。

1940年5月31日、ウィンストン・チャーチル首相は、フランスへ飛行機で行き、フランス首相ポール・レイノーに状況を説明し、激励し、イギリスは単独でも、戦う場所を変えてでも、ナチスドイツと戦い続けるので、イギリス海外派遣軍をどれだけイギリス本土に帰還させられるかで、今後のことが決まると伝えました。

1940年6月1日、ウィンストン・チャーチル首相は、イギリスに飛行機で戻りました。
ウィンストン・チャーチル首相は、22万5,000のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還したと報告を受けました。

1940年6月2日、イギリスの新聞は、27万6,030のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還したと報道しました。

1940年6月3日、29万2,380のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還しました。

1940年6月4日、33万のイギリス海外派遣軍がイギリス本土に帰還し、ダイナモ作戦は完了しました。
ウィンストン・チャーチルは、庶民院で

「我々は、最後までやり抜きます。我々はフランスで戦い、海で大洋で戦い、自信を強め力を増して空で戦い、どんな犠牲を払っても本土を守り抜きます。我々は海岸で戦い、上陸地点で戦い、野原で戦い、道端で戦い、丘で戦います。我々は、けっして降伏しません。私自身、一瞬たりともそんあると思ったことはありませんが、もし本土全体、あるいは大部分が征服され、飢餓状態に置かれたとしても、時が来れば海の向こうの大英帝国が武装し、イギリス海軍に警護されて、戦いを継続してくれるでしょう。新世界がその軍事力と能力のすべてを注いで、旧世界の救援と解放に乗り出してくるでしょう」<アンソニー・マクカーテン著/染田屋 茂・井上 大剛共訳『ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男』角川文庫 p.277, ISBN-13:978-4041066454>

と演説し、議員たちの支持を得ました。

1940年6月18日、ウィンストン・チャーチルは、庶民院で「ヒトラーは知っている、この島において我々を倒さない限り、この戦争に敗北するしかないことを。我々がもし、彼に立ち向かうことができれば、全ヨーロッパは解放され、全世界の営みは、広々と光に照らされた高台へと前進するであろう。しかし我々がもし倒れれば、アメリカ合衆国を含む全世界、そして我々が知り、大切にしてきた全てが、ねじ曲がった科学の光により長引かせられた新たな暗黒時代の深淵へと沈んでゆくだろう。したがって、我々は使命を遂行する決意を固め、立派にふるまおう、そうすれば、たとえ大英帝国とその連邦が以後一千年にわたり続いたとしても、人々はなおも言うだろう、
『あの戦争の時が英国民の「もっとも輝かしい時であった』と」と演説しました。

1945年7月5日、イギリスで総選挙が行われ、労働党が大勝し、保守党は大敗しました。
1945年7月26日、70歳となったウィンストン・チャーチルは、首相に辞任しました。

ウィンストン・チャーチルは、1948年から1年ごとに1巻ずつ「第二次世界大戦」全6巻を出版しました。

1947年2月21日、ルイス・マウントバッテンがインド総督になりました。
1947年8月14日および15日、イギリス領インドは、インドとパキスタンに分離独立をしました。
映画「ガンジー」

1951年10月25日、イギリスで総選挙が行われ、保守党が勝ちました。
1951年10月26日、76歳となったウィンストン・チャーチルは、首相に就任しました。
1953年12月10日、78歳となったウィンストン・チャーチルは、ノーベル文学賞を受賞しました。
1955年4月5日、80歳となったウィンストン・チャーチルは、首相を辞任しました。

1965年1月24日、ウィンストン・チャーチルは、90歳で亡くなりました。

感想

ウィンストン・チャーチルの置かれた状況を理解すると、映画も、本も理解できるようになりました。
ウィンストン・チャーチルは、知恵、意思、言葉と行動で、困難を乗り越え、イギリスに軍事的にも、政治的にも勝利をもたらしました。
ウィンストン・チャーチルは、後世に残る偉業を成し遂げました。
映画を鑑賞したり、本を読んだだけでは、ウィンストン・チャーチルについて、理解できませんでした。
ウィンストン・チャーチルについて調べて、ブログに書くことで、理解が深まりました。
ウィンストン・チャーチルを理解して、近づいたというより、さらに遠い存在に感じました。
私はウィンストン・チャーチルのように行動できないので、理解しても意味があるのかなというと感じました。

