映画「ファースト・マン」~あらすじ【ネタばれ有り】と感想

夢をかなえるゾウ2」の中で、出てきた「ニール・アームストロング」について知りたいと感じました。
映画「ファースト・マン」を鑑賞ました。

この映画を鑑賞し、さらに詳しく知りたい人は、この映画の原作となった「ファースト・マン : 初めて月に降り立った男、ニール・アームストロングの人生」を読んでみることをお勧めします。

基本情報・スタッフ

監督    デイミアン・チャゼル
脚本    ジョシュ・シンガー
原作    ジェームズ・R・ハンセン
      「ファーストマン: ニール・アームストロングの人生」
製作    ウィック・ゴッドフリー
      マーティ・ボーウェン
      アイザック・クラウスナー
      デイミアン・チャゼル
製作総指揮 スティーヴン・スピルバーグ
      アダム・メリムズ
      ジョシュ・シンガー
音楽    ジャスティン・ハーウィッツ
撮影    リヌス・サンドグレン
編集    トム・クロス
製作会社  ユニバーサル・ピクチャーズ
      アンブリン・エンターテインメント
      ドリームワークス・ピクチャーズ
      テンプル・ヒル・エンターテインメント
      パーフェクト・ワールド・ピクチャーズ
      ファンタズマ
配給    ユニバーサル・ピクチャーズ
      東宝東和
公開    2019年2月8日
上映時間  141分
映倫区分  G  

予告動画

舞台となる場所


ニール・アームストロングは、エドワーズ空軍基地に勤務し、X-15に搭乗しました。


ニール・アームストロングは、エドワーズ空軍基地の東にあるカリフォルニア州モハーヴェ砂漠にX-15を不時着させました。


ニール・アームストロングは、エリントン空軍基地で、ジェミニ計画の宇宙飛行士になる面接が行われました。


ニール・アームストロングは、ヒューストンNASA、ジョンソン宇宙センターで、宇宙飛行士になる訓練を受けました。


マーキュリー計画、ジェミニ計画などの初期のミッションで使用されたロケットは、ケープカナベラル空軍基地から打ち上げられました。
アポロ計画のサターンロケットは、ケネディ宇宙センター第39発射施設から打ち上げられました。


ジェミニ8号が着水した場所は、北緯13度19分 西経169度9分でグアムの西の海です。

あらすじ

ニール・アームストロングは、B-52に搭載され、高度13.7km空中発射し、ノース・アメリカンX-15のジェットエンジンに点火し、姿勢制御装置を試験するために飛行していたときのこと、高度63kmまで上昇したとき、機首を下げるタイミングがわずかに遅れ、機体はコントロールを失い、高度43kmまで急降下したが、予定された着陸地点の上空30.5kmをマッハ3で通り過ぎ、エドワーズ空軍基地から72kmも離れた場所まで飛び去って、安全な高度まで降下させ、無事に着陸することに成功しました。
この飛行は、12分28秒07という飛行時間と高度63kmという到達距離において、X-15の最長不倒記録です。
1961年、カリフォルニア州モハーヴェ砂漠に着陸しました。

ニール・アームストロングの長女カレンは、脳腫瘍の放射線治療のために、嘔吐し、免疫力が低下し、肺炎のため死亡しました。

NASAジェミニ計画 宇宙飛行士選考
エリントン空軍基地
1962年8月13日
ニール・アームストロングは、直接降下方式は採用されずに、月周回ランデブー方式を採用したことについての意見と宇宙飛行士になる動機を質問されれ、答えました。
ニール・アームストロングは、ジェミニ計画の宇宙飛行士に採用されました。

ヒューストン
月周回ランデブー方式が、アニメで説明されます。

NASA
アメリカ合衆国が、ソ連に人工衛星の打ち上げ、有人地球周回飛行で遅れ、月面着陸で、名誉を挽回しようとしています。

多軸訓練装置
1964年4月23日
宇宙は真空で空気抵抗はなく、無重力で回転しやすく、ジェミニ計画、アポロ計画で使用する宇宙船は、回転しやすく、回転を止めにくい形状をしていました。
宇宙飛行士は、回転が始まっても対応できるように、訓練が行われていました。
現在の宇宙船の形状は、回転しにくい形状、制御システムのおかげで、このような訓練は行われていません。

1965年
1965年3月18日、ソ連のアレクセイ・レオーノフは、ボスホート2号から人類初の宇宙遊泳を約20分間行ないました。
アメリカ合衆国が、ソ連に宇宙遊泳でも後れることになりました。

ジェミニ5号
ニール・アームストロングは、ゴードン・クーパーによって初めてバックアップとして指名されました。

19番 発射台
フロリダ州ケープ・ケネディ
1965年8月21日
船長はゴードン・クーパー、搭乗員はピート・コンラッドを乗せて、ジェミニ5号が打ち上げられました。
ジェミニ5号は、燃料電池を電源として使用し、月飛行計画のために、最長の8日間の宇宙滞在を目指しました。

1966年2月28日、エリオット・シーとチャールズ・バセットは、事故死しました。

ジェミニ8号
1966年3月16日、船長はニール・アームストロング、搭乗員はデイヴィッド・スコットを乗せて、ジェミニ8号が打ち上げられました。
ジェミニ8号は、アジェナ標的機にランデブーし、ドッキングし、船外活動を行う予定でした。

管制センター
テキサス州ヒューストン
ジェミニ8号は、姿勢制御ロケットで姿勢を制御され、アジェナ標的機にランデブーし、ドッキングしました。
デイヴィッド・スコットは、姿勢指示器により、水平より30度傾いてことに気が付きました。
ニール・アームストロングは、アジェナ標的機を切り離しましたが、ジェミニ8号の姿勢を制御できませんでした。
デイヴィッド・スコットは、軌道変更をしていないのに、軌道変更用燃料が13%にまで減っていることに気が付き、問題はジェミニ8号にあることに気が付きました。
ジェミニ8号は、危険な回転を始めました。

海軍ミサイル追跡艦(CSQ)
西太平洋
8号交信復活、3秒前
ジェミニ8号は、回転速度270で上昇中、このままだとあと40秒ほどで気を失う状態になりました。
ニール・アームストロングは、RCS(再突入制御システム)を使用して、ジェミニ8号の姿勢を制御しました。
ジェミニ8号は、飛行を中止し、着地に向けて、操作し、着水しました。

ジェミニ8号
帰還後 記者会見
1996年3月26日
ボブ・ギルルースは、「ランデブーとドッキングは、完璧でした」と記者たちに伝えました。
記者たちは、ニール・アームストロングに質問を浴びせかけます。

任務評価
1996年4月1日
誤作動後の経緯を報告し、ミスはなかったという結論になります。

アポロ 宇宙船最終テスト
1967年1月27日
船長はガス・グリソム、副操縦士はエドワード・ホワイト、搭乗員はロジャー・チャフィーを乗せて、アポロ1号のプラグ切り離し試験に失敗し、死亡しました。

ホワイトハウス
同時刻
ニール・アームストロング達は、ホワイトハウスで「宇宙空間の探求及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」の調印式に立ち会っていました。
ニール・アームストロングは、アポロ1号のプラグ切り離し試験に失敗しことを伝えられます。

1968年
月面着陸 訓練機
ニール・アームストロングは、月面着陸の訓練機で制御不能になり、射出シートで、脱出します。
アメリカ合衆国の国民は、宇宙計画に対して、反対の声を上げるようになりました。
ニール・アームストロングは、アポロ11号で月面着陸の船長を依頼され、引き受けます。

アポロ11号
飛行前 記者会見
1969年7月5日
ニール・アームストロングは、冷静に記者たちの質問に回答します。
ニール・アームストロングは、妻ジャネットに言われ、冷静に子供たちと向き合い、子供たちに戻らない場合の覚悟を伝えます。

ボブ・ギルルースとディーク・スレイトンは、ニール・アームストロング達が戻れない場合の声明文を用意し、覚悟を決めます。
もし、ニール・アームストロング達が月面着陸に失敗した場合、生きていたとしても、助けることはできません。

フロリダ州ケープ・ケネディ
1969年7月16日
アポロ11号が、ニール・アームストロング達を乗せて、月へと向かいます。

ミッション4日目
76時間43分37秒
ニール・アームストロング達は、月周回軌道上に達し、司令船(コロンビア)から月着陸船(イーグル)が月面に降下します。
ニール・アームストロング達は、月着陸船(イーグル)で月面に着陸します。

隔離施設
有人宇宙センター
1969年7月27日
ニール・アームストロング達は、地球に帰還し、隔離されています。
ジャネットは、ニール・アームストロングと再会します。

登場人物

ニール・アームストロングは、ライアン・ゴズリングが演じるX-15でミスをしたが生還し、娘の病死をきっかけに、ジェミニ計画の宇宙飛行士に民間人として応募し、採用され、ジェミニ8号、アポロ11号の船長で、月面に到達した世界初の人物となった宇宙飛行士で、妻はジャネットで、長男はリック、長女はカレン、次男はマーク、弟はディーンです。

