映画「リンカーン」~あらすじ【ネタばれ有り】と感想

希望をはこぶ人」の中で、ジョーンズがアンディに読むように勧めた本の「リンカーン」について知りたいと感じました。
伝記は、登場人物が多く、長く、読むのは大変ですが、映画を見る方が簡単です。
いきなり伝記を読むより、映画を鑑賞しておくと、伝記も読みやすいです。
映画「リンカーン」を鑑賞し、レビューします。

南部は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言し、アメリカ連合国を名乗っています。
アメリカ合衆国は、北部になります。
アメリカ合衆国とアメリカ連合国が戦争しているという解釈はしません。
一つのアメリカ合衆国が、北部と南部に分かれていると解釈します。
北部の北軍と南部の南軍が戦争をしていると表現します。

基本情報・スタッフ

監督    スティーヴン・スピルバーグ
脚本    トニー・クシュナー
製作    スティーヴン・スピルバーグ
      キャスリーン・ケネディ
製作総指揮 ジョナサン・キング
      ダニエル・ルピ
      ジェフ・スコール
音楽    ジョン・ウィリアムズ
撮影    ヤヌス・カミンスキー
編集    マイケル・カーン
製作会社  リライアンス・エンターテインメント
      パーティシパント・メディア
      アンブリン・エンターテインメント
      ザ・ケネディ/マーシャル・カンパニー
公開    2013年4月19日
上映時間  150分
映倫    G
公式ホームページ

予告動画

舞台となる場所


サムター要塞は、サウスカロライナ州チャールストンの港に位置する石造りの要塞です。
南軍は、北軍が守るサムター要塞を攻撃し、勝利しました。
これが、南北戦争の最初の戦いとなりました。


ジェンキンス・フェリーの戦いの場所は、ジェンキンス・フェリー・バットルグラウンド州立公園となっています。


ペンシルベニア州ゲティスバーグは、ハノーヴァーの西側の道路が交差しているところにあります。


北部の首都ワシントンと南部の首都リッチモンドは、直線距離で約160km、東京駅と静岡駅くらいの距離で近いです。
バージニア州シティポイントは、ジェームズ川上流、南部の首都リッチモンドの南のホープウェル近くにあります。
バージニア州パンプトンローズは、ジェームズ川下流、ハンプトンとノーフォークの間にある海域で、ワシントンからは、南部の首都リッチモンドよりも、遠くにあります。


ホワイトハウスとアメリカ合衆国議会議事堂は近くにあります。
ここに流れている川がポトマック川で、南部とアメリカ合衆国の首都であるワシントンは、隣接していました。
南北戦争は、アメリカ合衆国の首都であるワシントンの近くで激戦が行われました。


フィッシャー砦(Fort Fisher)は、ノースカロライナ州ニューハノバー郡にあり、南部の最後の港であるウィルミントンの48km下流にあり、ウィルミントンを守っていました。
フィッシャー砦は、土と砂で造られていて、北軍の艦船からの激しい砲火も吸収するようになっていて、22門の大砲が大洋を向いており、25門が陸地を向いていました。


南部の最後の港であるウィルミントンです。


リンカーンは、アメリカ合衆国憲法修正第13条を下院議会で可決し、署名した後で、バージニア州ピーターズバーグの戦場を視察しました。
南部の首都リッチモンドの西側にあるバージニア州アポマトックスで南北戦争の最後の戦いが行われ、南軍は敗北しました。

あらすじ

1864年4月30日、北軍と南軍は、ジェンキンス・フェリーで激しい戦いが行われ、両軍ともに多数の死傷者を出しましたが、北軍が勝利する戦闘シーンで始まります。

1865年1月、リンカーンは、ウィルミントンへの攻撃に向かう兵士たちを見送ります。
兵士たちは、リンカーンがペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式において行ったゲティスバーグ演説を口頭で再現します。

リンカーンは、南北戦争に勝利する前に、アメリカ合衆国憲法修正第13条を下院議会で可決し、署名し、批准しなければなりません。
リンカーンは、北軍が南北戦争が勝利し、終結し、平和になったら、奴隷制度を廃止する意味はないと考えている多くの人々により、アメリカ合衆国憲法修正第13条を下院議会で可決することはできず、奴隷解放宣言は裁判所で無効とされ、奴隷は奴隷のまま、自由になった黒人も奴隷に戻されると感じているからです。
リンカーンは、南北戦争を続ける限り、冬が終わり、軍が街道を通れるようになれば、戦いが起きて、多くの若い国民が死ぬことも理解しています。

リンカーンは、早く南北戦争が終わる前に、より早くアメリカ合衆国憲法修正第13条を下院議会で可決させ、署名し、批准すると決めます。

リンカーンは、共和党のすべての下院議員がアメリカ合衆国憲法修正第13条に賛成しても、20票足りないことを理解しています。

リンカーンは、共和党のすべての下院議員をアメリカ合衆国憲法修正第13条に賛成させなければなりません。
共和党内は、奴隷解放には賛成だが、白人と黒人は平等ではないという、穏健派、左派の人もいます。
共和党内は、白人と黒人は平等だから、奴隷解放には賛成する、急進派、右派の人もいます。
共和党のすべての下院議員が、アメリカ合衆国憲法修正第13条に賛成票を投じる政策はありません。
リンカーンは、南部の使節団と和平交渉し、戦争を終わらせるという条件で、共和党内の穏健派、左派の下院議員をアメリカ合衆国憲法修正第13条に賛成させます。
つまり、リンカーンは、共和党の穏健派、左派の重鎮であるプレストン・ブレアの「南部の使節団と和平交渉する」という意見を極秘裏に受け入れます。
リンカーンは、プレストン・ブレアの「南部の使節団と和平交渉する」という意見を受け入れないことが、民主党に知られれば、民主党はアメリカ合衆国憲法修正第13条に反対すると判断しました。
リンカーンは、「南部の使節団と和平交渉する」ことを認めると、下院議会でアメリカ合衆国憲法修正第13条の採決は見送られ、下院議会でアメリカ合衆国憲法修正第13条の採決は否決されるということも理解しています。
リンカーンは、アメリカ合衆国陸軍総司令官ユリシーズ・S.グラント中将に、南部の和平使節団をワシントンには来させず、バージニア州パンプトンローズに待機させるよう伝え、下院議会には「わたしの知る限り、街に和平使節団はにいない。来るという予定もない」と伝えて、アメリカ合衆国憲法修正第13条の採決させます。
政府の代表であるリンカーンは、南部と交渉していず、政府関係者ではない、市民のプレストン・ブレアが極秘裏に交渉しているので「私の知る限り」と言っても虚偽には当たりません。
和平使節団はワシントンではない、バージニア州パンプトンローズに待機しているので、「街に和平使節団はにいない」と言っても虚偽には当たりません。
リンカーンは、和平使節団とワシントンではなく、バージニア州パンプトンローズで交渉する予定なので「来るという予定もない」と言っても虚偽には当たりません。

リンカーンは、共和党の急進派、右派の中心人物で下院議員であるタデウス・スティーブンスを説得することで、共和党内の急進派、右派の下院議員をアメリカ合衆国憲法修正第13条に賛成させます。

