映画「日の名残り」を鑑賞しました!~あらすじ【ネタばれ有り】と感想

「夢をかなえるゾウ0  ブラックガネーシャと夢を食べるバク」の中で、出てきた「日の名残り」について知りたいと感じました。
アマゾンを起業したジェフ・ベゾスの愛読書は、2017年のノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの代表作である「日の名残り」で、Kindleに入っているそうです。
自分も「日の名残り」をKindleに入れました。
ジェフ・ベゾスは、「日の名残り」の主人公であるジェームズ・スティーヴンスのように人生を後悔したくないという気持ちで、アマゾンを起業したそうです。
「日の名残り」は映画化されているので映画「日の名残り」を鑑賞することにします。

基本情報・スタッフ

監督   ジェームズ・アイヴォリー
脚本   ルース・プラワー・ジャブバーラ、ハロルド・ピンター
原作   カズオ・イシグロ
製作   マイク・ニコルズ、ジョン・キャリー、イスマイール・マーチャント
音楽   リチャード・ロビンス
撮影   トニー・ピアース=ロバーツ
美術   ルチアーナ・アリジ
衣装   ジェニー・ビーバン、ジョン・ブライト
編集   アンドリュー・マーカス
配給   コロンビア ピクチャーズ
公開   1994年3月19日
上映時間 134分
映倫区分 G

予告動画

舞台となる場所

オックスフォードシャー

ダーリントン卿の邸宅であるダーリントン・ホールがあるとされる場所です。

コーンウォール州

ミセス・ベンが住んでいるとされる場所です。

クリーブドン

トーマス・ベンの故郷で、ミス・ケントンと結婚後、一緒に生活した場所です。

ベルリンとチェコスロバキア

ベルリンは、ドイツの首都で、1920年にダーリントン卿が訪れた場所です。
チェコスロバキアは、ドイツの南側で国境を接し、チェコ人とスロバキア人が住んでいて、イギリス人とは交流はなく、1993年にチェコとスロバキアに分離し、独立しました。
ドイツがヨーロッパへ侵攻するなら、背後から攻め込まれないように、オーストリア、チェコとスロバキアを併合するでしょう。

ペンシルべニア州

ペンシルべニア州は、ジャック・ルイスの選挙区で、アメリカにおいて最も歴史のある州の一つで、最大都市のフィラデルフィアはアメリカ発祥の地と呼ばれることもあります。

ディラム・パーク

ダーリントン・ホールの外観として、使用されました。

バドミントンハウス

エントランスホール、ミス・ケントンとスティーブンスの部屋、ウィリアム・スティーブンスの父親が倒れた温室など、「ダーリントン」の内部の多くが撮影された場所です。

パウダーハム城

エントランスホールの右側にある青い階段、図書館、音楽室、そして閉じ込められた鳩との最後のシーンのドーム型の天井が撮影された場所です。

コーシャムコート

会議の会場である食堂と図書館が撮影された場所です。

デヴォン州タヴィストックにあるモスコム

ジェームズ・スティーヴンスがガス欠を起こして宿泊することになった村です。

ウィンターガーデンズとマリーン・パレードにある桟橋

ウィンターガーデンズは、ジェームズ・スティーヴンスとミセス・ベンが待ち合わせ、お茶を飲んだ場所です。
ジェームズ・スティーヴンスとミセス・ベンが過ごす桟橋です。
2008年に火災で焼失しましたが、再建されました。

ダンケルク

ダンケルクは、1940年5月24日から6月4日、ダンケルクに追い詰められた英仏軍は、ドイツ軍の攻勢を防ぎながら、イギリスに30万人の将兵を脱出させました。

スエズ運河

スエズ問題は、1956年7月26日、エジプトのナセル大統領が「インド洋と地中海を結ぶスエズ運河を国有化する」と宣言し、イギリス、フランス・イスラエルがエジプトに第二次中東戦争と呼ばれる戦争を仕掛け、アメリカとソ連がエジプト側について、エジプトが勝利し、スエズ運河を国有化しました。

あらすじ

第二次世界大戦後の1956年10月、執事のジェームズ・スティーヴンスが、主人のジャック・ルイスのダイムラーで、英国西部を自動車旅行をしながら、1920年代、1930年代という第二次世界大戦前のダーリントン・ホールにダーリントン卿が住んでいた頃を回想するというストーリーです。
ストーリーは、1956年10月から始まり、1920年代へ戻り、1930年代になり、1956年10月になり、1930年代へ戻り、1956年10月になり、1930年代へ戻り、1956年10月になり、1930年代に戻り、1956年10月になるので、理解しにくいです。

ジェームズ・スティーヴンスは、ダーリントン・ホールを購入したジャック・ルイスの執事で、ジャック・ルイスの家族をダーリントン・ホール迎えるにあたり、スタッフの不足を解決しなければならないという状況です。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミセス・ベン(ミス・ケントン)から手紙を受け取り、ミセス・ベンをハウスキーパーとして雇用できるかもと感じ、ミセス・ベンが住んでいる英国西部をジャック・ルイスのダイムラーで自動車旅行をして、面会し、意思を確認することにします。
ジャック・ルイスは、ダーリントン・ホールに飾る絵画をオークションで落札します。

1920年代に戻ります。
ジェームズ・スティーヴンスは、ダーリントン・ホールに住んでいるダーリントン卿の執事で、副執事とハウスキーパーが駆け落ちし、副執事とハウスキーパーの欠員を補充しなければならないという状況です。
ダーリントン卿は、近在の方々と最後となるキツネ狩りを主催しました。
ミス・ケントンは、非のない内容の紹介状を携えて、ダーリントン・ホールを訪れて、ハウスキーパーに応募します。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンの若さに不安を感じますが、ハウスキーパーとして雇用することにします。
ジェームズ・スティーヴンスは、ダーリントン卿に副執事として父のウィリアム・スティーヴンス、ハウスキーパーとしてミス・ケントンを提案し、了承されます。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスの部屋を花で飾ります。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンがウィリアム・スティーヴンスのことをウィリアムと呼びかけることを気に入らず、「スティーブンスさん」もしくは「スティーブンス・シニア」と呼ぶように注意します。
ジェームズ・スティーヴンスは、ダーリントン・ホールで勤務している使用人を前に、ダジャレを言い、執事には品格が重要だと説きます。
ウィリアム・スティーヴンスは、インドでの英国人執事の話をして笑わせます。

1930年代に進みます。
ウィリアム・スティーヴンスは、階段の踊り場に箒と塵取りを残して、ドアから消えます。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスに階段の踊り場に箒と塵取りあることを伝えます。
ジェームズ・スティーヴンスは、階段の踊り場に行って、ダーリントン卿が階段の踊り場通り、箒と塵取りを見つける前に、箒と塵取りを隠し持ちます。
ダーリントン卿は、晩餐会を主催し、ナチス・ドイツとの友好関係と平和を築くこと目指します。
ウィリアム・スティーヴンスは、鼻から汗が垂れます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ウィリアム・スティーヴンスに鼻を拭くように指示します。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスに中国の人形がドアの外にあり、ウィリアム・スティーヴンスが間違って置いたと指摘します。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスにウィリアム・スティーヴンスの仕事を減らすように提案します。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンのウィリアム・スティーヴンスの仕事を減らす提案を拒否します。
ダーリントン卿は、主催する重要な会議について、意見を交わしています。
ウィリアム・スティーヴンスは、お盆に銀器と紅茶を乗せて運びますが、つまずき、転倒します。
ダーリントン卿は、ジェームズ・スティーヴンスに主催する重要な会議での事故を避けるために、ウィリアム・スティーヴンスの仕事を減らすように指示します。
ジェームズ・スティーヴンスは、ウィリアム・スティーヴンスに食卓で給仕する仕事、重い盆を持つ仕事を取り上げ、ブラシとモップを渡し、ダーリントン・ホールのホコリや泥を掃除するように指示します。
ジェームズ・スティーヴンスは、ダーリントン・ホールの使用人に、ダーリントン・ホールを磨き上げ、外国からくる賓客に「英国の秩序と伝統は未だ健在なり」と知らしめるように指示します。

