「夢をかなえるゾウ4 ガネーシャと死神」と「1日1ページ、読むだけで身につく世界の教養」の中で、出てきた「アドルフ・アイヒマン」について知りたいと感じました。
この映画を鑑賞することにしました。
アドルフ・アイヒマンを被告とした、「ユダヤ人に対する犯罪」など15の罪で起訴された公判のドキュメンタリー映画です。
裁判のドキュメンタリーなので、理解しにくく、感情移入もできず、難しい映画ですが、貴重な映画です。
基本情報・スタッフ
監督 エイアル・シバン
脚本 エイアル・シバン、ロニー・ブローマン
製作 エイアル・シヴァン、アーメル・ラボリー
編集 オードリー・モーリオン
提供 マーメイドフィルム
配給 ピアポア・フィルム
公開 2000年2月5日
上映時間 123分
予告動画
舞台となる場所
イスラエルのエルサレム地方裁判所で行われた公判です。
ベルリンは、ドイツの首都です。
プラハは、チェコの首都です。
ワルシャワは、ポーランドの首都です。
ビアリトスクは、ビャウィストクで、ポーランド北東部の最大の都市です。
ウィーンは、オーストリアの首都です。
ブタペストは、ハンガリーの首都です。
アムステルダムは、オランダの首都です。
ノルウェーは、北欧の国です。
ポーランド総督府は、ナチス=ドイツがドイツ領に合併しなかったポーランド領を統治する機関です。
ポーランド総督府の首都はクラクフで、行政区画はワルシャワ 、ルブリン、ラドム、クラクフと東ガリツィアです。
ラムド=ソビブール、ルブリン=ソビブールとソビブールは、同じ場所を違う言葉で表現していて、ポーランド・ウクライナ国境の西岸にあり、原生林・湿地に囲まれており、近隣に大都市はなく、ユダヤ人のソビブル絶滅収容所がありました。
ルブリン=ベウジェ(ベウジェツ)は、ポーランドのルブリンにある村で、ユダヤ人のベウジェツ強制収容所がありました。
アウシュビッツは、ポーランド南部オシフィエンチム市(ドイツ語名アウシュヴィッツ)で、ユダヤ人のアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所がありました。
ビルカナウは、アウシュビッツに隣接するブジェジンカ村(ドイツ語名ビルケナウ)で、ユダヤ人のアウシュヴィッツ第二強制収容所がありました。
マイダネク(ブリン、ルブリン)は、ポートランドとウクライナの国境付近にあり、ユダヤ人強制収容所がありました。
トレブリンカは、ワルシャワから北東約90kmにあり、ユダヤ人強制収容所がありました。
ドランシー収容所は、フランス・パリの北東にあり、ユダヤ人移送のための収容所がありました。
ヴァンゼーは、ベルリンの西部のヴァンゼー湖のほとり、ベルリンの高級住宅街です。
ヴェステルボルク収容所は、オランダのユダヤ人の通過収容所です。
オランダのユダヤ人は、ヴェステルボルク収容所に集められて、オランダの国外にある絶滅収容所や強制収容所へと移送されました。
コルム、クルム、ヘウムノとクルムホフは、同じ場所で、ヴィスワ川に面したポーランド北部の町で、ユダヤ人のヘウムノ強制収容所がありました。
ヴァルテガウは、ポーランドの東部で、ドイツに編入された地域です。
ホルムは、ドイツが占領したロシアの都市で、ドイツとロシアで激戦が行われました。
ミンスクは、ベラルーシの首都で、ドイツが占領していました。
レンベルク(リヴィウ)は、ウクライナの都市で、ドイツが占領していました。
あらすじ
第7回公判の冒頭陳述から始まります。
ギデオン・ハウスナー検察官は、アドルフ・アイヒマン被告人が犯した罪を感情的に訴え、アドルフ・アイヒマン被告人に死刑を求刑します。
ギデオン・ハウスナー検察官は証人を尋問し、弁護士は証人を尋問せずに、モシェ・ランダウ裁判長とイツァク・ラヴェー裁判官は補充的に証人を尋問します。
ギデオン・ハウスナー検察官は証拠を示して、アドルフ・アイヒマン被告人に質問し、追求します。
アドルフ・アイヒマン被告人は、証拠を見ながら、官僚答弁を繰り返します。
モシェ・ランダウ裁判長は、傍聴人に静粛を度々求め、傍聴人を退廷させ、公判を中止します。
ギデオン・ハウスナー検察官は映像を映写し、証人を尋問し、弁護士は証人を尋問しません。
ギデオン・ハウスナー検察官は、アドルフ・アイヒマン被告人に質問し、追求します。
第71回公判で、ギデオン・ハウスナー検察官は、アドルフ・アイヒマン被告人にヴァンゼー会議について質問し、追求します。
アドルフ・アイヒマン被告人は、書記で、ユダヤ人虐殺の決定には関与していないと言い続けます。
ギデオン・ハウスナー検察官は、アドルフ・アイヒマン被告人にユダヤ人の移送方法について具体的に質問し、追求します。
ギデオン・ハウスナー検察官は、証人にアウシュヴィッツ=ビルカナウ強制収容所について尋問し、ユダヤ人の虐殺について明らかにします。
ギデオン・ハウスナー検察官は、証人にノルウェーからアウシュヴィッツ=ビルカナウ強制収容所に移送され、ユダヤ人の虐殺について明らかにします。
アドルフ・アイヒマン被告人は、ユダヤ人の人物調査、強制収容、強制移送、財産の没収については認めますが、移送状況や移送先での出来事については知らないといいます。
アドルフ・アイヒマン被告人は、署名しても、自分の意志ではなく、「私」という言葉は官僚用語であると言います。
ギデオン・ハウスナー検察官は、アドルフ・アイヒマン被告人に誰の命令で、実行したのかを確認します。
イツァク・ラヴェー裁判官は、アドルフ・アイヒマン被告人に、良心の葛藤はなかったのかと質問します。
アドルフ・アイヒマン被告人は、イツァク・ラヴェー裁判官に、良心の問題ではなく、時代の問題だと答えます。
ギデオン・ハウスナー検察官は、アドルフ・アイヒマン被告人にユダヤ人の移送先を質問します。
アドルフ・アイヒマン被告人は、しどろもどろに移送先を答え、移送先が絶滅収容所の可能性は否定しませんが、知りません答えます。
アドルフ・アイヒマン被告人は、上官の命令で、絶滅収容所に行き、状況を上官に報告しましたと答えます。
ギデオン・ハウスナー検察官は、アドルフ・アイヒマン被告人にユダヤ人を殺した人は犯罪者だと認めさせようとします。
アドルフ・アイヒマン被告人は、ユダヤ人を殺した人を上官の命令に従った、不幸な人だと答えます。
ギデオン・ハウスナー検察官は、アドルフ・アイヒマン被告人に警察の尋問の記録を元に、有罪であることを認めさせようとします。
アドルフ・アイヒマン被告人は、本を書いて、後世に残したいと言い逃れようとします。
モシェ・ランダウ裁判長は、アドルフ・アイヒマン被告人に本に書く内容を、公判で話すことが義務だと言い返します。
アドルフ・アイヒマン被告人は、ユダヤ人の虐殺が人類史上最大の犯罪の1つだと言います。
登場人物
アドルフ・アイヒマンは、被告人です。
モシェ・ランダウは、裁判長で、中央に座っています。
ベンヤミン・ハレヴィは、裁判官です。
イツァク・ラヴェーは、裁判官です。
ギデオン・ハウスナーは、検察官で、証人を法廷で証言させ、証拠を元に、アドルフ・アイヒマンに質問し、アドルフ・アイヒマンの罪を立証します。
ガブリエル・バックは、司法省で、ギデオン・ハウスナーの補佐官です。
ヤーコヴ・バロールは、テル・アヴィヴ地方検事で、ギデオン・ハウスナーの補佐官です。
ベルト・セヴァティウスは、アドルフ・アイヒマンの弁護士です。
ディーター・ヴェヒテンブルッフは、ベルト・セヴァティウスの弁護士助手です。
多数の証人が登場します。
人物説明
ヒムラーは、親衛隊の第3代親衛隊全国指導者で、ユダヤ人虐殺を命令しました。
ハイドリヒは、ゲシュタポ長官及び親衛隊諜報部長官で、ユダヤ人虐殺を推進しました。
ミュラーは、軍人、親衛隊員、ゲシュタポ局長で、親衛隊中将です。
グロボチュニクは、親衛隊の将軍としてポーランド・ルブリン地区親衛隊及び警察指導者を務め、ユダヤ人のゲットーを解体して絶滅収容所へ移送する計画を執行しました。
ヘスは、副総統で、親衛隊名誉指導者であり、親衛隊大将です。
単語説明
公判は、刑事訴訟において、裁判長、検察官、被告人と弁護士が訴訟行為を行うために法廷で行われる手続です。
裁判長は、刑事訴訟において、評議を主宰・整理したり、刑事訴訟を指揮します。
検察官は、刑事訴訟において、裁判所に審判を申し立て、起訴します。
被告人は、刑事訴訟において、犯罪の嫌疑を受けて起訴された人です。