リンカーンは、民主党の20人の下院議員をアメリカ合衆国憲法修正第13条に賛成させなければなりません。

リンカーンは、「南部の使節団と和平交渉する」ということを知り、アメリカ合衆国憲法修正第13条を下院議会で可決できないと異議を唱える閣僚を説得しなければなりません。

1865年1月9日、下院議会で、アメリカ合衆国憲法修正第13条について討論を開始します。

1865年1月11日、南部の使節団が、バージニア州ピーターズバーグ郊外に、北部と交渉するために来ます。

1865年1月12日、南部の使節団が、バージニア州シティポイントに停船しているリバークイーン号に乗り込みます。

1865年1月15日、リンカーンは、新年祝賀会を、ホワイトハウスで行います。
リンカーンは、共和党内の奴隷解放の急進派、右派である下院議員であるタデウス・スティーブンスを説得します。

1865年1月20日、ユリシーズ・S・グラント中将で、北軍総司令官は、南部の使節団と面談し、リンカーンに報告します。

1865年1月27日、下院議会で、タデウス・スティーブンスがアメリカ合衆国憲法修正第13条について意見を述べます。

1965年1月31日、下院議会で、アメリカ合衆国憲法修正第13条が採決されます。

1865年4月11日、リンカーンは、南部諸州の連邦復帰の構想を明らかにし、黒人の参政権を認めたいと演説しました。
この演説を聞いたジョン・ウィルクス・ブースは、リンカーン暗殺を決意しました。

1865年4月14日、金曜日(聖金曜日)午後10時頃、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは、フォード劇場で妻メアリーと「われらのアメリカのいとこ」の観劇中にジョン・ウィルクス・ブースから後頭部に銃撃を受けます。

1865年4月15日午前7時22分、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは、フォード劇場の向かいのウィリアム・ピーターソン宅で、56歳で亡くなります。
リンカーンは、暗殺された最初のアメリカ合衆国大統領になりました。

1865年3月4日、リンカーンの第二次大統領就任演説で終わります。

最後のセリフ

彼は歴史の人となった。

登場人物

登場人物は多く、判別できません。
登場人物の中で、ストーリーに関与するのは限られるので、リンカーンを中心にして、リンカーンとの関係で登場人物を理解します。

エイブラハム・リンカーンは、ダニエル・デイ=ルイスが演じる第16代アメリカ合衆国大統領です。
メアリー・トッド・リンカーンは、サリー・フィールドが演じるエイブラハム・リンカーンの妻です。
ロバート・リンカーンは、ジョセフ・ゴードン=レヴィットが演じるリンカーン夫婦の長男です。
ウィリー・リンカーンは、リンカーン夫婦の三男で、1862年2月20日、11歳で亡くなっています。
タッド・リンカーンは、ガリバー・マクグラスが演じるリンカーン夫婦の四男です。
エリザベス・ケックリーは、グロリア・ルーベンが演じるリンカーン家の黒人の家政婦で、元奴隷です。
ウィリアム・スレイドは、スティーヴン・ヘンダーソンが演じるリンカーン家の黒人の使用人ですが、元奴隷ではありません。

ウィリアム・スワードは、デヴィッド・ストラザーンが演じる国務長官です。
エドウィン・スタントンは、ブルース・マクギルが演じる北軍長官です。
ギデオン・ウェルズは、グレインジャー・ハインズが演じる海軍長官です。
ジェイムズ・スピードは、リチャード・トポルが演じる司法長官です。
ジョン・パーマー・アッシャーは、デイキン・マシューズが演じる内務長官です。
ウィリアム・フェッセンデンは、ウォルト・スミスが演じる財務長官です。
ウィリアム・デニソンは、ジェームズ・アイク・アイクリングが演じる郵政長官です。
ジョン・ヘイは、ジョセフ・クロスが演じるリンカーンの秘書です。
ジョン・ジョージ・ニコライは、ジェレミー・ストロングが演じるリンカーンの秘書です。

W・N・ビルボは、ジェームズ・スペイダーが演じるロビイストです。
ロバート・レーサムは、ジョン・ホークスが演じるロビイストです。
リチャード・シェルは、ティム・ブレイク・ネルソンが演じるロビイストです。

ジェームズ・アシュレイは、デヴィッド・コスタビルが演じる共和党の下院議員で、アメリカ合衆国憲法修正第13条の下院議会での調整委員で、責任者で、アメリカ合衆国憲法修正第13条を下院議会に提出します。

タデウス・スティーブンスは、トミー・リー・ジョーンズが演じる共和党でペンシルベニア州の下院議員で、白人と黒人は平等だから、奴隷解放に賛成する、急進派、右派の中心人物です。

プレストン・ブレアは、ハル・ホルブルックが演じる政治家ではなく、一般市民で、何でも言うことができますが、法的には何の意味を持ちませんが、保守的な反奴隷の党として共和党を設立した人で、保守的な共和党員の票を取りまとめることができます。
モンゴメリー・ブレアは、バイロン・ジェニングスが演じるプレストン・ブレアの兄で、1860年の大統領選挙でリンカーンを支持して、郵政長官に任命されますが、1864年9月に解任されたました。
エリザベス・ブレア・リーは、ジュリー・ホワイトが演じるモンゴメリー・ブレアの娘です。

リディア・スミスは、S・エパサ・マーカーソンが演じる共和党の下院議員です。
ベンジャミン・ウェイドは、ウェイン・デュヴァルが演じる共和党の下院議員です。
エイシャ・ヴィントナー・リットンは、スティーヴン・スピネラが演じる共和党の下院議員です。

スカイラー・コルファクスは、ビル・レイモンドが演じる共和党の下院議長です。

フェルナンド・ウッドは、リー・ペイスが演じる民主党議員で、アメリカ合衆国憲法修正第13条の反対派を主導します。
ジョージ・ペンドルトンは、ピーター・マクロビーが演じる民主党議員で、アメリカ合衆国憲法修正第13条の反対派のリーダーです。

アレクサンダー・コフロスは、ボリス・マクギヴァーが演じる民主党の下院議員ですが、選挙で落選していて、郵便局長の職を得るために、アメリカ合衆国憲法修正第13条に賛成するように説得されます。

クレイ・ホーキンスは、ウォルトン・ゴギンズが演じる民主党議員で、ペンシルベニア州の下院議員に当選確実ですが、リンカーンは、ペンシルベニア州の共和党のカーティン知事にアメリカ合衆国憲法修正第13条を下院議会で採決するまで、発表を遅らせ、ペンシルベニア州の下院議員で、奴隷解放に賛成する、急進派、右派の中心人物であるタデウス・スティーブンスからアメリカ合衆国憲法修正第13条に賛成するように説得されます。

ジョージ・イェーマンは、マイケル・スタールバーグが演じる民主党議員ですが、奴隷制度反対派で、リンカーンがアメリカ合衆国憲法修正第13条に賛成するように、「自分の心に問え」と説得します。

ウィリアム・ハットンは、デヴィッド・ウォーショフスキーが演じる民主党議員で、弟が戦死し、リンカーンは、心からのお悔やみを述べて、アメリカ合衆国憲法修正第13条に賛成するように努力します。

ユリシーズ・S.グラントは、ジャレッド・ハリスが演じるアメリカ合衆国陸軍総司令官で、中将です。
チャールズ・サムナーは、ジョン・ハットンが演じる共和党のマサチューセッツ州の上院議員で、奴隷解放に賛成する、急進派、右派の人物で、「すべての平等ではなく、法の前での平等です」ということにも納得しません。