一日早く、アメリカのペンシルべニア州下院議員であるジャック・ルイスが、ダーリントン・ホールに到着します。
ジェームズ・スティーヴンスは、ダーリントン卿にジャック・ルイスが、到着したことを伝えます。
ダーリントン卿は、ジェームズ・スティーヴンスに婚約したカーディナルに生命の神秘(夫婦の夜の営み)について教えるように依頼します。
ジェームズ・スティーヴンスは、カーディナルに自然の驚異(夫婦の夜の営み)について伝えようと努力しますが、伝わりません。
ジェームズ・スティーヴンスは、到着したフランスの政治家であるデュポン・ディヴリーを出迎えます。
デュポン・ディヴリーは、窮屈な靴を履いて、ロンドン見物をして、足を痛め、洗面器に入れたお湯と塩を要求します。
ジャック・ルイスは、デュポン・ディヴリーにドイツを抑えるように意見します。
デュポン・ディヴリーは、ドイツの経済復興、再軍備や兵役制度の復活を助け、強いドイツと平和を求めるという意見です。
ジャック・ルイスとデュポン・ディヴリーの意見は合いません。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスにウィリアム・スティーヴンスが倒れたと伝え、医者も呼びました。
医者は、ジェームズ・スティーヴンスにウィリアム・スティーヴンスの容態は良くないと伝えます。
ジェームズ・スティーヴンスは、最後の晩餐の用意をします。
ウィリアム・スティーヴンスは、ジェームズ・スティーヴンスに家族のことを話かけますが、今夜は忙しいので、明日話すことにします。
最後の晩餐が、始まります。
ダーリントン卿は、ドイツが強力な国家として再び立ち上がり、友好関係と平和を築けると演説します。
デュポン・ディヴリーは、二度と戦争をしないように、ドイツを友人として認めるように、フランス政府に政策転換を進言すると演説します。
ジャック・ルイスは、ダーリントン卿やデュポン・ディヴリーのことをアマチュア紳士として、国際問題はリスク管理ができるプロに任せるべきだと演説し、皆を怒らせます。
ダーリントン卿は、ジャック・ルイスに「アマチュアリズム」を「名誉」と呼ぶと言い返します。
晩餐後にドイツ代表の伯爵夫人が、シューベルト「私の挨拶を」を歌い、皆で聞きます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンからウィリアム・スティーヴンスが亡くなったことを伝えられます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ウィリアム・スティーヴンスを看取ることなく、職務を続けます。
医者は、ジェームズ・スティーヴンスに、ウィリアム・スティーヴンスが脳内出血で亡くなったことを伝えます。
ジェームズ・スティーヴンスは、医者をデュポン・ディヴリーの足の治療に向かわせます。

1956年10月になります。
ジェームズ・スティーヴンスは、店主にナチのシンパだったダーリントン卿の執事かと聞かれます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ダーリントン卿の執事ではなく、ジャック・ルイスの執事だと答えます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミセス・ベン(ミス・ケントン)から待ち合わせ場所が書かれている手紙を受け取ります。

1930年代に戻ります。
ダーリントン卿は、エルサとアルマというユダヤ人の娘をメイドとして雇用します。
ジェフリー卿は、執事のトーマス・ベンを連れて、ダーリントン・ホールに来て、ダーリントン卿と晩餐を過ごします。
ミス・ケントンは、トーマス・ベンと再会します。
ジェフリー卿は、ダーリントン卿にナチスが行うユダヤ人への人種差別を支持していることを伝えます。
ジェームズ・スティーヴンスは、トーマス・ベンと主人の思想について話します。
ジェームズ・スティーヴンスは、主人の思想と執事の仕事は無関係と主張します。
トーマス・ベンは、主人の思想と執事の仕事は無関係とは思えないと主張します。
ミス・ケントンは、ソーダを持って来て、退室します。
トーマス・ベンは、ミス・ケントンを美人だと褒めます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンを優秀で、必要だと言います。
ダーリントン卿は、ジェームズ・スティーヴンスにエルサとアルマというユダヤ人の娘を解雇するように伝えます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンにエルサとアルマというユダヤ人の娘を解雇するように伝えます。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスにエルサとアルマというユダヤ人の娘を解雇するなら、辞職すると言います。
ジェームズ・スティーヴンスとミス・ケントンは、解雇されたエルサとアルマの代わりに、ジニーという娘を面談します。
ジェームズ・スティーヴンスは、ジニーを雇うことに反対します。
ミス・ケントンは、ジニーを雇うことに賛成し、責任を持って監督すると言います。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンに辞めることについて確認します。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスに、生きて行くために、個人の主義主張を捨てて、ダーリントン・ホールを辞めないと言います。
ジェームズ・スティーヴンスとミス・ケントンは、ジニーという娘を雇うことにします。

1956年10月になります。
ジェームズ・スティーヴンスは、モスコム村で、ダイムラーはガス欠を起こし、宿泊することになり、第二次世界大戦前は政治、国際問題に関心があり、チャーチル首相やイーデン首相に会ったことを話します。
スミスは、ジェームズ・スティーヴンスに政治、国際問題の話をします。
カーライルは、翌朝、ガソリンを持って、ジェームズ・スティーヴンスをダイムラーのところまで自動車に乗せることにします。

1930年代に戻ります。
スペンサーは、ジェームズ・スティーヴンスに政治、国際問題に関する質問をします。
ジェームズ・スティーヴンスは、スペンサーに「申し訳ありません、私はお役には立てません」と答えます。
スペンサーは、市井の声に耳を傾けることも、名もなき者にも意見を述べる資格がないことも立証できた喜びます。

1956年10月になります。
カーライルは、ガソリンを持って、ジェームズ・スティーヴンスをダイムラーのところまで自動車に送り届けます。
カーライルは、ジェームズ・スティーヴンスに人に仕える仕事をしているのではと質問します。
ジェームズ・スティーヴンスは、カーライルにジャック・ルイスの執事だと答えますが、嘘を認め、ダーリントン卿の執事で、ダーリントン卿は立派な方で、亡くなる前は過ちを認めていたと答えます。
カーライルは、ジェームズ・スティーヴンスにガソリンスタンドまでの道を教えて別れます。

1930年代に戻ります。
ダーリントン卿は、ジェームズ・スティーヴンスにエルサとアルマというユダヤ人の娘を解雇したのは間違いで、捜すように命じます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンにエルサとアルマというユダヤ人の娘を捜すように依頼します。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスに本当の気持ちを隠さず、言ってくれれば良かったと言います。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンにジニーは良いメイドになったと、認めます。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスにジニーが美人だから雇うのを嫌がったのではと言います。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンにバカな話だと、認めません。

チャーリーとジニーは、庭で抱き合い、キスをします。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスの部屋を飾る花を摘み、チャーリーと一緒にいるジニーにベッドの用意を命じます。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスの部屋に入り、花を飾ります。
ジェームズ・スティーヴンスは、本を読んでいます。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスに何の本を読んでいるのかと聞きます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンに何の本を読んでいるのかを隠します。
ミス・ケントンは、無理やりジェームズ・スティーヴンスが読んでいる本が感傷的な恋愛小説であることを突き止めます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンに英語の知識を増やすためという言い訳をします。

チャーリーとジニーは、ミス・ケントンの部屋のドアの前にやってきます。
ジニーは、ミス・ケントンの部屋のドアをノックし、中に入り、チャーリーと結婚するので辞めさせて欲しいと伝えます。
ミス・ケントンは、ジニーに働けば、一生の仕事になり、お金の心配もなくなると考え直すように言います。
ジニーは、ミス・ケントンに、お金はなくても、愛があると言い返して、仕事を辞めることを認めさせます。