弁護士は、刑事訴訟において、被告人を弁護する人です。
冒頭陳述は、証拠により証明すべき事実を明らかにすることです。
証人尋問は、証人は宣誓をして、証人を請求した者(検察官か被告人か弁護士)が尋問をして、相手方(検察官か被告人か弁護士)が尋問をして、証人を請求した者(検察官か被告人か弁護士)が再度の尋問をして、裁判長が補充的に尋問します。
証拠番号は、刑事訴訟において、公判に提出する証拠に付ける番号です。
論告は、刑事訴訟において、証拠調べ終わった後で、検察官が公判で調べられた証拠に基づき,事実及び法律の適用について意見を述べることです。
求刑は、刑事訴訟において、検察官が論告を述べた後で、被告人をどのくらいの刑に処することが相当であるとの意見を述べることです。
裁判長は、主文で刑の言渡し、無罪、刑の免除、免訴、公訴棄却あるいは管轄違いを明らかにして、判決理由を言い渡します。
親衛隊は、アドルフ・ヒトラー個人のボディーガードから、ハインリヒ・ヒムラーが第4代親衛隊全国指導者になり、ナチス・ドイツの警察組織になり、巨大で、強力な組織になりました。
国家保安本部(RSHA)は、ナチス・ドイツの治安機関で、親衛隊の本部の一つで、ドイツ及びドイツ占領地の政治警察のすべてを統括する親衛隊の最重要本部で、長官はラインハルト・ハイドリヒ、ハインリヒ・ヒムラーが務めました。
国家保安本部の中に、IV局秘密国家警察局(ゲシュタポ)があり、局長は、ハインリヒ・ミュラーSS中将で、IVB4課 (ユダヤ人課)があり、課長はアドルフ・アイヒマンSS中佐です。
保安警察は、ナチス・ドイツの政治警察組織です。
SDは、親衛隊の警察組織で、保安警察と統合し、国家保安本部となりました。
治安警察は、治安維持を担当する警察です。
チクロンBガスは、ドイツのシアン化合物系の殺虫剤の商標で、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺で、強制収容所のガス室で毒ガスとして用いられました。
ピラトは、ローマ帝国のユダヤ属州総督ポンテオ・ピラト総督で、イエス・キリストの無罪を知っていたが、人々を満足させるためにユダヤ人に告発されたイエス・キリストを死刑にしたので、手を洗って責任がないこと示しました。
ヤムルカは、ユダヤ人の民族衣装で、男性がかぶる帽子のようなものです。
ゲットーは、ナチス・ドイツがユダヤ人をヨーロッパ諸都市内で強制的に住まわせた居住地区です。
ユダヤ人評議会は、ナチス・ドイツ占領下の東ヨーロッパに設置されたゲットーの運営を任されていたユダヤ人による「自治組織」です。
中央評議会は、ユダヤ人共同体の全機構を解体して、中央集権化して、ナチス・ドイツが交渉をしやすくするために作られました。
シオニスト連盟は、シオンはパレスチナの古名で、ユダヤ人がパレスチナにユダヤ人国家を建国することを目的とした連盟です。
ユダヤ人会議は、1936年、反ユダヤ主義政策を強行するナチス・ドイツへの抵抗運動を世界中で行うために、スイスのジュネーヴにおいて設立されました。
ヴィシー政権は、ナチス・ドイツがパリを含む占領した北フランスを統治する、ヴィシーを首都としたドイツの傀儡政権です。
最後のセリフ
今日でも断言できます。
時代背景
1912年4月14日、タイタニック号は、氷山に衝突しました。
1912年4月15日、タイタニック号は、沈没しました。
(映画「タイタニック」)
1919年6月28日、連合国とドイツが、ヴェルサイユで講和条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。
ドイツは、ドイツの領土は縮小され、植民地を放棄し、軍備・兵器は制限され、賠償総額が1320億金マルクとされました。
1919年10月19日、アドルフ・ヒトラーは、「ドイツ労働者党」に入党しました。
1920年1月5日、アントン・ドレクスラーは、政党名を「ドイツ労働者党」から「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」に変更しました。
アドルフ・ヒトラーは、ナチスの第一宣伝部長に就任しました。
1921年7月29日、アドルフ・ヒトラーは、ナチスの議長に選出されました。
1923年1月11日、フランスとベルギーは、賠償金を支払わないドイツの石炭の73%、鉄鋼の83%を生産するルール地方の占領を開始しました。
ドイツは、ルール地方でストライキを行い、ドイツ経済は破綻し、ハイパーインフレーションに陥りました。
1923年11月8日、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーというビアホールで行われていたバイエルン州総督グスタフ・フォン・カールの演説会に、アドルフ・ヒトラーらが乱入し、クーデター未遂事件を起こしましたが、1日で鎮圧されました。
1923年11月9日、バイエルン州は、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。
1923年11月23日、ドイツは、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。
1924年4月1日、アドルフ・ヒトラーは、ランツベルク・アム・レヒの要塞刑務所の7号室で5年の城塞禁固刑となりました。
アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の執筆を開始しました。
1924年5月4日、ドイツの総選挙において、ナチスの偽装政党である「国家社会主義自由運動」が32議席を獲得しました。
1924年9月26日、米国は、フランスにルール占領の解消、賠償金額の免除と段階的引き上げにするドーズ案を受け入れさせました。
1924年10月、フランスとベルギーは、ドイツのルール地方から撤退を開始しました。
1924年12月20日、アドルフ・ヒトラーは、保護観察処分に減刑され、仮出獄されました。
1925年2月16日、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトは、ナチス再結成を許可しました。
1925年2月27日、ナチスはビュルガーブロイケラーでナチス再結党大会という集会を開催し、アドルフ・ヒトラーは演説をしました。
1925年7月18日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第1巻を出版しました。
1926年12月11日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第2巻を出版しました。
1928年5月20日、ナチスは、初めての国政選挙で、12議席を獲得しました。
1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所の株が大暴落することから始まり、日本を含む世界中の株が大暴落した世界大恐慌が発生しました。
日本では、昭和恐慌と呼ばれています。
1930年3月12日、ガンジーは、「塩の行進」をアーメダバードから始めました。
1930年4月6日、ガンジーは、「塩の行進」をダーンディーに到着し、世界中のメディアが伝えました。
(映画「ガンジー」)
1930年9月14日、ナチスは、国政選挙で、107議席を獲得し、第二党になりました。
1931年9月18日、日本軍は、満洲事変を起こして満洲全土を占領しました。
1932年3月1日、日本は、満州国の独立を宣言しました。
1932年3月13日、ドイツの大統領選挙で、アドルフ・ヒトラーは、30%の票を獲得しますが、大統領には選出されませんでした。
1932年7月31日、ナチスは、国政選挙で、203議席を獲得し、第一党になりました。
1932年9月15日、日本は、満州国の独立を承認しました。
1932年10月1日、国際連盟理事会に満州国の独立を認めないリットン報告書が提出されました。
1932年11月6日、ナチスは、国政選挙で、196議席を獲得し、第一党を維持しました。
1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、アドルフ・ヒトラー内閣が成立しました。