サミュエル・ベックウィスは、アダム・ドライバーが演じるモールス信号の通信士です。

ジェファーソン・デイヴィスは、南部の大統領です。
アレキサンダー・スティーブンスは、ジャッキー・アール・ヘイリーが演じる南部の副大統領です。
R.M.T.ハンターは、マイケル・シフレットが演じる南部の前国務長官です。
ジョン・A・キャンベルは、グレゴリー・イッツェンが演じる南部の陸軍次官補です。

ロバート・E・リーは、クリストファー・ボイヤーが演じる南部の陸軍将軍です。

単語説明

南北戦争は、アメリカ合衆国が北部と南部に分かれて行われた戦争です。

北部は、23州(19の自由州、4の奴隷州)で構成され、総人口2200万人です。
北部に残った自由州は、カリフォルニア州、コネチカット州、イリノイ州、インディアナ州、アイオワ州、カンザス州、メイン州、マサチューセッツ州、ミシガン州、ミネソタ州、ニューハンプシャー州、ニューヨーク州、ニュージャージー州、オハイオ州、オレゴン州、ペンシルベニア州、ロードアイランド州、バーモント州、ウィスコンシン州です。
奴隷州でありながら、北部に残った境界州は、デラウェア州、ミズーリ州、ケンタッキー州、メリーランド州の4つの州です。
北部の大統領は、エイブラハム・リンカーンです。
北部の副大統領は、ハンニバル・ハムリンです。

北軍の軍服は、ダークブルーの短い上衣とペールブルーのズボンでした。

南部は、11州で構成され、総人口は奴隷を含め900万人です。
奴隷州の11州は、サウスカロライナ州、ミシシッピー州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州、バージニア州、ノースカロライナ州、アーカンソー州、テネシー州です。
南部の大統領は、ジェファーソン・デイヴィスです。
南部の副大統領は、アレキサンダー・スティーブンスです。

南部の戦闘旗の星は、上記11州に、ミズーリ州とケンタッキー州の分離主義者政府を加えた13個の星をデザインしています。

南軍の軍服は、グレーのチュニックにブルーのズボンでした。

北部の首都であるワシントンと南部の首都であるバージニア州のリッチモンドでした。

連邦議会が、自由州にするか、奴隷州にするかを決定していました。
1819年の段階では、アメリカ合衆国には、22の州があり、11が奴隷州、11が自由州で、バランスが取れていました。

ミズーリ協定は、ミズーリ州は奴隷州として認め、マサチューセッツ州からメイン州を自由州として独立させ、12の奴隷州と12の自由州としてバランスを取り、北緯36度30分以北に新たに設けられる州では奴隷制度は禁止するという協定です。

カンザス・ネブラスカ法は、「カンザス州とネブラスカ州が自由州・奴隷州のどちらになるかは住民の決定に委ねる」という法律で、ミズーリ協定を無効にする法律です。
カンザス州とネブラスカ州は、北緯36度30分以北に新たに設けられる州で、ミズーリ協定に従うなら、自由州です。

「血を流すカンザス」は、カンザスが州になる前に、自由州するために武装した人々と奴隷州にするために武装した人々がカンザスに流入し、自由州にするのか、奴隷州にするのかを巡って起きた紛争で、南北戦争の前哨戦ということになります。

ドレッド=スコット判決は、最高裁の見解としてミズーリ協定は憲法違反であり、アフリカ人の子孫が、奴隷であるか否かに拘らず、アメリカ合衆国の市民にはなれないとし、アメリカ合衆国議会は連邦の領土内で奴隷制を禁じる権限がないとした判決です。

アメリカ合衆国憲法修正第13条は、アメリカ合衆国内およびその法が及ぶ如何なる場所でも、奴隷を認めないとする法律で、以下のように記載されています。
第1節 奴隷並びに本人の意に反する労役は、犯罪への刑罰として当事者が正当に有罪宣告を受けた場合を除き、合衆国あるいは、その管轄に属する地域内にも存在してはならない。
第2節 議会は、この修正条項を適切な法律によって、施行する権限を有する。

ブレアハウスは、ホワイトハウスに隣接しているプレストン・ブレアの邸宅で、現在はアメリカ合衆国大統領迎賓館になっています。

ロビストは、特定の主張を有する個人または団体が、政策に影響を及ぼすことを目的として、私的な政治活動を行う人です。
この映画のロビストは、アメリカ合衆国憲法修正第13条を下院議会で可決することを目的として、私的な政治活動を行う人です。

ユークリッド原論は、紀元前3世紀ごろに古代エジプトのアレクサンドリアの数学者ユークリッドによって編纂されたと言われ、「自明の理」の一つとして「同じものに等しいものは、互いに等しい」とされ、1900年代に至るまで標準的な数学の教科書の一つとして使用されていました。

時代背景

インディアンを虐殺し、移住させ、土地を奪い、米国市民を入植させることで、西部の土地を奴隷州にするか、自由州にするかを決めて、アメリカ合衆国に編入していました。

1820年3月3日、ミズーリ協定が、アメリカ合衆国議会で、奴隷制擁護と反奴隷制の党派の間で成立しました。

1841年3月9日、アメリカ合衆国最高裁判所は、商船ラ・アミスタッド号に乗っているアフリカ人たちについては、もともとのアフリカ大陸からの移送が非合法であったと認定し、彼等は法的に奴隷ではなく、自由の身にあると認め、アフリカ人たちは故郷へ帰還しました。

1848年2月21日、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、「共産党宣言」を出版しました。

1853年1月3日、ソロモン・ノーサップは、長い奴隷生活から解放され、再び自由になりました。

1854年3月4日、カンザス・ネブラスカ法案は、上院本会議では、賛成37票、反対14票で可決されました。

1854年3月20日、共和党が、反奴隷制の政党として設立されました。

1854年5月22日、カンザス・ネブラスカ法案は、下院本会議では、賛成113票、反対110票で可決されました。
1854年5月30日、民主党のアメリカ大統領フランクリン・ピアースは、カンザス・ネブラスカ法案に署名して、カンザス・ネブラスカ法が成立し、ミズーリ協定は効力を失いました。

1854年7月6日、初めて共和党の党大会が、ミシガン州ジャクソンで開催され、綱領を採択し、新規獲得領土への奴隷制拡大に反対することを宣言するとともに、州の候補者名簿を採択し、共和党を結成しました。
民主党は、南部を中心に奴隷制を支持する政党でした。

1855年11月21日、チャールズ・ドーという自由州人が、カンザスで、奴隷制度擁護派の開拓者に撃たれ「血を流すカンザス」が始まりました。

1856年2月22日、共和党は、ペンシルベニア州ピッツバーグで、初めての全国大会を開き、正式に全国政党となりました。

1857年3月6日、最高裁判所は、ドレッド=スコット判決を下しました。

1860年11月6日、共和党のリンカーンは、南部州の支持を得ることなしに、米国大統領選挙に勝利しました。

1860年12月20日、サウスカロライナ州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。
1861年1月9日、ミシシッピ州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。
1861年1月10日、フロリダ州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。
1861年1月11日、アラバマ州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。
1861年1月18日、ジョージア州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。
1861年1月26日、ルイジアナ州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。