ジョー・ウォーカーは、ブライアン・ダーシー・ジェームズが演じるニール・アームストロングの上司で、X-15の飛行を最初に成功させたパイロットです。

チャック・イェーガーは、マシュー・グレイヴが演じる世界で初めて音速を超え、X-15でミスをしたが生還したニール・アームストロングに、否定的な評価をします。

ジャネット・アームストロングは、クレア・フォイが演じるニールの妻で、ジャンと呼ばれ、娘の病死やニールの危険な訓練や宇宙飛行にストレスを抱えています。

エリオット・シーは、パトリック・フュジットが演じるジェミニ計画の宇宙飛行士に民間人として応募し、採用され、ニール・アームストロングで、ニール・アームストロングと共にジェミニ5号のバックアップクルーを務めた後、ジェミニ9-A号の船長に任命されますが、訓練中の事故で死亡します。

ディーク・スレイトンは、カイル・チャンドラーが演じるマーキュリー・セブンの一人に選出された宇宙飛行士で、心臓の病気により、飛行士育成部門の責任者になっています。

ボブ・ギルルースは、キアラン・ハインズが演じるNASAの有人宇宙船センターのファースト・ディレクターで、ディーク・スレイトンの上司です。

エド・ホワイトは、ジェイソン・クラークが演じるニール・アームストロングの向かいの家に住み、妻はパトリシアで、息子はエディ、娘はボニー、ニール・アームストロングの友人で、ジェミニ4号のパイロットとして、アメリカ人初の宇宙遊泳を行い、アポロ1号の副操縦士に選ばれました。

パトリシア・ホワイトは、オリヴィア・ハミルトンが演じるエド・ホワイトの妻で、パットと呼ばれています。

ガス・グリソムは、シェー・ウィガムが演じるマーキュリー・セブンの一人で、ジェミニ3号で船長を務め、アポロ1号の船長です。

バズ・オルドリンは、コリー・ストールが演じるジェミニ12号のパイロットとアポロ11号の月着陸船パイロットをを務めます。

デイヴ・スコットは、クリストファー・アボットが演じるニール・アームストロングと共にジェミニ8号に乗ったパイロットです。

ジェームズ・ラヴェルは、パブロ・シュレイバーが演じるジェミニ4号のバックアップクルーで、ジェミニ7号のパイロットで、アポロ11号のバックアップクルーです。

マイケル・コリンズは、ルーカス・ハースが演じるジェミニ10号で宇宙飛行を行い、アポロ11号の司令船パイロットです。

ピート・コンラッドは、イーサン・エンブリーが演じるジェミニ5号のパイロットで、ジェミニ8号のバックアップクルーです。

ロジャー・チャフィーは、コーリー・マイケル・スミスが演じるジェミニ3号とジェミニ4号の宇宙船通信担当官で、アポロ1号の搭乗員です。

マリリン・シーは、クリス・スワンバーグが演じるエリオット・シーの妻です。

リック・アームストロングは、ギャヴィン・ウォーレン(幼年期)、ルーク・ウィンターズ(少年期)が演じるアームストロングの長男です。

カレン・アームストロングは、ルーシー・ブロック・スタッフォードが演じるアームストロングの長女で、脳幹腫瘍になり、放射線治療を受け、副作用により嘔吐し、免疫力の低下により、肺炎により2歳で、亡くなりました。

マーク・アームストロングは、コナー・コルトン・ブロジェットが演じるアームストロングの次男です。

単語説明

B-52は、アメリカ合衆国の戦略爆撃機で、最大搭載量は31,751kgもあり、X-15を主翼の下に取り付け、離陸し、44600フィート(13.6km)まで上昇し、X-15を切り離します。

X-15は、全長15.99 m、全幅6.8 m、全高3.55 m、自重8,320 kgで、ロケットエンジンにより、空気の薄い高高度まで上昇でき、極超音速下で飛行できます。
X-15の最高高度は354199フィート(108km)で、最大速度はマッハ6.7(7,274km/h)です。

44600フィートは、13.6kmです。

マッハ3.5は、時速4287.7km/hです。

14万フィートは、42kmです。

宇宙は、大気がわずかでもなくなる高度100km以上です。

フラップは、下げるこことで、飛行機の浮力を増大させせる装置です。

放射線治療は、がん細胞に放射線をあてることにより、がん細胞のDNAに損傷を与え、がん細胞を殺す治療方法ですが、がん細胞ではない細胞も殺してしまい、嘔吐や免疫力の低下が起きます。

ハロルド・ジョーンズ博士は、カナダのサスカチュワン州でコバルト60による放射線療法の先駆者です。

ジェミニ計画は、NASAが月周回ランデブー方式で月面着陸を目指すアポロ計画で必要となる、月に行って帰ってくるまでに必要とされる期間の宇宙滞在を達成し、月面での作業を想定し宇宙遊泳によって宇宙船の外に出て活動を行い、軌道上でランデブーとドッキングの実行をする際に必要となる新技術を開発し、検証する宇宙計画です。

VTOL機は、垂直離着陸機のことで、全く滑走しないで垂直方向に離着陸する航空機か、短い距離で離着陸する航空機のことです。
具体的には、V-22オスプレイやF-35Bライトニング IIのことです。

デルタ翼機は、三角翼機とも呼ばれ、加速性や高速域での運動性に優れた、高亜音速から超音速飛行に向く機体になります。
具体的には、ユーロファイター タイフーン、F-102やミラージュIIIのことです。

直接降下は、単体の宇宙船で月に向かい、月面に降下し、着陸し、月面から離陸し、地球に帰還するという方式です。

月周回ランデブーは、司令船と月着陸船(下降段と上昇段)で月に向かい、司令船は月周回軌道上で待機し、月着陸船(下降段と上昇段)が月面に降下し、着陸し、月面活動を行い、月着陸船(上昇段)が月面から離陸し、司令船は月周回軌道上で月着陸船(上昇段)とランデブーし、ドッキングし、乗組員は、司令船に移動し、月着陸船(上昇段)を切り離し、司令船だけが地球に帰還します。

ランデブーは、宇宙空間において2機の宇宙船が速度を合わせ、同一の軌道を飛行し、互いに接近することです。

ドッキングは、宇宙空間において2機の宇宙船が結合し、1機の宇宙船になることです。

大気圏は、大気がわずかでも存在する高度100km以下です。

ジュール・ヴェルヌは、フランス人で、19世紀のSF小説家です。

コロンブスは、イタリア人で、13世紀の探検家で、アメリカ大陸を発見したとされています。

サンタ・マリア号は、1492年、コロンブスが初の大西洋横断航海に使用した3隻の帆船のうちの最大の船です。

スプートニク1号、2号は、ソ連の世界初の人工衛星です。

ボストークは、ガガーリンを宇宙に打ち上げたロケットです。

ガガーリンは、ソ連の世界初の宇宙飛行士で、地球周回軌道上を飛行しました。

アポロ計画は、ジェミニ計画によって得られた新技術を使用することで、人類を初めて有人宇宙船により月に到達するという宇宙計画です。
ジェミニ計画では、タイタンIIロケットを使用します。
タイタンIIロケットは、全高31.4m、直径3.05m、重量 154トンで、2段式です。
アポロ計画では、サターンVロケットを使用します。
サターンVロケットは、全高110.6m、直径10.1m、重量 3,038トンで、3段式です。

多軸訓練装置は、地球ゴマの中に固定され、ランダムに回転する中で、姿勢制御する操縦訓練を行う装置です。

ロケット推進の原理は、ゴム風船にいっぱい空気を吹き込んでから手を離すと、風船は空気を吹き出しながらゴム風船が進むのと同じ原理です。
ロケットは、エンジンの中で高圧の燃焼ガスを大量に作って、それを後方に高速で噴射することによって、前方に対する推進力を得ています。

アウト・オブ・ザ・ムーンは、レス・バクスター、ハリー・レヴェルとサミュエル・ホフマンによって録音され、1947年4月に発売されたレコードで、ニールアームストロングがアポロ11号で月から地球に向かう途中で演奏された曲としても有名です。

ギルバート&サリヴァンは、19世紀にウィリアム・S・ギルバートと作曲家のアーサー・サリヴァンが劇作を製作するために組んだパートナーシップです。

エジェロック(EGELLOC)は、大学(COLLEGE)のスペルの逆です。

宇宙遊泳は、宇宙服を着た宇宙飛行士が宇宙船の外に出て活動することです。
月面で宇宙飛行士が活動するためには、宇宙遊泳できる技術が必要です。
EVAは、ExtraVehicular Activityの略語です。

カストルとポルックスは、ふたご座の恒星です。

ウィスコンシン州は、アメリカ合衆国の中西部の最北に位置する州で、五大湖地域です。

この時代に世界で2番目に長いつり橋は、アメリカ合衆国サンフランシスコにあるゴールデンゲートブリッジで、海面からの高さは67mです。

アジェナは、ランデブーとドッキングを試験するために打ち上げられた、無人の標的機です。
月周回軌道上で司令船が月着陸船とランデブーし、ドッキングしするための試験です。

