映画「ハンナ・アーレント」を鑑賞しました!~あらすじ【ネタばれ有り】と感想

「夢をかなえるゾウ4  ガネーシャと死神」の中で、出てきた「アドルフ・アイヒマン」について知りたいと感じました。
映画「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」を鑑賞し、ブログ記事にもしました。
アドルフ・アイヒマン裁判を傍聴した「ハンナ・アーレント」についても知りたいです。
この映画を鑑賞することにしました。

基本情報・スタッフ

監督         マルガレーテ・フォン・トロッタ
脚本         マルガレーテ・フォン・トロッタ、パメラ・カッツ
製作         ベティーナ・ブロケンパー、ヨハネス・レキシン
撮影         カロリーヌ・シャンプティエ
美術         フォルカー・シェイファ
編集         ベッティナ・ベーラー
音楽         アンドレ・マーゲンターラー
制作会社       Heimatfilm
配給         セテラ・インターナショナル
公開         2013年10月26日
上映時間       114分
映倫区分       G

公式ホームページ

予告動画

舞台となる場所

アドルフ・アイヒマンが潜伏し、拘束されたのは、ブエノスアイレスです。

ハンナ・アーレントが住んでいるのは、ニューヨークです。

アドルフ・アイヒマンの裁判が行われるのは、エルサレムです。

あらすじ

イスラエル諜報特務部が、バスから降りて自宅へ帰る道中のアドルフ・アイヒマンを拘束するところから始まります。
ニューヨークのマンハッタンを背景にタイトルの「Hannah Arendt」が表示されます。
ハンナ・アーレントは、メアリー・マッカーシーの夫の愚痴を聞いてあげます。
ニューヨークにいるハンナ・アーレントは、イスラエルのダヴィド・ベン=グリオン首相がアドルフ・アイヒマンの身柄確保を公式に発表したことをThe New Yark Times紙で読んで知ります。
ハインリヒ・ブリュッヒャーが、ハンナ・アーレントが待つ自宅に帰宅します。
ハンナ・アーレントは、エルサレムで開かれるアドルフ・アイヒマン裁判の傍聴を希望し、”ニューヨーカー誌”に傍聴記録を書きたいと申し出ます。
ウィリアム・ショーンは、ハンナ・アーレントからのアドルフ・アイヒマン裁判の傍聴する申し出を受け入れます。
ハンス・ヨナスは、ハンナ・アーレントがアドルフ・アイヒマン裁判を傍聴することになったことを喜びます。
ハンナ・アーレントの自宅に友人たちが集まり、ハンナ・アーレントがアドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴すること祝います。
ハンナ・アーレントは、エルサレムに行き、クルト・ブルーメンフェルトと家族に会います。
ハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマン裁判を傍聴します。
ハンナ・アーレントは、ハインリヒ・ブリュッヒャーに電話をして、アドルフ・アイヒマン裁判の様子を伝えます。
ハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマン裁判を様子を見ます。
ハンナ・アーレントは、クルト・ブルーメンフェルトとアドルフ・アイヒマン裁判についての意見で対立します。
ハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマン裁判を様子を見ます。
ハンナ・アーレントは、ハインリヒ・ブリュッヒャーに電話をして、アドルフ・アイヒマン裁判の様子を伝えます。
ハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマン裁判を様子を見ます。
ハンナ・アーレントは、クルト・ブルーメンフェルトとアドルフ・アイヒマン裁判についての意見で対立しまが、仲直りします。
ハンナ・アーレントは、クルト・ブルーメンフェルトに見送られ、エルサレムからニューヨークに戻ります。
ハンナ・アーレントは、ハインリヒ・ブリュッヒャーが待つニューヨークの自宅に戻ります。
ウィリアム・ショーンは、ハンナ・アーレントに電話しますが、取り次いでもらえません。
ハンナ・アーレントは、エルサレムから持ち帰った資料を、ロッテ・ケーラーと一緒に整理します。

