映画「ジャンヌ・ダルク」~あらすじ【ネタばれ有り】と感想

希望をはこぶ人」の中で、ジョーンズがアンディに読むように勧めた本の「ジャンヌ・ダルク」について知りたいと感じました。
伝記は、登場人物が多く、長く、読むのは大変ですが、映画を見る方が簡単です。
いきなり伝記を読むより、映画を鑑賞しておくと、伝記も読みやすいです。
映画「ジャンヌ・ダルク」を鑑賞し、レビューします。

フランスの地理、キリスト教と中世ヨーロッパの歴史を理解していないと、この映画も理解できません。

この映画は、キリスト教や神の存在を信じさせる映画ではありません。
ジャンヌ・ダルクがいなければ、フランスとイギリスはどうなっていたのだろうかと考えさせる映画です。

映倫はPG-12で、12歳未満の年少者の観覧には親または保護者の助言・指導が必要です。

基本情報・スタッフ

監督    リュック・ベッソン
脚本    リュック・ベッソン
      アンドリュー・バーキン
製作    パトリス・ルドゥー
製作総指揮 リュック・ベッソン
      アンドリュー・バーキン
音楽    エリック・セラ
撮影    ティエリー・アルボガスト
編集    シルヴィ・ランドラ(フランス語版)
製作会社   ゴーモン
      コロンビア映画
配給    Gaumont Buena Vista International (GBVI)
      SPE/コロンビア映画
      SPE
公開    1999年12月11日
上映時間   158分
映倫    PG-12

舞台となる場所


ジャンヌ・ダルクは、フランスの北東部にあり、ドイツとの国境にあるロレーヌ地方ヴォージュ県ドンレミ村で生まれました。
ジャンヌ・ダルクの生れた家は、現存し、フランスの歴史的建造物に指定されています。


シャルル7世は、ロレーヌ地方から遠く離れたシノンにいました。


オルレアンは、ロワール川の北岸にあり、イングランド軍に囲まれています。
トゥーレル要塞は、オルレアンのロワール川の南岸にありますが、イングランド軍が占拠し、オルレアンを南側から攻撃しようとしています。
サン・ルー砦は、ロワール川北岸にあり、オルレアンの東に約2kmにあり、イングランド軍が兵を集結し、オルレアンを北側から攻撃しようとしています。

ジャンヌ・ダルクは、オルレアンで勝利しました。
ジャンヌ・ダルクは、ランスで行われたシャルル7世の戴冠式に出席しました。
ランスは、パリよりもシノンから遠く離れています。
ジャンヌ・ダルクは、パリを解放するために、イングランド軍と戦い、撤退しました。


ジャンヌ・ダルクは、コンピエーニュの門の前で捕縛され、捕虜となりました。
ジャンヌ・ダルクは、ルーアンのヴィユ・マルシェ広場で、火刑(火やぶり)にされました。

あらすじ

以下の説明文で始まります。

1420年、英仏両国の間で結ばれたトロワ条約により、フランスは国王の死後、イングランド領となった。
だが、イングランド王ヘンリー5世も死去し、生後間もないヘンリー6世が英仏両国の国王となる。
フランスの王太子、シャルル7世は、赤子の手から王位を奪い返すべく反旗を翻すが、イングランドはブルゴーニュ派と手を組みフランスに侵攻した。
コンピエーニュ、ランス、パリ、
ロワール川が一時的に侵略者を阻んではいたが、シャルルが正式に王位に就くには、ランスで戴冠しなくてはならない。
しかし、ランスはイングランド軍の制圧下にあった。
フランスは暗黒の戦乱時代の真っただ中、フランスを救えるのはただ一つ、「奇跡」しかない。

以下の説明文で終わります。

ジャンヌ・ダルクは、1431年5月30日、19歳で火刑に処せられた。
そしてヴァチカンが聖人の列に加えたのは、500年後のことである。

聖人とは、生存中にキリストの模範に忠実に従い、その教えを完全に実行した人たちのことであり、神と人々のために、またその信仰を守るためにその命をささげたという殉教者で、もう一つの「奇跡」が前提となり、教皇が公に聖人の列に加えると宣言した人です。
この映画で描かれている内容は、ジャンヌ・ダルクは、殉教者として起こした「奇跡」と「結末」について描かれているということです。

登場人物

ジャンヌ・ダルクは、ミラ・ジョボヴィッチが演じるフラン人で、敬虔なキリスト教徒で、神の使いを自認し、文字を読むことも、書くこともでなく、著名は「X」です。

ヨランド・ダラゴンは、フェイ・ダナウェイが演じるシャルル7世の妻の母親で、義理の母親です。

ラ・トレモイユは、ヨランド・ダラゴンの要請でシャルル7世の寵臣ピエール・ド・ジアックとカミーユ・ド・ボーリユの暗殺に協力し、シャルル7世の信頼を得て、寵臣となり、実権を握りました。
ラ・トレモイユは、ブルゴーニュ派がオルレアン公ルイを暗殺したので、シャルル7世も暗殺するのではないかと警戒しています。
ルニョーは、デビッド・ベグが演じるランス大司教で、教会が神の使いを果たすという立場なので、神の使いを自認するジャンヌ・ダルクを認めていない、シャルル7世の寵臣で、シャルル7世の戴冠式を執り行います。

シャルル7世は、ジョン・マルコヴィッチが演じるシノンにいる王太子で、ランスで戴冠し、フランス国王となり、優位な立場となり、戦いではなく、交渉で戦争を終わらせることにして、ジャンヌ・ダルクの身代金を支払いません。

シャルル7世の母親であるイザボー・ド・バヴィエールは、シャルル7世がシャルル6世の子ではないことを示唆したといわれています。

ルイは、シャルル7世の長男で、後のフランス国王です。

ジャンヌ・ダルクの良心は、ダスティン・ホフマンが演じています。

アランソン公ジャン2世は、パスカル・グレゴリーが演じるシャルル7世の従弟で、勇敢で、裕福です。
ジル・ド・レは、ヴァンサン・カッセルが演じる勇猛なる元帥で、男たちは敬い、女は魅了され、敵に回せない男です。
ラ・イールは、リチャード・ライディングスが演じる勇敢な将軍で、数々の戦を経験し、腹の座った男ですが、言葉使いが悪いです。

ジャン・ドーロンは、デズモンド・ハリントンが演じる貧しく、信頼のでき、上品で、高潔で、賢く、弓の名手で、パリ大学で学び、文字を読むことも、書くこともできて、ジャンヌの護衛を命ぜられる人で、ルイとレイモンという従者がいます。

デュノワ伯は、チェッキー・カリョが演じるシャルル7世とは兄弟のように親しく、頑固者で、オルレアンを守るフランス軍の司令官です。

サントライユは、オルレアンを守る兵士です。

タルボットは、オルレアンを攻めるイングランド軍の司令官です。

バックは、トゥーレル要塞に進軍しているイングランド軍の軍人で、トゥーレル要塞から逃亡し、ジャンヌ・ダルクを「火刑(火やぶり)」にするようにします。

グラスデールは、トゥーレル要塞に進軍しているイングランド軍の隊長です。

ピエール・コーションは、ティモシー・ウェストが演じるボーヴェの司教で、ジャンヌ・ダルクの異端審問を執り行う人です。
ピエール・コーションは、ジャンヌ・ダルクを異端者と決めつけ、「告解」を認めず、罪を許すことはありません。

単語説明

トロワ条約は、1420年5月21日にフランスのトロワで調印された条約で、1420年6月2日にフランス王シャルル6世の娘キャサリンと結婚したイングランド国王ヘンリー5世とその子孫にフランス王位を与えること決めました。
1422年8月31日、ヘンリー6世は、生後9ヶ月で父の死によりイングランド王位を、トロワ条約により、1422年10月21日、生後11か月で母方の祖父であるシャルル6世の死により、フランス王位を継承し、イングランドとフランスの国王になりました。

ロワール川は、セヴェンヌ高地の北東に源を発し、ロアンヌとヌヴェールを北へ流れ、オルレアンで西方に流れを変え、オルレアンを流れてナントで大西洋に注ぐ川です。

キリスト教カトリック教会では、伝統的に認めてきた教会の七つの秘跡の1つが「ゆるしの秘跡」で、「告解」とも呼ばれ、キリスト教徒の義務です。
信者は、神父に罪を告白します。
神父は、信者の犯した罪に許しを与えます。
キリスト教徒ではない異端者は、神父に罪を告白できません。
神父は、キリスト教徒ではない異端者の犯した罪に許しを与えることはできません。

聖体拝領は、自らの意思でキリスト教徒になるということです。
聖体拝領は、イエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式で、キリスト教カトリック教会では、伝統的に認めてきた教会の七つの秘跡の1つで、8歳前後のキリスト教の信者に行われます。
イエス・キリストは、処刑される前に、食事の用意を行うよう命じ、弟子たちと食事を共にし、使徒の一人がイエス・キリストを裏切ることを告げ、パンを取り「これがわたしの体である」といい、杯をとり「これがわたしの血である」といって弟子たちに与えました。
これが「最後の晩餐」です。
教会の食堂の壁画として描かれる事が多く、イタリアのミラノにあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の食堂の壁画として描かれたレオナルド・ダ・ヴィンチの絵がもっと有名です。
この絵については、映画「ダ・ヴィンチ・コード」を観ると色々わかります。