アトラスは、アジェナを打ち上げるロケットです。

Sバンドは、通信に使用する周波数帯域で、マイクロ波を使用するので、Shortバンドと呼ばれています。

アーミーナイフは、軍事目的で制作された多機能なナイフです。

短波は、通信に使用する周波数帯域で、3-30MHzの周波数の電波を使用します。
HFは、High Frequencyの略語です。

プレバルブは、燃料バルブで、信頼性向上のために取り除かれます。

ロールプログラムは、ロケットのロールを制御するプログラムです。
ピッチプログラムは、ロケットのピッチを制御するプログラムです。
ロールは、ロケットの中心に前後に動くことです。
ピッチは、ロケットの中心に左右に動くことです。
ヨーイングは、ロケットの中心に回転することです。

DCSは、Data Collecting Systemの略で、海上の観測システムから宇宙船に伝送する観測データを収集し、宇宙船に対する操縦司令を送るシステムです。

ステージングは、ロケットエンジンの切り離しをすることです。

燃料電池は、水素酸素燃料電池で水素と酸素のもつ化学エネルギーを電気エネルギーに変換します。

Vrは、Voltage Relay(電圧継電器)の略で、電圧の大きさが設定値になると動作する継電器です。

1フィートは、30.48cmです。

クローズドループは、位置決め制御方式で、制御装置からの出力信号によって制御された宇宙船の移動量のデータを制御装置にフィードバックし、入力値と出力値を常に比較して両社を一致させるように宇宙船の操作量を調整する制御します。

クロンカイトは、CBSの看板番組であり「アメリカのテレビジャーナリズムの象徴」とも言われたニュース番組「CBSイブニングニュース」のアンカーマンです。

状態ベクトルは、宇宙船の状態を表す数値で、高度、速度、燃料などです。

CSQは、通信連絡船コースタル・セントリー・キューベックのことです。

RCSは、Reaction Control Systemの略で、宇宙船の制御システムとは独立した別の、大気圏再突入の際の姿勢制御にのみ使用される姿勢制御システムです。

スラスターは、宇宙船を押すための推進装置で、宇宙船の姿勢制御を行います。

FBWは、Fly By Wireの略で、パイロットの操作を電気信号に変えて、操作する方式です。

カート・ヴォネガットは、アメリカ人で、人類に対する絶望と皮肉と愛情を、シニカルかつユーモラスに描いた人気小説家です。

TLIは、第三段2回目点火準備のことで、最後のロケットエンジンによる推進になります。

1202アラームと1201アラームは、月面着陸の際には使用しない司令船とのランデブー用のレーダーが、緊急脱出する事態に備えて入っていたため、航法・誘導コンピュータが月面着陸に使用する高度測定用レーダーとランデブー用レーダーのデータを処理しきれずに、警告を発し、月面着陸に使用する高度測定用レーダーのデータを優先処理しました。
このおかげで、無事に月面着陸できたということです。

最後のセリフ

おめでとう。ジャネット

時代背景

1915年3月3日、アメリカ航空諮問委員会(NACA)が設立されました。

1930年8月5日、ニール・アームストロングは、人口5,000人というオハイオ州ウォパコネタで生まれました。

1940年6月4日、イギリスは、「ダイナモ作戦」によって、ダンケルクから30万の連合軍兵士を撤退させるのに成功しました。
映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」
1941年12月8日、日本軍は、アメリカ合衆国ハワイのオアフ島の真珠湾にある米軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃しました。
1945年8月15日、日本は、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明し、連合国に降伏しました。

1947年10月14日、チャック・イェーガーは、ロケット推進エンジン搭載のベルX-1で、音速の壁を突破しました。
1948年9月18日、チャック・イェーガーは、デルタ翼ジェット機XF-92を初飛行しました。
1948年12月16日、垂直尾翼があるが水平尾翼を持たないX-4を初飛行しました。
1950年6月25日、朝鮮戦争が始まりました。

1951年9月20日、V2ロケットを使用して、ヨリックまたはアルバートVIと呼ばれるサルと11匹のマウスとともに高度72キロメートに達し、生きて帰還しました。

1953年1月20日、ドワイト・D・アイゼンハワーは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1953年7月27日、朝鮮戦争は休戦しました。
1953年11月20日、スコット・クロスフィールドは、D-558-2で、世界初のマッハ2の速度を記録しました。

1955年2月、ニール・アームストロングは、エドワーズ空軍基地内にあるNACA高速飛行研究所のテストパイロットを志願しました。
ニール・アームストロングは、エドワーズ空軍基地内にあるNACA高速飛行研究所のテストパイロットに空きはなく、オハイオ州クリーヴランドのNACA航空推進所のテストパイロットになりました。
1955年3月1日、ニール・アームストロングは、オハイオ州クリーヴランドのNACA航空推進所で初めの飛行テストを行いました。

1956年9月27日、メルバーン・アプトは、ベルX-2で、最初のマッハ3に達しますが、ロールカップリングのせいで制御不能に陥り、脱出に失敗し、死亡しました。

1957年10月4日、ソ連が、R-7ロケットを使用し、バイコヌール宇宙基地から世界初の人工衛星であるスプートニク1号を打ち上げ、成功しました。
1957年12月6日、アメリカ合衆国が、ヴァンガードを使用し、ケープカナベラル空軍基地第18発射施設から人工衛星であるヴァンガードTV3を打ち上げ、2秒後に爆発、一部始終は生中継で放映され、ヴァンガード計画のチームとアメリカ合衆国は報道陣によって酷評されました。

1958年2月1日、アメリカ合衆国が、ジュノーIを使用し、ケープカナベラル空軍基地からアメリカ合衆国初の人工衛星であるエクスプローラー1号を打ち上げ、成功しました。

1958年7月29日、国家航空宇宙法が成立しました。
1958年10月1日、国家航空宇宙局(NASA)は、アメリカ航空諮問委員会(NACA)を吸収し、が設立され、ニール・アームストロングは、国家航空宇宙局(NASA)のテストパイロットになりました。

1958年10月7日、マーキュリー計画は、承認されました。

1959年4月9日、NASAはマーキュリー・セブンの名で知られるスコット・カーペンター、ゴードン・クーパー、ジョン・ハーシェル・グレン、ガス・グリソム、ウォルター・シラー、アラン・シェパード、ドナルド・スレイトンという7名の宇宙飛行士を発表しました。

1959年5月28日、エイブルとベイカーという猿が、ジュピターIRBM AM-18のノーズコーンに乗せられ、ミサイルは高度579kmに達し、16分間の飛行で、9分間無重力状態で、最高速度は16,000km/hで、38Gに耐え、ケープ・カナベラルから2,735km離れた大西洋に降下しました。

1960年11月8日、ケネディ民主党大統領候補は、ニクソン共和党大統領候補に僅差で勝ち、アメリカ合衆国大統領に当選しました。

1960年12月20日、南ベトナム解放民族戦線は、ジエム大統領とアメリカ合衆国を打倒するために結成されました。

1961年1月20日、ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。
ドワイト・D・アイゼンハワーは、アメリカ合衆国大統領を退任しました。

1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンは、ボストーク1号で史上初の約1時間半の地球周回飛行という有人宇宙飛行を成功させました。

1961年4月11日、エルサレムで、アドルフ・アイヒマンの裁判が始まりました。
映画「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」

1961年4月15日、亡命キューバ人部隊が、キューバ空軍の飛行場を爆撃し壊滅させて制空権を奪うのに失敗しました。
1961年4月17日、1400人の亡命キューバ人部隊がピッグス湾に上陸し、キューバ政府軍の反撃に遭い、キューバ空軍の攻撃を受け、沖合に待機した艦船が撃沈、弾薬も食糧も欠乏する事態の中で海岸で部隊は孤立しました。
ケネディ大統領は、米国正規軍の派遣を拒否し、ピッグス湾上陸作戦は失敗しました。

1961年5月、ケネディ大統領は、アメリカ軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という、ゲリラに対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始しました。

1961年5月5日、アラン・シェパードは、 マーキュリー3号で16分間の弾道飛行に成功し、“アメリカ人初の宇宙飛行士”となりました。

1961年5月25日、ケネディは上下両院合同議会での演説で、アポロ計画の支援を表明しました。

1961年12月15日、アドルフ・アイヒマンは、全ての罪で有罪となり、死刑が宣告されました。
1962年6月1日、アドルフ・アイヒマンは、ラムラの刑務所で絞首刑になりました。

1961年8月6日、ソ連のゲルマン・チトフは、地球周回飛行に成功しました。

1962年2月20日、ジョン・グレンは、マーキュリー6号で地球周回飛行に成功しました。

1962年9月12日、ケネディ大統領は、ライス大学のライス・スタジアムで、以下のように演説しました。
「我々が10年以内に月に行こうなどと決めたのは、
 それが容易だからではありません。
 むしろ困難だからです。
 この目標が、我々のもつ行動力や技術の最善といえるものを
 集結しそれがどれほどのものかを知るのに役立つこととなるからです。
 その挑戦こそ、我々が受けて立つことを望み、先延ばしする
 ことを望まないものだからです。
 そして、これこそが、我々が勝ち取ろうと志すものであり、
 我々以外にとってもそうだからです」