ハンナ・アーレントは、マルティン・ハイデッガーから哲学を学んだ学生時代を回想します。

ハンナ・アーレントは、メアリー・マッカーシーの新しい本について話をします。
ハンナ・アーレントは、学生に講義をして、収容所にいたころの話もします。
ハインリヒ・ブリュッヒャーは、脳動脈瘤破裂により、自宅で倒れます。
メアリー・マッカーシーは、講義中のハンナ・アーレントを訪れ、ハインリヒ・ブリュッヒャーが倒れて、病院にいることを伝えられます。
ハンナ・アーレントは、病院でハインリヒ・ブリュッヒャーと再会します。
ハンナ・アーレントは、退院して、自宅にいるハインリヒ・ブリュッヒャーとアドルフ・アイヒマンが絞首刑になることについて話します。
ハインリヒ・ブリュッヒャーの退院を祝うために、友人たちが集まり、アドルフ・アイヒマンが絞首刑になることについて話します。

ハンナ・アーレントは、マルティン・ハイデッガーから哲学を学んだ学生時代を回想します。

ウィリアム・ショーンは、ハンナ・アーレントと電話で話をしますが、アドルフ・アイヒマン裁判の傍聴記録を急いで書かせることには、失敗します。
ハンナ・アーレントは、アドルフ・アイヒマン裁判を様子を思い出します。
ハンナ・アーレントは、ロッテ・ケーラーにアドルフ・アイヒマン裁判の傍聴記録を読んで聞かせて、文章を修正しながら、書き上げます。

ウィリアム・ショーン、フランシス・ウェルズとジョナサン・シェルは、ハンナ・アーレントが書いたアドルフ・アイヒマン裁判の傍聴記録を読み、挑発的な内容に驚きます。
ウィリアム・ショーンは、ハンナ・アーレントにアイヒマン裁判の傍聴記録を「ザ・ニューヨーカー(The New Yorker)」誌に連載し、本として出版することを伝え、内容を検討します。
「ザ・ニューヨーカー(The New Yorker)」誌に掲載されたハンナ・アーレントが書いたアイヒマン裁判の傍聴記録を読んだユダヤ人たちは、怒ります。

ハンナ・アーレントは、ニューヨークを離れて、静かに過ごし、ハインリヒ・ブリュッヒャーと電話で話をします。
ハンナ・アーレントは、マルティン・ハイデッガーと再会し、話をします。
ハンナ・アーレントは、メアリー・マッカーシーと再会し、ハンナ・アーレントが書いたアイヒマン裁判の傍聴記録について話をします。

講演が行われ、ハンナ・アーレントとハンナ・アーレントが書いたアイヒマン裁判の傍聴記録は非難されます。
メアリー・マッカーシーは、ハンナ・アーレントとハンナ・アーレントが書いたアイヒマン裁判の傍聴記録を擁護します。

イスラエル政府の要請でシオニストのジークフリートが、ハンナ・アーレントにアイヒマン裁判の傍聴記録を出版しないように脅迫し、クルト・ブルーメンフェルトが死にかけていることを伝えます。
ハンナ・アーレントは、クルト・ブルーメンフェルトを見舞うためにエルサレムに行きます。
クルト・ブルーメンフェルトは、ハンナ・アーレントが書いたアイヒマン裁判の傍聴記録に怒り、絶交します。

ハンナ・アーレントは、アイヒマン裁判の傍聴記録に対して、反論の準備のために、ニューヨークの自宅に戻り、批判に目を通します。
ハンナ・アーレントは、大学から解雇を言い渡されますが、生徒の支持を理由に解雇には応じません。
ハンナ・アーレントは、大学の講義の中で、アイヒマン裁判の傍聴記録に対する反論を行い、数々の名言を言い放ち、学生たちから拍手喝さいを浴びます。
この講義を聞いていたハンス・ヨナスは、ハンナ・アーレントに絶交します。

登場人物

ハンナ・アーレントは、バルバラ・スコバが演じるドイツ生まれのユダヤ人で、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーに哲学を学び、マルティン・ハイデッガーと不倫関係になり、ハンス・ヨナスとは学友で、哲学者で、ナチの迫害を逃れてパリに移住し、パリでユダヤ人として抑留され、夫の助けでアメリカに亡命し、「全体主義の起源」や「エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告」等の本を出版し、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで、学生に哲学を教えます。
学生時代のアーレントは、フリーデリーケ・ベヒトが演じています。