ジェームズ・スティーヴンスとミス・ケントンは、ココアを飲みながら、夜の打ち合わせをします。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスに今夜は疲れたから、休みたいと言います。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンにココアを飲みながら、夜の打ち合わせは負担になるので、今夜で終わりにすることを決めます。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスに明日は休み、午後9時30分には帰宅すると伝えます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンの休みを認めます。

ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンが自転車でダーリントン・ホールから出ていくのを見てます。
ミス・ケントンは、パブで、トーマス・ベンと飲みながら話をします。
トーマス・ベンは、ミス・ケントンに、異なる主義主張をするジェフリー卿の執事を辞めたので、故郷へ戻って、小さな店か小さな宿を始めるので、一緒に始めようと誘います。
ミス・ケントンは、トーマス・ベンに返事をせずに、別れて、ダーリントン・ホールに戻ります。
カーディナルは、ダーリントン・ホールにやってきてきます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ダーリントン卿にカーディナルが来たことを伝え、宿泊の許可を得ます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンにカーディナルが宿泊することを伝えます。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスに木曜日で、休みであることと、トーマス・ベンからプロポーズされたことを伝えます。
ジェームズ・スティーヴンスは動揺しますが、ミス・ケントンに「それでは、どうか楽しい夜を」とだけ言います。
ダーリントン卿とカーディナルは、夕食を食べ、ジェームズ・スティーヴンスは給仕をします。
カーディナルは、ダーリントン卿に今夜は客人が来るのかと質問します。
ダーリントン卿は、カーディナルに答えられない、秘密の会合だと答えます。

イギリス首相のネヴィル・チェンバレン、イギリス外務大臣のハリファックス卿と駐英ドイツ大使のリッペンドロップは、ダーリントン・ホールにやってきます。
イギリス首相のネヴィル・チェンバレンとイギリス外務大臣のハリファックス卿は、チェコスロバキアのためにイギリスは参戦しないと言います。
駐英ドイツ大使のリッペンドロップは、総統閣下は心から平和を望んでおられると言います。

ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンを警備員から身柄を引き受けます。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスにトーマス・ベンのプロポーズを受け入れ、契約期間を繰り上げて辞めたいと伝えます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンに「おめでとう、考えましょう」と答えます。
泣きながらミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスに「それだけですか」と言い返します。
ジェームズ・スティーヴンスは、カーディナルの様子を見に行き、カーディナルから今夜の会合のことを聞かれ、ダーリントン卿は利用されていると聞かされます。
ジェームズ・スティーヴンスは、自分の部屋に戻ります。
ミス・ケントンは、ジェームズ・スティーヴンスに先ほどの態度を謝ります。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミス・ケントンに気にしていない、新しいメイドにホコリが残っていたと注意をお願いします。

1956年10月になります。
ジェームズ・スティーヴンスは、ホテルで紅茶を飲みながら、ミセス・ベンを待ちます。
ミセス・ベンは、ジェームズ・スティーヴンスに会うために、準備をして、部屋を出ます。
トーマス・ベンは、ミセス・ベンに娘のキャサリンに子供ができたことを伝え、一緒に娘のキャサリンに会いに行こうと誘います。
ミセス・ベンは、ジェームズ・スティーヴンスにホテルで会い、ダーリントン卿、カーディナルやダーリントン・ホールについて聞きます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミセス・ベンにダーリントン・ホールで働かないかと誘います。
ミセス・ベンは、ジェームズ・スティーヴンスに娘のキャサリンに子供ができたので、ダーリントン・ホールでは働けないと断ります。
ジェームズ・スティーヴンスとミセス・ベンは、桟橋で夕暮れを過ごし、語り合います。
ジェームズ・スティーヴンスは、ミセス・ベンと一緒に、雨の降る中、バス停でバスを待ちます。
バスがバス停に来て、ジェームズ・スティーヴンスは、ミセス・ベンと別れの言葉を交わします。

ジェームズ・スティーヴンスは、ダーリントン・ホールに戻り、ジャック・ルイスに村の娘を3人と、男子高校の寮母をハウスキーパーに雇うことを伝えます。
ジャック・ルイスは、購入した絵画を壁に架けます。
1羽の鳩が部屋に舞い込んできたので、ジェームズ・スティーヴンスは、鳩を外に逃がします。

登場人物

ジェームズ・スティーヴンスは、アンソニー・ホプキンスが演じるダーリントン・ホールに住むダーリントン卿の執事で、ハウスキーパーとしてミス・ケントンを副執事としてウィリアム・スティーヴンスを採用し、ミス・ケントンの仕事には満足し、仕事を通してミス・ケントンに恋愛感情を抱き、ミス・ケントンとダーリントン卿からウィリアム・スティーヴンスの仕事の問題を指摘され、ウィリアム・スティーヴンスの仕事を軽くし、ダーリントン卿から頼まれれば難題でも引き受け、父親であるウィリアム・スティーヴンスが倒れ、ダーリントン・ホールで行われる国際会議を執事として従事し、父親であるウィリアム・スティーヴンスを看取ることはできず、ダーリントン卿に問題があっても忠実に執事として従事し、ダーリントン卿から頼まれればユダヤ人という理由で2人のメイドを解雇し、ミス・ケントンの意見を受け入れリジーというメイドを雇い、スペンサー氏からの質問には「申し訳ありません、私はお役には立てません」と答え、ミス・ケントンに恋愛小説を読んでいるのを隠そうとして、隠しきれず、予定外に訪れてきたカーディナルを部屋に通してダーリントン卿に伝え、ミス・ケントンがトーマス・ベンからプロポーズされていると伝えられ、動揺し、イギリス首相のネヴィル・チェンバレン、イギリスの外務大臣のハリファックス卿と駐英ドイツ大使のリッペンドロップを執事としてダーリントン・ホールに向かい入れ、極秘会談を陰で支援し、カーディナルからダーリントン卿のしていることの危険性の指摘を受け、ダーリントン・ホールを購入し、移住してきたジャック・ルイス元議員の執事になり、ミセス・ベン(ミス・ケントン)から手紙を受け取り、ジャック・ルイス元議員のダイムラーで自動車旅行し、ミセス・ベンに会って、ミセス・ベンがダーリントン・ホールで働く意思のないことを確認し、村娘や寮母を雇用します。

ミス・ケントン(ミセス・ベン)は、エマ・トンプソンが演じるレイシー卿に仕え、辞めて、ダーリントン卿に仕えているハウスキーパーで、ジェームズ・スティーヴンスのために花を飾り、リジーを雇用し、リジーに仕事を教え、リジーが仕事を辞めて、結婚することに落胆し、トーマス・ベンにプロポーズされ、仕事を辞めて、結婚し、キャサリンという娘が生まれ、娘のキャサリンは成長し、結婚し、夫のトーマス・ベンとは別居し、ジェームズ・スティーヴンスに手紙を書き、娘のキャサリンに子供が生まれ、ジェームズ・スティーヴンスにダーリントン・ホールで働く意思はないことを伝えます。

ジャック・ルイスは、クリストファー・リーヴが演じるアメリカの富豪の御曹司で、子供の頃にイギリスを訪れ、イギリスを第2の故郷のように思い、ペンシルべニア州の下院議員で、有力な外交委員会の委員で、ダーリントン・ホールで行われた会議に参加し、ドイツを抑えるように意見を述べ、退職後にダーリントン・ホールを購入し、移り住んで、ジェームズ・スティーヴンスにダイムラーで自動車旅行を勧めます。