1962年9月13日、ニール・アームストロングは、NASAの宇宙飛行士に選出されました。
1962年9月16日、ニール・アームストロングを含む9人(フランク・ボールマン、チャールズ・コンラッド、ジェームズ・ラヴェル、ジェームズ・マクディヴィッド、エリオット・シー、トマス・スタッフォード、エドワード・ホワイト、ジョン・ヤング)が、ヒューストン大学カレン講堂でNASAの宇宙飛行士として正式に発表されました。

ソ連は、キューバに核ミサイル等の以下の兵器を運び込みました。
中距離弾道ミサイル(IRBM)24基、準中距離弾道ミサイル(MRBM)36基、戦車、大砲、対戦車ミサイル、短距離ロケット36基、軽爆撃機「イリューシン」(Il-28)42機、戦闘機(MiG21)40機、地対空ミサイル72基、巡航ミサイル(KR-1)80基、巡航ミサイル(S-2)32基、巡視艇12隻、兵員4万5234名

1962年10月3日、ウォルター・シラーは、マーキュリー8号で地球周回飛行に成功しました。

1962年10月14日、アメリカ軍が、空中偵察によりキューバに核ミサイル基地を発見しました。
1962年10月22日、ケネディ大統領は、海上封鎖を宣言し、新たなミサイルの配備を阻止し、ソ連にミサイルを解体、撤去することを要求しました。
1962年10月28日、ソ連のフルシチョフ最高指導者は、キューバから核ミサイル基地を撤去すると発表しました。

1962年11月21日、ソ連は、核ミサイルをキューバから撤去し、アメリカ合衆国は海上封鎖を解除しました。

1962年2月、ケネディ大統領は、南ベトナム軍事援助司令部を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなどにより、軍事顧問団という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げしました。

1962年5月、ケネディ大統領は、南ベトナムとラオスへの支援を目的にタイ国内の基地に数百人規模のアメリカ海兵隊を送ることを決定しました。

1963年1月2日、2000人で構成され装備の面で圧倒的に勝るアメリカ軍及びベトナム共和国軍は、約200人で構成された南ベトナム解放民族戦線にアプバクで敗北しました。
ケネディ大統領は、アメリカ軍を本格的にベトナムに投入することを決断し、アメリカ軍を16,263人に増加させました。

1963年5月15日、ゴードン・クーパーは、マーキュリー9号で地球周回飛行に成功しました。

1963年8月28日、キング牧師は、20万人を超える大規模なワシントン大行進に参加し、リンカーン記念堂の前で有名な「I Have a Dream」という演説を行いました。

1963年9月15日、アラバマ州北部のバーミングハムの公民権運動の拠点16番通りバプティスト教会にダイナマイト10本分の爆発物が仕掛けられ、日曜学校に来ていた黒人女の子である14歳のアディ・メエ・コリンズ、14歳のシンシア・ウェズリィ、14歳のキャロル・ロバートスン、11歳のデニーズ・マクネアが死亡しました。

1963年10月31日、ケネディ大統領は、「1963年の末までに軍事顧問団をベトナムから1,000人を引き上げる」と発表しました。

1963年11月22日、ケネディ大統領は、43歳で、殺害されました。
リンドン・B・ジョンソンが、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1963年、ハンナ・アーレントは、「ザ・ニューヨーカー」誌に「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を発表しました。
映画「ハンナ・アーレント」

1964年4月8日、ジェミニ1号が無人で打ち上げられました。

1964年4月24日、ニール・アームストロングは、自宅で火災が発生しました。

1964年6月21日、クー・クラックス・クラン(KKK)のメンバーが、ミシシッピー州フィラデルフィアで、3人の公民権運動家、黒人のジェムズ・チェイニー、ユダヤ人のアンドリュー・グッドマンとマイケル・シュワーナーを殺害しました。

1964年7月2日、ジョンソン大統領は、公民権法に著名し、南部各州のジム・クロウ法は廃止となりました。

1964年8月2日、北ベトナム海軍の魚雷艇は、ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃をしました。
1964年8月4日、アメリカ合衆国ジョンソン大統領とアメリカ軍は、ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃を捏造しました。
1964年8月5日、ジョンソン大統領は、北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動(ピアス・アロー作戦)を行いました。
1964年8月7日、ジョンソン大統領は、米国上下両院で民主党と共和党の議員の圧倒的な支持で承認されて、実質的な戦時大権を得ました。

1964年、ジェイムズ・ヘア地方判事は、学生非暴力協調委員会、南部キリスト教徒指導者会議、ダラス郡有権者同盟などの後援で3人以上の集会を禁止し、名指しされた41人の公民権運動活動家の関与を禁止しました。

1964年11月3日、ジョンソン大統領は、得票率61.1%を獲得し、538人の大統領選挙人の内486人の支持を得て、大統領選挙で圧勝しました。

1964年12月10日、キング牧師にノーベル平和賞が授与されました。

1965年1月2日、キング牧師は、アラバマ州セルマにあるブラウン教会で演説したことで、ジェイムズ・ヘア地方判事による禁止令を否定し、公民権運動活動は再開されました。

1965年2月6日、ジョンソン大統領は、議会に投票権法の提案を行うと宣言しました。

1965年2月7日、アメリカ合衆国は、北ベトナムへの集中爆撃(北爆)を開始しました。

1965年2月18日、ジミー・リー・ジャクソンは、マリオンで公民権運動デモ中に、警察官の暴力から逃げていた母親と祖父を喫茶店で守ろうとして、警察官に至近距離から発砲され、マリオンの病院では手当が受けられず、セルマの病院で手当てを受けました。

1965年2月21日、マルコムXは、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でスピーチしているときに、殺害されました。

1965年2月26日、ジミー・リー・ジャクソンは、セルマの病院で、感染症により死亡しました。
ジミー・リー・ジャクソンの遺体をアラバマ州知事ジョージ・ウォレスの足元に横たえようとして、セルマからモンゴメリーへの行進が計画されました。

1965年3月7日、525名公民権運動家達がアラバマ州セルマを出発し、アラバマ州の州都モンゴメリーまで行進を続けることで、警官隊達が合衆国憲法違反をしたことをアピールしました。
アラバマ州知事ジョージ・ウォレスは、そのデモ行進が「公共の秩序を乱す恐れがある」としてこれを非難し、あらゆる手段を使ってデモの阻止を宣言し、エドモンド・ペタス橋で州兵やダラス郡保安官達が無抵抗のデモ隊に対して棍棒や催涙ガス、鞭などを使ってセルマに追い返しました。
この事件が「血の日曜日事件」です。

1965年3月9日、キング牧師が率いる公民権運動家達がアラバマ州セルマを出発し、エドモンド・ペタス橋で、犠牲者に黙とうをささげ、セルマに戻ります。
公民権運動に反対する白人が、ジェイムズ・リーブを殺害します。

1965年3月15日、ジョンソン大統領は、テレビ放送された議会合同委員会で演説を行い、広範な投票権法を成立させることを訴えた。その演説の最後を「我々は打ち勝つ」という言葉で締め、この言葉が公民権運動の主要テーマとなりました。

1965年3月18日、ソ連のアレクセイ・レオーノフは、ボスホート2号から人類初の宇宙遊泳を約20分間行ないました。

1965年3月21日、キング牧師が率いる2,000名ほどの公民権運動家達は、ジョンソン大統領が命じた連邦政府の管理下で米国陸軍とアラバマ州兵によって保護され、アラバマ州セルマを出発し、エドモンド・ペタス橋を渡り、州都モンゴメリーに向けてデモ行進を始めました。

1965年3月25日、キング牧師は、デモ隊と共にモンゴメリーに無事到着しました。
KKKのメンバーが、セルマから首都モンゴメリーへの行進に参加し、モンゴメリーからセルマに戻る車を運転中のヴィオラ・リッツォを射殺しました。

1965年8月6日、ジョンソン大統領が国会議事堂で投票権法の協議会案に署名して法となり、キング牧師、ローザ・パークス、ジョン・ルイスなど公民権運動の指導者達が同席しました。
投票権法によって、投票権が州でなく、連邦政府によって監督され、執行されるようになりました。
映画「グローリー/明日への行進」

1965年8月21日、船長はゴードン・クーパー、搭乗員はピート・コンラッドを乗せて、ジェミニ5号が打ち上げられました。
ニール・アームストロングは、ゴードン・クーパーによって初めてバックアップとして指名されました。

1966年3月16日、船長はニール・アームストロング、搭乗員はデイヴィッド・スコットを乗せて、ジェミニ8号が打ち上げられました。
ジェミニ8号は、ジェミニ・アジェナ・ドッキング目標機にランデブーし、ドッキングし、船外活動を行う予定でした。
ジェミニ8号は、姿勢制御ロケットで姿勢を制御され、ジェミニ・アジェナ・ドッキング目標機にランデブーし、ドッキングしました。
ドッキング後ジェミニ8号は、姿勢指示器により、水平より30度傾いてことに気が付きました。
ニール・アームストロングは、ジェミニ・アジェナ・ドッキング目標機を切り離しましたが、ジェミニ8号の姿勢を制御できませんでした。
ジェミニ8号は、危険な回転を始めました。
ニール・アームストロングは、再突入制御システムを使用して、ジェミニ8号の姿勢を制御しました。
ニール・アームストロングは、飛行を中止し、着地に向けて、操作し、着水しました。