ウィンストン・チャーチルの名言

ウィンストン・チャーチルは、たくさんの名言を残しました。
気に入った名言を紹介します。

ウィンストン・チャーチルの名言
  • 決して屈するな。決して、決して、決して!
  • 金を失うのは小さく、名誉を失うのは大きい。
    しかし、勇気を失うことはすべてを失う。
  • 勇気がなければ、他のすべての資質は意味をなさない。
  • 成功があがりでもなければ、失敗が終わりでもない。
    肝心なのは、続ける勇気である。
  • 完全主義では、何もできない。
  • いらぬ取り越し苦労をするよりも、前もって考えたり計画するほうが大事だ。
  • 好転する前には、悪化するという段階もあり得る。
  • 行動する事は少しも恐れはしない。
    恐れるのは、ただ無為に時を過ごす事だけだ。
  • 成功とは、失敗を重ねても、やる気を失わないでいられる才能である。
  • 力や知性ではなく、地道な努力こそが能力を解き放つ鍵である。
  • 私は血と苦労、涙と汗以外に捧げるべきものを持たない。
  • 悲観主義者はあらゆる機会の中に問題を見いだす。
    楽観主義者はあらゆる問題の中に機会を見いだす。
  • 資本主義の欠点は、幸運を不平等に分配してしまうことだ。
    社会主義の長所は、不幸を平等に分配することだ。
  • 凧が一番高く上がるのは、風に向かっている時である。
    風に流されている時ではない。
  • 築き上げることは、多年の長く骨の折れる仕事である。
    破壊することは、たった一日の思慮なき行為で足る。
  • 重要なポイントを突くときは、如才なくやろうとか巧妙にやろうとか思ってはいけない。
    ポイントを一突きせよ。
  • もしあなたが、過失を擁護する態度をとるだけであれば、進歩の望みはないだろう。
  • 目前にせまった困難や大問題にまともにぶつかること。
    そうすればその困難や問題は、思っていたよりずっと小さいことがわかる。
    しかし、そこで逃げると、困難は2倍の大きさになってあとで襲ってくる。
  • 過去をより遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう。
  • 我々は得ることで生計を立て、与えることで生きがいを作る。

決して屈するな。決して、決して、決して!

これまでは、いろいろな人、物などに屈してきました。
これからは、決して屈することなく、生きたいです。

金を失うのは小さく、名誉を失うのは大きい。
しかし、勇気を失うことはすべてを失う。

金も名誉もないので、失うことはありません。
勇気を失えば、未来を失います。
勇気をもって、行動し、未来を切り開きたいです。

勇気がなければ、他のすべての資質は意味をなさない。

勇気がなければ、未来を失います。
勇気をもって、行動し、未来を切り開きたいです。

成功があがりでもなければ、失敗が終わりでもない。
肝心なのは、続ける勇気である。

続ける勇気を持ち、ブログを続けます。

完全主義では、何もできない。

完全を目指すのは重要ですが、完全を目指した結果、できないのでは意味はありません。
やりたいことは、始めてみることが重要です。
多彩な能力を発揮した人ならではの言葉です。

いらぬ取り越し苦労をするよりも、前もって考えたり計画するほうが大事だ。

やりたいことを始める場合、準備の一部としてブログを構築し、実行しながらブログを書きます。

好転する前には、悪化するという段階もあり得る。

いきなり成功することは想定しません。
悪化することを想定することは、悪化しても続けることができるということです。

行動する事は少しも恐れはしない。
恐れるのは、ただ無為に時を過ごす事だけだ。

ただ無為に時を過ごすと、何もせずに死んでしまうかもしれません。
行動することで、何かを成してから死ぬことができます。

成功とは、失敗を重ねても、やる気を失わないでいられる才能である。

ブログのアクセスがなくても、ブログを続けることが、ブログで成功することだと信じています。

力や知性ではなく、地道な努力こそが能力を解き放つ鍵である。

力や知性は、誰にでもあるわけではありません。
地道な努力なら、誰にでもできます。
ブログを書き続けるという努力で、能力を解き放ちたいです。

私は血と苦労、涙と汗以外に捧げるべきものを持たない。

血と苦労、涙と汗をブログを書くことに捧げたいです。

悲観主義者はあらゆる機会の中に問題を見いだす。
楽観主義者はあらゆる問題の中に機会を見いだす。

ブログを書く中に、機会を見出したいです。

資本主義の欠点は、幸運を不平等に分配してしまうことだ。
社会主義の長所は、不幸を平等に分配することだ。

ブログを始めさえすれば誰でもが、幸運になるわけではありません。
ブログを始めた人は、不幸になるとはないです。

凧が一番高く上がるのは、風に向かっている時である。
風に流されている時ではない。

他の人と同じ行動をしているときは、安心かもしれませんが、目立つことはなく、埋没します。
他の人と異なる行動をしているときは、不安かもしれませんが、目立ちますし、成功するかもしれません。
人生で成功したいなら、挑戦するべきだということです。