ランス大聖堂は、816年、ルイ1世が初めて戴冠式を行ってから、歴代フランス国王の戴冠の秘蹟を授ける聖別式が行われる場所になりました。

カタパルトは、石玉を投げ出して、城壁等に守られた中の建造物を壊す兵器です。

カルヴァランは、城壁の上から石玉を落として、城壁の外の敵の兵士にぶつける兵器です。

ヤマアラシは、弓を同時に射ることができる兵器です。

破城槌は、丸太状の物体を垂直にぶつけることによって、城門を破壊し、突破することができる兵器です。

異端審問は、キリスト教徒でありながら、誤っているとされた信仰を持っている者であるのに対して、実施されます。
キリスト教と国の統治システムが統合されていくと、誤っているとされた信仰を持っている者を容認しておくことは国の統治システムの安定をゆるがすものと危険視されるようになります。
異端者は、逮捕され、投獄され、「火刑(火あぶり)」で死刑にされました。

最後のセリフ

汝の罪を許す、父と子の精霊の聖名において、アーメン

百年戦争の開始まで

891年9月、東フランク王アルヌルフは、ルーヴァンの戦いではノルマン人に大勝して、侵入を断念させ、ディール川の中州に城を築きました。

911年、ノルマン人の一部族の首領であったロロは、セーヌ川を遡って、フランス内部へ侵攻しました。
911年7月20日、西フランク王シャルル3世は、シャルトルの戦いにおいて、ロロを撃退しました。
911年8月26日、西フランク王シャルル3世は、ロロと協議することを決定しました。
シャルル3世は、ロロが西フランク王シャルル3世の臣下になり、ヴァイキングの襲撃を防ぐことを条件に、ロロにブルターニュ地方を与えました。
ロロは、洗礼を受けてキリスト教徒に改宗し、洗礼名はロベールで、シャルル3世の嫡女ジゼラと結婚しました。
ロロは、ブルターニュ周辺地域を侵略し、ノルマンディー公国を建国しました。
アラン2世は、ブルターニュから逃亡してイングランド王アゼルスタンのもとで亡命生活を送りました。

925年~928年、ギヨーム1世は、父親のロロからノルマンディー公位を受け継ぎました。
933年、ロロは、亡くなりました。

939年、アラン2世は、トランの戦いでノルマンディー公ギヨーム1世を撃破して、ブルターニュを解放し、ブルターニュ公国を建国しました。
ブルターニュ公アラン2世は、西フランク国王ルイ4世に臣従を誓いました。
西フランク国王ルイ4世は、ブルターニュ公国を独立国としてみなしていました。
ギヨーム1世は、フランドル伯アルヌルフ1世と領土を巡って戦いました。

942年、ギヨーム1世は、交渉の席でフランドル伯アルヌルフ1世の部下によって暗殺されました。
リシャール1世は、ノルマンディー公位を受け継ぎました。
西フランク王ルイ4世は、ノルマンディー公領を占領しました。

947年、ノルマンディー公リシャール1世は、ノルマンディー公領を取り戻しました。

964年、フランドル伯アルヌルフ1世は、亡くなりました。

996年11月20日、ノルマンディー公リシャール1世は、63歳で病死しました。
リシャール2世が、ノルマンディー公位を受け継ぎました。

ノルマンディー公リシャール2世は、妹アヴォワーズをブルターニュ公ジョフロワ1世と結婚させました。
ノルマンディー公リシャール2世は、ブルターニュ公ジョフロワ1世の妹ユディトと結婚しました。
ノルマンディー公リシャール2世は、二重の婚姻関係を結び、ブルターニュ公ジョフロワ1世とは同盟関係を構築しました。
ノルマンディー公リシャール2世は、妹エンマとイングランド王エゼルレッド2世を結婚させました。

1004年、イングランド王エゼルレッド2世とエンマの息子として、エドワードが生まれました。

1026年8月28日、ノルマンディー公リシャール2世は、63歳で亡くなりました。
リシャール3世が、ノルマンディー公位を受け継ぎました。
1027年8月6日、ノルマンディー公リシャール3世は、亡くなりました。
弟のロベール1世が、ノルマンディー公位を受け継ぎました。

1035年7月3日、ロベール1世は、亡くなりました。
ギヨーム2世が、ノルマンディー公位を受け継ぎました。

1042年6月8日、イングランド王ハーデクヌーズが、24歳で、亡くなりました。
1043年4月3日、エドワードが、イングランド王になりました。

1066年1月5日、イングランド王エドワードは、61歳で亡くなりました。
ハロルドが、イングランド王を受け継ぎました。
ノルマンディー公ギヨーム2世は、イングランド王エドワードとの血縁関係を理由に、イングランドの王位継承を主張してイングランドへ侵攻し、イングランド王ハロルドを破ってイングランド王ウィリアム1世として即位しました。

ノルマンディー公ギヨーム2世は、フランス王に臣従する一方で、イングランド王ウィリアム1世として君臨しました。
1087年9月9日、ノルマンディー公ギヨーム2世で、イングランド国王ウィリアム1世は、亡くなりました。
ロベール2世が、ノルマンディー公を受け継ぎました。
ウィリアム2世が、イングランド王を受け継ぎました。

1151年9月7日、アンジュー伯、メーヌ伯、ノルマンディー公ジョフロワ4世は、38歳で亡くなりました。
ヘンリー2世が、アンジュー伯、メーヌ伯、ノルマンディー公を受け継ぎました。

1152年、ヘンリー2世は、フランス王ルイ7世の王妃であった11歳年上のアリエノール・ダキテーヌと結婚し、アキテーヌ公領の共同統治者となりました。
1154年10月25日、イングランド王スティーヴンは、亡くなりました。
ヘンリー2世が、協定により、イングランド王を受け継ぎました。

ヘンリー2世は、アンジュー伯、メーヌ伯、ノルマンディー公、アキテーヌ公、イングランド王となりました。
ヘンリー2世は、イギリスにおいては、スコットランド王を臣従させ、ウェールズの支配し、アイルランドへを植民地にしました。
1171年、ヘンリー2世は、アイルランド卿の称号を手にしました。
ヘンリー2世は、フランスにおいては、ブルターニュ公領を支配し、アキテーヌ公を臣従させました。
ヘンリー2世は、広大な領地を治めるアンジュー帝国を築き上げました。

ヘンリー2世は、フランス王ルイ7世との協約で、14歳のヘンリーを後継者と定めてアンジュー帝国とメーヌ公国を、12歳のリチャードにはアキテーヌ公国、11歳のジェフリーにブルターニュ公国を分配し、フランス王ルイ7世に臣従させることにしました。
2歳のジョンには、領地を与えられませんでした。

ヘンリー2世は、長女マティルダをザクセン公兼バイエルン公ハインリヒに、次女エリナーをカスティーリャ王アルフォンソ8世に、三女ジョーンをシチリア王グリエルモ2世に嫁がせました。

1183年6月11日、ヘンリーは、28歳で亡くなりました。
1189年7月6日、イングランド王ヘンリー2世は、56歳で亡くなりました。
リチャードが、イングランド王を受け継ぎました。
1199年4月6日、イングランド王リチャードは、41歳で亡くなりました。
ジョンが、イングランド王を受け継ぎました。

1202年、フランス王フィリップ2世は、イングランド王ジョンを法廷に呼び出しました。
イングランド王ジョンは、法廷への呼び出しを拒否しました。
フランス王フィリップ2世とイングランド王ジョンは、戦争になりました。
ノルマンディ公、アンジュー公、メーヌ公、トゥレーヌ公とポワトゥー公は、フランス王フィリップ2世に抵抗することなしに、降伏しました。
イングランド王ジョンは、ガスコーニュ以外の大陸の領土を失いました。

1216年10月18日、イングランド王ジョンは、48歳で亡くなりました。
ヘンリー3世が、イングランド王を受け継ぎました。

ウィリアム1世もヘンリー2世も、血縁関係を利用して、イギリスとフランスを支配しました。

1258年、グリフィズは、ウェールズの領域を支配下に収め、ウェールズ公国を建国しました。
グリフィズは、ウェールズ大公になりました。

1259年4月12日、イングランド王ヘンリー3世が、フランス王ルイ9世に、臣下の礼をつくす条件で、ガスコーニュとアンジューの一部を領地とすることが認められました。

1270年8月25日、フランス王ルイ9世は、56歳で亡くなりました。
フィリップ3世は、フランス王を受け継ぎました。

1272年11月16日、イングランド王ヘンリー3世が、65歳で亡くなりました。
エドワード1世が、イングランド王を受け継ぎました。

1276年以後、イングランド王エドワード1世が、ウェールズ公国を4回も侵攻しました。
ウェールズ大公グリフィズは、長弓部隊で応戦しました。

1282年12月11日、ウェールズ大公グリフィズが戦死しました。
イングランド王エドワード1世が、ウェールズ公国を支配下に収め、長弓部隊を組織しました。

1306年3月25日、ロバート1世は、戴冠式を行い、スコットランド王になりました。
1306年6月26日、イングランド王エドワード1世は、討伐軍を派遣し、ロバートを打ち負かし、協力者は処刑されした。
スコットランド王ロバート1世は、北アイルランド沖ラスリン島まで逃れました。
1307年3月、ジェームズ・ダグラスがダグラス城を攻撃し、イングランド軍を打ち破り、スコットランド各地でイングランド軍を打ち破りました。