1966年7月、学生非暴力調整委員会(SNCC)は、「ブラック・パワー」を提唱するストークリー・カーマイケル(クワメ・トゥーレ)が新委員長に就任しました。

1967年1月27日、船長はガス・グリソム、副操縦士はエドワード・ホワイト、搭乗員はロジャー・チャフィーを乗せて、アポロ1号のプラグ切り離し試験に失敗し、死亡しました。
ニール・アームストロングは、ホワイトハウスで「宇宙空間の探求及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」の調印式に立ち会っていました。

1967年7月23日、アルジェ・モーテル事件が発生しました。

1968年1月30日、北ベトナム人民軍及び南ベトナム解放民族戦線は、テト攻勢を企画し、私服の戦闘員を各都市に浸透させ、拠点に武器を集積するなど準備したのち、一斉に蜂起しました。

1968年3月16日、アメリカ陸軍のうちウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県にあるソンミ村のミライ集落を無差別射撃などで虐殺した。集落は壊滅状態となり、生存者はわずか3人でした。

1968年4月3日、キング牧師は、テネシー州メンフィスで、最後となる演説を行いました。

1968年4月4日、キング牧師は、テネシー州メンフィスで殺害されました。

1968年6月5日、ロバート・ケネディ上院議員は、カルフォルニア州ロサンゼルスで、暗殺されました。

1968年12月21日、船長はフランク・ボーマン、司令船パイロットはジム・ラヴェル、月着陸船パイロットはウィリアム・アンダースを乗せて、アポロ8号を打ち上げ、月周回軌道を飛行し、月の様子をテレビで生放送しました。

1969年1月8日、NASAは、アポロ11号の船長はニール・アームストロング、司令船パイロットはマイケル・コリンズ、月着陸船パイロットはバズ・オルドリンと正式発表しました。

1969年1月20日、リチャード・ニクソンは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1969年7月16日、船長はニール・アームストロング、司令船パイロットはマイケル・コリンズ、月着陸船パイロットはバズ・オルドリンを乗せて、アポロ11号を打ち上げました。

1969年7月18日、パキディック事件が起きました。

1969年7月21日、ニール・アームストロング達は、月面着陸し、月面に降り立ち、滞在時間は2時間30分くらいです。
1969年7月24日、ニール・アームストロング達は、無事太平洋に着水しました。
1969年8月10日、ニール・アームストロング達は、隔離を終え、家に帰りました。

1969年8月13日、ニール・アームストロング達は、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスを訪問し、市民の歓待を受け、ニクソン大統領とディナーを共にしました。

1970年4月11日、船長はジェームズ・ラヴェル、司令船パイロットはジョン・スワイガート、月着陸船パイロットはフレッド・ヘイズを乗せて、アポロ13号を打ち上げましたが、月面着陸できずに、帰還しました。
ニール・アームストロングは、アポロ13号の内部調査委員を務めました。

1971年7月、マーク・フェルトは、FBI副長官に就任しました。

1971年6月13日、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者は、「ペンタゴン・ペーパーズ」の報道を始めました。

1972年5月2日、ジョン・エドガー・フーバーは、77歳で、亡くなり、FBI長官を辞めました。

1972年6月17日、ウォーターゲート事件が発生しました。

1972年6月20日、ワシントン・ポストのボブ・ウッドワード記者とカール・バーンスタイン記者は、ウォーターゲート事件の報道を始めました。

1973年6月22日、マーク・フェルトFBI副長官は、FBIを退局しました。

1973年3月29日、アメリカ軍は、ベトナムからの撤退を開始し、撤退が完了しました。

1974年8月9日、ニクソン大統領は、辞任しました。

1976年6月16日、スティーヴン・ビコの影響を受けた1万人もの黒人学生達は、ソウェトで蜂起が発生しました。
映画「遠い夜明け」

1986年1月28日、スペースシャトル・チャレンジャー号は、打ち上げから73秒後に分解し、7名の宇宙飛行士(フランシス・R・スコビー、マイケル・J・スミス、ロナルド・マクネア、エリソン・コニヅカ、ジュディス・レスニク、グレゴリー・ジャービス、クリスタ・マコーリフ)が全員死亡するという事故が起きました。
ニール・アームストロングは、スペースシャトル・チャレンジャー号事故大統領諮問委員会に副委員長として参加しました。

1989年12月3日に、地中海のマルタ島沖のソビエト連邦客船マクシム・ゴーリキーの船内で、ハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフソビエト連邦最高会議議長兼ソビエト連邦共産党書記長とジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領が会談し、冷戦の終結を宣言しました。

1990年2月11日、南アフリカ共和国のデクラーク大統領は、アパルトヘイト関連法案の撤廃決定し、ネルソン・マンデラを釈放しました。
映画「マンデラ 自由への長い道」映画「マンデラの名もなき看守」映画「インビクタス/負けざる者たち」

2003年2月1日、スペースシャトル・コロンビア号は、大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し、7名の宇宙飛行士
(リック・ダグラス、ウィリアム・マクール、マイケル・アンダーソン、カルパナ・ャウラ、デビッド・ブラウン、ローレル・クラーク、イラン・ラモン)が全員死亡するという事故が起きました。

2012年8月25日、ニール・アームストロングは、82歳で、亡くなりました。

ニール・アームストロングの生涯

1930年8月5日、ニール・アームストロングは、人口5,000人というオハイオ州ウォパコネタで生まれました。
1936年9月、ニール・アームストロングは、小学校1年生になり、100冊もの本を読みました。
1938年9月、ニール・アームストロングは、飛び級して、8歳で小学校4年生になりましたが、成績はトップでした。
ニール・アームストロングは、8歳か、9歳のときに、飛行機の操縦に憧れました。
1940年、ニール・アームストロングは、10歳でアルバイトを始めました。
ニール・アームストロングは、飛行機の設計者になるために、飛行機の操縦もしたいと考えました。

1941年12月8日、日本軍は、アメリカ合衆国ハワイのオアフ島の真珠湾にある米軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃しました。
1945年8月15日、日本は、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明し、連合国に降伏しました。

1946年5月、ニール・アームストロングは、15歳で、数学、科学、語学をトップの成績で、78人中11位で、ブルーム・ハイスクールを卒業しました。
1946年、ニール・アームストロングは、初めてフォード・トリモーターという飛行機に乗りました。
ニール・アームストロングは、ジェイク・ジントを訪れ、宇宙望遠鏡で月を見ました。
1946年8月5日、ニール・アームストロングは、16歳で、学生パイロット免許状を取得しました。
ニール・アームストロングは、単独飛行を始めて行いました。
1947年9月、ニール・アームストロングは、パデュー大学に通い、航空工学を学び始めました。

1947年10月14日、チャック・イェーガーは、ロケット推進エンジン搭載のベルX-1で、音速の壁を突破しました。

1949年1月26日、ニール・アームストロングは、海軍に入り、フロリダ州ペンサコーラ海軍航空基地で飛行訓練を受けるよう任命されました。
1950年6月25日、朝鮮戦争が始まりました。
1950年8月16日、ニール・アームストロングは、海軍飛行士の正式な認定を受けました。
1951年8月29日、ニール・アームストロングは、朝鮮戦争で実戦初飛行で、写真撮影する偵察機の護衛をしました。
1950年11月27日、ニール・アームストロングは、F9F-2艦上ジェット戦闘機を使用する第五一戦闘機戦隊(VF-51)に配任され、最年少の将校となりました。
1951年1月5日、ニール・アームストロングは、F9F-2艦上ジェット戦闘機を始めて、飛行させました。
1951年7月7日、ニール・アームストロングは、F9F-2艦上ジェット戦闘機で、空母エセックスに初めて着艦し、H8油圧式カタパルトで発艦しました。
1951年8月29日、ニール・アームストロングは、F9F-2艦上ジェット戦闘機で、初めて戦闘に参加しました。
1951年9月3日、ニール・アームストロングは、対地掃射をしてているときに、低空飛行用の罠で機体を損傷し、射出座席で脱出しました。

1951年9月21日、ニール・アームストロングは、横須賀で、慰労休暇を体験しました。
1951年10月1日、ニール・アームストロングは、第二次戦闘期間が始まりました。
1951年10月31日、ニール・アームストロングは、第三次戦闘期間が始まりました。
1951年12月26日、ニール・アームストロングは、第四次戦闘期間が始まりました。
1952年1月、ニール・アームストロングは、エア・メダル、ゴールド・スター、コリアン・サービス・メダルやエンゲージメント・スターもを受章しました。
1952年2月1日、ニール・アームストロングは、正規将校辞令を解き、予備役少尉になりました。
1952年2月18日、ニール・アームストロングは、第五次戦闘期間が始まりました。
1952年3月25日、ニール・アームストロングは、米国に帰還しました。

ニール・アームストロングは、ジャネット・エリザベス・シェアロンとパデュー大学内のパーティーで、知り合いました。
1952年8月23日、ニール・アームストロングは、海軍を除隊しました。