1861年1月29日、カンザスは、自由州として認められ、「血を流すカンザス」は終わりました。

1861年2月1日、テキサス州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。

1861年2月8日、南部の首都は、アラバマ州モントゴメリーになりました。
南部の首都であるアラバマ州モントゴメリーで、南部の結成を宣言しました。

1861年3月4日、リンカーンは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1861年4月12日、南軍が、北軍のサムター要塞を攻撃し、南北戦争の最初の戦いであるサウスカロライナ州でサムター要塞の戦いが始まりました。
1861年4月14日、南軍が、北軍にサムター要塞で勝利しました。

1861年4月17日、バージニア州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。

1861年5月6日、南部の首都は、バージニア州のリッチモンドすると宣言されました。
1861年5月6日、アーカンソー州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。
1861年5月7日、テネシー州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。
1861年5月20日、ノースカロライナ州は、アメリカ合衆国からの脱退を宣言しました。

1861年5月29日、南部の首都は、バージニア州のリッチモンドになりました。

1862年9月22日、アメリカ合衆国大統領リンカーンは、第1部の奴隷解放宣言をしました。
1863年1月1日、アメリカ合衆国大統領リンカーンは、第2部の奴隷解放宣言をしました。
奴隷解放宣言について知りたい人は、「奴隷解放宣言」(1963年)を読むと良いでしょう。

1863年7月1日~3日、北軍と南軍は総力を結集し、ペンシルベニア州アダムズ郡近郊でゲティスバーグの戦いを行い、北軍が勝利しました。

1863年7月18日、北軍の黒人部隊第54マサチューセッツ志願歩兵連隊は、南軍が守るワグナー要塞へ先頭を切って攻撃しますが、失敗に終わりました。

1864年4月8日、アメリカ合衆国憲法修正第13条は、上院議員では、賛成38票、反対6票で可決されました。

1864年4月30日、北軍と南軍は、ジェンキンス・フェリーで激しい戦いが行われ、両軍ともに多数の死傷者を出しましたが、北軍が勝利しました。

1864年5月31日~6月12日、北軍の陸軍総司令官ユリシーズ・S.グラント中将は、南軍の陸軍将軍ロバート・E・リーが率いる部隊に攻撃し、惨敗しました。

1864年11月8日、共和党のリンカーンは、アメリカ合衆国大統領選挙で圧勝して、再選しました。
共和党は、下院議員選挙でも勝利しました。

1865年1月13~15日、北軍が、南軍が守るフィッシャー砦を攻撃し、陥落しました。

1865年1月31日、アメリカ合衆国憲法修正第13条は、下院議員では、3分の2を2票上回る、119対56(欠席および棄権が8)で可決されました。
8人の欠席および棄権がなければ、3分の2を上回るためには、123票が必要でした。

1865年2月1日、リンカーンは、アメリカ合衆国憲法修正第13条に署名し、成立しました。

1865年2月11~22日、北軍が、フィッシャー砦の48km上流にある南部の最後の港であるウィルミントンを陥落しました。

1865年4月9日、北軍と南軍は、バージニア州アポマトックス郡で戦い、南軍は敗北しました。
南軍の陸軍将軍ロバート・E・リーは、北軍の陸軍総司令官ユリシーズ・グラントに降伏し、南北戦争が終わりました。

1865年12月18日、アメリカ合衆国国務長官ウィリアム・ヘンリー・シーワードは、36州のうち27州の議会によりアメリカ合衆国憲法修正第13条が批准されたことが布告しました。

1865年12月24日、ネイサン・ベッドフォード・フォレストは、テネシー州プラスキにて、5人の南部連合の退役軍人と共に「クー・クラックス・クラン(KKK)」を設立しました。

1867年3月1日、ネブラスカは、州として認められました。

1876年、アメリカ合衆国南部諸州の人種差別的な州法の総称であるジム・クロウ法が制定され始めました。

1890年7月29日、ゴッホは、37歳で、フランスのヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズで、自ら命を絶ち、カフェ・ラボオーの一室で亡くなりました。
映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」

1896年5月18日、アメリカ合衆国最高裁判所は、7対1の判決により、列車、学校など社会のあらゆる領域で、「分離すれども平等」という白人と黒人を分離することを合法とする判決を下しました。

1955年12月1日、全国有色人種向上協会モンゴメリー支部書記を務めていたローザ・パークスは、アラバマ州モンゴメリーで市営バスの黒人優先席に座っていました。市営バスの運転手のジェームズ・ブレイクが、ローザ・パークスに後から乗車した白人のために席を空けるように指示したが、ローザ・パークスは指示に従いませんでした。ジェームズ・ブレイクは、警察に通報しました。警察は、ローザ・パークスを、運転手の座席指定に従わなかったという理由で逮捕し、保釈しました。モンゴメリー市役所内の州簡易裁判所は、ローザ・パークスに罰金刑を宣告しました。

1955年12月5日、キング牧師は、モンゴメリー市営バスへの乗車を拒否するモンゴメリー・バス・ボイコット運動を呼びかけて、始めました。

1956年4月10日、アサ・アール・カーター達は、アラバマ州バーミンガムにある劇場ザ・ガーディアンのステージ上で「Little Girl」を歌っているナット・キング・コールを襲撃しました。

1956年11月13日、連邦最高裁判所は、アラバマ州モンゴメリーの人種隔離政策に対して違憲判決を下しました。
1956年12月20日、モンゴメリー・バス・ボイコット運動は終了しました。

1963年8月28日、キング牧師は、20万人を超える大規模なワシントン大行進に参加し、リンカーン記念堂の前で有名な「I Have a Dream」という演説を行いました。

1964年6月21日、クー・クラックス・クラン(KKK)のメンバーが、ミシシッピー州フィラデルフィアで、3人の公民権運動家、黒人のジェムズ・チェイニー、ユダヤ人のアンドリュー・グッドマンとマイケル・シュワーナーを殺害しました。

1964年7月2日、アメリカ合衆国大統領リンドン・ジョンソンは公民権法を制定し、南部各州のジム・クロウ法は廃止となりました。

1964年12月10日、キング牧師にノーベル平和賞が授与されました。

1965年2月21日、マルコムXは、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でスピーチしているときに、殺害されました。

1965年3月7日、600名ほどの公民権運動家達がアラバマ州セルマを出発し、アラバマ州の州都モンゴメリーまで行進を続けることで、警官隊達が合衆国憲法違反をしたことをアピールしました。
アラバマ州知事ジョージ・ウォレスは、そのデモ行進が「公共の秩序を乱す恐れがある」としてこれを非難し、あらゆる手段を使ってデモの阻止を宣言し、州兵やダラス郡保安官達が無抵抗のデモ隊に対して棍棒や催涙ガス、鞭などを使ってセルマに追い返しました。

1967年7月23日、アルジェ・モーテル事件が発生しました。

1968年4月4日、キング牧師は、テネシー州メンフィスで殺害されました。

1991年3月3日、ロドニー・キングはロサンゼルス市内を運転中、スピード違反容疑で警察車両から停車を指示されますが、強盗罪で懲役刑を受けた後の仮釈放中だったので、再収監されることを恐れて逃亡し、警察による追跡により強制停車させられ、自動車から降ろされ、警官らに取り囲まれて、激しい暴行を受けました。