1307年7月7日、イングランド王エドワード1世は、68歳で亡くなりました。
エドワード2世が、イングランド王を受け継ぎました。

1308年1月28日、イングランド王エドワード2世は、フランス王フィリップ4世の娘イザベラとフランスにおいて結婚しました。

1314年、スコットランド王ロバートが、スコットランドの大部分を再征服しました。
イングランド王エドワード2世は、大軍を率いてスターリングへ向かいました。
スコットランド王ロバートが、バノックバーンの戦いで、イングランド王エドワード2世に大勝しました。
イングランド王エドワード2世は、スコットランドにおける統治権を完全に失いました。
1318年、スコットランドから全てのイングランド兵が撤退しました。
1320年、スコットランド王ロバート1世は、アーブロース寺院にて、イングランドからの独立を宣言しました。
1323年、教皇ヨハネス22世は、スコットランド王ロバート1世の破門を解き、スコットランド王として承認しました。

イングランドはスコットランドを併合したいし、フランスにはガスコーニュを併合したいという問題が、イングランドとフランスの間に残りました。

1327年9月21日、イングランド王エドワード2世は、43歳で亡くなりました。
エドワード3世が、イングランド王を受け継ぎました。

1328年2月1日、フランス王シャルル4世が、33歳で亡くなりました。
フランスのカペー朝は、断絶しました。

フランス王シャルル4世の従兄弟にあたるヴァロワ伯フィリップ6世が、フランス王を受け継ぎました。
フィリップ4世の娘である母イザベラを通して女系のフランス王位継承権を有するイングランド王エドワード3世は、フランス王位継承権を主張しました。
イングランド王エドワード3世は、フランス王フィリップ6世に対して臣下の礼を捧げて、フランス王フィリップ6世を認めました。

1329年6月7日、スコットランド王ロバート1世は、54歳で亡くなりました。
デイヴィッド2世が、スコットランド王を受け継ぎました。

1333年、イングランド王エドワード3世は、ハリドン・ヒルの戦いでスコットランド王デイヴィッド2世を撃破しました。
スコットランド王デイヴィッド2世は、フランスに亡命しました。

イングランド王エドワード3世が、スコットランドの併合を目指し始めました。
イングランド王エドワード3世は、スコットランドを併合するには、フランス王フィリップ6世にスコットランドから手を引かせる必要がありました。
イングランド王エドワード3世は、スコットランドとの戦闘の勝利により、長弓部隊を中心とした軍事力に自信を持っており、王位継承権を大義名分として、イングランド王ジョンの時代に失ったアンジュー帝国時代の大陸領土を取り返すことも目指し始めました。

フランス王フィリップ6世も、イングランドに優越する国力に自信を持っており、スコットランド王デイヴィッド2世をスコットランドに戻してイングランドを牽制させながら、ガスコーニュを完全に併合し、フランス王国の支配を完成させることを目指していました。

1336年、イングランド王エドワード3世は、フランスへの羊毛輸出の禁止しました。
羊毛をイングランドからの輸入に頼るフランドル伯領の毛織物産業は、大きな打撃を受けました。
1337年、アルテベルデはヘントで反乱を起こし、フランドル諸都市が追従し、フランドル伯は追放されました。

百年戦争の開始からジャンヌ・ダルクの登場まで

1337年5月24日、フランス王フィリップ6世は、イングランド王エドワード3世に対して、ガスコーニュの没収を宣言しました。
1337年10月7日、イングランド王エドワード3世は、フランス王フィリップ6世に対する、臣下の礼を撤回し、フランス王位の継承を宣言しました。
1337年11月1日、イングランド王エドワード3世は、フランス王フィリップ6世に対して挑戦状を送付しました。
これが百年戦争の始まりです。

1338年、イングランド王エドワード3世は、同盟諸国に支払う資金を得るためにイタリアの銀行家から多額の借金をしました。
イングランド王エドワード3世は、資金調達のためにフランスへの侵攻が遅れでしまいました。

フランス軍は、ジェノヴァ艦隊を雇い、イングランドの海岸地帯を襲撃した。
フランス軍は、プリマスを襲撃し、サザンプトンで略奪し、ガーンジー島を占領しました。

イングランド王エドワード3世は、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世と結び、ネーデルラント諸侯の軍を雇って北フランスに侵攻しました。

イングランド軍は、イングランドの海岸地帯の守備を固めました。
フランス軍は、イングランドの海岸地帯へ襲撃しましたが、撃退され戦果は上がらなくなりました。

1338年8月、ジェノヴァ艦隊内で分配金に関する争いから叛乱が起こりました。
ジェノヴァ艦隊の大部分は、イタリアに戻りました。

スコットランドにおけるイングランド軍の状況は、悪化しました。
イングランド軍は、スコットランド軍にフォース湾の北における最後のイングランド側拠点であるパースを奪回されました。

1339年9月、イングランド王エドワード3世は、フランスに侵攻し、いくつかの地域を焼き払ったが、価値のある地点を占領できませんでした。
1339年10月23日、イングランド王エドワード3世は、フィリップ6世に挑戦状を送り、ラ・シャペルでの決戦を迫りました。
フランス王フィリップ6世は、ラ・シャペルでの決戦を回避しました。
イングランド王エドワード3世は、撤退しました。

1340年1月26日、イングランド王エドワード3世は、ヘントの市場においてフランス王たることを宣言しました。
フランドル都市連合は、イングランド王エドワード3世をフランス王として認め、反フランス同盟を結びました。

イングランド王エドワード3世は、ジェノヴァに補償金を支払い、フランス海軍に参加しないよう工作しました。
イングランド艦隊は、ブローニュを襲撃し、フランス艦隊のガレー船を焼き払いました。

1340年6月24日、イングランド軍は、エクリューズでフランス軍の艦隊を壊滅し、ドーバー海峡の制海権を取りました。
フランス軍は、イングランドへ侵攻することはできなくなりました。
イングランド軍は、アルトワとトゥルネーを攻撃しましたが、フランス軍に敗北しました。
1340年9月25日、イングランド軍とフランス軍は、約2年間の休戦協定を結びました。

反フランス同盟は解体し、ネーデルラント諸侯の軍はネーデルラントに戻りました。
イングランドは、財政が破綻しました。
イングランドが債権の支払いを拒否したイタリアの銀行家達は、破産しました。

1341年、フランス王フィリップ6世は、スコットランド王デイヴィッド2世をスコットランドに帰国させました。
スコットランド王デイヴィッド2世は、スコットランドの掌握に成功しました。

1341年4月30日、ブルターニュ公ジャン3世は、55歳で、亡くなりました。
ブルターニュ公ジャン3世の異母弟であるモンフォール伯ジャンと、姪のパンティエーヴル女伯ジャンヌの間で公位継承争いが起きました。
パンティエーヴル女伯ジャンヌの夫シャルル・ド・ブロワは、フランス王フィリップ6世の甥でした。
フランス王フィリップ6世は、パンティエーヴル女伯ジャンヌの公位相続を支持しました。
モンフォール伯ジャンは、イングランド王エドワード3世をフランス王として認め、ナントを占拠してフランス軍に対峙しました。
フィリップ6世は、シャルル・ド・ブロワを擁立するために軍を差し向け、ナントを攻略し、モンフォール伯ジャンを捕らえました。
モンフォール伯妃ジャンヌ・ドゥ・フランドルの徹底抗戦によってブルターニュの平定に時間がかかり、休戦協定の期限切れを迎えました。
1342年11月、イングランド王エドワード3世はブレストに上陸しました。

1343年9月、モンフォール伯ジャンは釈放されましたが、領地に留まることを強制されました。
1345年3月、モンフォール伯ジャンは監視を逃れてイングランドに亡命しました。
イングランド王エドワード3世は、フランスとの戦争を再開し、アキテーヌに兵を送ると共に、ブルターニュにもノーサンプトン伯とモンフォール伯ジャンを派遣しました。
モンフォール伯ジャンは、カンペールの奪回を図ったが失敗し、病死しました。
ジャン4世が、モンフォール伯を受け継ぎました。

1346年7月5日、イングランド王エドワード3世が率いるイングランド軍は、ノルマンディーに上陸しました。
イングランド軍は、領土の占領はせず、騎兵でフランスに深く侵入し、略奪や破壊などを行いました。
1346年7月26日、北西ノルマンディー地方の文化、政治、宗教の中心都市カーンを攻撃してフランス軍を破り、町を徹底的に破壊しました。
1346年8月14日、イングランド軍は、パリの西約30キロのセーヌ川のポワシーの渡しを掌握し、舟橋をかけました。
イングランド軍は、セーヌ川とソンム川に挟まれた平野に入り込んだことになりました。
フランス軍は、イングランド軍に食料を略奪されないようにして撤退し、セーヌ川とソンム川の橋や渡しの守りを固めて、イングランド軍を包囲しました。
イングランド王エドワード3世は、ソンム川のフランス軍防衛ラインを突破しようとしてアンジュストやポン=レミを攻撃して失敗しました。
イングランド王エドワード3世は、セーニュヴィルの村にあるブランシュタックという名前の小さな渡しの存在を聞きました。
フランス軍の防備が手薄に違いないと踏んだイングランド王エドワード3世は、イングランド軍にブランシュタックへ向かうように命じました。
1346年8月24日、フランス軍は、実戦経験豊富なゴデマール・ド・フォワ率いる3,500の兵で、ブランシュタックという渡しを守っていました。
イングランド王エドワード3世は、飢えと士気低下に苦しんでいたイングランド軍の事情を考え、ブランシュタックを渡ることにしました。
イングランド軍の騎士と装甲兵士100人は、長弓部隊の分厚い援護射撃の下で渡河を開始しました。
長弓の熾烈な攻撃によってフランス軍の戦列は混乱し、イングランド軍の騎士と装甲兵士100人は対岸に到達しました。
イングランド軍先鋒の奮戦により対岸に橋頭保を確保すると、エドワード3世は兵力を更に投入した。
イングランド軍は、フランス軍の防衛ラインを突破して1時間半で全軍が渡河を終え、北上しました。
イングランド軍は、食料を略奪し、物資を補給しました。