1933年2月24日、国際連盟理事会は、リットン報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)、投票不参加1国(チリ)となり、満州国は認められませんでした。
1933年2月27日、ドイツの国会議事堂が放火され、炎上しました。
1933年2月28日、ドイツは、国家防衛緊急令を公布しました。
1933年3月1日、ドイツは、反逆防止緊急令を公布しました。
ドイツの言論の自由や所有権は著しく制限されました。
ドイツ政府は、連邦各州の全権を掌握し、反ナチスとみなす人、左翼思想家を強制収容所へ送り込む法的根拠となりました。
1933年3月8日、日本は、国際連盟を脱退しました。
1933年3月24日、ドイツは、全権委任法が成立しました。
アドルフ・ヒトラーは、議会を通すことなく、法律を作ることができることになり、ドイツの議会政治は終わり、独裁政治が始まりました。
ドイツでは、ユダヤ系ドイツ人に激しい迫害が加えられましたが、国交を結んでいるユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていました。
1933年6月19日、オーストリアのドルフース首相は、オーストリア・ナチスを非合法化して活動を禁止しました。
1933年10月14日、ドイツは、国際連盟を脱退しました。
1934年7月25日、オーストリア・ナチスの党員は、オーストリア首相官邸に押し入ってドルフース首相を射殺し、クーデターを試みましたが、反対派によって鎮圧されました。
1934年11月12日、ドイツの国際連盟脱退の是非を直接国民に問うために国民投票を実施し、95.1%という圧倒的多数の賛成により、ドイツの国際連盟脱退が支持されました。
1935年3月16日、ドイツは、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言し、徴兵制の復活を宣言しました。
1935年3月27日、日本は、国際連盟の脱退が正式に発効されました。
1935年6月18日、英国は、ヴェルサイユ条約を無視して、融和政策として、ドイツに対して、再軍備を公認し、イギリスの35%までの軍艦を保有できること、潜水艦はイギリスの60%まで建造できることを、
商船攻撃には使用しないという英独海軍協定を承認しました。
ドイツのアドルフ・ヒトラーは協定によって戦艦、潜水艦の建造が認められたとして、建造を急速に進めました。
1935年8月31日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、「中立法」を制定しました。
「中立法」は、戦争状態にある国が存在していること、または内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物質の輸出を禁止します。
1937年5月28日、ネヴィル・チェンバレンがイギリス首相に就任しました。
1937年、ドイツは、反社会分子とみなす人、暴力団、売春婦、乞食、浮浪者、住所不特定の者、労働忌避者、同性愛者、アルコール中毒者、訴訟を大量に起こしている者、交通規則違反者、絶えず職場に遅刻する者、無断で休暇を取る者、自分の職務以外の仕事を勝手に引き受けている者を強制収容所へ送り込むようになりました。
1938年3月13日、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、オーストリアへ進駐し、歓迎を受けて、統合しました。
オーストリアは、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」を決議し、発布しました。
ドイツは、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」が公布されました。
1938年9月29~30日、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介し、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統がドイツのミュンヘン会談を行い、ドイツとの戦争を回避するために、ドイツの主張を受け入れ、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツへ譲渡することを認めるという融和政策で問題を解決しました。
1938年10月6日、ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効にすることを決定しました。
1938年10月28日、ドイツは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効が無効になる前に、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人をポーランドに移送しました。
ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の入国を拒否しました。
ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人は、国境地帯で放浪し、窮乏し、餓死しました。
1938年11月7日、ドイツによって追放されたポーランド系ユダヤ人のヘルシェル・グリュンシュパン(17歳)は、ドイツ警察から非道の仕打ちを受けていることを世界に訴えるために、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んで、殺害しました。
1938年11月9日、ドイツのSA(突撃隊)がユダヤ人の商店や企業を破壊しました。
1939年3月、ドイツは、ミュンヘン会談の合意に従わずに、チェコスロバキアを支配下にしました。
1939年4月28日、ドイツは、英独海軍協定とドイツ・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄すると演説しました。
1939年5月~9月、日本とソ連は、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐっての間で断続的に日ソ国境紛争が発生しました。
1939年8月23日、ドイツとソ連は、独ソ不可侵条約を締結するだけでなく、ドイツとソ連がポーランドへ侵攻することを認めていました。
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻しました。
ポーランドのダンツィヒ郊外にシュトゥットホーフ強制収容所が設置されました。
1939年9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告しました。
1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻し、デンマークを占領しました。
1940年4月、ドイツが占領していたポーランドのアウシュヴィッツに巨大な強制収容所の建設を命じました。
ドイツは、ヨーロッパ中に強制収容所を建設しました。
1940年5月10日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、小型でガソリンエンジンを搭載したI号戦車、II号戦車で構成され、アルデンヌ森林地帯を抜け、Ju87シュトゥーカ急降下爆撃機による正確な支援爆撃を受けて、ムーズ川を渡り、敵国のガソリンスタンドを補給に利用し、早い速度で進軍し、連合国軍の背後に回り、攻撃することで、連合国軍を総撤退させ、英仏海峡を目指します。
ドイツ軍の空挺部隊は、防御陣地に降下して、爆破し、歩兵主力のB軍集団が防御陣地を制圧し、ベルギーとオランダに侵攻しました。
ドイツ軍のC軍集団は、マジノ線に侵攻し、マジノ線の要塞群に立てこもるフランス軍守備隊を釘づけにしました。
イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が辞職し、ウィンストン・チャーチルが首相に就任しました。
1940年5月15日、ドイツ軍の歩兵主力のB軍集団は、オランダを占領しました。