ダーリントン卿は、ジェームズ・フォックスが演じるネヴィル・チェンバレンと親しい貴族で、ドイツのベルリンに行って、ドイツの支持者になり、近在の方々と親しくするために好きでもないキツネ狩りを主催し、好きな晩餐を行い、ドイツの経済復興、再軍備や兵役制度の復活を助け、強いドイツと平和を求めるために非公式に話し合うことに名誉を感じ、名付け親になっているカーディナルを気にかけ、エルサとアルマというユダヤ人女性をメイドとして雇用し、解雇し、解雇した間違いに気が付き、イギリス首相のネヴィル・チェンバレン、イギリス外務大臣のスタンリー・ボールドウィンと駐英ドイツ大使のリッペンドロップとの密談を主催し、第二次世界大戦後、ダーリントン卿を反逆者呼ばわりした新聞社を訴えて、敗訴し、晩年はふさぎ込んで過ごして、亡くなります。

ウィリアム・スティーヴンスは、ピーター・ヴォーンが演じるジェームズ・スティーヴンスの父親で、75歳で、ダーリントン卿の副執事で、仕事中に倒れて、その後亡くなります。

カーディナルは、ヒュー・グラントが演じるダーリントン卿が名付け親になった青年で、ダーリントン卿の秘書官になり、新聞記者になり、戦死します。

デュボン・ディブリーは、マイケル・ロンズデールが演じるフランスの政治家で、ダーリントン卿と同じで、ドイツの経済復興、再軍備や兵役制度の復活を助け、強いドイツと平和を求めます。

スペンサーは、パトリック・ゴッドフリーが演じるダーリントン卿と親交のある貴族で、知識も情報も持ち見識のある人が国の行く末を決めるべきで、知識も情報も持たない市民に国の行く末を決めることはできないという考えの持ち主です。

カーライルは、ピップ・トレンスが演じる男性の医師で、ジェームズ・スティーヴンスとモスコム村で出会い、ジェームズ・スティーヴンスを車で送った人です。

トーマス・ベンは、ティム・ピゴット・スミスが演じるレイシー卿に仕え、辞めて、ジェフリー卿に仕える執事で、執事を辞めて、故郷のクリーブドンという海沿いの町で、新聞とかタバコを売る小さな店、または小さな宿を始めようとして、ミス・ケントンにプロポーズし、結婚し、キャサリンという娘が生まれます。

ネヴィル・チェンバレンは、フランク・シェリーが演じる1937年5月28日から1940年5月10日までイギリスの首相を務めます。

ハリファックス卿は、1938年2月21日から1940年12月23日までイギリスの外務大臣を務めます。

リッペンドロップは、ヴォルフ・カーラーが演じるドイツ貴族出身、英仏語に堪能で、イギリス社交界に人気があり、イギリス上流社会にナチスのシンパを増やすことに暗躍する、駐英ドイツ大使です。

チャーリーは、ベン・チャップリンが演じる従僕で、ジェームズ・スティーヴンスの部下です。

リジーは、レナ・ヘディが演じるメイドで、ミス・ケントンの部下です。

スタンリー・ボールドウィンは、1923年5月22日から1924年1月22日、1924年11月4日から1929年6月4日、1935年6月7日から1937年5月28日までの3回のイギリスの首相を務めます。

ロバート・アンソニー・イーデンは、1935年12月22日から1938年2月20日、1940年12月22日から1945年7月26日、1951年10月28日から1955年4月7日までの3回のイギリスの外務大臣を務め、1955年4月7日から1957年1月10日までイギリスの首相を務めます。

スミスは、ダンケルクで息子が戦死しています。

単語説明

ギニーは、イギリスで使用されていた金貨です。

エリザベス朝は、エリザベス1世がイギリスを統治した1558年から1603年までを示します。

執事は、ワイン等の酒類と食器を管理し、男性使用人を統括して、食事時に男性主人のそばに控えて、飲食物をテーブルに出し、男性主人の秘書的役割を担い、客人たちをもてなし、他の使用人達と一緒に食事をして、個室を持ち、屋敷と領地の管理と経営します。

副執事は、執事の助手で、執事の仕事を手伝います。

ハウスキーパーは、女性使用人を統括し、女性主人に仕え、秘書的役割を担い、執事と同格で、副執事よりも格上です。

下宿は、大家が持っている家具付きの家の部屋を週単位で借りて、住むことです。

ダイムラーは、イギリスに存在した自動車メーカーの自動車で、イギリス王室御用達の自動車です。

晩餐は、客を招いてもてなす豪華な夕食です。

ローストは、肉を蒸し焼きにした料理です。

箒は、床のほこりやごみを集めます。

塵取りは、箒で集めた床のほこりやごみを入れます。

階段の踊り場は、階段の途中に設けられた広い平坦な場所のことです。

ナチ党は、1920年1月5日、「ドイツ労働者党」から「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)」に変更したドイツの政党で、1921年7月29日、アドルフ・ヒトラーを議長に選出し、1932年7月31日、国政選挙で、203議席を獲得し、第一党になり、1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、アドルフ・ヒトラー内閣が成立させ、1933年3月24日、全権委任法を成立させ、アドルフ・ヒトラーによる独裁が始まり、ユダヤ人を迫害し、国際連盟を脱退し、ベルサイユ条約のの軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言し、1938年3月13日、オーストリアを統合し、1938年9月29~30日、イタリア、イギリス、フランス、ドイツの首脳によるミュンヘン会談の合意を受け入れますが、1939年3月、ミュンヘン会談の合意に従わずに、チェコスロバキアを支配し、1939年9月1日、ポーランドを侵攻し、1939年9月3日、イギリスとフランスに宣戦布告され、第二次世界大戦を始めます。

国際条約は、ベルサイユ条約のことです。

ユダヤ人問題は、アドルフ・ヒトラーが反ユダヤ主義を掲げ、ユダヤ人を迫害し、虐殺するという問題です。

ベルサイユ条約は、1919年6月28日、連合国とドイツが、ドイツの領土は縮小し、ドイツの植民地を放棄し、ドイツの軍備・兵器は制限し、ドイツが支払う賠償総額が1320億金マルクとして、フランスのベルサイユで講和条約を締結し、第一次世界大戦は終わらせた国際条約です。

敷石は、敷き詰められた表面が平らな石のことです。

真鍮は、銅と亜鉛の合金で、鉄鋼材に比べ錆びにくく水気にも強く、加工が容易なので、ドアノブ等に使用されます。

銀器は、銀でできた食器で、高価ですが、黒く変色するので、磨き粉などで磨いて除去します。

マカボニーは、加工しやすく、見た目が綺麗なので、高級家具に使用される木材です。

鴨は、雁に比べて体が小さく首があまり長くない水鳥です。

雁は、鴨より大きくハクチョウより小さい水鳥です。

ロンドン塔は、イギリスのロンドンを流れるテムズ川岸にイギリス国王が住むために建造され、イギリス国王が住み、造幣所、天文台、王立動物園も併設され、イギリス国王が住まなくなった後は、身分の高い政治犯を収監、処刑する監獄として使用され、現在もイギリス王室が所有し、世界遺産に登録されている観光名所です。

講和条約は、ベルサイユ条約のことです。

脳内出血は、脳内の血管が破綻し、脳内に出血し、頭蓋内圧が上昇し、頭痛・嘔気・意識障害が起こり、死亡率75%にもなる病気です。

3ペンスは、約6円です。

刑務所は、裁判によって罪が確定した受刑者を収容し、更生させるための施設です。

強制収容所は、政治的理由で、裁判を受けることなくユダヤ人を隔離し、殺害した施設です。

マッシュルームは、ヨーロッパから導入された食用の白いキノコです。

セロリは、ヨーロッパから導入された食用の植物で、独特の強い香りがあり、葉、茎、実の部分を食べることが出来ます。

シェリー酒は、白ブドウを醸造過程でアルコールを添加することでアルコール度数を高めたワインで、アルコール度数は15~19度です。

クルトンは、焼いたパンをサイコロ状に切ってもう一度焼き上げたり、バターや油で炒めたり揚げたりしたパンです。

ウィンストン・チャーチルは、1940年5月10日から1945年7月26日、1951年10月26日から1955年4月5日までイギリスの首相を務めました。

米国の債務状況は、フランクリン・ルーズベルト大統領が、世界恐慌対策として、1934年に歳出を増やし、FRBに30億ドルもの米国債を購入させ、労働者の賃金の切り上げ、労働者は解雇され、債務残高はGDP比40%になりました。