1346年8月26日、イングランド軍は、クレシーの低い山に陣地を構えました。
イングランド軍は、中央にエドワード黒太子を含む馬騎士の部隊を配置し、山の緩やかな斜面にそって逆V字型になるように両翼に長弓部隊を配置しました。
イングランド軍は、長弓部隊に対するフランス軍の重騎兵部隊の突撃を防ぐために穴を掘り、杭を打ちたてました。
フランス軍は、クレシーに向かい、イングランド軍長弓部隊に対抗するためにクロスボウ部隊を前衛に配置し、その後方に重騎兵部隊を配置しました。

フランス軍のクロスボウ部隊が射撃を行い、イングランド軍の長弓部隊が応射し、射撃戦となりました。
クロスボウ部隊は、水平射撃では射程、威力、命中精度で長弓部隊に優位性がありました。
上向きの射撃となったことで、クロスボウの優位性が失われました。
長弓部隊は、上方からの射撃であり、下向きの射撃となったことで地理上の優位性を得られました。
1分間に6~10発と速射できる長弓に対して、1分間に1、2発程度しか発射できないクロスボウは不利でした。
長弓部隊は、クロスボウ部隊に打ち勝ちました。

劣勢となったフランス軍は、怯むことなく重騎兵部隊による突撃戦術を敢行しました。
フランス軍の重騎兵部隊は、自然の傾斜と人工の障害、そして雨による不安定な地盤によって進行は妨げられ、イングランド軍に打撃を与えることはありませんでした。
フランス軍は、1万2千人もの死傷者を出して、敗戦しました。

1346年9月4日~1347年8月3日、イングランド王エドワード3世は、フランスの港湾都市カレーを包囲し、陥落しました。
カレーは、百年戦争を通じて重要なイングランドの拠点であり続け、百年戦争後も1558年までイングランド領でした。

1347年6月20日、イングランド軍が支援するモンフォール家は、ラ・ロッシュ=デリアンの戦いで、フランス軍が支援するブロア家に勝利しました。
イングランド王エドワード3世は、アキテーヌでは領土を拡大し、ブルターニュではシャルル・ド・ブロワを捕虜にしました。

1346年10月、スコットランド王デイヴィッド2世は、スコットランドとフランス間の古い同盟に従って、イングランドを侵攻しました。
1346年10月17日、スコットランド王デイヴィッド2世は、ネヴィルズ・クロスの戦いで大敗し、捕虜となりました。
イングランド王エドワード3世の妹ジョーンを妻に持ち、イングランド王家の血を引くスコットランド王デイヴィッド2世はイングランドで厚遇され、その生活は比較的自由で快適でした。

1348年12月、フランドル伯ルイ2世が、フランドル都市連合の反乱を平定しましたが、イングランドへ接近し、領土の拡大を図り、メヘレンとアントウェルペンを獲得しました。

ペストが、ヨーロッパ中に流行し、イングランド、フランスも大被害を受けました。
イングランドは、フランスを攻撃することができませんでした。

1350年3月26日、カスティーリャ王アルフォンソ11世は、38歳で、亡くなりました。
ペドロ1世が、カスティーリャ王を受け継ぎました。
トラスタマラ伯エンリケは、ペドロ1世に反乱を起こし、カスティーリャから追放され、フランスに亡命しました。

1350年8月22日、フランス王フィリップ6世は、56歳で、亡くなりました。
ジャン2世が、フランス王を受け継ぎました。

1354年、イングランドとフランスは、アヴィニョンで和平会議が開きました。
イングランド王エドワード3世はフランス王ジャン2世に対し、フランス王位を断念する代わりにアキテーヌ領の保持、ポワティエ、トゥーレーヌ、アンジュー、メーヌの割譲を提案しました。
フランス王ジャン2世は、イングランド王エドワード3世の提案を拒否しました。
1355年9月、イングランド軍は、領土の占領はせず、騎兵でフランスに深く侵入し、略奪や破壊などを行いました。

1356年8月8日、イングランドのエドワード黒太子は、アキテーヌにおける領土を拡大し、フランス南部の多くを支配下に入れました。
1356年9月19日、イングランド軍のエドワード黒太子は、16歳の時に参加したクレシーの戦いので経験を活かした、さらに綿密な作戦計画を立案しました。
フランス国王ジャン2世は、クレシーの戦いので経験を活かした作戦を立てることができませんでした。
長弓部隊を主力として作戦行動を行うイングランド軍は、ポワティエで、重騎兵部隊による突撃のみのフランス軍に勝利しました。
イングランド軍のエドワード黒太子は、フランス国王ジャン2世と側近を捕虜にしました。

1357年10月、10万マークを10年の分割払いという身代金で、スコットランド王デイヴィッド2世は釈放されました。

1359年、ロンドン条約により、フランス国王ジャン2世に対する400万エキュの身代金が決定され、ノルマンディー、ブルターニュ、アンジュー、メーヌとフランドルからスペインまでの全ての海岸部がイングランドに割譲され、アンジュー帝国が復活しました。
1359年、王太子シャルル5世が開いた三部会は、ロンドン条約の承認を拒否しました。
1359年10月、イングランド王エドワード3世は、フランス王として戴冠するために、フランスに侵攻しました。
イングランド軍は、ランスやパリを占領することはできませんでした。

1360年5月、ロンドン条約から大幅に条件を緩め、フランス国王ジャン2世に対する300万エキュの身代金、アキテーヌとカレーの割譲を中心とするブレティニー条約を結びました。
1360年10月、ブレティニー条約は、カレー条約として正式に締結されました。
幾人かの王族が代わりに人質になることで、フランス王ジャン2世は解放されてフランスに戻りました。
1363年7月、代わりの人質の1人であるフランス王ジャン2世の次男アンジュー公ルイ1世がフランスに逃げ戻りました。
フランス王ジャン2世は、人質として、イングランドに戻りました。

1364年4月8日、フランス王ジャン2世は、45歳で亡くなりました。
シャルル5世が、フランス王を受け継ぎました。

フランス王シャルル5世は、税制を変更し、強化し、財政を立て直しました。
フランス王シャルル5世は、弟のフィリップとフランドル公ルイ2世の娘マルグリットを結婚させて、フランドル公ルイ2世の反旗を封じました。

1364年9月29日、イングランド軍が支援するモンフォール伯ジャン4世が、フランス軍が支援するシャルル・ド・ブロワに勝利しました。
シャルル・ド・ブロワは、戦死しました。
モンフォール伯ジャン4世が、唯一のブルターニュ公となりました。
フランス王シャルル5世は、臣従の礼を取らせることで、モンフォール伯ジャン4世と和解し、ブルターニュ公として承認し、ブルターニュ公位継承争いは終結しました。
イングランド軍は、ブルターニュからのフランスへの侵攻はできなくなりました。

1366年1月、フランス王シャルル5世は、トラスタマラ伯エンリケをカスティーリャ王にするために、ゲクランが率いるフランス軍と傭兵で遠征させました。
ゲクランを総大将とするフランス軍と傭兵は、首都ブルゴスを陥落させて、トラスタマラ伯エンリケを戴冠させ、カスティーリャ王エンリケ2世となりました。
ペドロ1世は、エドワード黒太子が統治するアキテーヌへ亡命しました。

1366年9月23日、エドワード黒太子とペドロ1世の間で遠征費の支払いと領土の割譲を決めたリブルヌ条約が交わされ、イングランド軍はカスティーリャ王国に侵攻しました。
カスティーリャ王エンリケ2世が率いる傭兵は、ビトリア=ガステイスで、エドワード黒太子が率いるイングランド軍に勝利しました。
エドワード黒太子が率いるイングランド軍は、初めての敗戦となりました。
1367年4月3日、エドワード黒太子が率いるイングランド軍とペドロ1世は、ナヘラで、ゲクランが率いるフランス軍と傭兵とカスティーリャ王エンリケ2世に勝利しました。
カスティーリャ王エンリケ2世は、フランスに亡命しました。
ペドロ1世は、エドワード黒太子に遠征費の支払いと領土の割譲の約束を果たしませんでした。
エドワード黒太子は、イングランド軍を率いて、アキテーヌへ戻りました。

1367年、スコットランドに身代金の負担は大きく、イングランドでの生活を懐かしがっていたスコットランド王デイヴィッド2世は、身代金の代わりにスコットランド王位をエドワード3世またはその子供に譲るという密約を交わし、イングランドへ戻りました。
スコットランド議会は、アーブロース宣言に従い、イングランド王エドワード3世の息子クラレンス公ライオネルの次期王位を否定し、身代金を払い続けることで対抗しました。

1369年3月14日、ゲクランが率いるフランス軍と傭兵とカスティーリャ王エンリケ2世は、モンティエルで、カスティーリャ王ペドロ1世に勝利しました。
カスティーリャ王ペドロ1世は、殺害され、カスティーリャ王位継承争いは終結しました。
エンリケ2世が、カスティーリャ王になりました。
ゲクランは、パリに凱旋し、フランス王軍司令官になりました。

1370年12月4日、ゲクランが率いるフランス軍とブルターニュ軍は、ポンヴァヤンで、イングランド軍に勝利しました。
30年にわたるイングランド軍の無敵神話は、破られました。