1940年5月16日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団がイギリス軍とフランス軍の背後へ回り込んだことを知らされたイギリス軍とフランス軍は、総退却を開始し、機動力に勝るドイツ軍のA軍集団にパリ方面への退却を阻まれ、イギリス海峡方面へと退却しました。
1940年5月20日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、英仏海峡に到達し、イギリス軍とフランス軍を包囲しました。
1940年5月21日、イギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍の侵攻を遅らせるためにカレーから進軍し、ドイツ軍を反撃し、ダメージを与えました。
1940年5月22日、ドイツ軍は、カレーに向かって進軍しました。
1940年5月23日、イギリス軍とフランス軍は、カレーに後退しました。
1940年5月24日、ドイツ軍は、カレーを包囲し、降伏するよう説得しました。
イギリスとフランスからの抵抗せよという命令を受けたイギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍に抗戦しました。
1940年5月25日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから「ダイナモ作戦」と名づけられました。
1940年5月26日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、カレーを陥落しました。
イギリスは、「ダイナモ作戦」を実施し、ダンケルクから33万の連合軍兵士を撤退を開始しました。
カレーのイギリス軍とフランス軍は降伏しました。
1940年5月28日、ドイツ軍の歩兵主力のB軍集団は、ベルギーを占領しました。
1940年6月4日、イギリスは、「ダイナモ作戦」によって、ダンケルクから33万の連合軍兵士を撤退させるのに成功しました。
(映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」
映画「ダンケルク」)
1940年6月7日、ノルウェー国王は家族とともに英国に亡命しました。
1940年6月8日、連合国派遣軍は、ノルウェーからの撤退しました。
1940年6月9日、ドイツは、ノルウェーを占領しました。
1940年6月10日、イタリアが、イギリスとフランスに宣戦しました。
1940年6月14日、ドイツ軍は、パリに進軍しました。
1940年6月16日、フランスは、ドイツに休戦を申し入れました。
1940年6月22日、ドイツとフランスは、休戦条約に調印しました。
ドイツ軍は、パリを含む北部フランスを占領し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を設立しました。
ドイツ軍は、フランス軍空軍基地をイギリス前進基地として使用可能になりました。
ドイツ軍は、ソ連への侵攻を開始しました。
日本は、イギリスにビルマおよび香港を経由する中国への物資輸送を閉鎖させました。
1940年7月1日、ドイツ軍は英国領チャンネル諸島を占領しました。
1940年7月10日、ドイツ空軍がイギリス空軍を発見し、攻撃しました。
1940年7月16日、ドイツは、イギリス上陸作戦の準備を始めました。
1940年7月22日、イギリスは、ドイツの和平案を拒否しました。
1940年8月1日、ドイツは、ドイツ空軍がイギリスの制空権を確保することを前提したイギリス上陸作戦を決定しました。
ドイツ空軍は、イギリス空軍の殲滅を第一に掲げられ、戦闘機の殲滅と飛行場や航空機産業も攻撃の対象にするよう指令を出しました。
1940年8月30日、ドイツは、爆撃目標をロンドンに変更しました。
1940年9月15日、ドイツ空軍は、大規模なロンドン空爆を行いましたが、大きな損害を出しました。
ドイツ空軍は、イギリスの制空権を取ることができませんでした。
ドイツ軍が初めて大敗を喫した戦いでした。
1940年9月17日、ドイツはイギリス上陸作戦を中止しました。
1940年9月27日、日本とドイツとイタリアは、日独伊三国同盟を締結しました。
1940年11月9日、イギリス前首相ネヴィル・チェンバレンは亡くなりました。
1941年3月11日、アメリカ合衆国は、レンドリース法成立させ、その国の防衛がアメリカ合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考えるような国に対して、あらゆる軍需物資を、売却し、譲渡し、交換し、貸与し、賃貸し、あるいは処分することができるようになりました。
1941年4月13日、日本とソビエト連邦は、「日本国及ソヴイエト連邦間中立条約(日ソ中立条約)」を締結し、相互不可侵、一方が第三国に軍事攻撃された場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、および、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた声明書から構成され、有効期間は5年間で、有効期間満了1年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は5年間自動延長されるとしている。
1941年8月1日、アメリカ合衆国は、日本への石油の全面禁輸を行いました。
日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく、石油がなくなる前に東南アジアの産油地帯を攻略することになりました。
東南アジアの攻略と資源の輸送ルートを考慮すると、アメリカ合衆国の植民地だったフィリピンおよびグアムの攻略も不可欠であり、アメリカ合衆国への開戦することになりました。日本への石油の全面禁輸と日本の東南アジアの攻略は、日本とアメリカ合衆国による太平洋戦争の原因になりました。
1941年8月、ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることにしました。
1941年10月、ドイツは、アウシュヴィッツ強制収容所兼絶滅収容所でユダヤ人をガスで殺害し始めました。
1941年11月27日、アメリカ合衆国から日本に提示された交渉文書であるハル・ノートをもとにした交渉が決裂しました。
1941年12月8日、日本海軍は、米国のハワイ準州のオアフ島にある米国海軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃しました。
日本海軍は、航空機54機を失い、航空機74機が損傷しました。
アメリカ海軍は、戦艦アリゾナ、戦艦オクラホマ、標的艦ユタ、戦艦カリフォルニアが沈没し、戦艦ウエストバージニア、機雷敷設艦オグララ、戦艦ネバダ、駆逐艦ショー、駆逐艦ダウンズ、駆逐艦カッシン、工作艦ヴェスタルが大破し、戦艦テネシー、戦艦メリーランド、戦艦ペンシルベニア、軽巡洋艦ロウリー、駆逐艦母艦ドビン、水上機母艦カーチスを損傷し、航空機188機を失い、航空機159機が損傷しました。
日本軍は、英国領の香港を陥落しました。
1942年1月20日、ドイツの高官15人は、ヴァンゼー湖のほとり、ベルリンの高級住宅街にある大邸宅で会議を行い、「ヨーロッパのユダヤ人問題に対する最終的解決」を話し合い、ヨーロッパのすべてのユダヤ人を意図的に慎重に計画的に抹殺することを決定しました。
ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることを正式に宣言しました。
ユダヤ人の絶滅を行ったのは、ベラルーシのマリィ・トロステネツ強制収容所、ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、マイダネク(ルブリン)強制収容所です。
数百万人のユダヤ人が殺害されました。
1942年1月25日、ヒトラーは、ユダヤ人をドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市にあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所への移送を命令しました。