築き上げることは、多年の長く骨の折れる仕事である。
破壊することは、たった一日の思慮なき行為で足る。

ブログで成功するには、多くの記事を書かなければなりません。
ブログで成功しても、一つの間違った記事で、失敗することになります。
成功するために、挑戦するのですが、リスクを意識することは忘れてはいけません。

重要なポイントを突くときは、如才なくやろうとか巧妙にやろうとか思ってはいけない。
ポイントを一突きせよ。

上手いブログを書こうとか意識することなく、伝えたいポイントを書きたいです。

もしあなたが、過失を擁護する態度をとるだけであれば、進歩の望みはないだろう。

「希望をはこぶ人」にも書かれていましたが、過失なら、謝りさえすれば、収まります。
事態を収拾すれば、進歩の望みがあるということです。
過失を擁護する態度をみせれば、故意とみなされ、謝っても、収まりません。
故意となれば、非を認めて許しを請うことになります。

目前にせまった困難や大問題にまともにぶつかること。
そうすればその困難や問題は、思っていたよりずっと小さいことがわかる。
しかし、そこで逃げると、困難は2倍の大きさになってあとで襲ってくる。

目前にせまった困難や大問題にまともにぶつかると、困難や大問題を理解することができます。
困難や大問題を理解できれば、困難や大問題を細分化することができます。
困難や大問題を細分化することができれば、困難や大問題に対応することはできます。

目前にせまった困難や大問題から逃げても、困難や大問題が消えることはなく、時間を無駄に消費するだけです。
困難や大問題に対応する時間が無くなれば、困難や大問題は、さらに大きな困難や大問題になります。

ウィンストン・チャーチルは、わかっっていながら、パレスチナ問題にまともにぶつかることはせずに、逃げました。
パレスチナ問題は、現在もなお困難な大問題であり続け、何倍もの大きさで襲ってきています。

過去をより遠くまで振り返ることができれば、未来もそれだけ遠くまで見渡せるだろう。

「歴史は繰り返す」ということ言葉があります。
未来に起こる出来事は、既に過去に起きているということです。
多くの過去に学ぶことができるなら、遠い未来を見通すことができます。

我々は得ることで生計を立て、与えることで生きがいを作る。

人は、物やお金を得ることで生計を立てています。
人は、何かを与えることで生きがいを得られるということです。
退職後は、ブログを通じて、何かを与えて、生きがいにしたいです。

まとめ

ウィンストン・チャーチルは、まぎれもなく「上流階級」出身の人です。
ウィンストン・チャーチルは、「上流階級」出身の人だから、偉業を成し遂げられたことでないこともまた明らかです。
ウィンストン・チャーチルは、優秀な学生ではないどころか、落ちこぼれた学生でした。
落ちこぼれた学生だったために、サンドハースト王立陸軍士官学校に入校し、陸軍に入隊し、従軍することで、世界中を見て、人に出会ってきました。
私も若い頃に、仕事で海外に行って、世界を見て、学ぶことは多かったです。
ウィンストン・チャーチルは、戦場で死んでいた可能性もあります。
リスクを取らなければ、リターンはありません。
人生において、退職をするというリスクを冒そうとしている私を勇気づけてくれます。
ウィンストン・チャーチルは、イギリス領インド帝国に派遣され、暇な時間に多くの本を読んだことも良いインプットになりました。
ウィンストン・チャーチルは、実戦経験をインプットするだけでなく、記事や本を書くことでアウトプットしたところが現代に通じる先進的な取り組みです。
私も退職後に本を読み、色々な経験をして、インプットするだけでなく、読書感想等をブログで書くということでアウトプットします。

ウィンストン・チャーチルは、間違いなく「勝者」です。
勝ちたいなら「勝者」から学ぶべきです。
日本の「敗者」の言い訳からは、得るものはありません。
ウィンストン・チャーチルは、第一次世界大戦と第二次世界大戦を通して、生きたいように生きてきただけです。
ウィンストン・チャーチルは、生きたいように生きることができないと感じている人々の中で、今もなお生きています。

このように映画を鑑賞することで、第二次世界大戦とウィンストン・チャーチルを知ることができます。
この前後、どうなっていたのかについて知りたい人には、映画「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」、映画「ヒトラーに屈しなかった国王」、映画「ダンケルク」、映画「プライベート・ライアン」なども鑑賞することをお勧めします。
国王ジョージ6世に興味を持ったのなら「英国王のスピーチ」を鑑賞することをお勧めします。

次回は、映画「リンカーン」のレビューを書く予定です。
ご期待ください。
以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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