1953年1月20日、ドワイト・D・アイゼンハワーは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1953年5月、ニール・アームストロングは、海軍予備役部隊で、中尉に昇進しました。
1953年、ニール・アームストロングは、パデュー大学に復学しました。
1953年7月27日、朝鮮戦争は休戦しました。

1955年1月、ニール・アームストロングは、航空工学の学位を得て、パデュー大学を卒業しました。
ニール・アームストロングは、新型機の試験飛行を行なうテスト・パイロットになることを決意しました。
1955年2月、ニール・アームストロングは、エドワーズ空軍基地内にあるNACA高速飛行研究所のテストパイロットを志願しました。
ニール・アームストロングは、エドワーズ空軍基地内にあるNACA高速飛行研究所のテストパイロットに空きはなく、オハイオ州クリーヴランドのNACA航空推進所のテストパイロットになりました。
1955年3月1日、ニール・アームストロングは、オハイオ州クリーヴランドのNACA航空推進所で初めの飛行テストを行いました。
1955年5月6日、ニール・アームストロングは、P-82の胴体下に搭載されたERM-5ロケットエンジン航空機をテストしました。
1955年7月11日、ニール・アームストロングは、エドワーズ空軍基地内にあるNACA高速飛行研究所のテストパイロットになりました。
1955年10月、ニール・アームストロングは、F-100Aで音速を超えて、飛行しました。

1956年1月28日、ニール・アームストロングは、ジャネット・エリザベス・シェアロンとイリノイ州ウィルメッテの教会で結婚式を挙げました。

1956年3月22日、ニール・アームストロングとスタン・ブッチャードは、B-29の改良型に、ジャック・マッケイが搭乗するD-558-2を胴体下に搭載し、調査しているときに、B-29の改良型の第4エンジンが故障し、D-558-2を切り離すために、速度を得るために、降下し、D-558-2を切り離したときの影響で第3エンジンと第2エンジンが損傷し、第1エンジンを停止し、滑空しながら、湖面に着陸させました。
ジャック・マッケイは、D-558-2を無事に着陸させました。

1957年6月30日、ニール・アームストロングとジャネットには、長男リック・アレンが生まれました。

1957年8月15日、ニール・アームストロングは、ベルX-1Bを操縦し高度18.3kmに到達しました。

1957年10月4日、ソ連が、R-7ロケットを使用し、バイコヌール宇宙基地から世界初の人工衛星であるスプートニク1号を打ち上げ、成功しました。
1957年12月6日、アメリカ合衆国が、ヴァンガードを使用し、ケープカナベラル空軍基地第18発射施設から人工衛星であるヴァンガードTV3を打ち上げ、2秒後に爆発、一部始終は生中継で放映され、ヴァンガード計画のチームとアメリカ合衆国は報道陣によって酷評されました。

1958年2月1日、アメリカ合衆国が、ジュノーIを使用し、ケープカナベラル空軍基地からアメリカ合衆国初の人工衛星であるエクスプローラー1号を打ち上げ、成功しました。

1958年7月29日、国家航空宇宙法が成立しました。
1958年10月1日、国家航空宇宙局(NASA)は、アメリカ航空諮問委員会(NACA)を吸収しました。
ニール・アームストロングは、国家航空宇宙局(NASA)のテストパイロットになりました。

1958年10月7日、マーキュリー計画は、承認されました。

1959年4月9日、NASAはマーキュリー・セブンの名で知られるスコット・カーペンター、ゴードン・クーパー、ジョン・ハーシェル・グレン、ガス・グリソム、ウォルター・シラー、アラン・シェパード、ドナルド・スレイトンという7名の宇宙飛行士を発表しました。

1959年4月13日、ニール・アームストロングとジャネットには、長女カレン・アンが生まれました。

1960年10月20日、ニール・アームストロングは、予備役部隊から除隊しました。

1960年11月8日、ケネディ民主党大統領候補は、ニクソン共和党大統領候補に僅差で勝ち、アメリカ合衆国大統領に当選しました。

1960年11月30日、ニール・アームストロングは、ノース・アメリカンX-15で、B-52から高度13.7kmで空中発射し、飛行し、高度14.9km、マッハ1.75を達成しました。

1961年1月20日、ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンは、ボストーク1号で史上初の約1時間半の地球周回飛行という有人宇宙飛行を成功させました。

1961年5月5日、アラン・シェパードは、 マーキュリー3号で16分間の弾道飛行に成功し、“アメリカ人初の宇宙飛行士”となりました。

1961年5月25日、ケネディ大統領は、上下両院合同議会での演説で、アポロ計画の支援を表明しました。

1961年7月21日、ガス・グリソムは、マーキュリー4号で16分間の弾道飛行に成功しました。

1961年8月6日、ソ連のゲルマン・チトフは、地球周回飛行に成功しました。

1962年1月28日、ニール・アームストロングの長女カレンは、肺炎のため死亡しました。

1962年2月20日、ジョン・グレンは、マーキュリー6号で地球周回飛行に成功しました。

1962年4月18日、NASAは、宇宙飛行士の願書受付を正式に発表し、申し込みの締め切りは6月1日でした。

1962年4月20日、ニール・アームストロングは、B-52に搭載され、高度13.7km空中発射し、ノース・アメリカンX-15のジェットエンジンに点火し、姿勢制御装置を試験するために飛行していたときのこと、高度63kmまで上昇したとき、機首を下げるタイミングがわずかに遅れ、機体はコントロールを失い、高度43kmまで急降下したが、予定された着陸地点の上空30.5kmをマッハ3で通り過ぎ、エドワーズ空軍基地から72kmも離れた場所まで飛び去って、安全な高度まで降下させ、無事に着陸することに成功しました。
この飛行は、12分28秒07という飛行時間と高度63kmという到達距離において、X-15の最長不倒記録です。

1962年4月24日、チャック・イェーガーとニール・アームストロングは、T-33シューティング・スターで飛行し、タッチ・アンド・ゴーで、X-15の緊急着陸場としてスミス牧場塩湖を使用できるかどうかを調査しました。
チャック・イェーガーは、スミス牧場塩湖は雨が降った後は着陸には適さないことは知っていましたが、ニール・アームストロングが実験を強行することを主張しました。
ニール・アームストロングは、T-33シューティング・スターでタッチ・アンド・ゴーをおこない、車輪がぬかるみにはまって身動きできなくなり、結局救助を待つことになりました。

1962年5月21日、ニール・アームストロングは、F-104で飛行し、デラマーレイクを使用できるかどうかを調査するため、タッチ・アンド・ゴーを行いましたが、胴体を地面にぶつけ、油圧系を損傷し、ネリス空軍基地に着陸しました。

1962年6月、ニール・アームストロングは、NASAへ宇宙飛行士の願書を送付しました。
ニール・アームストロングは、オクターブ・シャヌート賞を受賞しました。

1962年9月12日、ケネディ大統領は、ライス大学のライス・スタジアムで、以下のように演説しました。
「我々が10年以内に月に行こうなどと決めたのは、
 それが容易だからではありません。
 むしろ困難だからです。
 この目標が、我々のもつ行動力や技術の最善といえるものを
 集結しそれがどれほどのものかを知るのに役立つこととなるからです。
 その挑戦こそ、我々が受けて立つことを望み、先延ばしする
 ことを望まないものだからです。
 そして、これこそが、我々が勝ち取ろうと志すものであり、
 我々以外にとってもそうだからです」

1962年9月13日、ニール・アームストロングは、NASAの宇宙飛行士に選出されました。
1962年9月16日、ニール・アームストロングを含む9人(フランク・ボールマン、チャールズ・コンラッド、ジェームズ・ラヴェル、ジェームズ・マクディヴィッド、エリオット・シー、トマス・スタッフォード、エドワード・ホワイト、ジョン・ヤング)が、ヒューストン大学カレン講堂でNASAの宇宙飛行士として正式に発表されました。

1962年10月3日、ウォルター・シラーは、マーキュリー8号で地球周回飛行に成功しました。

1963年4月8日、ニール・アームストロングとジャネットには、次男マーク・スティーヴンが生まれました。

1963年5月15日、ゴードン・クーパーは、マーキュリー9号で地球周回飛行に成功しました。

1963年11月22日、ケネディ大統領は、43歳で、殺害されました。
リンドン・B・ジョンソンが、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1964年4月8日、ジェミニ1号が無人で打ち上げられました。

1964年4月24日、ニール・アームストロングは、自宅で火災が発生しました。

1964年7月2日、ジョンソン大統領は、公民権法に著名し、南部各州のジム・クロウ法は廃止となりました。

1965年1月19日、ジェミニ2号が無人で打ち上げられました。

1965年3月18日、ソ連のアレクセイ・レオーノフは、ボスホート2号から人類初の宇宙遊泳を約20分間行ないました。

1965年3月23日、船長はガス・グリソム、搭乗員はジョン・ヤングを乗せて、ジェミニ3号が打ち上げられました。

1965年6月3日、船長はジェームズ・マクディヴィッド、搭乗員はエドワード・ホワイトを乗せて、ジェミニ4号が打ち上げられ、エドワード・ホワイトがアメリカ人初の宇宙遊泳を行いました。