1942年2月15日、日本軍は、英国領のシンガポールを陥落しました。
1942年4月18日、航空母艦ホーネットと航空母艦エンタープライズから発進したB-25双発爆撃機ミッチェル16機が、太平洋戦争で初めて日本本土(東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等)を爆撃しました。
日本本土爆撃を終えたB-25双発爆撃機ミッチェルのうち15機は中国大陸に不時着して放棄されました。
残りの1機は、ソビエト連邦支配地域に不時着して、搭乗員は抑留されました。
1942年5月4~8日、珊瑚海に進出する日本海軍の計画を知った米国海軍が、先に進出し、航空機で日本の空母部隊を空襲し、日本海軍が航空機で米国の空母部隊を捕捉し、空襲しました。
日本海軍は、空母祥鳳、駆逐艦菊月、掃海艇3隻が沈没し、空母翔鶴、駆逐艦夕月、敷設艦沖島が損傷し、航空機97機を失いました。
米国海軍は、空母レキシントン、油槽船ネオショー、駆逐艦シムスが沈没し、空母ヨークタウンが損傷し、航空機69機を失いました。
1942年5月27日、亡命チェコ軍人がラインハルト・ハイドリヒ暗殺を実行しました。
1942年6月4日、ラインハルト・ハイドリヒは死去しました。
1942年5月、連合国軍はビルマから総退却し、日本軍はビルマ全域を占領しました。
日本は、アメリカがビルマを経由して中国に物資輸送するルートを閉鎖しました。
1942年6月5日から7日、日本海軍とアメリカ海軍がミッドウェー海で交戦し、日本海軍はアメリカ海軍に敗北しました。
日本海軍は、航空母艦赤城、航空母艦加賀、航空母艦蒼龍、航空母艦飛龍、重巡洋艦三隈が沈没し、重巡洋艦最上、駆逐艦荒潮が損傷し、航空機289機を失いました。
アメリカ海軍は、航空母艦ヨークタウン、駆逐艦ハムマンが沈没し、航空機150機を失いました。
1942年11月26日、ノルウェー秘密国家警察・クヌート・ロッドは、警官とタクシー運転手らによって、ノルウェーに住むユダヤ人全員をオスロ港へと強制移送し、「ドナウ号」でアウシュヴィッツへ強制移送しました。
1943年1月14~23日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、モロッコのカサブランカで会談し、ドイツ、イタリアと日本に対して無条件降伏を要求すること、ビルマにおける本格的に反攻することなどに合意しました。
1943年7月4日から8月27日、ドイツ軍とソ連軍がクルスクで交戦し、ドイツ軍はソ連軍に敗北しました。
1943年8月、ネルソン・マンデラは、アレクサンドラで、バス料金の値上げに抗議し、バス・ボイコットの大行進に参加します。
(映画「マンデラ 自由への長い道」)
1943年9月8日、イタリアは、連合国に降伏しました。
1943年11月22~26日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蒋介石がエジプト王国のカイロで会談を行い、連合国が日本の無条件降伏まで戦うこと、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還することを提示し、中華民国が日本と単独講和をしないようにしました。
ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、中国の戦争からの脱落を防ぎ、日本軍が中国を攻撃することで、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻撃をできないようにしました。
1943年11月28日~12月1日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、イランのテヘランで会談を行い、ビルマ奪回作戦、ノルマンディー上陸作戦などの連合国側の作戦における各国間の調整を行い、ポーランド国境の確定、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦も話し合いました。
1944年4月7日、アルフレートとヴァルターは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の記録を持って、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から逃走するために、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、身を隠します。
1944年4月10日、アルフレートとヴァルターは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所からの脱出に成功しました。
1944年4月27日、アルフレートとヴァルターは、「アウシュヴィッツ・レポート」を書き上げました。
1944年6月、「アウシュヴィッツ・レポート」は、公開されました。
1944年5月、イギリス陸軍内にユダヤ人旅団が編成されました。
1944年6月4日、ニューヨークタイムズが、ガス室について説明し、ユダヤ人が処刑されていると報じました。
1944年6月5日、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始し、橋を確保し、砲台陣地を破壊し、ドイツの反撃を阻止しました。
1944年6月6日、米国とイギリスは、100万人を超える兵士で、ノルマンディー上陸作戦を行い、1日で上陸を果たしました。
(映画「プライベート・ライアン」)
1944年6月25日、教皇ピオ十二世は、「アウシュヴィッツ・レポート」を元に、ユダヤ人の強制送還の停止を呼びかけました。
1944年6月26日、フランクリン・D・ルーズベルト米国大統領は、「アウシュヴィッツ・レポート」を元に、ユダヤ人の強制送還の停止を呼びかけました。
1944年6月26日、ジュネーブのユダヤ機関のリチャード・リヒテイムは英国に電報を送り、連合国にハンガリー政府のメンバーに殺害の責任を個人的に負わせるよう呼びかけました。
1944年7月7日、ハンガリーの摂政ミクロス・ホーシーは、ユダヤ人の強制送還の停止を命じました。
1944年7月23日、ソ連軍は、マイダネク(ルブリン)強制収容所を開放しました。
1944年8月25日、連合軍は、パリを含むフランスを開放し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を打倒しました。
1945年1月27日、ソ連軍がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を解放しました。
1945年1月30日~2月3日、アメリカのエドワード・ステティニアス国務長官とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が、マルタ共和国のマルタで会談し、ソ連軍が中央ヨーロッパまで前進することは望ましくないと言うことで合意し、ホロコーストによる数百万人の難民をどうするについて話し合い、ソ連とのヤルタ会談の事前会談になりました。
1945年2月4~11日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で会談し、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治、ポーランド人民共和国の国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。
国際連合の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5カ国の拒否権を認めました。
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦、および千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇も決定し、北方領土問題の発端となりました。
1945年2月19日、アメリカ軍は、硫黄島への上陸作戦を始めました。
1945年3月17日、アメリカ軍は、硫黄島を制圧しました。
1945年3月23日、アメリカ軍は、沖縄県周辺への上陸作戦を始めました。