1371年2月22日、スコットランド王デイヴィッド2世は、46歳で、亡くなりました。
ロバート2世が、スコットランド王を受け継ぎました。

1372年6月22日と23日、カスティーリャ艦隊は、ラ・ロシェルの沖で、イングランド船団に勝利しました。
イングランド軍は、初めての海戦での敗戦しました。
ゲクランが率いるフランス軍は、ポワトゥー、オニス、サントンジュを占拠しました。
1372年7月7日、ゲクランが率いるフランス軍は、ポワティエを陥落しました。
1372年9月8日、ゲクランが率いるフランス軍は、ラ・ロシェルを陥落しました。

1372年、イングランドとブルターニュが同盟を結んだことが発覚しました。
1373年、イングランド軍は、ブルターニュに上陸しました。
ゲクランが率いるフランス軍は、イングランド軍を放逐し、ブルターニュを占拠しました。
1373年、ブルターニュ公ジャン4世は、ブルターニュを追放され、イングランドに亡命しました。

1375年7月1日、イングランド王エドワード3世とフランス王シャルル5世は、ブルッヘで、フランス優位の状況下で、2年間の休戦協定を結びました。

1376年6月8日、エドワード黒太子は、45歳で、亡くなりました。
1377年6月21日、イングランド王エドワード3世は、64歳で、亡くなりました。
リチャード2世が、イングランド王を受け継ぎました。

1378年12月18日、フランス王シャルル5世は、ブルターニュのフランス王領への併合を宣言しました。
1379年4月、独立を望むブルターニュの抵抗は強く、抵抗運動が表面化しました。
1379年8月3日、ジャン4世は、ブルターニュに上陸しました。

1380年7月13日、フランス王軍司令官ゲクランは、60歳で、亡くなりました。
1380年9月16日、フランス王シャルル5世は、42歳で、亡くなりました。
シャルル6世が、フランス王を受け継ぎました。
フランス王シャルル6世は11歳でした。
アンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン1世、ブルゴーニュ公フィリップ2世、ブルボン公ルイ2世が、フランス王シャルル6世の後見人となりました。
後見人達は、国王課税を復活させて、財政を私物化しました。
ブルゴーニュ公フィリップ2世は、フランドル伯を兼任し、摂政として国政を濫用しました。

1381年4月4日、フランス王シャルル6世とジャン4世は和解しました。
ジャン4世は、ブルターニュ公に復位しました。
ブルターニュは、フランス王領への併合はなくなりました。

1381年5月30日、神父のジョン・ボールとワット・タイラーが農民を率いて、人頭税などの課税強化に反対し、反乱を起こしました。
イングランド王リチャード2世は、神父のジョン・ボールとワット・タイラーを殺害し、反乱を鎮圧しました。
イングランド王リチャード2世は、評議会を廃して、親政を宣言し、親フランス寄りの立場を取りました。
主戦派の諸侯とイングランド議会は、イングランド王リチャード2世に閣僚の解任を求めました。
ダービー伯ヘンリー・ボリングブルック等の訴追派貴族は、イングランド王リチャード2世との対決も辞さない姿勢を示しました。

1387年12月20日、訴追派貴族達は、ラドコット・ブリッジの戦いで、イングランド軍に勝利しました。
1388年2月3日、イングランド王リチャード2世の寵臣8人を反逆罪で告発しました。

1388年、フランス王シャルル6世は、親政を宣言し、弟のオルレアン公ルイ、マルムゼと呼ばれる官僚集団がこれに同調し、後見人一派を排斥するようになりました。

1391年、イングランド王リチャード2世は、訴追派貴族のトマス・モウブレーをカレー総督に任命しました。
1392年、イングランド王リチャード2世は、アミアンで、フランス王シャルル6世と会議をしていました。

フランス王シャルル6世は、精神錯乱し、フランス王国は混迷しました。
オルレアン派が、財務長官、アキテーヌ総指令となり国政を握りました。

1393年、イングランド王リチャード2世は、ルーランジャンで、フランス王シャルル6世と交渉していました。
1396年、イングランド王リチャード2世は、アルドルで、フランス王シャルル6世と会議していました。
1397年、イングランド王リチャード2世は、訴追派貴族のトマス・モウブレーをノーフォーク公にしました。
訴追派貴族のダービー伯ヘンリー・ボリングブルックは、イングランド王リチャード2世に従いました。
1397年7月10日、イングランド王リチャード2世は、フランス和平案に反発した訴追派貴族のグロスター公トマス・オブ・ウッドストック、アランデル伯リチャード・フィッツアランを捕らえて、処刑しました。

1398年、ノーフォーク公トマス・モウブレーは、イングランド王リチャード2世がダービー伯ヘンリー・ボリングブルックを狙っているという陰謀を議会で告訴しました。
イングランド王リチャード2世は、ダービー伯ヘンリー・ボリングブルックとノーフォーク公トマス・モウブレーを追放しました。
イングランド王リチャード2世は、議会派諸侯と激しく対立することになりました。

1399年2月3日、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントが、58歳で、亡くなりました。
イングランド王リチャード2世は、息子のボリングブルックにランカスター公領を相続させずに、没収しました。
1399年8月、ボリングブルック率いる議会派諸侯は、再び軍事蜂起して、イングランド王リチャード2世を逮捕し、ロンドン塔に幽閉しました。
1399年9月29日、イングランド王リチャード2世は退位しました。
1399年9月30日、ボリングブルックは、ヘンリー4世としてイングランド王を受け継ぎました。
1400年2月14日、リチャード2世は、33歳で、亡くなりました。

1404年4月27日、ブルゴーニュ公フィリップ2世は、62歳で、亡くなりました。
ジャン1世が、ブルゴーニュ公を受け継ぎました。

1405年、ブルゴーニュ公ジャン1世は、パリを軍事制圧しました。

1407年11月23日、ブルゴーニュ公ジャン1世の配下の者により、オルレアン公ルイは暗殺されました。
シャルルが、オルレアン公を受け継ぎました。

オルレアン公シャルルは、アルマニャック伯ベルナール7世を頼ってジアン同盟を結びアルマニャック派を形成しました。
アルマニャック派とブルゴーニュ派は、対立し、内乱になり、イングランド王ヘンリー4世に援軍を求め、フランス王国の内政は混乱を極めました。

1413年3月20日、イングランド王ヘンリー4世は、45歳で、亡くなりました。
ヘンリー5世が、イングランド王を受け継ぎました。

1414年5月23日、イングランド王ヘンリー5世は、ブルゴーニュ派と同盟を結びました。
1414年12月、イングランド王ヘンリー5世は、フランス王シャルル6世にアキテーヌ全土、ノルマンディー、アンジューの返還とフランス王位の要求を宣言しました。

1415年8月11日、イングランド王ヘンリー5世が率いるイングランド軍は、フランスに向けて出航しました。
1415年8月12日、イングランド王ヘンリー5世が率いるイングランド軍は、北フランスに上陸し、アルフルール要塞を包囲しました。
1415年9月22日、イングランド王ヘンリー5世が率いるイングランド軍は、アルフルールを陥落しました。
イングランド王ヘンリー5世率いるイングランド軍は、補給可能なカレー港に陸路移動を開始しました。
1415年10月15日、イングランド王ヘンリー5世が率いる7千名のイングランド軍は、長弓部隊を駆使して、アジャンクールの戦いで、2万名のフランス軍の重装騎兵に勝利しました。
1415年11月、イングランド王ヘンリー5世が率いるイングランド軍は、ロンドンに凱旋しました。

1419年9月10日、シャルル7世王太子の支持者により、オルレアン公ルイ暗殺の復讐としてブルゴーニュ公ジャン1世は暗殺されました。

1422年8月31日、イングランド王ヘンリー5世は、34歳で、亡くなりました。
生後間もないヘンリー6世が、イングランド王を受け継ぎました。

1422年10月21日、フランス王シャルル6世は、54歳で亡くなりました。

ジャンヌ・ダルクの生涯と百年戦争の終わり

1022年、フランスのオルレアンで10数人の異端者が逮捕されました。
フランス王ロベール2世は、この異端者を「火刑(火あぶり)」で死刑にしました。
この事件をきっかけに、異端者を逮捕し、「火刑」で死刑にするようになりました。

1337年から始まった百年戦争は、イングランド王がフランス王位継承争いに乗じて、フランス王になるための戦争でした。
オルレアン公ルイを支持する派閥は、アルマニャック派と呼ばれていました。
ブルゴーニュ公ジャン1世を支持する派閥は、ブルゴーニュ派と呼ばれていました。

1407年11月23日、ブルゴーニュ公ジャン1世の配下の者により、オルレアン公ルイは暗殺されました。

1412年1月6日、ジャンヌ・ダルクは、ドンレミ村でジャック・ダルクとイザベル・ロメの農夫の娘として生まれました。
ドンレミ村は、周囲をブルゴーニュ派に囲まれていましたが、アルマニャック派に属していて、襲撃に遭い、焼き払われたこともありました。

1414年5月23日、イングランド王ヘンリー5世は、ブルゴーニュ派と同盟を結びました。
1414年12月、イングランド王ヘンリー5世は、フランス王シャルル6世にアキテーヌ全土、ノルマンディー、アンジューの返還とフランス王位の要求を宣言しました。

1415年8月11日、イングランド王ヘンリー5世率いるイングランド軍は、フランスに向けて出航しました。
1415年8月12日、イングランド王ヘンリー5世率いるイングランド軍は、北フランスに上陸し、アルフルール要塞を包囲しました。
1415年9月22日、イングランド王ヘンリー5世率いるイングランド軍は、アルフルールを陥落しました。
イングランド王ヘンリー5世率いるイングランド軍は、補給可能なカレー港に陸路移動を開始しました。
1415年10月15日、イングランド王ヘンリー5世が率いる7千名のイングランド軍は、長弓部隊を駆使して、アジャンクールの戦いで、2万名のフランス軍の重装騎兵に勝利しました。
1415年11月、イングランド王ヘンリー5世率いるイングランド軍は、ロンドンに凱旋しました。