1992年4月末~5月、アメリカ合衆国のカリフォルニア州ロサンゼルスで大規模な暴動が起きました。

1995年3月16日、ミシシッピー州は、アメリカ合衆国憲法修正第13条を批准しました。
すべての州が、アメリカ合衆国憲法修正第13条を批准しました。

2009年1月1日、アメリカ合衆国のカリフォルニア州フルートベール駅で、グラントはケイティに呼び止められ、ある男がグラントに襲いかかってきました。BARTの鉄道警察隊がやって来て、事態の収拾ができなくなった警官たちは、グラントを銃撃しました。

2012年2月26日、自警団員のジョージ・ジマーマンが、フロリダ州のサンフォードで、黒人高校生トレイボン・マーティンを射殺しました。
Black Lives Matter運動が、起きました。

2017年8月12日、ジェイムズ・フィールズは、バージニア州シャーロッツビルで、白人極右集会に抗議する人たちの間に自動車で突入し、女性であるヘザー・ハイヤーを死亡させ、19人を負傷させました。

2020年5月25日、警察官デレク・ショーヴィンが、ミネソタ州ミネアポリス近郊で、黒人男性ジョージ・フロイドを不適切な拘束方法によって殺害しました。

アメリカ連合国陸軍将軍ロバート・E・リー像など公共の場にある記念碑を破壊し、撤去が行われました。
南北戦争が終わって、150年以上経過していますが、奴隷制度を忘れることはできません。

Black Lives Matter運動は、続いています。

リンカーンの生涯

リンカーンの父親は、トーマス・リンカーンで、ケンタッキー州で尊敬される比較的裕福な農民で、大工でした。
リンカーンの母親は、ナンシー・ハンクスで、バージニア州の奴隷を所有する大規模な農家の娘です。
リンカーンの母系の子孫には、俳優のトム・ハンクスがいます。
リンカーンの両親は、反奴隷制という考えの人です。

1786年、42歳のリンカーンの祖父であるエイブラハム・リンカーンは、畑を切り開いているときに、インディアンに襲われ殺されました。
リンカーンの父であるトーマス・リンカーンも危うく殺されるところでした。

1809年2月12日、リンカーンは、アメリカ合衆国の奴隷州であるケンタッキー州ラルー郡のシンキングスプリング農園で生まれ、祖父の名であるエイブラハム・リンカーンと名づけられました。
1811年、リンカーン一家は、リンカーンは2歳の時に、シンキングスプリング農園を所有する別の所有者によって追い出され、数マイル離れたノブ・クリーク沿の農園に引っ越しました。
1815年、リンカーン一家は、リンカーンは6歳の時に、ノブ・クリーク沿の農園を所有する別の所有者によって追い出されました。
1816年、リンカーン一家は、リンカーンは7歳の時に、奴隷のいない自由州であるインディアナ州スペンサー郡に移転しました。
奴隷を使う大農園とリンカーン一家のような奴隷を使わない小農園が、共存することができないからです。
1818年、リンカーンの母親が、リンカーンは9歳の時に、34歳で病死しました。
1819年、リンカーンの父親は、リンカーンは10歳の時に、3人の子を持つサラ・ブッシュ・ジョンストンと再婚しました。
サラは、リンカーンを自分の子供であるかのように育てました。

リンカーンは、従兄弟のデニス・ハンクスから「綴り方、読み、書き」を教えてもらいました。
リンカーンは、巡回教師から基礎教育を18ヶ月間受けただけです。
リンカーンは、本を読み、独学で全てを学びました。

1828年1月20日、19歳となったリンカーンの2歳年上の姉サラが21歳で亡くなりました。

1830年、リンカーン一家は、リンカーンは21歳の時に、インディアナ州スペンサー郡からイリノイ州メイコン郡の公有地に入植し、丸太小屋を建て、東京ドームよりやや小さい40,000 m²の土地を開墾し、柵を作り、トウモロコシを育てました。

1831年、22歳となったリンカーンは、仲間と共に、デントン・オファットの荷物をイリノイ州スプリングフィールドからルイジアナ州ニューオーリンズまで運ぶという仕事を手伝いました。
リンカーンは、ルイジアナ州ニューオーリンズで大規模な奴隷市場を始めてみました。
リンカーンは、イリノイ州ニューセイラムに戻り、デントン・オファットの雑貨屋の店員として雇われて、働きました。
リンカーンは、ニューセイラム討論クラブの集会に出席し、意見を述べて、注目されました。
1832年3月、23歳となったリンカーンは、政治家になるように勧められ、政治家になることを発表しました。
オファットの事業は失敗し、リンカーンは失業しました。

1832年5月14日、ブラック・ホーク戦争が勃発し、リンカーンは、志願兵として参加し、大尉になりました。
ブラック・ホーク戦争は、インディアン部族から領土を奪い、植民地とするための北米植民地戦争で、インディアン民族浄化戦争です。
1832年8月2日、ブラック・ホーク戦争が終わりました。
リンカーンは、生涯にわたり、インディアン徹底排除の方針を採り続け、数百万人もの大量虐殺し、絶滅を指揮しました。
これは、アメリカ合衆国にとって不都合な真実であるため、記録には残っていません。

1832年8月6日、リンカーンは、イリノイ州議会選挙のホイッグ党議員候補として出馬し、ニューセイラムでば支持を得るも落選しました。
リンカーンは、ニューセイラムの郵便局長に指名され、郵便局長になりました。
リンカーンは、測量の実際的技法や三角法の基礎を独学で学び、測量士としても働きました。

1834年8月4日、25歳となったリンカーンは、イリノイ州議会選挙のホイッグ党議員候補として出馬し、当選しました。

1836年2月、27歳となったリンカーンは測量士の仕事を辞めて、弁護士を目指し始めます。
1836年8月1日、リンカーンは、イリノイ州議会選挙ののホイッグ党議員候補として出馬し、当選しました。
リンカーンは、法案を作成する技能と法律用語を駆使する能力を認められ、法案の起草をしました。

1836年9月9日、リンカーンは、弁護士免許を取得しました。
1837年3月3日、27歳となったリンカーンは、イリノイ州議会で奴隷制度存続に反対票を投じました。
1837年4月15日、28歳となったリンカーンは、法廷弁護士として認められ、スプリングフィールドに引っ越して、イリノイ州最高裁判所で弁論を行える者として登録されました。
1838年8月6日、29歳となったリンカーンは、イリノイ州議会選挙ののホイッグ党議員候補として出馬し、当選しました。
1838年12月3日、リンカーンは、イリノイ州議会議長選挙に推薦されましたが、落選しました。

リンカーンは、内国改良計画法を支持し、成立しましたが、内国改良計画は失敗しました。
リンカーンは、イリノイ州の州都をスプリングフィールドにしようとしましたが、否決されました。後に可決され、イリノイ州の州都は、スプリングフィールドになりました。
リンカーンは、イリノイ州立銀行を設立しましたが、営業停止になりました。

リンカーンは、ケンタッキー州の州検察官からイリノイ州サンガモン郡では指導的な弁護士になった9歳年上のローガン共に、弁護士を務めて、法律に関する洗練された点や訴訟の適切で詳細な調査および訴訟準備の重要性を学び、最高裁判所図書館で過ごして担当している訴訟に当てはまる判例を研究しました。