金本位制の廃止は、1933年4月19日、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が、世界恐慌対策として、銀行倒産などの金融不安解消のために、ドルと金の交換を停止し、金本位制を廃止しました。

ボルシェビキ・ロシアは、1917年2月27日、二月革命でロシア帝政が崩壊し、1917年10月25日、ウラジーミル・レーニンが十月革命で、成立したソビエト連邦のことです。

ソビエト連邦とフランスは、1935年5月2日、対ドイツのために軍事条約を締結しました。

北アフリカ情勢に関するフランス首相の発言は、エジプトがスエズを国有化したことに対する発言です。

ハリファックス卿は、1938年2月21日から1940年12月23日までイギリスの外務大臣を務めました。

ガルダ湖は、イタリアにある交際的なリゾート地になっている湖です。

最後のセリフ

窓の外へ出て行きました

年表

1919年6月28日、連合国とドイツが、ベルサイユ条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。

1920年、ダーリントン卿は、ベルリンを訪れました。

1922年、ダーリントン卿は、ウィリアム・スティーヴンスを副執事として、ミス・ケントンをハウスキーパーとして、雇います。

ウィリアム・スティーヴンスは、銀食器を運んでいるときに、つまずいて、倒れます。
ジェームズ・スティーヴンスは、ウィリアム・スティーヴンスに清掃作業を命じます。

1935年3月、ダーリントン卿は、フランスの政治家のデュボン・ディブリー、アメリカの下院議員のジャック・ルイス等々をダーリントン・ホールに招いて、秘密の会合をします。
ウィリアム・スティーヴンスは、脳内出血で亡くなります。

ミス・ケントンは、トーマス・ベンからのプロポーズを受け入れて、ダーリントン・ホールのハウスキーパーを辞めて、トーマス・ベンと結婚し、英国西部へ引っ越します。

1935年3月16日、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、ベルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言しました。

1935年6月7日、スタンリー・ボールドウィンはイギリスの首相に就任します。
1935年12月22日、ロバート・アンソニー・イーデンは、イギリスの外務大臣に就任します。

1936年8月、リッベントロップは、駐英ドイツ大使に任命されます。
1937年5月28日、スタンリー・ボールドウィンはイギリスの首相を退任し、ネヴィル・チェンバレンはイギリスの首相に就任します。
1938年2月20日、ロバート・アンソニー・イーデンはイギリスの外務大臣を退任し、ハリファックス卿はイギリスの外務大臣に就任します。
1938年3月13日、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、オーストリアへ進駐し、統合します。
1938年4月、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、対チェコスロバキアへ進駐します。

ダーリントン卿は、イギリスの首相のネヴィル・チェンバレン、イギリスの外務大臣のハリファックス卿と駐英ドイツ大使のリッベントロップをダーリントン・ホールに招いて、秘密の会合をします。

1940年5月10日、ネヴィル・チェンバレンはイギリスの首相を退任し、ウィンストン・チャーチルはイギリスの首相に就任します。

1940年12月23日、ハリファックス卿はイギリスの外務大臣を退任し、ロバート・アンソニー・イーデンはイギリスの外務大臣に就任します。

1945年7月26日、ウィンストン・チャーチルはイギリスの首相を退任し、クレメント・アトリーはイギリスの首相に就任します。
1945年7月26日、ロバート・アンソニー・イーデンはイギリスの外務大臣を退任し、アーネスト・ベヴィンはイギリスの外務大臣に就任します。

1951年10月26日、クレメント・アトリーはイギリスの首相を退任し、ウィンストン・チャーチル首相はイギリスの首相に就任します。
1951年10月28日、ハーバート・モリソンはイギリスの外務大臣を退任し、ロバート・アンソニー・イーデンはイギリスの外務大臣に就任します。

ダーリントン卿は、反逆者呼ばわりした新聞社を名誉棄損で提訴し、敗訴します。
1953年、ダーリントン卿は、亡くなります。

1955年4月5日、ウィンストン・チャーチルはイギリスの首相を退任し、ロバート・アンソニー・イーデンはイギリスの首相に就任します。

ジャック・ルイスは、ダーリントン・ホールを購入します。
ミセス・ベンは、ジェームズ・スティーヴンスに手紙を送ります。
1956年10月、ジェームズ・スティーヴンスは、ミセス・ベンに会うために、英国西部を自動車で旅行します。

1957年1月10日、ロバート・アンソニー・イーデンはイギリスの首相を退任します。

時代背景

1912年4月14日午後23時40分、タイタニック号は、氷山に衝突しました。
1912年4月15日午後2時20分、タイタニック号は、沈没しました。
映画「タイタニック」

1915年10月24日、イギリスは、アラブ人に対トルコ戦協力を条件にパレスチナ独立支持を約束した「フサイン=マクマホン協定」を結びました。

1916年5月16日、イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定、「サイクス・ピコ協定」を結びました。
この協定では、アラブ人のパレスチナ独立支持を認めない内容でした。

1917年11月2日、「バルフォア宣言」として、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を示し、その支援を約束しました。

1919年1月5日、ミュンヘンの「フュルステンフェルダー・ホーフ」というビアホールでドレクスラーが労働者24人と共にミュンヘンで「ドイツ労働者党」を結成しました。

1919年6月28日、連合国とドイツが、ヴェルサイユで講和条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。
ドイツは、ドイツの領土は縮小され、植民地を放棄し、軍備・兵器は制限され、賠償総額が1320億金マルクとされました。

1919年10月19日、アドルフ・ヒトラーは、「ドイツ労働者党」に入党しました。

1920年1月5日、アントン・ドレクスラーは、政党名を「ドイツ労働者党」から「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」に変更しました。
アドルフ・ヒトラーは、ナチスの第一宣伝部長に就任しました。

1921年7月29日、アドルフ・ヒトラーは、ナチスの議長に選出されました。

1923年1月11日、フランスとベルギーは、賠償金を支払わないドイツの石炭の73%、鉄鋼の83%を生産するルール地方の占領を開始しました。
ドイツは、ルール地方でストライキを行い、ドイツ経済は破綻し、ハイパーインフレーションに陥りました。

1923年11月8日、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーというビアホールで行われていたバイエルン州総督グスタフ・フォン・カールの演説会に、アドルフ・ヒトラーらが乱入し、クーデター未遂事件を起こしましたが、1日で鎮圧されました。
1923年11月9日、バイエルン州は、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。
1923年11月23日、ドイツは、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。

1924年4月1日、アドルフ・ヒトラーは、ランツベルク・アム・レヒの要塞刑務所の7号室で5年の城塞禁固刑となりました。
アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の執筆を開始しました。
1924年5月4日、ドイツの総選挙において、ナチスの偽装政党である「国家社会主義自由運動」が32議席を獲得しました。

1924年9月26日、米国は、フランスにルール占領の解消、賠償金額の免除と段階的引き上げにするドーズ案を受け入れさせました。
1924年10月、フランスとベルギーは、ドイツのルール地方から撤退を開始しました。

1924年12月20日、アドルフ・ヒトラーは、保護観察処分に減刑され、仮出獄されました。

1925年2月16日、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトは、ナチス再結成を許可しました。
1925年2月27日、ナチスはビュルガーブロイケラーでナチス再結党大会という集会を開催し、アドルフ・ヒトラーは演説をしました。
1925年7月18日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第1巻を出版しました。
1926年12月11日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第2巻を出版しました。
1928年5月20日、ナチスは、初めての国政選挙で、12議席を獲得しました。