1945年4月11日、アメリカ軍は、ブーヘンヴァルト強制収容所を解放しました。
1945年4月15日、イギリス軍は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放しました。
アンネ・フランクは、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死亡していました。
1945年4月25日、アメリカ軍は、前田高地への攻撃を開始しました。
1945年4月29日、アメリカ軍は、ダッハウ強制収容所を解放しました。
1945年4月30日、ヒトラーは、総督官邸の地下壕で自殺しました。
1945年5月2日、ソ連は、ベルリンを占領しました。
1945年5月7日、ドイツは、連合国に無条件降伏しました。
1945年5月9日、イギリス領チャンネル諸島を占領していたドイツ軍は降伏しました。
1945年5月27日、沖縄守備軍は、首里を放棄し、南部への撤退を開始しました。
1945年6月23日、牛島満司令官達が自決しました。
1945年7月2日、アメリカ軍は、沖縄戦終了を宣言しました。
1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州ソコロの南東48kmの地点にあるアラモゴード砂漠のホワイトサンズ射爆場において人類史上初の核実験「トリニティ」が実施されました。
1945年7月17日~8月2日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連占領地域となったポツダムで会談し、第二次世界大戦の戦後処理を決定しました。
ポツダム宣言には、「日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである」と記述されています。
原子爆弾の準備ができたから、日本に投下するということです。
1945年8月6日、アメリカ軍は、日本の広島市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月9日、アメリカ軍は、日本の長崎市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月14日、日本は、ポツダム宣言を受諾しました。
1945年8月15日、日本は、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾
を全国民と全軍に表明し、連合国に降伏しました。
1945年9月2日、日本は、ポツダム宣言に調印・即時発効(降伏文書)によって第二次世界大戦は終結しました。
1945年9月7日、沖縄守備軍は、降伏しました。
1945年11月20日、ニュルンベルク裁判が始まりました。
1946年10月1日、ニュルンベルク裁判が終わりました。
1947年8月14日および15日、イギリス領インドは、インドとパキスタンに分離独立をしました。
(映画「ガンジー」)
1948年5月14日、ユダヤ人たちは、イスラエル独立宣言を行いました。
1954年7月7日、アメリカ合衆国は、バオ・ダイ時代に内相をつとめ、反共産主義でカトリック教徒のジエムを南ベトナムの首相に初代就任させました。
1955年6月14日、ジエムは自ら南ベトナムの国家元首に就任しました。
1955年10月26日、ジエムはベトナム共和国(通称「南ベトナム」)樹立宣言を行い、初代大統領に就任しました。
1960年5月11日、アドルフ・アイヒマンは、バスから降りて自宅へ帰る道中に、イスラエル諜報特務部に拘束れました。
1960年5月25日、イスラエルのダヴィド・ベン=グリオン首相は、アドルフ・アイヒマンの身柄確保を公式に発表しました。
1960年11月8日、ジョン・F・ケネディ民主党大統領候補は、リチャード・ニクソン共和党大統領候補に僅差で勝ち、アメリカ合衆国大統領に当選しました。
1960年12月20日、南ベトナム解放民族戦線は、ジエム大統領とアメリカ合衆国を打倒するために結成されました。
1961年1月20日、ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。
1961年4月11日、エルサレムで、アドルフ・アイヒマンの裁判が始まりました。
1961年4月17日、1,400人の亡命キューバ人部隊がピッグス湾に上陸し、キューバ政府軍の反撃に遭い、キューバ空軍の攻撃を受け、沖合に待機した艦船が撃沈、弾薬も食糧も欠乏する事態の中で海岸で部隊は孤立しました。
アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国正規軍の派遣を拒否し、ピッグス湾上陸作戦は失敗しました。
1961年5月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という、ゲリラに対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始しました。
1961年12月15日、アドルフ・アイヒマンは、全ての罪で有罪となり、死刑が宣告されました。
1962年6月1日、アドルフ・アイヒマンは、ラムラの刑務所で絞首刑になりました。
1962年10月14日、アメリカ合衆軍が、空中偵察によりキューバに核ミサイル基地を発見しました。
1962年10月22日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、海上封鎖を宣言し、新たなミサイルの配備を阻止し、ソ連にミサイルを解体、撤去することを要求しました。
1962年10月28日、ソ連のフルシチョフ最高指導者は、キューバから核ミサイル基地を撤去すると発表しました。
1962年2月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、南ベトナム軍事援助司令部を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなどにより、軍事顧問団という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げしました。
1962年5月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、南ベトナムとラオスへの支援を目的にタイ国内の基地に数百人規模のアメリカ海兵隊を送ることを決定しました。
1962年8月5日、ネルソン・マンデラは、44歳で、逮捕されます。
(映画「マンデラ 自由への長い道」)
1963年1月2日、2000人で構成され装備の面で圧倒的に勝るアメリカ合衆軍及びベトナム共和国軍は、約200人で構成された南ベトナム解放民族戦線にアプバクで敗北しました。
アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、アメリカ軍を本格的にベトナムに投入することを決断し、アメリカ軍を16,263人に増加させました。
ジェム南ベトナム大統領は、軍事介入の拡大とともに内政干渉を行うアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディを敵対視するようになりました。
1963年2月、ハンナ・アーレントは、「ザ・ニューヨーカー」誌に「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を発表しました。
(映画「ハンナ・アーレント」)
1963年10月31日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、ゴ・ディン・ジェム南ベトナム大統領に揺さぶりをかけるために、「1963年の末までに軍事顧問団をベトナムから1,000人を引き上げる」と発表しました。
1963年11月22日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、43歳で、殺害されました。
リンドン・B・ジョンソンが、米国大統領に就任しました。
1964年6月21日、クー・クラックス・クラン(KKK)のメンバーが、ミシシッピー州フィラデルフィアで、3人の公民権運動家、黒人のジェムズ・チェイニー、ユダヤ人のアンドリュー・グッドマンとマイケル・シュワーナーを殺害しました。