1419年9月10日、シャルル7世王太子の支持者により、オルレアン公ルイ暗殺の復讐としてブルゴーニュ公ジャン1世は暗殺されました。

1420年5月21日、イングランドとフランスは、トロワ条約を結びました。

1422年8月31日、イングランド王ヘンリー5世は、34歳で、亡くなりました。
生後間もないヘンリー6世が、イングランド王を受け継ぎました。

1422年10月21日、フランス王シャルル6世は、54歳で亡くなりました。
トロワ条約に従い、生後間もないイングランド王ヘンリー6世が、フランス王を受け継ぎました。

1424年、13歳となったジャンヌ・ダルクは、神の姿を幻視し、イギリス軍を駆逐してシャルル7世王太子をランスへと連れていきフランス王位に就かしめよという「声」を聴きました。

1428年、16歳となったジャンヌ・ダルクは、親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォクルールへと赴き、守備隊隊長ボードリクール伯にシノンの仮王宮を訪れる許可を願い出ました。
ボードリクール伯はジャンヌを嘲笑をもって追い返しました。

1428年10月12日、イギリス軍は、オルレアン包囲戦を開始しました。

1429年1月、再びヴォークルールを訪れたジャンヌ・ダルクは、ジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジという2人の貴族の親友ができました。
この2人の助けでボードリクール伯に再会したジャンヌ・ダルクは、オルレアン近郊での「ニシンの戦い」でフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言しました。

1429年2月12日、フランス軍は、オルレアン郊外のルヴレ=サント=クロワで、イングランド軍のニシンを運んでいた補給部隊を襲撃しましたが、撃退されました。
この戦いは、「ニシンの戦い」と呼ばれています。

ボードリクール伯は、ニシンの戦いに関するジャンヌ・ダルクの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌ・ダルクのシノン訪問を許可しました。

ジャンヌ・ダルクは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮があるシノンへと向かいました。

1429年3月6日、ジャンヌは、ボードリクール伯に護衛されてシノンに到着しました。

1429年3月9日、ジャンヌは、シャルル7世王太子に謁見しました。
シャルル7世は、シノンの王宮に到着してまもないジャンヌ・ダルクと2人だけで面会し、ジャンヌ・ダルクから強い印象を受けました。

シャルル7世の妃マリーの母であるヨランド・ダラゴンは、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助しました。
ジャンヌ・ダルクは、オルレアンへの派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランド・ダラゴンに願い出て許されました。
ジャンヌ・ダルクは甲冑、馬、剣、軍旗などの軍装と、ジャンヌ・ダルクの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功しました。

シャルル7世は、ジャンヌ・ダルクの身元調査の審議会と、ポワチエでの教理問答を命じました。

1429年4月、ジャンヌ・ダルクの身元調査の審議にあたった委員会は、ジャンヌ・ダルクの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えのよきキリスト教徒である」ことを宣言しました。
教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌ・ダルクが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとしました。

ジャンヌ・ダルクの主張が真実であると認定されたことは、オルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながりました。

1429年3月22日、ジャンヌ・ダルクは、シャルル7世が派遣したジャン・エローに依頼してオルレアンのイングランド軍指揮官タルボット等に向けた降伏勧告文を口述筆記させました。
1429年4月24日から27日、ジャンヌ・ダルクの降伏勧告文がイングランド軍指揮官に送られました。

1429年4月29日、ジャンヌ・ダルクは、イングランド軍が包囲していたオルレアンにラ・イール、ジル・ド・レらと共に入城し、市民に大歓迎されました。

ジャンヌ・ダルクは、イングランド軍の包囲戦の指揮官タルボット宛に、自分を「乙女」と呼び、神の名で「立ち去れ、さもなくば、私が立ち去らせる」と書状を送りました。

オルレアンを包囲するイングランド軍に対するフランス軍を率いていたデュノワ伯は、ジャンヌ・ダルクが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌ・ダルクに知らせようとはしませんでした。

ジャンヌ・ダルクは、デュノワ伯の妨害を無視して、多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになりました。

ジャンヌ・ダルクは、それまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新し、積極的にイギリス軍と戦いました。

1429年5月4日、デュノワ伯は、東側のイングランド軍の砦であるサン・ルー砦に対して、攻撃を開始しました。
ジャンヌ・ダルクは、うたた寝をしていてその攻撃を逃すところであったが、急いで攻撃に加わりました。
ジャンヌ・ダルクが加わったフランス軍は、サン・ルー砦を陥落しました。

1429年5月5日、ジャンヌ・ダルクが軍を率いて、南のサン・ジャン・ル・ブラン要塞を陥落しました。

1429年5月6日、ジャンヌ・ダルクは、作戦会議でデュノワ伯の慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張しました。
デュノワ伯は、これ以上の戦線拡大を防ぐために、フランス軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令しました。
ジャンヌ・ダルクは、市民と兵卒たちを呼び集め、行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じました。
ジャンヌ・ダルクは、大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞を陥落しました。

ジャンヌ・ダルクの参加していなかった作戦会議で、援軍が到着するまでこれ以上の軍事行動を見合わせることが決定されました。

1429年5月7日、ジャンヌ・ダルクは、この決定を無視し、イングランド軍主力の拠点であるトゥーレル要塞への攻撃を主張しました。
ジャンヌ・ダルクと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌ・ダルクが首に矢傷を負ったにもかかわらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを見てから、ジャンヌ・ダルクのことを戦の英雄だと認識しました。

フランス軍は、イングランド軍が守るトゥーレル要塞への攻撃を開始しました。
ジャンヌ・ダルクを先頭にフランス軍は、トゥーレル要塞へ突入、ジャンヌ・ダルクは肩を弓で射抜かれ治療のため一時戦線を離脱します。
ジャンヌ・ダルクが死ぬのではないかという見方がフランス軍の士気を低下させました。

ジャンヌ・ダルクは、すぐに戦線の先頭に復帰し、フランス軍を鼓舞します。
負傷しながらも隊の先頭に立ち、懸命に指揮を執る彼女の姿を見たフランス軍は更なる追撃を仕掛け、トゥーレル要塞を陥落しました。

1429年5月8日、イングランド軍は、要衝であったトゥーレル要塞を奪われたことにより、撤退を開始しました。

約7ヵ月にも及んだオルレアン包囲戦は、フランスの勝利で幕を閉じました。
オルレアンが解放されたのは、ジャンヌ・ダルクが到着してわずか9日後のことでした。

イングランド軍は、パリの再占領か、ノルマンディー攻略を目指していました。
ジャンヌ・ダルクは、オルレアンの勝利をあげた直後、シャルル7世を説き伏せて、アランソン公ジャン2世の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得ました。

ランスへの進軍は、ランスまでの道程がパリへの道程のおよそ2倍であることと、当時のランスがイングランド占領地の中心部にあったことから無謀ともいえる作戦の提案でした。

1429年6月12日、フランス軍は、ジャルジョーの戦いでイングランド軍に勝利しました。
ジャン2世は、ジャンヌ・ダルクが砲撃を予見したことにより、命拾いしました。
ジャンヌ・ダルクは、攻城梯子を登っていたときに、石弾が命中して、梯子から転落しそうになりました。
1429年6月15日、フランス軍は、モン=シュル=ロワールの戦いでイングランド軍に勝利しました。
1429年6月17日、フランス軍は、ボージャンシーの戦いでイングランド軍に勝利しました。

ジャンヌ・ダルクの上官アランソン公ジャン2世は、ジャンヌ・ダルクが立案するあらゆる作戦をすべて承認するようになりました。

ジャンヌ・ダルクを冷遇していた指揮官であるデュノワ伯もジャンヌ・ダルクのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌ・ダルクの支持者となりました。

フランス軍に続々と援軍に加わる将官リッシュモン等が現れました。

1429年6月18日、ジョン・ファストルフ卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間にパテーの戦いが始まりました。

パテーの戦いではリッシュモンの指揮のもと、フランス軍前衛が、イングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始しました。
イングランド軍は総崩れとなり、イギリス軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となり、フランス軍が大勝しました。

1429年6月29日、フランス軍は、ジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始しました。
1429年7月3日、オセールを占領していたブルゴーニュ公国軍は、条件つき降伏を申し出てました。
ランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復しました。

シャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結されたトロワも、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した。

1429年7月16日、ランスは、フランス軍に城門を開きました。
1429年7月17日、シャルル7世の戴冠式が執り行われました。

ジャンヌ・ダルクとジャン2世は、パリへと進軍することを主張しました。
フランス国王シャルル7世は、ブルゴーニュ公フィリップ3世との和平条約締結の交渉し、休戦しました。

ブルゴーニュ公フィリップ3世は、和平交渉を反故にし、パリを守っているイングランド軍に援軍を送りました。
和平交渉に失敗したフランス軍は、パリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫りました。

1429年8月15日、司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙しましたが、戦線はそのまま膠着状態となりました。

1429年9月8日、フランス軍は、パリへ攻撃を開始しました。
ジャンヌ・ダルクは、サン=トノレ門を強襲し、矢が当たって脚を負傷しましたが、最後まで戦場に残って、フランス軍の指揮を直接執り続けました。