1839年9月23日、30歳となったリンカーンは、第8司法巡回裁判所で弁護士を務め、大統領に選出されるまで続けました。

1840年8月3日、31歳となったリンカーンは、イリノイ州議会選挙ののホイッグ党議員候補として出馬し、当選しました。

1842年11月4日、33歳となったリンカーンは、23歳のメアリー・トッドと結婚しました。
1843年8月1日、34歳となったリンカーンに、長男のロバート・リンカーンが生まれました。

1844年8月5日、35歳となったリンカーンは、アメリカ合衆国のイリノイ州下院議員にホイッグ党議員候補として出馬し、落選しました。

1846年3月10日、37歳となったリンカーンに、次男のエディ・リンカーンが生まれました。

1846年8月3日、リンカーンは、アメリカ合衆国のイリノイ州下院議員にホイッグ党議員候補として出馬し、当選しました。

1848年8月7日、39歳となったリンカーンは、アメリカ合衆国のイリノイ州下院議員にホイッグ党議員候補として出馬しませんでした。

1849年、40歳となったリンカーンは、アメリカ合衆国下院議会にコロンビア特別区での奴隷制の廃止を開始するための法案を提案しました。

1849年3月4日、リンカーンは、アメリカ合衆国のイリノイ州下院議員の任期を終えました。

1850年、リンカーンは、国有地管理局長選挙に出馬しますが、落選します。
1850年2月1日、次男のエディ・リンカーンが、3歳で亡くなりました。
1850年12月21日、41歳となったリンカーンに、三男のウィリー・リンカーンが生まれました。

1853年4月4日、44歳になったリンカーンに、四男のタッド・リンカーンが生まれました。

1854年10月16日、45歳になったリンカーンは、ピオリアで奴隷制反対の演説をしました。

1854年11月7日、リンカーンは、アメリカ合衆国のイリノイ州下院議員にホイッグ党議員候補として出馬し、当選しました。

1855年2月8日、リンカーンは、アメリカ合衆国イリノイ州上院議員候補をして出馬し、落選しました。

1856年、47歳になったリンカーンは、共和党の結成に加わりました。

1856年6月17~19日、リンカーンは、共和党大会で副大統領候補の第2位となり、副大統領にはなれませんでした。

1858年11月2日、48歳となったリンカーンは、アメリカ合衆国イリノイ州上院議員選挙で共和党候補として出馬するが、落選しました。

1858年6月16日、リンカーンは、スプリングフィールドにおける共和党州大会で演説を行いました。

「(引用)この(奴隷制度)拡大運動はやむどころか、ますます昂じてきました。
思うに、この動きは、将来危機にまで押し進められ、それを切り抜けるまではやむことがないでしょう。
「分かれたる家は立つこと能わず」(マルコ伝3の25)、半ば奴隷、半ば自由の状態で、この国家が永く続くことはできないと私は信じます。
私は連邦が瓦解するのを期待しません。家が倒れるのを期待するものではありません。
私の期待するところは、この連邦が分かれ争うことをやめることです。それは全体として一方のものとなるか、あるいは他方のものとなるか、いずれかになるでしょう。
奴隷制度反対者が、奴隷制度のこれ以上の蔓延を阻止し、一般人心をして、それが究極には絶滅される運命にあると信じて、安堵せしむるか、あるいは奴隷制度擁護者が、奴隷制度を押し拡めてついには新旧各州に、また南北両地方において、奴隷制度を合法的とするにいたるか、そのいずれかでありましょう。
<高木八尺・斉藤光訳『リンカーン演説集』2018 岩波文庫 p.50-51, ISBN:4-00-340121-2>」

1860年11月6日、51歳となったリンカーンは、共和党大統領候補として出馬し、民主党候補を破り、第16代アメリカ合衆国大統領となりました。

1862年2月20日、53歳となったリンカーンは、ウィリー・リンカーンを、11歳で亡くしました。

1863年11月19日、54歳となったリンカーンは、ペンシルベニア州ゲティスバーグにある国立戦没者墓地の奉献式においてゲティスバーグ演説を行いました。

「(引用)八七年前、われわれの父祖たちは、自由の精神にはぐくまれ、すべての人はみな平等につられているという信条に捧げられた、新しい国家を、この大陸に打ち立てました。
現在われわれは、一大内戦争のさなかにあり、これによりこの国家が、あるいはまた、このような精神にはぐくまれ、このように捧げられたあらゆる国家が、永続できるか否かの試練を受けているわけであります。われわれはこの戦争の一大激戦の地で相会しています。われわれはこの国家が永らえるようにと、ここでその生命を投げ出した人々の、最後の安息の場所として、この戦場の一部を捧げるために来たのであります。われわれがこのことをすることはまことに適切であり適当であります。しかし、さらに大きな意味において、われわれは、この土地を捧げることはできません。聖め捧げることができませんー聖別することもできません。生き残っている者と戦死した者を問わず、ここで戦った勇敢な人々こそ、この場所を足すことも引くこともできない、われわれの貧弱な力をはるかに超越し、生き残った者、戦死した者とを問わず、ここで闘った勇敢な人々がすでに、この土地を聖め捧げたのでありまして、われわれの微力をもってしては、それに寸毫の増減も企てがたいのであります。われわれがここで述べることは、世界はさして注意を払わないでありましょう、永く記憶することもないでしょう。しかし、彼らがここでなしたことは、決して忘れ去ることはないのであります。ここで戦った人々が、これまでかくも立派にすすめて来た未完の事業に、ここで身を捧げるべきは、むしろ生きているわれわれ自身であります。われわれの前に残された大事業に、ここで身をささげるべきは、むしろわれわれ自身なのであります。それは、これらの名誉の戦死者が最後の全力を尽くして身命を捧げた偉大な主義に対して、彼らの後をうけ継いで、われわれが一層の献身を決意するため、これら戦死者の死をむだに終わらしめないように、われわれがここで堅く決心するため、またこの国家をして、神のもとに、新しく自由の誕生をなさしめるため、そして人民の、人民による、人民のための、政治を地上から絶滅させないため、であります。
<高木八尺・斉藤光訳『リンカーン演説集』2018 岩波文庫 p.178-179, ISBN:4-00-340121-2>」

ゲティスバーグ演説の全文を知りたい人は、ゲティスバーグ演説(1963年)を読むと良いでしょう。

1864年8月、リンカーンは、別荘からホワイトハウスへの途上で狙撃に遭い、銃弾が帽子を貫通しました。

1864年11月8日、リンカーンは、アメリカ合衆国大統領選挙で圧勝して、再選しました。

1865年3月4日、リンカーンは、第二次大統領就任演説を行いました。

「(引用)われわれがひたすら望み、切に祈ることは、この戦争という強大な笞(天からの惨禍)が速やかに過ぎ去らんことであります。
しかし、もし神の意志が、奴隷の二百五十年にわたる報いられざる苦役によって蓄積されたすべての富が絶滅されるまで、また笞によって流された血の一滴一滴に対して、剣によって流される血の償いがなされるまで、この戦争が続くことにあるならば、三千年前に言われたごとく、今なお、(われわれも)「主のさばきは真実にしてことごとく正しい」(詩編十九、九)といわなければなりません。
なんびとにたいしても悪意をいだかず、すべての人に慈愛をもって、神がわれわれに示し給う正義に堅く立ち、われわれの着手した事業を完成するために、努力をいたそうではありませんか。
国民の創痍を包み、戦闘に加わり斃れた者、その寡婦、その孤児を援助し、いたわるために、わが国民の内に、またすべての諸国民の間に、正しい恒久的な平和をもたらし、これを助長するために、あらゆる努力をいたそうではありませんか。<高木八尺・斉藤光訳『リンカーン演説集』2018 岩波文庫 p.186-187, ISBN:4-00-340121-2>」