1964年7月2日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは、公民権法に著名し、南部各州のジム・クロウ法は廃止となりました。
1964年8月2日、北ベトナム海軍の魚雷艇は、ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ合衆国海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃をしました。
1964年8月4日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンとアメリカ合衆国軍は、ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ合衆国海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃を捏造しました。
1964年8月5日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは、北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動(ピアス・アロー作戦)を行いました。
1964年8月7日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは、米国上下両院で民主党と共和党の議員の圧倒的な支持で承認されて、実質的な戦時大権を得ました。
1964年11月3日、リンドン・B・ジョンソンは、得票率61.1%を獲得し、538人の大統領選挙人の内486人の支持を得て、大統領選挙で圧勝しました。
1965年2月7日、アメリカ合衆国は、北ベトナムへの集中爆撃(北爆)を開始しました。
1965年2月21日、マルコムXは、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でスピーチしているときに、殺害されました。
1965年3月21日、キング牧師が率いる2,000名ほどの公民権運動家達は、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンが命じた連邦政府の管理下で米国陸軍とアラバマ州兵によって保護され、アラバマ州セルマを出発し、エドモンド・ペタス橋を渡り、州都モンゴメリーに向けてデモ行進を始めました。
1965年3月25日、キング牧師は、デモ隊と共にモンゴメリーに無事到着しました。
KKKのメンバーが、セルマから首都モンゴメリーへの行進に参加し、モンゴメリーからセルマに戻る車を運転中のヴィオラ・リッツォを射殺しました。
1965年8月6日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンが国会議事堂で投票権法の協議会案に署名して法となり、キング牧師、ローザ・パークス、ジョン・ルイスなど公民権運動の指導者達が同席しました。
投票権法によって、投票権が州でなく、連邦政府によって監督され、執行されるようになりました。
(映画「グローリー/明日への行進」)
1967年7月23日、アルジェ・モーテル事件が発生しました。
1968年1月30日、北ベトナム人民軍及び南ベトナム解放民族戦線は、テト攻勢を企画し、私服の戦闘員を各都市に浸透させ、拠点に武器を集積するなど準備したのち、一斉に蜂起しました。
1968年3月16日、アメリカ合衆国陸軍のうちウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県にあるソンミ村のミライ集落を無差別射撃などで虐殺した。集落は壊滅状態となり、生存者はわずか3人でした。
1968年4月4日、キング牧師は、テネシー州メンフィスで殺害されました。
1968年6月5日、ロバート・ケネディ上院議員は、カルフォルニア州ロサンゼルスで、暗殺されました。
1968年11月5日、リチャード・ニクソンは、得票率43.3%を獲得し、538人の大統領選挙人の内301人の支持を得て、大統領選挙で勝利しました。
1969年1月20日、リチャード・ニクソンは、米国大統領に就任しました。
1969年7月21日、ニール・アームストロング達は、月面着陸し、月面に降り立ちました。
(映画「ファースト・マン」)
1971年7月、マーク・フェルトは、FBI副長官に就任しました。
1971年6月13日、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者は、「ペンタゴン・ペーパーズ」の報道を始めました。
1972年5月2日、J・エドガー・フーバーFBI長官は亡くなりました。
アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは、マーク・フェルトFBI副長官などのFBI内部からFBI長官を任命するのではなく、リチャード・ニクソン米国大統領の腹心であるパトリック・グレイをFBI長官代行に任命しました。
1972年6月17日、ウォーターゲート事件は、ワシントンD.C.にあるウォーターゲート・ビルの警備員が、ドア上に奇妙なテープに気付き、ワシントン市警に通報したところから事件は始まります。
ワシントン市警察官の到着後、ウォーターゲート・ビルにある民主党全国委員会本部オフィスへの不法侵入の罪で、バーナード・バーカー、バージリオ・ゴンザレス、ユージニオ・マルチネス、ジェームズ・マッコード・ジュニアとフランク・スタージスが現行犯逮捕されました。
ハワード・ハントとゴードン・リディは、別室で指揮を執っていたため、現行犯逮捕されず、後日逮捕されました。
1972年11月7日、米国大統領選挙で、リチャード・ニクソン米国大統領は米国政治史上で稀に見る大差で再選を果たしました。
1972年1月20日、リチャード・ニクソンは2度目の米国大統領に就任しました。
1973年6月22日、マーク・フェルトFBI副長官は、FBIを退局しました。
1973年3月29日、アメリカ合衆国軍は、ベトナムからの撤退を開始し、撤退が完了しました。
1974年8月9日、リチャード・ニクソン米国大統領が辞任しました。
1974年9月8日、ジェラルド・R・フォード米国大統領は、リチャード・ニクソンに恩赦を与えました。
アドルフ・アイヒマンの生涯
1906年3月19日、アドルフ・アイヒマンは、西欧の経済・産業の一大中心地であるラインラントで生まれました。
1913年、アドルフ・アイヒマンは、父親がオーストリア=ハンガリー帝国のリンツにあった電機会社の役員に任じられ、リンツへ移住しました。
1921年、アドルフ・アイヒマンは、カイザー・フランツ・ヨーゼフ国立実科学校を退学し、機械工学を学ぶため工業専門学校に通学しましたが、中退ししました。
アドルフ・アイヒマンは、父のザルツブルクの鉱山工場で働いたが、すぐに辞めました。
1925年~1927年、アドルフ・アイヒマンは、電気製品販売業者で働きました。
1928年、アドルフ・アイヒマンは、スタンダード石油のウィーン現地子会社にあたるヴァキューム・オイル・カンパニーで販売員として働きました。
1932年4月1日、アドルフ・アイヒマンは、オーストリア・ナチ党に入党し、親衛隊に入隊しました。
1933年、アドルフ・アイヒマンは、ヴァキューム・オイル・カンパニーから解雇されました。
1933年8月1日、アドルフ・アイヒマンは、ドイツのパッサウへ移住しました。
アドルフ・アイヒマンは、バイエルン州地方警察から「オーストリア人部隊」として訓練を受けました。
1934年9月、親衛隊伍長のアドルフ・アイヒマンは、ナチス・ドイツの親衛隊におかれた情報部に応募しました。
ラインハルト・ハイドリヒは、アドルフ・アイヒマンをナチス・ドイツの親衛隊におかれた情報部に採用しました。
アドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人担当課へ異動し、以降一貫してユダヤ人問題に携わることになりました。
1935年、アドルフ・アイヒマンは、ベロニカ・リーベルと結婚しました。