1429年9月9日、ジャンヌ・ダルクは、フランス国王シャルル7世からの撤退命令を受け、フランス軍に撤退命令を下しました。

1429年10月、ジャンヌ・ダルクは、サン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦で軍に復帰し、サン=ピエール=ル=ムイエを陥落させました。
1429年11月から12月、ジャンヌ・ダルクは、ラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦にも従軍しましたが、ラ=シャリテ=シュール=ロワールを陥落させることはできずに、初めての敗戦となりました。

1429年12月29日、ジャンヌ・ダルクとその家族は、貴族になりました。

フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれました。
ジャンヌ・ダルクは、休戦期間中にはほとんどすることがありませんでした。

フランスとイングランドとの休戦協定は、失効しました。
ジャンヌ・ダルクは、パリ包囲戦の失敗を理由に軍の指揮を認められませんでした。
1430年4月、ジャンヌ・ダルクは、300~400人の志願兵を集めました。
1430年5月、ジャンヌ・ダルクは、志願兵と共にコンピエーニュ包囲戦の援軍としてコンピエーニュへ向かいました。
1430年5月14日、ジャンヌ・ダルクは、コンピエーニュに到着しました。

1430年5月23日、ジャンヌ・ダルクは、コンピエーニュの守備隊と協力し、コンピエーニュの北側のマルニーにあるブルゴーニュ軍の駐屯地に奇襲をかけようとしていました。
コンピエーニュを攻撃しているブルゴーニュ公国軍リニー伯ジャン2世は、たまたまこの地域を偵察中にこの奇襲作戦に気付き、秘かに本隊から援軍を呼び寄せていました。
フランス軍の奇襲は、ブルゴーニュ公国軍6,000の反撃に遭い、失敗し、敗走しました。
ジャンヌ・ダルクは、フランス軍にコンピエーニュの城に退却を命じました。
ジャンヌ・ダルクは、ブルゴーニュ軍の追撃を阻止し、コンピエーニュの守備隊の後退を援護しました。
ジャンヌ・ダルクは、矢を受けて馬から転がり落ちても戦い続け、最後まで戦いを諦めませんでした。
ブルゴーニュ公国軍リニー伯ジャン2世は、ジャンヌ・ダルクを捕虜として、捕らえました。

将軍たちとオルレアン市民は、ジャンヌ・ダルクが捕らえられた時に身代金の寄付を集めました。
フランス国王シャルル7世は、身代金を没収し、ジャンヌ・ダルクの身代金を支払いませんでした。
フランス国王シャルル7世から見捨てられたジャンヌ・ダルクは、幾度か脱走を試みました。

イングランドとブルゴーニュ公フィリップ3世が、ブルゴーニュ公国軍リニー伯ジャン2世と交渉を行いました。
イングランドが、ブルゴーニュ公国軍リニー伯ジャン2世に身代金を支払って、ジャンヌ・ダルクの身柄を引き取りました。

イングランドの支持者だったフランス人司教ピエール・コーションが、ジャンヌ・ダルクの異端審問の判事を務めることになりました。
ピエール・コーションは、ルーアンで行われる裁判の判事資格がありませんでしたが、教区の臨時の責任者に任命されることで、異端審問の判事を務められるようにしました。

ジャンヌ・ダルクの異端裁判は、イングランドの占領下のルーアンで、最初に調査や尋問を中心とする「予備審理」と「普通審理」が、そしてその後に「異端再犯の審理」が行われました。

1431年1月9日、ジャンヌ・ダルクの異端裁判の「予備審理」が、開始されました。

1431年2月21日から3月3日、法廷での「予備審理」が行われました。
法廷での「予備審理」では陪席者として、大学関係者、高位聖職者、教会参事会員、宗教裁判所の弁護士など約130人が召集されました。

1431年3月10日から3月25日、牢内での「予備審理」が行われました。
牢内での「予備審理」では陪席者はいません。

ジャンヌ・ダルクの処女検査が、行われ、処女であることが証明されましたが、裁判記録には記録しませんでした。

ジャンヌ・ダルクの性格や習慣に関する予備的な調査をしました。
裁判官の代理人が、ジャンヌ・ダルクの人生、習慣、美徳について調査するためにジャンヌ・ダルクの故郷のドンレミ村とその周辺に派遣され、幾人かの証人と面談しました。
ピエール・コーションは、調査の結果と証人の証言はすべてジャンヌ・ダルクに有利な内容であったため、裁判記録には記録しませんでした。

1431年3月26日、ジャンヌ・ダルクの異端裁判の「普通審理」が、開始されました。

1431年5月24日、ジャンヌ・ダルクは、サン・トゥアン大修道院の墓地に設置された火刑台に連れて行かれ、「普通審理」が行われました。
ジャンヌ・ダルクは、悔悛と男性の服装をやめることに同意する誓約書に署名しない限り、直ちに火刑に処すと告げられました。
ジャンヌ・ダルクは、悔悛誓約書への署名に同意し、永久入牢への減刑を受け入れ、「普通審理」は終了しました。

イングランド人は、ジャンヌ・ダルクが着用していた女性の服をはぎ取り、袋から男性の服を取り出し、「起きろ」と言ってジャンヌ・ダルクに男性の服を投げつけました。

1431年5月28日、ジャンヌ・ダルクの異端裁判の「異端再犯の審理」が、牢内で開始されました。

1431年5月30日、入牢中のジャンヌ・ダルクが誓約書の誓いを破ったとして破門を宣告され、火刑になりました。

1431年12月13日、フランスは、ブルゴーニュ派と休戦しました。

1432年、リッシュモンは、フランス宮廷に復帰しました。
1433年、リッシュモンと対立していたラ・トレモイユは、フランス宮廷から追放されました。

1435年9月21日、フランスは、同盟していたイングランドから離脱したブルゴーニュ派と講和条約をアラスで結びました。

1436年4月13日、デュノワ伯とリッシュモンが率いるフランス軍とブルゴーニュ派の軍に対して、パリ市民は城門を開きました。

1439年11月2日、貴族の徴兵・徴税を禁止し、フランス国王が新たに徴兵・徴税することと、部隊の指揮を執る隊長は国王が指名することを勅令で布告しました。

1440年2月17日、貴族たちが猛反発、王太子ルイを擁立して、ブロワで蜂起しました。
1440年7月、フランス国王シャルル7世と貴族たちは、和睦しました。

1445年、勅令隊設立で王軍は、貴族の私兵を集めた軍から直轄の常備軍に刷新されました。

1446年5月6日、ラ・トレモイユは、64歳で亡くなりました。

1440年10月26日、ジル・ド・レは、殺人罪で、絞首刑になりました。

1443年1月11日、ラ・イールは、モントーバンで負傷、亡くなりました。

1449年11月4日、フランス軍は、ルーアンを陥落しました。

1450年4月15日、リッシュモンが率いるフランス軍は、フォルミニーの戦いにおいてイングランド軍に大勝しました。

1451年6月19日、フランス軍は、ボルドーを陥落しました。

1452年10月、タルボット率いるイングランド軍は、ボルドーを奪還しました。

1453年7月17日、フランス軍は、カスティヨンの戦いに大勝し、タルボットは戦死しました。

1453年10月19日、フランス軍は、ボルドーを陥落し、百年戦争は終りました。

フランス王シャルル7世は、ジャンヌ・ダルクの処刑判決の無効を宣言するために尽力しました。

1456年7月7日、ローマ教皇カリストゥス3世は、ジャンヌ・ダルクの処刑判決の無効を宣言しました。

1458年8月か9月頃、ジャン・ドーロンは、68歳で、亡くなりました。

1468年11月24日、デュノワ伯は、66歳で、亡くなりました。

1461年7月22日、フランス王シャルル7世は、58歳で、亡くなりました。

1474年7月18日、アランソン公ジャン2世は、イギリス軍への武器提供および上陸の手引きをする計画が発覚し、パリの議会で死刑を宣告され、領地は没収されました。

1476年9月8日、アランソン公ジャン2世は、67歳で、獄中で亡くなりました。

1909年4月18日、ローマ教皇ピウス10世は、生き方において、聖性を示していたジャンヌ・ダルクをカトリック教会の福者にしました。

1920年5月16日、教皇ベネディクトゥス15世は、ジャンヌ・ダルクをカトリック教会の聖人にしました。
ジャンヌ・ダルクを守護聖人とする記念日は、5月30日です。

感想

「奇跡」と「葛藤」

日本では、1333年に鎌倉幕府が滅び、1336年から始まった室町幕府の時代の話で、南北朝時代の少し後になります。
日本でも、南北朝時代に南朝と北朝に分かれて、戦っていましたが、外国が参加することはありませんでした。

フランスは、アルマニャック派とブルゴーニュ派に分かれて、戦っていて、ブルゴーニュ派にイギリスが参加していました。
同じ国民、民族が分かれて戦うことは不幸でしかなく、外国のイングランドが参加することでより一層不幸が深まりました。
史実かどうかではなく、戦争とは悲惨なものであることは確かです。

文字も読めるし、書くこともでき、学ぶことができる人は、「奇跡」を起こしたジャンヌ・ダルク以上の人になれます。
シャルル7世は、「奇跡」を起こしたジャンヌ・ダルクを見殺しにしました。
例え、ジャンヌ・ダルクを聖人にしても、誰一人としてジャンヌ・ダルクのようにならないでしょう。