1865年4月14日、ジョン・ウィルクス・ブースは、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンがフォード劇場で妻メアリー・トッド・リンカーンらと「われらのアメリカのいとこ」の観劇中に銃撃しました。

1865年4月15日午前7時22分、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンは、フォード劇場の向かいのウィリアム・ピーターソン宅で、56歳で亡くなりました。

1871年7月16日、トーマス・”タッド”・リンカーンは、18歳で亡くなりました。

感想

映画は、ゲティスバのーグ演説の再現で始まり、第二次大統領就任演説で終わります。

時代は古く、日本では幕末の時期に当たります。
幕末の日本では、少数の人々が密室で決定し、戦争で決着させました。
幕末の頃のことは、正確にはわからないので、教科書でさえ恣意的に記述されている状態です。
現在の日本は、少数の人々が首相を密室で決定し、形だけの総裁選挙を行うだけで、なぜ首相に選ばれたのかについては推測にすぎず、どのようなことが行われていたのかを知ることさえできません。
現在の日本は、法律について会議で議論せず、記録に残らず、強硬採決しているので、どのような議会工作をしているのかさえ分かりません。
日本は、幕末の頃と現在とで違いはなく、進歩も、進化もありません。

米国の政治と戦争に関する映画です。
日本とは違う米国の政治についての知識と、日本ではない米国の地理に関する知識が必要です。
リンカーンが置かれている政治状況と戦争状況を理解し、リンカーンが行ったことが理解できないと楽しめない映画です。
米国では、会議で議論し、記録し、採決しているので、正確に当時のことがわかります。

リンカーンの有名なゲティスバーグ演説と第二次大統領就任演説を知らないと何も感じることはできないです。
高木八尺・斉藤光訳『リンカーン演説集』を購入し、読んでみることをお勧めします。
映画を鑑賞するだけでは、理解できないので、分からないことは、分かるまで自分で調べる必要があります。
色々なことが理解できるようになると、リンカーンの何気ない一言一句が、名セリフになり、心に響きます。

議会工作は、理解できれば、楽しく鑑賞できます。

注目するシーンは、以下の三つです。
リンカーンがアメリカ合衆国大統領として持っている権力を駆使し、言葉で有権者、共和党の下院議員、民主党の下院議員、閣僚、南部の使節団を説得するシーンです。
下院議会での発言は、記録を基に忠実に再現されているので、下院議員が発言するシーンです。
下院議員が、下院議員でアメリカ合衆国憲法修正第13条に、賛成票、反対票を投じて採決するシーンです。

例えば、ジョリー夫人は、リンカーン大統領に、自分の意見を、空気を読まず、忖度することなしに、率直に自分の意見を述べています。
政策に対して自分の意見を持っている日本人はいるのか、首相に対して言えるのか、日本の首相は、有権者の政策に対する意見を聞き出すことができるのかと考えさせられるシーンです。

複雑な時代だからこそ、「我々は、始まりは等しい、それが原点だろ。差がない、それが公平さだ。それが正義だ」という原点に回帰するべき「今」観るべき映画です。

エイブラハム・リンカーンの名言

エイブラハム・リンカーンの名言
  • 人民の、人民による、人民のための、政治
  • 全ては本から学んだ。
  • 今日出来ることを、明日に残すな。
  • 準備しておこう。
    チャンスはいつか訪れるものだ。
  • 誰かが成功をおさめることが出来たということは、他の人にも同じ事ができるという証明である。
  • こうして人間に生まれてきたからには、やはり何か生きがいが感じられるまで生きている義務があろう。
  • 何歳まで生きたかは重要ではない。いかにして生きたかが重要だ。
  • 私がこの世に住んだがゆえに、少しだけ世の中が良くなったということが認められるまでは、生きていたいということだ。
  • あなたが転んでしまったことに関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ。
  • そのことはできる、それをやる、と決断せよ。
    それからその方法を見つけるのだ。
  • 君の決心が本当に固いものなら、もうすでに希望の半分は実現している。
    夢を実現させるのだという強い決意こそが、何にもまして重要であることを決して忘れてはならない。
  • 未来の一番いいところは、一度に一日しかやってこないことだ。
  • 未来を予測する最良の方法は、未来を創ることだ。
  • 歩みは遅いが、歩んだ道を引き返すことはない。
  • 人格は木のようなものであり評判はその影のようなものである。
    影とは、我々が人の性格をどう思うかということであり、木こそが本物である。
  • 投票は銃弾よりも強い。

人民の、人民による、人民のための、政治

「人民の、人民による、人民のための、政治」の実現は、困難な状況です。
人民のことを知らずに、票集めしかできない政治家ばかりになっています。
人民も政治のことはわからず、投票しない人が多数派になっています。
「民主主義は形だけでいいんだ」という結果になっています。

全ては本から学んだ。

読むことと、書くこと、計算することができれば、本を読むだけで学習することはできます。
教科書は、言葉で書かれている本で、読めばよく、分からないことがあれば調べるだけです。
教科書に書かれていることや教師に教えられたことを覚えて、試験で高得点を取り、良い学歴を手に入れて、良い職について、良い人生を送ることができるだけでは、偉人にはなれません。
偉人になるには、わからないことを、わかるまで努力しないとなれません。
「リンカーン」という映画を見ても、理解できないまま、低評価を下すだけでは駄目だということです。
「すべては映画から学んだ」と言えるようになりたいです。

今日出来ることを、明日に残すな。

明日という将来は、何が起きるかわかりません。
明日やろうとしていたことが、できなくなる可能性は十分にあります。
誰にでも、過去に「あれ」をやっておけばよかったと後悔していることはあるはずです。
このような後悔をしないようするためには、今日出来ることを、今日やるだけです。

準備しておこう。
チャンスはいつか訪れるものだ。

人の前には、多くのチャンスが訪れます。
人がつかむことができるチャンスは、準備していたチャンスだけです。
準備していないチャンスをつかもうとしても、挫折するだけです。
何かをしたいと思うなら、何かに向けて準備しなければ、何も得られません。

誰かが成功をおさめることが出来たということは、他の人にも同じ事ができるという証明である。

人は全てのことについて平等であるなら、誰かが成功をしたのなら、自分も成功できるということになります。
人にはもって生まれた環境や才能がありと考えるなら、誰かが成功しても、自分も成功できる保証はありません。
自分のもって生まれた環境や才能が不利になることはないことで、誰かが成功しているのなら、自分の努力次第で、成功できる可能性はあります。
何もしなければ、成功する可能性はありません。

こうして人間に生まれてきたからには、やはり何か生きがいが感じられるまで生きている義務があろう。

数を増やすだけの動物と生きがいを感じられる人間は違うということです。
収入を得て、結婚し、子供を産み、育てるのは、退職前までに終わっています。
退職後は、何か生きがいが感じられように生きる義務があるということです。
退職前から準備しなければ、退職後に何か生きがいが感じられように生きるチャンスをつかむことはできません。
「生きがい」というと何か大きなことを想像しがちですが、「生きがい」とは「自分のしたいこと」です。
自分のしたいことが、できないのでは、残念な人生だと言わざるを得ません。