1965年8月6日、ジョンソン大統領が国会議事堂で投票権法の協議会案に署名して法となり、キング牧師、ローザ・パークス、ジョン・ルイスなど公民権運動の指導者達が同席しました。
投票権法によって、投票権が州でなく、連邦政府によって監督され、執行されるようになりました。

1965年8月21日、船長はゴードン・クーパー、搭乗員はピート・コンラッドを乗せて、ジェミニ5号が打ち上げられました。
ニール・アームストロングは、ゴードン・クーパーによって初めてバックアップクルーとして指名されました。

1965年12月4日、船長はフランク・ボーマン、搭乗員はジム・ラヴェルを乗せて、ジェミニ7号が打ち上げられました。

1965年12月15日、船長はウォルター・シラー、搭乗員はトーマス・スタッフォードを乗せて、ジェミニ6-A号が打ち上げられました。

1966年2月28日、エリオット・シーとチャールズ・バセットは、訓練中に事故死しました。

1966年3月16日、船長はニール・アームストロング、搭乗員はデイヴィッド・スコットを乗せて、ジェミニ8号が打ち上げられました。
ジェミニ8号は、ジェミニ・アジェナ・ドッキング目標機にランデブーし、ドッキングし、船外活動を行う予定でした。
ジェミニ8号は、姿勢制御ロケットで姿勢を制御され、ジェミニ・アジェナ・ドッキング目標機にランデブーし、ドッキングしました。
ドッキング後ジェミニ8号は、姿勢指示器により、水平より30度傾いてことに気が付きました。
ニール・アームストロングは、ジェミニ・アジェナ・ドッキング目標機を切り離しましたが、ジェミニ8号の姿勢を制御できませんでした。
ジェミニ8号は、危険な回転を始めました。
ニール・アームストロングは、再突入制御システムを使用して、ジェミニ8号の姿勢を制御しました。
ニール・アームストロングは、飛行を中止し、着地に向けて、操作し、着水しました。

1966年6月3日、船長はトマス・スタッフォード、搭乗員はユージン・サーナンを乗せて、ジェミニ9-A号が打ち上げられました。

1966年7月18日、船長はジョン・ヤング、搭乗員はマイケル・コリンズを乗せて、ジェミニ10号が打ち上げられました。

1966年2月26日、無人でアポロAS-201が打ち上げられました。
1966年7月5日、無人でアポロAS-202が打ち上げられました。
1966年8月25日、無人でアポロAS-203が打ち上げられました。

1966年9月12日、船長はピート・コンラッド、搭乗員はゴードンを乗せて、ジェミニ11号が打ち上げられました。
ニール・アームストロングは、ピート・コンラッドによってバックアップクルーとして指名されました。

1966年10月、ニール・アームストロングは、ラテンアメリカ諸国親善訪問で、11国、14都市を訪問しました。

1966年11月11日、船長はジェームズ・ラヴェル、搭乗員はバズ・オルドリンを乗せて、ジェミニ12号が打ち上げられました。

1967年1月27日、船長はガス・グリソム、副操縦士はエドワード・ホワイト、搭乗員はロジャー・チャフィーを乗せて、アポロ1号のプラグ切り離し試験に失敗し、死亡しました。
ニール・アームストロングは、ホワイトハウスで「宇宙空間の探求及び利用における国家活動を律する原則に関する条約」の調印式に立ち会っていました。

1967年11月9日、無人でアポロ4号が打ち上げられました。
1968年1月22日、無人でアポロ5号が打ち上げられました。
1968年4月4日、無人でアポロ6号が打ち上げられました。

1968年5月6日、ニール・アームストロングは、月着陸船を操縦訓練中に制御不能になり、ロケット射出座席で脱出し、パラシュートで降下しました。

1968年10月11日、船長はウォルター・シラー、司令船パイロットはドン・エイゼル、月着陸船パイロットはウォルター・カニンガムを乗せて、アポロ7号を打ち上げました。

1968年12月21日、船長はフランク・ボーマン、司令船パイロットはジム・ラヴェル、月着陸船パイロットはウィリアム・アンダースを乗せて、アポロ8号を打ち上げ、月周回軌道を飛行し、月の様子をテレビで生放送しました。
1968年12月23日、ディーク・スレイトンは、ニール・アームストロングをアポロ11号の船長に決め、司令船パイロットはマイケル・コリンズ、月着陸船パイロットはバズ・オルドリンと決定しました。

1969年1月8日、NASAは、アポロ11号の船長はニール・アームストロング、司令船パイロットはマイケル・コリンズ、月着陸船パイロットはバズ・オルドリンと正式発表しました。

1969年1月20日、リチャード・ニクソンは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1969年3月3日、船長はジェームズ・マクディビット、司令船パイロットはデイヴィッド・スコット、月着陸船パイロットはラッセル・シュワイカートを乗せて、アポロ9号を打ち上げ、着陸船のロケットエンジン、宇宙服の生命維持装置、航法装置、ドッキング操作を行いました。
ニール・アームストロングは、バックアップとして指名されました。

1969年5月18日、船長はトーマス・スタッフォード、司令船パイロットはジョン・ヤング 、月着陸船パイロットはユージン・サーナンを乗せて、アポロ10号を打ち上げ、月着陸船の全機器の試験が月周回軌道上で行われ、着陸船は、月面から15.6kmまで接近しました。

1969年7月16日、船長はニール・アームストロング、司令船パイロットはマイケル・コリンズ、月着陸船パイロットはバズ・オルドリンを乗せて、アポロ11号を打ち上げました。
1969年7月21日、ニール・アームストロングは、月面に着陸し、月面に降り立ち、滞在時間は2時間30分くらいです。
1969年7月24日、ニール・アームストロング達は、無事太平洋に着水しました。
1969年8月10日、ニール・アームストロング達は、隔離を終え、家に帰りました。

1969年8月13日、ニール・アームストロング達は、ニューヨーク、シカゴ、ロサンゼルスを訪問し、市民の歓待を受け、ニクソン大統領とディナーを共にしました。

ニール・アームストロングと家族は、コロラド州の山荘で1週間の休暇を楽しみました。

1969年9月6日、ニール・アームストロングは、オハイオ州ウォパコネタを訪問しました。
1969年9月6日、ニール・アームストロング達は、ワシントンで、アポロ11号着水パーティーに出席しました。
1969年9月16日、ニール・アームストロング達は、ワシントンで、下院議会と上院議会へ国旗を返還し、スピーチを行いました。
1969年9月29日、ニール・アームストロング達は、ヒューストンから、45日間の世界歴訪を始め、ワシントンに到着しました。

1969年11月14日、船長はピート・コンラッド、司令船パイロットはリチャード・ゴードン、月着陸船パイロットはアラン・ビーンを乗せて、アポロ12号を打ち上げ、月面着陸しました。

1969年12月、ニール・アームストロングは、ベトナム慰問のためのクリスマスツアーに参加しました。

1970年4月11日、船長はジェームズ・ラヴェル、司令船パイロットはジョン・スワイガート、月着陸船パイロットはフレッド・ヘイズを乗せて、アポロ13号を打ち上げましたが、月面着陸できずに、帰還しました。
ニール・アームストロングは、アポロ13号の内部調査委員を務めました。

1970年5月、ニール・アームストロングは、ソ連を10日間にわたり、公式訪問しました。

1971年1月31日、船長はアラン・シェパード、司令船パイロットはスチュアート・ルーサ 、月着陸船パイロットはエドガー・ミッチェルを乗せて、アポロ14号を打ち上げ、月面着陸しました。
1971年7月26日、船長はデイヴィッド・スコット、司令船パイロットはアルフレッド・ウォーデン、月着陸船パイロットはジェームズ・アーウィンを乗せて、アポロ15号を打ち上げ、月面着陸しました。

1971年8月、ニール・アームストロングは、NASAを辞職し、オハイオ州シンシナティ大学の航空宇宙工学特別教授になりました。

1972年4月16日、船長はジョン・ヤング、司令船パイロットはケン・マッティングリー、月着陸船パイロットはチャールズ・デュークを乗せて、アポロ16号を打ち上げ、月面着陸しました。

1972年12月7日、船長はユージン・サーナン、司令船パイロットはロナルド・エヴァンス、月着陸船パイロットはハリソン・シュミットを乗せて、アポロ17号を打ち上げ、月面着陸しました。

1979年1月、ニール・アームストロングは、クライスラー社の国内向け広報と技術に関する役員になりました。
1980年、ニール・アームストロングは、オハイオ州シンシナティ大学を辞職し、複数の民間企業の技術に関する役員になり、慈善活動もしました。

1985年4月、ニール・アームストロングは、北極地点に向かう探検隊に参加しました。

1986年1月28日、スペースシャトル・チャレンジャー号は、打ち上げから73秒後に分解し、7名の宇宙飛行士(フランシス・R・スコビー、マイケル・J・スミス、ロナルド・マクネア、エリソン・コニヅカ、ジュディス・レスニク、グレゴリー・ジャービス、クリスタ・マコーリフ)が全員死亡するという事故が起きました。
ニール・アームストロングは、スペースシャトル・チャレンジャー号事故大統領諮問委員会に副委員長として参加しました。