1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所の株が大暴落することから始まり、日本を含む世界中の株が大暴落した世界大恐慌が発生しました。
日本では、昭和恐慌と呼ばれています。

1930年3月12日、ガンジーは、「塩の行進」をアーメダバードから始めました。
1930年4月6日、ガンジーは、「塩の行進」をダーンディーに到着し、世界中のメディアが伝えました。
映画「ガンジー」

1930年9月14日、ナチスは、国政選挙で、107議席を獲得し、第二党になりました。

1931年9月18日、日本軍は、満洲事変を起こして満洲全土を占領しました。
1932年3月1日、日本は、満州国の独立を宣言しました。

1932年3月13日、ドイツの大統領選挙で、アドルフ・ヒトラーは、30%の票を獲得しますが、大統領には選出されませんでした。

1932年7月31日、ナチスは、国政選挙で、203議席を獲得し、第一党になりました。

1932年9月15日、日本は、満州国の独立を承認しました。
1932年10月1日、国際連盟理事会に満州国の独立を認めないリットン報告書が提出されました。

1932年11月6日、ナチスは、国政選挙で、196議席を獲得し、第一党を維持しました。
1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、アドルフ・ヒトラー内閣が成立します。

1933年2月24日、国際連盟理事会は、リットン報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)、投票不参加1国(チリ)となり、満州国は認められませんでした。

1933年2月27日、ドイツの国会議事堂が放火され、炎上しました。
1933年2月28日、ドイツは、国家防衛緊急令を公布しました。
1933年3月1日、ドイツは、反逆防止緊急令を公布しました。
ドイツの言論の自由や所有権は著しく制限されました。
ドイツ政府は、連邦各州の全権を掌握し、反ナチスとみなす人、左翼思想家を強制収容所へ送り込む法的根拠となりました。

1933年3月8日、日本は、国際連盟を脱退しました。

1933年3月24日、ドイツは、全権委任法が成立しました。
アドルフ・ヒトラーは、議会を通すことなく、法律を作ることができることになり、ドイツの議会政治は終わり、独裁政治が始まりました。
ドイツでは、ユダヤ系ドイツ人に激しい迫害が加えられましたが、国交を結んでいるユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていました。
1933年10月14日、ドイツは、国際連盟を脱退しました。
1934年11月12日、ドイツの国際連盟脱退の是非を直接国民に問うために国民投票を実施し、95.1%という圧倒的多数の賛成により、ドイツの国際連盟脱退が支持されました。
1935年3月16日、ドイツは、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言しました。

1935年3月27日、日本は、国際連盟の脱退が正式に発効されました。

1935年8月31日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、「中立法」を制定しました。
「中立法」は、戦争状態にある国が存在していること、または内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物質の輸出を禁止します。

1937年5月28日、ネヴィル・チェンバレンがイギリス首相に就任しました。

1937年、ドイツは、反社会分子とみなす人、暴力団、売春婦、乞食、浮浪者、住所不特定の者、労働忌避者、同性愛者、アルコール中毒者、訴訟を大量に起こしている者、交通規則違反者、絶えず職場に遅刻する者、無断で休暇を取る者、自分の職務以外の仕事を勝手に引き受けている者を強制収容所へ送り込むようになりました。

1938年3月13日、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、オーストリアへ進駐し、歓迎を受けて、統合しました。
オーストリアは、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」を決議し、発布しました。
ドイツは、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」が公布されました。

1938年4月、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、対チェコスロバキアへ進駐しました。

1938年9月29~30日、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介し、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統がドイツのミュンヘンで会談を行い、ドイツとの戦争を回避するために、ドイツの主張を受け入れ、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツへ譲渡することを認めるという融和政策で問題を解決しました。

1938年10月6日、ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効にすることを決定しました。
1938年10月28日、ドイツは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効が無効になる前に、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人をポーランドに移送しました。
ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の入国を拒否しました。
ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人は、国境地帯で放浪し、窮乏し、餓死しました。

1938年11月7日、ドイツによって追放されたポーランド系ユダヤ人のヘルシェル・グリュンシュパン(17歳)は、ドイツ警察から非道の仕打ちを受けていることを世界に訴えるために、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んで、殺害しました。
1938年11月9日、ドイツのSA(突撃隊)がユダヤ人の商店や企業を破壊しました。
1939年3月、ドイツは、ミュンヘン会談の合意に従わずに、チェコスロバキアを支配下にしました。

1939年5月~9月、日本とソ連は、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐっての間で断続的に日ソ国境紛争が発生しました。

1939年8月23日、ドイツとソ連は不可侵条約を締結するだけでなく、ドイツとソ連がポーランドへ進行することを認めていました。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻しました。
ポーランドのダンツィヒ郊外にシュトゥットホーフ強制収容所が設置されました。

1939年9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告しました。
1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻し、デンマークを占領しました。

1940年4月、ドイツが占領していたポーランドのアウシュヴィッツに巨大な強制収容所の建設を命じました。
ドイツは、ヨーロッパ中に強制収容所を建設しました。

1940年5月10日、ドイツ軍はフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻を開始しました。
イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が辞職し、ウィンストン・チャーチルが首相に就任しました。

1940年5月15日、ドイツ軍はオランダを占領しました。
1940年5月20日、ドイツ軍は英仏海峡に到達し、イギリス軍とフランス軍を包囲しました。
1940年5月21日、イギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍の侵攻を遅らせるためにカレーから進軍し、ドイツ軍を反撃し、ダメージを与えました。
1940年5月22日、ドイツ軍は、カレーに向かって進軍しました。
1940年5月23日、イギリス軍とフランス軍は、カレーに後退しました。
1940年5月24日、ドイツ軍は、カレーを包囲し、降伏するよう説得しました。
イギリスとフランスからの抵抗せよという命令を受けたイギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍に抗戦しました。
1940年5月25日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから「ダイナモ作戦」と名づけられました。
1940年5月26日、イギリスは、「ダイナモ作戦」を実施し、ダンケルクから33万の連合軍兵士を撤退を開始しました。
カレーのイギリス軍とフランス軍は降伏しました。
1940年5月28日、ドイツ軍はベルギーを占領しました。
1940年6月4日、イギリスは、「ダイナモ作戦」によって、ダンケルクから30万の連合軍兵士を撤退させるのに成功しました。
映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」
映画「ダンケルク」
1940年6月7日、ノルウェー国王は家族とともに英国に亡命しました。
1940年6月8日、連合国派遣軍は、ノルウェーからの撤退しました。
1940年6月9日、ドイツは、ノルウェーを占領しました。
1940年6月10日、イタリアが、イギリスとフランスに宣戦しました。
1940年6月14日、ドイツ軍は、パリに進軍しました。
1940年6月16日、フランスは、ドイツに休戦を申し入れました。
1940年6月22日、ドイツとフランスは、休戦条約に調印しました。
ドイツ軍は、パリを含む北部フランスを占領し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を設立しました。
ドイツ軍は、フランス軍空軍基地をイギリス前進基地として使用可能になりました。
ドイツ軍は、ソ連への侵攻を開始しました。
日本は、イギリスにビルマおよび香港を経由する中国への物資輸送を閉鎖させました。