何歳まで生きたかは重要ではない。いかにして生きたかが重要だ。

退職後は長生きはしたいですが、寝たきりのまま、長生きすることは重要ではないということです。
退職後に、「自分のしたいこと」をして、生きることは確かに重要です。
「自分のしたいこと」をするために、健康が大切です。
健康を失えば、「自分のしたいこと」ができなくなる可能性は高くなります。
退職直後が、「自分のしたいこと」ができる可能性が高い時期です。
死が近づいてからでは、「自分のしたいこと」ができる可能性は低いです。
退職前から「自分のしたいこと」の準備を始め、退職直後から「自分のしたいこと」を始めるべきです。

私がこの世に住んだがゆえに、少しだけ世の中が良くなったということが認められるまでは、生きていたいということだ。

人には、欲求があるということです。
マズローによると、生理的欲求、安全欲求、社会的欲求、承認欲求、自己実現欲求があるそうです。
生理的欲求は、生命の維持に不可欠な生きていく上で最低限の欲求です。
安全欲求は、病気や事故に対する欲求で、大人になれば満足させることができる欲求です。
社会的欲求は、友人、家族や組織から受け入れられていという欲求です。
承認欲求は、他の人から認められたいという欲求です。
自己実現欲求は、理想の自分になりたいという欲求です。
生理的欲求、安全欲求と社会的欲求は、程度の差こそありますが、多くの人は得ることができる欲求です。
さらに上の承認欲求を満たすように生きるべきだということです。
退職前は、組織の役職で承認欲求を満たすことはできます。
退職後は、承認欲求を満たすように生きる方法を自ら見つけなければならないので、大変です。
承認欲求から目を背けて、生きたいように、生きても、生きている気がしないということです。

あなたが転んでしまったことに関心はない。そこから立ち上がることに関心があるのだ。

人は生きている限り、挫折します。
挫折したままの人には、関心がないということです。
挫折し、どのように立ち上がったのかは、これから同じ挫折するかもしれない人には関心があるということです。
他の人が挫折から立ち上がったことをどれだけ知っているかで、人の能力も、生き方も変わってきます。
リンカーンのような偉人たちでさえも挫折はしているので、偉人たちの伝記や映画には価値があるということです。

そのことはできる、それをやる、と決断せよ。
それからその方法を見つけるのだ。

できることの中から、やるやることを決めたのなら、人は成長しませんし、自分のしたいこともできません。
自分のしたいことをできる、やると決断し、実現するための方法を考えるしか、自分のしたいことできるようにはなりません。
いきなり自分のしたいことを実現するのではなく、まずは準備から始めるとすれば、実現するための方法を考え易くなります。

リンカーンの映画を鑑賞して、リンカーンがアメリカ合衆国憲法修正第13条を可決すると決断し、それから方法を見つけているのが理解できるなら、映画を観た価値があります。

君の決心が本当に固いものなら、もうすでに希望の半分は実現している。
夢を実現させるのだという強い決意こそが、何にもまして重要であることを決して忘れてはならない。

希望や夢は、簡単には実現しません。
実現させるのだという強い決意が、希望や夢を実現するための困難を乗り越える力を与えてくれます。

リンカーンの映画を鑑賞して、アメリカ合衆国憲法修正第13条を可決できたのは、リンカーンの強い決意こそが、何にもまして重要であると感じることができるのなら、映画を観た価値があります。

未来の一番いいところは、一度に一日しかやってこないことだ。

未来のことを考えると、たくさんのことを思いつき、考えることが嫌になり、考えなくなります。
未来のことを考えないようになってはダメだということです。
確かに、未来にはたくさんのことが起きます。
しかし、たくさんのことが一度に来るわけではないのです。
未来は、明日の一日分がやって来るだけなので、明日のことからまずは考えることにするということです。
慣れてきたたら、1週間後、1ケ月後、半年後、1年後と期間を延ばして考えれば、未来のことについて考えられるようになるということです。

未来を予測する最良の方法は、未来を創ることだ。

未来を予測するするだけでは、予測が的中するかしないのかを左右することはできず、最良の方法ではないということです。
未来を予測し、未来を創ることができるなら、予測を的中させることができます。
未来を創れる範囲内で、未来を予測すれば、予測は的中します。
未来を創れる範囲を広げることが、未来を予測する方法です。

歩みは遅いが、歩んだ道を引き返すことはない。

人は、一日には長い人生の一日分だけしか歩けないので、遅く感じます。
人は、人生を引き返して、やり直すことはできないので、後悔は時間の無駄です。
人生に失敗して、やり直したいことはありますが、失敗からさえも何か学ぶことができれば、人生を引き返して、やり直す必要はありません。
毎日を大切に生き、失敗から学ぶことが重要です。

人格は木のようなものであり評判はその影のようなものである。
影とは、我々が人の性格をどう思うかということであり、木こそが本物である。

影は光の当て方により変わように、評判は人によって変わります。
人でさえ、人間関係によって変わります。
人の変わらない部分が、人格であるということです。
人間関係を維持しながら、人格を保つということは、できるようでできません。

映画のレビューは、映画の影のようなものであり、映画こそが本物であるということになります。
映画を観た人によって映画のレビューは変わりますが、映画は変わりません。

投票は銃弾よりも強い。

有権者や議員が自由に投票するなら、投票は銃弾より強いということです。
反対の人も、投票結果に従って、生きるからです。
投票は、人や社会の将来を左右します。

銃弾は、人を殺したり、傷つけたりします。
死んだ人や傷ついた人が、生きている人や社会に影響を与えることは少ないです。

リンカーンが、南北戦争で勝っても、アメリカ合衆国憲法修正第13条を可決することはできません。
投票こそが、アメリカ合衆国憲法修正第13条を可決し、アメリカ合衆国の将来を変えました。

日本では、密室で決められ、党議拘束があり、自由投票することができないので、投票自体に意味はないのが現状です。

まとめ

リンカーンは、恵まれた環境に生まれ育ってはいません。
このブログを読んでいるどの人よりも、恵まれない環境に生まれ育ちました。
文字を読むこと、書くこと、計算する程度は教えてもらいましたが、測量士、弁護士、政治家になるためには、本を読み独学で学びました。
独学で学ぶということは、教えてもらうことはもちろん、質問しても、答えてくれる人もいませんし、分からなければ、分かるようになるまで、学び続けるということです。
リンカーンは、分かるまで学び続けた結果、本質を理解し、自分のしたいことであるアメリカ合衆国憲法修正第13条に著名することができました。
リンカーンの知識が豊富なのは、たくさんの本を読んで、理解しているからです。
リンカーンは、知識として暗記しているだけでなく、理解しているから、知識を適切なタイミングで応用することができるということです。
リンカーンは、失敗をたくさんしていますが、失敗さえからも学んでいます。
リンカーンから何かを学び、実践できれば、人生を変えられるような気持になり、良い気分です。
エイブラハム・リンカーンについてもっと知りたい人は、エイブラハム・リンカーン 自由という遺産を読むと良いでしょう。

次回は、映画「ジャンヌ・ダルク」のレビューを書く予定です。
ご期待ください。
以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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