「奇跡」
ジャンヌ・ダルクが起こしたことは、「奇跡」です。

オルレアンは、ロワール川の北岸にあり、イングランド軍に囲まれています。
トゥーレル要塞は、オルレアンのロワール川の南岸にありますが、イングランド軍が占拠しています。
フランス軍は、トゥーレル要塞とオルレアンとをつなぐ橋をイングランド軍の侵攻を防ぐために、破壊しました。
オルレアンに残った人々に逃げ場はないということです。
イングランド軍は、トゥーレル要塞からオルレアンへつなげる橋を再建し、オルレアンを南側から攻撃しようとしています。
イングランド軍は、ロワール川の北岸にあり、オルレアンの東に約2kmにあるサン・ルー砦に兵を集結し、オルレアンを北側から攻撃しようとしています。
フランス軍は、サン・ルー砦を奪還し、ロワール川を渡り、ロワール川の南岸にあるトゥーレル要塞を攻撃し、勝利します。
フランス軍は、ランスをイギリス軍から奪還しました。
シャルル7世は、ランスで戴冠し、フランス国王となりました。

「葛藤」
シャルル7世は、フランス国王となった後も、戦いを続けるべきか?
ジャンヌ・ダルクは、戦いを続けるべきか?
兵士は、戦いを続けるべきか?
市民は、戦いを支持するべきか?
「したいこと」と「するべきこと」のずれが、葛藤を生み、罪の意識を生み、許されたいと感じるようになります。

戦いに勝った人が、戦いを止めて、優位に交渉するということはできるようで、できません。
ビギナーズラックでギャンブルで儲けた人が、ギャンブルを止めて、利益を得ることができないことに似ています。

敵を皆殺しにするのは現実的ではなく、戦いで戦争に勝利することはありません。
無条件降伏などの優位な和平交渉でのみ、戦争に勝利することができるということです。
太平洋戦争も、日本にポツダム宣言を受諾させたから、勝利できたということです。

ジャンヌ・ダルクは、教育を受けられず、文字も読めず、文章を書くこともできず、本も読めず、教養もなく、「神のお告げ」しかありませんでした。
ジャンヌ・ダルクは、教養がないから、神のみを信じることしかなかったのです。
ジャンヌ・ダルクが、教育を受け、文字を読むことができ、文章を書きことができ、歴史を学ぶことができたら、違った人生になっていたでしょう。

偉人たちの本や映画を通して、歴史を学ぶ価値があるということです。

ジャンヌ・ダルクの名言

ジャンヌ・ダルクの名言
  • 勇敢に進みなさい。そうすれば総てはうまくゆくでしょう。
  • 一度だけの人生。それが私たちの持つ人生すべてだ。
  • 私たちは一つの人生しか生きられないし、信じたようにしかそれを生きられない。
  • かけがえの無い人生、それが人間の持つ全てだ。それを信じて、私は生きていき、私は死んでいく。
  • 私はまったく怖くない。だって、これをするために生まれてきたのだから。
  • あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、死ぬことよりも悲しい。若くして死ぬことよりも。
  • 子どもたちが言っていたこと、それは真実を言う人々が時折捕まり絞首刑になってしまうと。
  • 私以外にこの国を救える者はありえません。
  • 行動することです。そうすれば神も行動されます。
  • 私たちが戦うからこそ、神様は勝利を与えて下さる。
  • 私がそこにいないのなら神は私をそこに行かせるでしょう。私がそこにいるのなら神は私を居させ続けるでしょう。
  • 神様がお言いつけになられたのだから、その通りにしなければならないと思いました。
  • 神の意志に背くことや罪だとわかっていることをやるのではなく、他のことをやって死にたい。
  • 私の行動を司る神の声を最初に聞いたのは私が13歳の時です。その時はすごく怖かった。

勇敢に進みなさい。そうすれば総てはうまくゆくでしょう。

成功した人は、勇敢に進んだ人です。
勇敢に進んだ人が、成功するとは限りません。
成功するためには、勇敢に進むだけではない、何かが必要です。
退職前の在職中に、勇敢に進み、何かを得て、仕事で成功させた経験はあるはずです。
退職後は、勇敢に進み、何かを得て、人生を終えたいです。

一度だけの人生。それが私たちの持つ人生すべてだ。

退職前までの人生は、一度だけで、終わっています。
退職後の人生は、一度だけで、これから始まります。
退職後の人生が、人生のすべてだということです。

私たちは一つの人生しか生きられないし、信じたようにしかそれを生きられない。

同じ人生はないです。
人生には、運、不運もありますが、決断が大きく影響します。

退職するのは1回です。
退職すべきと信じたから、退職したということです。

かけがえの無い人生、それが人間の持つ全てだ。それを信じて、私は生きていき、私は死んでいく。

同じ人生はないので、かけがいの無い人生です。
人間は、生まれてから、死ぬまでに、行うことが全てです。
何を信じようが、人は生きて、死んでいくのです。

私はまったく怖くない。だって、これをするために生まれてきたのだから。

恐怖と感じることを成し遂げることはできません。
成し遂げることができたことに対しては、恐怖よりも、他の何かを感じていたはずです。

あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、死ぬことよりも悲しい。若くして死ぬことよりも。

何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、悲しいですが、若くして死ぬことはないです。
未成熟な若者でも、成熟した大人でも、「死」に対して「何か」を期待し、自殺することはあります。
多くの自殺者を見てきた人は、自殺しても何も変わらないという現実を理解し、「死」に対して「何か」を期待することはありません。

子どもたちが言っていたこと、それは真実を言う人々が時折捕まり絞首刑になってしまうと。

真実を言う人々が、「捕まり絞首刑になる」ことはありません。
真実を言う人々が、「異動する」ことはあります。
異動した人々が、元に戻ることはありません。
異動させた権力者の周りは、思考を停止し、無批判に賛成する者する追従者ばかりになります。
異動させた権力者は、「裸の権力者」になります。

私以外にこの国を救える者はありえません。

国を救った人は、こういう思いで、行動した人だけです。

行動することです。そうすれば神も行動されます。

決意をしても、行動しない限り、何も起きません。
何かが起きたのなら、神に感謝しても良いのではないでしょうか。
ブログを書かなければ、アクセスも増えません。

私たちが戦うからこそ、神様は勝利を与えて下さる。

戦わなければ、勝利は得られません。
戦わなければ、負けるだけです。
戦っても、勝利が得られるとは限りません。
誰と、いつ、何と、どこで、なぜ、どのように戦うかが重要です。
退職後に、誰と、いつ、何と、どこで、なぜ、どのように戦うことになるのか、勝利は得られるのか、興味はあります。

私がそこにいないのなら神は私をそこに行かせるでしょう。私がそこにいるのなら神は私を居させ続けるでしょう。

「行くべき場所」や「いるべき場所」は、どうして決めたのかは、直感や感覚で、説明はできないことも多いです。
神が「行くべき場所」、「いるべき場所」を決めたと、考えることもあるでしょう。
「行くべき場所」、「いるべき場所」もわからずに、ブログを書いています。
ブログを書き続けるうちに、「行くべき場所」、「いるべき場所」を理解できるようになるかもしれませんし、後悔するだけかもしれません。

神様がお言いつけになられたのだから、その通りにしなければならないと思いました。

「何をしたいのか」は、どうして決めたのかは、直感や感覚で、説明はできないことも多いです。
神様が「何をしたいのか」を決めたと、考えることもあるでしょう。
「何をしたいのか」を理解し、行動するということです。
「何をしたいのか」を理解せずに、行動すると、後悔することになります。

神の意志に背くことや罪だとわかっていることをやるのではなく、他のことをやって死にたい。

「神の意志」と「自分の意志」の違いはあるのか?
「意志」は、どこからくるのかもわかりません。
「何かをしたい」とは思いますが、「死にたい」とは思いません。

私の行動を司る神の声を最初に聞いたのは私が13歳の時です。その時はすごく怖かった。

13歳は、中学1年生か、中学2年生です。
中学1年生か、中学2年生の頃に、将来の夢を決めたら、覚悟が必要ですし、将来が狭まることにもなりかねませんし、怖いと感じるでしょう。
若くして成功している人々は、4歳くらいから、将来の夢に取り組んだ人はいます。
中学1年生か、中学2年生の頃に、将来の夢を決めても、早すぎるということはないです。

まとめ

ジャンヌ・ダルクは、恵まれた環境に生まれ育ってはいません。
このブログを読んでいるどの人よりも、恵まれない環境に生まれ育ちました。

ジャンヌ・ダルクは、文字を読むこと、書くこともできませんでした。
ジャンヌ・ダルクは、強い危機意識から、強い意志が生まれ、行動していたように感じました。
ブログを書きながら、色々調べましたが、ジャンヌ・ダルクのように生きた人はいません。
戦争中の王、領主、兵士や市民は、強い危険にさらされていました。
戦争中の王、領主、兵士や市民は、強い危機意識はなく、強い意思もなく、状況に反応して生きているようでした。
状況に反応して生きているだけの人々は、「運」、「不運」で人生が決まるように感じました。
人生は、「運」、「不運」で左右されるものです。
成功した人は、「運」、「不運」だけではないようにも感じています。

人生に対して中途半端に取り組み、「自分のしたいこと」をまだ見出していない気がします。
退職という危機を前にしても、危機意識は高くありません。
退職という危機に対して、準備をしてきたからかもしれません。
退職した後の自由に使える時間は、自分がこれからしたいことをするために使える貴重な時間だという意識で生きていきたいです。
貴重な時間だという意識から、何らかの意思が生まれたら、この意志に沿って行動して、生きていきたいです。

次回は、「希望をはこぶ人」と同じようなライトな自己啓発の小説で「夢をかねえるゾウ 1」について書く予定です。
ご期待ください。
以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

面白いと思った方は、クリックして、応援してね!
にほんブログ村 映画ブログへ

にほんブログ村 ライフスタイルブログ シニアのシンプルライフへ