1990~94年、ニール・アームストロングは、パデュー大学で資金調達事業”ビジョン21”に関わり、3億ドル以上の資金を集めました。

1992年、ニール・アームストロングは、ゴルフトーナメントで、キャロル・ヘルド・ナイトに出会いました。
1994年、ニール・アームストロングは、ジャネットと離婚しました。
1994年6月12日、ニール・アームストロングは、キャロル・ヘルド・ナイトと再婚しました。

2003年2月1日、スペースシャトル・コロンビア号は、大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し、7名の宇宙飛行士(リック・ダグラス、ウィリアム・マクール、マイケル・アンダーソン、カルパナ・チャウラ、デビッド・ブラウン、ローレル・クラーク、イラン・ラモン)が全員死亡するという事故が起きました。

2012年8月25日、ニール・アームストロングは、82歳で、亡くなりました。

感想

ニール・アームストロングは、X-15とジェミニ8号での想定外のトラブルに、想定以上に対応するところが素晴らしいです。
次々と宇宙飛行士が亡くなる中で、公然と税金の間違った使い方だと非難される中で、ニール・アーム・ストロングには、重圧がかかり、精神的に追い詰められて行く描写もまた素晴らしいです。
アーム・ストロングの性格は控えめで、音楽も控えめで、セリフより、表情や映像で伝えようという演出を理解しておく必要があります。
重圧に耐え、想定外のトラブルに、瞬間的に対応できる人は、なかなかいないと思います。
人間もやれば、ここまでできるんだと思うと、日常の目の前のことなど、どうにでもなるような気にさえなります。
アポロ計画から50年以上が経過し、技術は進歩しましたが、人間は技術の進歩に合わせて、進歩していないと感じました。
AIが生まれ、AIに人の職が奪われるという、状況になっています。

私も早期退職すると決めたのは、それが容易だからではありません。
むしろ困難だからです。
この早期退職が、自分のもつ行動力や技術の最善といえるものを集結し、それがどれほどのものかを知るのに役立つこととなるからです。
この早期退職こそ、自分が受けて立つことを望み、先延ばしすることを望まないものだからです。
そして、早期退職こそが、自分が勝ち取ろうと志すものであり、自分以外にとってもそうだからです。
早期退職することで、何かを勝ち取りたいです。

ニール・アームストロングの名言

ニール・アームストロングの名言
  • ある技術を成功させるには、世間受けより現実を優先させなければならない。自然は騙せないのだから。
  • 考え、行動せよ。さすればそれは成し遂げられる。
  • 人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な一歩だ。
  • 私はこれまでもこれからもずっと、白ソックスとポケットプロテクターにペンを差した、エンジニアです。
  • 私はもう既にNASAのテスト飛行士だったのです。私にとって宇宙飛行士に選ばれたのは転勤のようなものでした。
  • やめて下さいよ、私は危険をおかすのが嫌いなんです。危険を伴うのが我々の仕事の一番嫌な所なんです。どうして単なる技術的な事実が冒険といわれるものに変わったりするのでしょうか?
  • そうですね、でもイライラしたりはしないでしょう。
  • 一番に月に行きたがる人の気持ちは分からないんです。無意味ですよ。合理的な現代には価値のない、単なるロマンティシズムです。
  • その人は子供なんでしょう。大人じゃない。
  • 私は帰って来れないだろうと思ったら、引き受けないでしょう。技術的に必要でない限りはね。ジェット機の試験は危険だが、技術的に必要なものです。でも、宇宙とか月で死ぬのは必要じゃない。だから、もしも私がどちらか選ばなきゃいけないんだったら、私はジェット機の試験中に死ぬことを選びますね。
  • そろそろ行かないと。訓練用遠心装置に入らないといけないんです。
  • ああ、嫌な訓練だよ。一番嫌いかもな。でも必要だからね。
  • 誓って言いますが、私も危険は大嫌いです。
  • 自分は単に他の何千人ものエンジニアが造ったものをオルドリンと操縦しただけだ。
  • あれは、10年もの間取り組んできた大統領の目的を果たしたことを意味する決め台詞でした
  • 鷲はアメリカの国鳥です。

ある技術を成功させるには、世間受けより現実を優先させなければならない。自然は騙せないのだから。

自分は、成功させるには、世間受けより現実を優先させましたが、世間には受け入れられず、成功しましたが、認められることはなかったです。

考え、行動せよ。さすればそれは成し遂げられる。

自分は、考えるだけの知識が絶対的に不足し、考えることなく行動し、行き当たりばったりの人生で、成功することはなかったです。

人間にとっては小さな一歩だが人類にとっては偉大な一歩だ。

自分が書くブログは、人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な一歩となるようなブルグを目指したいです。

私はこれまでもこれからもずっと、白ソックスとポケットプロテクターにペンを差した、エンジニアです。

自分はこれからは、失敗をしても、くじけずに挑戦する人でありたいです。

私はもう既にNASAのテスト飛行士だったのです。私にとって宇宙飛行士に選ばれたのは転勤のようなものでした。

NASAのテスト飛行士が、NASAの宇宙飛行士に選ばれたということです。
能力については、NASAが保証しているということです。

やめて下さいよ、私は危険をおかすのが嫌いなんです。危険を伴うのが我々の仕事の一番嫌な所なんです。どうして単なる技術的な事実が冒険といわれるものに変わったりするのでしょうか?

若い人が危険を理解できずに、危険を冒すのとは違うということです。
危険を技術的に理解し、訓練し、技術的な事実を確認することは、危険を冒すのとは違うということです。

そうですね、でもイライラしたりはしないでしょう。

予定通りならイライラしませんが、予定が変更されるとイライラします。
予定変更さえも予定していたら、イライラしなくなるのかもしれません。

一番に月に行きたがる人の気持ちは分からないんです。無意味ですよ。合理的な現代には価値のない、単なるロマンティシズムです。

一番に何かをしたがる人は大勢います。
今の自分を他の人と比較して、今の自分に価値を見出せず、一番に何かすることで、他の人から特別扱いされたいということだと感じました。
つまり、本当に自分のしたいことが分かっていない人が、一番に何かをしたがる人だと感じました。
ニール・アームストロングは、本当に自分がしたいことである、航空機、ロケットや宇宙船のエンジニアになりたいということが分かっていたから、一番に月に行きたがる人の気持ちを理解できなかったということです。

その人は子供なんでしょう。大人じゃない。

本当に自分のしたいことが分かっていない人は、子供だということです。
本当に自分のしたいことが分かっている人は、大人だということです。
自分も本当にしたい何かを探すために、色々なことに挑戦したいです。

私は帰って来れないだろうと思ったら、引き受けないでしょう。技術的に必要でない限りはね。ジェット機の試験は危険だが、技術的に必要なものです。でも、宇宙とか月で死ぬのは必要じゃない。だから、もしも私がどちらか選ばなきゃいけないんだったら、私はジェット機の試験中に死ぬことを選びますね。

そろそろ行かないと。訓練用遠心装置に入らないといけないんです。

ニール・アームストロングは、訓練用遠心装置のおかげで、ジェミニ8号のトラブルから、無事に帰還できたと感じているので、訓練用遠心装置による訓練は欠かさないでしょう。
ジェミニ8号で遭遇したトラブルに出会ったことがない人々には、理解することはできません。

ああ、嫌な訓練だよ。一番嫌いかもな。でも必要だからね。

嫌いなことを、必要だから行う人はいます。
嫌いなことをしたおかげで、命が助かったと思う人は少ないです。
自分は。バイクの運転に夢中になり、本だけでなく、レーシングライダーの話が掲載されている雑誌まで、読みましたが、一瞬の危険回避に役に立ちました。

誓って言いますが、私も危険は大嫌いです。

ニール・アームストロングは、危険を避けるために、テストパイロットから宇宙飛行士になり、訓練に励み、危険を回避しました。
自分も、危険を恐れずに、仕事を選び、努力をしましたが、心身ともに壊し、早期退職を2度もする羽目になり、危険に陥っていると言えます。

自分は単に他の何千人ものエンジニアが造ったものをオルドリンと操縦しただけだ。

自分は単に過去の数えきれないエンジニアたちが造ったものを利用して、生活しているだけです。

あれは、10年もの間取り組んできた大統領の目的を果たしたことを意味する決め台詞でした

ニール・アームストロングが月に着陸したときに言った「鷲は舞い降りた」という台詞のことです。

鷲はアメリカの国鳥です。

日本の国鳥は、キジです。

まとめ

宇宙だろうと、月だろうと、行ったことがないところへ、行ってみたいという気持ちは理解できます。
行ったことがないところ、国内、または外国へ行ったことがある人は、行ったことがないところに行っても、意外に感動はしないということも理解していると思います。
「海に行きたい」と言って、一目海を見たら「帰ろう」というのと感じは似ています。
どこかに行くこと自体には意味はありません。
人間は何をするかが、重要だと感じています。
自分も何かしたいことを見つけて、満足した人生を送りたいです。

次は、映画「ガンジー」をレビューする予定です。
ご期待ください。
以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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