1940年7月1日、ドイツ軍は英国領チャンネル諸島を占領しました。
1940年7月10日、ドイツ空軍がイギリス空軍を発見し、攻撃しました。
1940年7月16日、ドイツは、イギリス上陸作戦の準備を始めました。
1940年7月22日、イギリスは、ドイツの和平案を拒否しました。
1940年8月1日、ドイツは、ドイツ空軍がイギリスの制空権を確保することを前提したイギリス上陸作戦を決定しました。
ドイツ空軍は、イギリス空軍の殲滅を第一に掲げられ、戦闘機の殲滅と飛行場や航空機産業も攻撃の対象にするよう指令を出しました。
1940年8月30日、ドイツは、爆撃目標をロンドンに変更しました。
1940年9月15日、ドイツ空軍は、大規模なロンドン空爆を行いましたが、大きな損害を出しました。
ドイツ空軍は、イギリスの制空権を取ることができませんでした。
ドイツ軍が初めて大敗を喫した戦いでした。
1940年9月17日、ドイツはイギリス上陸作戦を中止しました。

1940年9月27日、日本とドイツとイタリアは、日独伊三国同盟を締結しました。

1940年11月9日、イギリス前首相ネヴィル・チェンバレンは亡くなりました。

1941年3月11日、アメリカ合衆国は、レンドリース法成立させ、その国の防衛がアメリカ合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考えるような国に対して、あらゆる軍需物資を、売却し、譲渡し、交換し、貸与し、賃貸し、あるいは処分することができるようになりました。

1941年4月13日、日本とソビエト連邦は、「日本国及ソヴイエト連邦間中立条約(日ソ中立条約)」を締結し、相互不可侵、一方が第三国に軍事攻撃された場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、および、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた声明書から構成され、有効期間は5年間で、有効期間満了1年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は5年間自動延長されるとしている。

1941年8月1日、アメリカ合衆国は、日本への石油の全面禁輸を行いました。
日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく、石油がなくなる前に東南アジアの産油地帯を攻略することになりました。
東南アジアの攻略と資源の輸送ルートを考慮すると、アメリカ合衆国の植民地だったフィリピンおよびグアムの攻略も不可欠であり、アメリカ合衆国への開戦することになりました。日本への石油の全面禁輸と日本の東南アジアの攻略は、日本とアメリカ合衆国による太平洋戦争の原因になりました。

1941年8月、ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることにしました。
1941年10月、ドイツは、アウシュヴィッツ強制収容所兼絶滅収容所でユダヤ人をガスで殺害し始めました。

1941年11月27日、アメリカ合衆国から日本に提示された交渉文書であるハル・ノートをもとにした交渉が決裂しました。

1941年12月8日、日本軍は、アメリカ合衆国ハワイのオアフ島の真珠湾にある米軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃しました。
日本海軍は、航空機54機を失い、航空機74機が損傷しました。
アメリカ海軍は、戦艦アリゾナ、戦艦オクラホマ、標的艦ユタ、戦艦カリフォルニアが沈没し、戦艦ウエストバージニア、機雷敷設艦オグララ、戦艦ネバダ、駆逐艦ショー、駆逐艦ダウンズ、駆逐艦カッシン、工作艦ヴェスタルが大破し、戦艦テネシー、戦艦メリーランド、戦艦ペンシルベニア、軽巡洋艦ロウリー、駆逐艦母艦ドビン、水上機母艦カーチスを損傷し、航空機188機を失い、航空機159機が損傷しました。

日本軍は、英国領の香港を陥落しました。

1942年1月20日、ドイツの高官15人は、ヴァンゼー湖のほとり、ベルリンの高級住宅街にある大邸宅で会議を行い、「ヨーロッパのユダヤ人問題に対する最終的解決」を話し合い、ヨーロッパのすべてのユダヤ人を意図的に慎重に計画的に抹殺することを決定しました。
ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることを正式に宣言しました。
ユダヤ人の絶滅を行ったのは、ベラルーシのマリィ・トロステネツ強制収容所、ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、マイダネク(ルブリン)強制収容所です。
数百万人のユダヤ人が殺害されました。

1942年1月25日、ヒトラーは、ユダヤ人をドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市にあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所への移送を命令しました。

1942年2月15日、日本軍は、英国領のシンガポールを陥落しました。

1942年4月18日、航空母艦ホーネットと航空母艦エンタープライズから発進したB-25双発爆撃機ミッチェル16機が、太平洋戦争で初めて日本本土(東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等)を爆撃しました。
日本本土爆撃を終えたB-25双発爆撃機ミッチェルのうち15機は中国大陸に不時着して放棄されました。
残りの1機は、ソビエト連邦支配地域に不時着して、搭乗員は抑留されました。

1942年5月4~8日、珊瑚海に進出する日本海軍の計画を知った米国海軍が、先に進出し、航空機で日本の空母部隊を空襲し、日本海軍が航空機で米国の空母部隊を捕捉し、空襲しました。
日本海軍は、空母祥鳳、駆逐艦菊月、掃海艇3隻が沈没し、空母翔鶴、駆逐艦夕月、敷設艦沖島が損傷し、航空機97機を失いました。
米国海軍は、空母レキシントン、油槽船ネオショー、駆逐艦シムスが沈没し、空母ヨークタウンが損傷し、航空機69機を失いました。

1942年5月27日、亡命チェコ軍人がラインハルト・ハイドリヒ暗殺を実行しました。
1942年6月4日、ラインハルト・ハイドリヒは死去しました。

1942年5月、連合国軍はビルマから総退却し、日本軍はビルマ全域を占領しました。
日本は、アメリカがビルマを経由して中国に物資輸送するルートを閉鎖しました。

1942年6月5日から7日、日本海軍とアメリカ海軍がミッドウェー海で交戦し、日本海軍はアメリカ海軍に敗北しました。
日本海軍は、航空母艦赤城、航空母艦加賀、航空母艦蒼龍、航空母艦飛龍、重巡洋艦三隈が沈没し、重巡洋艦最上、駆逐艦荒潮が損傷し、航空機289機を失いました。
アメリカ海軍は、航空母艦ヨークタウン、駆逐艦ハムマンが沈没し、航空機150機を失いました。

1942年11月26日、ノルウェー秘密国家警察・クヌート・ロッドは、警官とタクシー運転手らによって、ノルウェーに住むユダヤ人全員をオスロ港へと強制移送し、「ドナウ号」でアウシュヴィッツへ強制移送しました。

1943年1月14~23日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、モロッコのカサブランカで会談し、ドイツ、イタリアと日本に対して無条件降伏を要求すること、ビルマにおける本格的に反攻することなどに合意しました。

1943年7月4日から8月27日、ドイツ軍とソ連軍がクルスクで交戦し、ドイツ軍はソ連軍に敗北しました。

1943年9月8日、イタリアは、連合国に降伏しました。

1943年11月22~26日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蒋介石がエジプト王国のカイロで会談を行い、連合国が日本の無条件降伏まで戦うこと、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還することを提示し、中華民国が日本と単独講和をしないようにしました。
ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、中国の戦争からの脱落を防ぎ、日本軍が中国を攻撃することで、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻撃をできないようにしました。

1943年11月28日~12月1日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、イランのテヘランで会談を行い、ビルマ奪回作戦、ノルマンディー上陸作戦などの連合国側の作戦における各国間の調整を行い、ポーランド国境の確定、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦も話し合いました。

1944年6月5日、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始し、橋を確保し、砲台陣地を破壊し、ドイツの反撃を阻止しました。

1944年6月6日、米国とイギリスは、100万人を超える兵士で、ノルマンディー上陸作戦を行い、1日で上陸を果たしました。

1944年7月23日、ソ連軍は、マイダネク(ルブリン)強制収容所を開放しました。

1944年8月25日、連合軍は、パリを含むフランスを開放し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を打倒しました。

1945年1月27日、ソ連軍は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を開放しました。

1945年1月30日~2月3日、アメリカのエドワード・ステティニアス国務長官とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が、マルタ共和国のマルタで会談し、ソ連軍が中央ヨーロッパまで前進することは望ましくないと言うことで合意し、ホロコーストによる数百万人の難民をどうするについて話し合い、ソ連とのヤルタ会談の事前会談になりました。