1937年、アドルフ・アイヒマンは、長官ラインハルト・ハイドリヒの許可得て、ユダヤ人をパレスチナへ移住させられないかと調査しますが、英国に調査協力を断られました。
1938年3月、親衛隊少尉のアドルフ・アイヒマンは、「ユダヤ人問題の専門家」としてオーストリアのウィーンへ派遣されました。
アドルフ・アイヒマンは、「ユダヤ人移民局」を設立し、ユダヤ人たちの亡命と引き換えにユダヤ人たちの全財産を没収する巨額のビジネスを立ち上げました。
アドルフ・アイヒマンは、半年間で5万人ものユダヤ人をオーストリアから追放しました。
1939年4月、親衛隊大尉のアドルフ・アイヒマンは、旧チェコスロバキア首都プラハへ派遣されました。
1939年9月27日、保安警察(ゲシュタポ)とSDが統合されて国家保安本部が新設されました。
アドルフ・アイヒマンは、IV局 (ゲシュタポ局) B部 (宗派部) 4課 (ユダヤ人課) の課長に任命され、ベルリン勤務になり、ユダヤ人移住局を統括しました。
アドルフ・アイヒマンは、支配領域の数百万人ものユダヤ人をポーランドのゲットーへ集中させました。
アドルフ・アイヒマンは、フランスの植民地であったマダガスカル島へユダヤ人を移住させる計画を立案しましたが、却下されました。
アドルフ・アイヒマンは、ラインハルト・ハイドリヒからポーランド総督府領ルブリンの親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニクの指揮下で行われている
ユダヤ人虐殺活動を視察することを命じられ、ルブリンへ赴き、トレブリンカでガス殺を行う建物を視察しました。
アドルフ・アイヒマンは、ゲシュタポ局長ハインリヒ・ミュラーからの命令でポーランド西部地域のクルムホーフ(ポーランド語でヘウムノ)で行われていた
ガストラックによるガス殺を視察し、またその後にはミンスクでのアインザッツグルッペンのユダヤ人銃殺活動の視察をしました。
アドルフ・アイヒマンは、ルブリンのトレブリンカへ派遣されてガス殺を視察しました。
1941年11月、アドルフ・アイヒマンは、親衛隊中佐に昇進しました。
1942年1月20日、ヴァンゼー会議が、ベルリンの高級住宅地、ヴァンゼー湖畔にある親衛隊の所有する邸宅で行われ、ヨーロッパ・ユダヤ人の移送と殺害について分担と連携を討議しました。
アドルフ・アイヒマンは、ヴァンゼー会議に議事録作成担当として出席しました。
アドルフ・アイヒマンは、ゲシュタポ・ユダヤ人課課長としてヨーロッパ各地からユダヤ人をポーランドの絶滅収容所へ移送する最高責任者となりました。
1942年3月、アドルフ・アイヒマンは、ヨーロッパ各地からユダヤ人を絶滅収容所への移送を指揮しました。
アドルフ・アイヒマンは、2年間で500万人ものユダヤ人を移送しました。
1944年3月、アドルフ・アイヒマンは、ハンガリーに派遣され、40万人ものユダヤ系ハンガリー人をアウシュヴィッツに移送しました。
1945年、アドルフ・アイヒマンは、親衛隊全国指導者のハインリヒ・ヒムラーからユダヤ人虐殺の停止命令受けたが、従わずハンガリーでユダヤ人虐殺を続け、前線に送られ戦闘に加わることを回避しました。
アドルフ・アイヒマンは、米軍によって拘束されますが、偽名を使用し、脱走し、ドイツに潜伏し、難民としてイタリアに行き、偽名で国際赤十字委員会から渡航証を受けました。
1950年7月15日、アドルフ・アイヒマンは、アルゼンチンのブエノスアイレスに船で上陸し、様々な職に就き、ドイツから家族を呼び寄せ新生活を始めました。
1960年5月11日、アドルフ・アイヒマンは、バスから降りて自宅へ帰る道中に、イスラエル諜報特務部に拘束れました。
1960年5月25日、イスラエルのダヴィド・ベン=グリオン首相は、アドルフ・アイヒマンの身柄確保を公式に発表しました。
1961年4月11日、アドルフ・アイヒマンは、「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、裁判が始まりました。
1961年12月15日、アドルフ・アイヒマンは、すべての訴因で有罪が認められた結果、死刑の判決が下されました。
1962年6月1日、アドルフ・アイヒマンは、ラムラ刑務所で絞首刑が執行されました。
感想
歴史は繰り返し、終わりません。
ドキュメンタリー映画なので、ストーリーも、エンディングもありません。
事実を伝えているだけです。
原題は「UN SPECIALISTE」です。
邦題は「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」です。
スペシャリストとは、アドルフ・アイヒマンのことです。
アドルフ・アイヒマンに、殺戮者としての自覚はあったと感じたので、原題の方が良いです。
日本では、人気のない裁判映画ですが、ドキュメンタリーです。
裁判について知らないと何も理解できません。
裁判では、裁判長、検察官、被告人と弁護士が法廷に集まり、冒頭陳述に始まり、証人尋問、証拠に関する質問、被告人に対する質問、被告者への警察の尋問に対する質問を通して、被告人の有罪か、無罪か、量刑を決めます。
この映画も時系列に従って進みますので、裁判の進め方を知っていると、理解しやすいです。
ユダヤ人虐殺に関与した人物の唯一の肉声でもあります。
アドルフ・アイヒマンは課長で、責任を上司や部下に押し付け、自分には責任はなく、やり過ごそうとする姿は、日本の組織の課長と変わらない印象です。
馴染みのない東欧諸国の地名がたくさん出てくるので、メモをして、鑑賞後に調べる必要があります。
ナチス・ドイツの組織と役職者についての知識についても必要なので、メモをして、鑑賞後に調べる必要があります。
一度鑑賞しただけでは、理解することはできないでしょう。
今でも、ウクライナとロシアで戦争をしていて、殺戮をしているので、このような映画を理解する必要はあります。
日本中いたるところで行われているいじめ、パワハラ、セクハラも同じような感じなので、この映画を理解する必要はあります。
私もパワハラは、ずいぶん受けてきたので、よく理解できます。
いじめ、パワハラ、セクハラをしている人に何を言っても無駄というのは、アドルフ・アイヒマンが「抵抗しても無駄」、「焼け石に水、蒸発して終わり」と言っているのに同感できます。
今の日本でも、命令に従わないと言うのは大変難しい時代のままですし、日本政府によって、犯罪が隠蔽され、正当化されている時代です。
この映画を理解する必要はあります。
今は私は、早期退職したので、パワハラの心配はしなくて良いです。
ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺に関する映画は数多く制作され、公開されているので、ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺の理解を深めたいなら、以下の映画をお勧めします。
ナチス・ドイツから米国に亡命し、ユダヤ系米国人で政治哲学者であるハンナ・アーレントがこの公判を傍聴し、ザ・ニューヨーカー誌にレポートを発表する実話映画「ハンナ・アーレント」です。
ナチス・ドイツの国民啓蒙・宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書を務めたブルンヒルデ・ポムゼルが、撮影当時103歳にして初めてインタビューに応じたドキュメンタリー映画「ゲッベルスと私」です。
ユダヤ人虐殺の有無を現代の英国裁判所で問う裁判映画「否定と肯定」です。
絶滅収容所について描かれた映画なら「シンドラーのリスト」、「サウルの息子」、「アウシュヴィッツ・レポート」、「ヒトラーと戦った22日間」、「ユダヤ人を救った動物園 アントニーナが愛した命」です。
ノルウェー人がユダヤ人虐殺に関与した映画「ホロコーストの罪人」です。
この映画が理解できないようであるならば、上記の映画の鑑賞をお勧めします。
今になっても、同じようなことが繰り返されている今、鑑賞するべき映画です。
まとめ
次は、映画「ハンナ・アーレント」をブログ記事に予定です。
ユダヤ人虐殺に関与した映画や第二次世界大戦に関する映画をブログ記事にする予定です。
ご期待ください。
以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。