1945年2月4~11日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で会談し、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治、ポーランド人民共和国の国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。
国際連合の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5カ国の拒否権を認めました。
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦、および千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇も決定し、北方領土問題の発端となりました。

1945年2月19日、アメリカ軍は、硫黄島への上陸作戦を始めました。
1945年3月17日、アメリカ軍は、硫黄島を制圧しました。

1945年4月11日、アメリカ軍は、ブーヘンヴァルト強制収容所を解放しました。
1945年4月15日、イギリス軍は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放しました。
アンネ・フランクは、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死亡していました。

1945年4月25日、アメリカ軍は、前田高地への攻撃を開始しました。

1945年4月29日、アメリカ軍は、ダッハウ強制収容所を解放しました。
1945年4月30日、アドルフ・ヒトラーは、総督官邸の地下壕で自殺しました。

1945年5月6日、アメリカ軍は、前田高地を制圧しました。

1945年5月7日、ドイツは、連合国に無条件降伏しました。
1945年5月9日、イギリス領チャンネル諸島を占領していたドイツ軍は降伏しました。

1945年5月27日、沖縄守備軍は、首里を放棄し、南部への撤退を開始しました。
1945年6月23日、牛島満司令官達が自決しました。
1945年7月2日、アメリカ軍は、沖縄戦終了を宣言しました。

1945年7月17日~8月2日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連占領地域となったポツダムで会談し、第二次世界大戦の戦後処理を決定しました。
ポツダム宣言には、「日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである」と記述されています。
原子爆弾の準備ができたから、日本に投下するということです。

1945年8月6日、アメリカ軍は、日本の広島市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月9日、アメリカ軍は、日本の長崎市に原子爆弾を投下しました。

1945年8月14日、日本は、ポツダム宣言を受諾しました。

1945年8月15日、日本は、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明し、連合国に降伏しました。

1945年9月2日、日本は、ポツダム宣言に調印・即時発効(降伏文書)によって第二次世界大戦は終結しました。

1945年9月7日、沖縄守備軍は、降伏しました。

1961年4月11日、アドルフ・アイヒマンは、「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、裁判が始まりました。
映画「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」

1961年12月15日、アドルフ・アイヒマンは、すべての訴因で有罪が認められた結果、死刑の判決が下されました。

1962年6月1日、アドルフ・アイヒマンは、ラムラ刑務所で絞首刑が執行されました。

1963年、ハンナ・アーレントは、「ザ・ニューヨーカー」誌に「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を発表しました。
映画「ハンナ・アーレント」

感想

退職後を人生で一番いい時間にしたい

原題は「the Remains of the Day(日が暮れる前のひととき、1日で最も素晴らしい時間)」です。
邦題は「日の名残り」です。
原題の方が映画の内容をよく表しています。
邦題は、意味不明です。

原作の「日の名残り」も読みましたが、映画の方が良いと感じました。
「日の名残り」は、英国人向けに書かれている小説を映画化しているので、日本人には理解しにくいです。
細かい点については考えずに、そういうものだと解釈するほうが良いです。
伏線があり、伏線が回収されるので、ストーリーは良くできています。
時間が前後するので、ストーリーを理解するには、苦労します。
以下の名言もあり、心に響きます。
・覆水、盆に返らず
・人は皆、人生に悔いがあります
・夕暮れが一日で一番いい時間

時代背景を気にしすぎると、時代を超える普遍性が感じにくくなります。
時代を超える普遍性に、注目した方が面白く、得られる物があります。
時代を超える普遍性は、「人生は一度きり、皆、後悔しますが、人生を変えることはできず、人生の最後が人生で一番いい時間」ということです。
このように考えることが出来れば、老若男女のすべての人にお勧めできる映画です。
友人、カップル、夫婦、一人で鑑賞しても良い映画です。

政治家は、歴史を知り、情報に詳しく、人脈があっても「アマチュア」です。
政治家は、歴史を知り、情報に詳しく、人脈があり、将来を見通せて「プロ」と呼ばれます。
将来を見通せることが出来ない政治家は、国民に選挙で選ばれることで、将来の責任を国民に押してける結果になります。
日本の政治は、三権分立も、民主主義も機能せず、変化に対応できず、世襲議員は貴族のようで、永田町の中だけで政治を行っている「アマチュア」です。
日本人は、民主主義のために戦ったことありません。

主人公は、父親と母親の間に問題があり、結婚に前向きになれず、執事として職場恋愛による人材不足に対応してきたので、執事として恋愛はできませんが、恋愛小説は好きです。
若い人は職場恋愛をして結婚しているので、主人公もヒロインと恋愛して、結婚すれば良いと感じさせるストーリが良いです。

主人公は、生涯独身でしょうが、2020年の日本の生涯未婚率は男28.3%で、女17.8%です。
日本に主人公と同じような人は多くいます。
独身で有名人は以下の通りです。
安住紳一郎さん、長瀬智也さん、伊勢谷友介さん、平井堅さん、中村俊介さん、金城武さん、東幹久さん
森口博子さん、井森美幸さん、天海祐希さん、片平なぎささん、島崎和歌子さん、松下由樹さん、石田ゆり子さん

現状維持で変わろうともしない主人公の人生と現状を変えていくヒロインの人生を比較してみるのも楽しいです。
主人公は、やらなかったことへの後悔があります。
ヒロインは、やってしまったことへの後悔があります。
「人は皆、人生に悔いがあります」ということです。
自分で決める、他人とは比べない、失敗をおそれずに、実行することが重要に思えてきます。
アマゾンを起業したジェフ・ベゾスは、この原作を読んで、人生に悔いを残さないために、アマゾンを起業したそうです。
この原作を読んで、この映画を鑑賞して、人生に悔いを残さないために、起業する日本人はいるのでしょうか?

主人公の父親に注目すると、役職定年、高年齢者雇用安定法が改正され70歳まで働かなければならない日本社会の現実の厳しさを再認識させられます。
退職するという引き際についても考えさせられます。

ヒロインの夫に注目すると、辞職し、無職になり、ヒロインにプロポーズするのは無謀とも考えられますが違います。
ヒロインの夫は、故郷に帰り、ヒロインと二度と会うことはないので、プロポーズして、受け入れられなければ、ヒロインに対する思いを引きずることなく、故郷で心機一転、再出発ができるという、プロポーズするには絶好のチャンスだということです。

ヒロインは、結婚したい主人公ではなく、結婚してほしいという夫と結婚することを、結婚したい主人公への嫌がらせで結婚することを決めたのだから、泣きたくなる気持ちもわかるような気がします。
多くの人は、結婚したい相手と結婚するのではなく、結婚できる相手と結婚していいる現状について考えさせられます。
結婚することでしか、子供も孫も得ることはできません。

日本では、仕事をしないで人生を過ごせる人は僅かで、多くの人は仕事をしなければなりません。
仕事で成功するには、優秀であったとしても自分の考えを言わず、無能な組織や無能な上司の考えに従わなければなりません。
無能な組織や無能な上司の考えに従って、個人的には成功しても、変化には対応できず、社会的には失敗し、日本は失われた25年を過ごしています。
無能な組織や無能な上司の考えに従っていれば、いずれは「働かないおじさん、おばさん」になります。
無能な組織や無能な上司の考えに逆らえば、個人的に失敗し、社会的にも失敗します。
女性はもちろん、男性でも、仕事か、結婚かを選択しなければなりません。
どちらを選択しても、後悔しますが、後悔を受け入れるしかありません。

綺麗な夕日を、桟橋で見たくなりました。

まとめ

イギリス文学について、全く知らないので、この映画のレビューを書くには、時間もかかり、苦労もしました。
このレビューを読むことで、映画「日の名残り」を理解することに役立ててくれたら、自分の努力は報われます。
次は、映画「ダンケルク」をレビューする予定です。
ご期待ください。
以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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