メアリー・マッカーシーは、ジャネット・マクティアが演じる作家で、批評家で、ハンナ・アーレントの友人です。

ロッテ・ケーラーは、ユリア・イェンチが演じるハンナ・アーレントの秘書です。

ハンス・ヨナスは、ウルリッヒ・ノエテンが演じるドイツ生まれのユダヤ人で、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーに哲学を学び、ハンナ・アーレントとは学友で、哲学者で、ナチの迫害を逃れて英国に行き、英国陸軍に入隊し、ユダヤ人旅団に加わり、ナチと戦い、ニューヨークに移住し、ハンナ・アーレントと同じニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチで、学生に哲学を教えます。

ローレ・ヨナスは、サーシャ・レイが演じるハンス・ヨナスの妻です。

ハインリヒ・ブリュッヒャーは、アクセル・ミルベルクが演じるハンナ・アーレントの夫で、スパルタクス団やドイツ共産党を経験する活動家で、ハンナ・アーレントをアメリカに亡命させます。

ウィリアム・ショーンは、ニコラス・ウッドソンが演じる「ザ・ニューヨーカー(The New Yorker)」の編集長で、ハンナ・アーレントの原稿を隅々まで指導し、J・D・サリンジャーの短編を「ザ・ニューヨーカー(The New Yorker)」に掲載しました。

フランシス・ウェルズは、ミーガン・ケイが演じるウィリアム・ショーンの秘書的な「ザ・ニューヨーカー(The New Yorker)」の女性編集部員です。

ジョナサン・シェルは、トム・レイクが演じる「ザ・ニューヨーカー(The New Yorker)」の編集校閲を担当する男性編集者ですが、後に「地球の運命」という記事を発表し、出版し、大ベストセラー作家です。

トーマス・ミラーは、ハーヴェイ・フリードマンが演じるハンナ・アーレントの旧友で、教授です。

シャルロッテ・ベラートは、ヴィクトリア・トラウトマンスドルフが演じる精神分析医で、ハインリヒ・ブリュッヒャーの女性の親友です。

クルト・ブルーメンフェルトは、ミヒャエル・デーゲンが演じるパレスチナに故郷を再建し、あるいはユダヤ教、ユダヤ文化の復興運動を興そうとするユダヤ人の近代的運動する活動家です。

マルティン・ハイデッガーは、クラウス・ポールが演じるキリスト教徒のドイツの哲学者で、思考の王様と呼ばれ、マールブルク大学でハンナ・アーレントやハンス・ヨナスに哲学を教え、ハンナ・アーレントとは不倫関係になり、ヒトラーの支持者です。

人物説明

ニクソンは、リチャード・ニクソンで、1969年1月20日~1974年8月9日、アメリカ合衆国第37代大統領を務めました。

ケネディは、ジョン・F・ケネディで、 1961年1月20日~1963年11月22日、アメリカ合衆国第35代大統領を務めました。

R・ルクセンブルクは、ポーランドに生まれて、ドイツで活動したマルクス主義の女性の政治理論家、哲学者、革命家で、革命組織スパルタクス団を母体としてドイツ共産党を創設しました。

総統は、アドルフ・ヒトラーで、1934年8月2日~1945年4月30日、ナチス・ドイツの総統を務めました。

ベン=グリオンは、ポーランドで生まれ、パレスチナ移住に移住し、1948年~1954年、イスラエル初代首相、1955年~1963年、イスラエル第3代首相を務めました。

ヒムラーは、ハインリヒ・ヒムラーで、ナチス・ドイツで、国内予備軍司令官、内務大臣、全ドイツ警察長官、ドイツ国国会議員と親衛隊全国指導者などを務めました。

ハウスナーは、ギデオン・ハウスナーで、エルサレムでアドルフ・アイヒマンを起訴した検事です。

ゲーテは、1749年8月28日に生まれて、1832年3月22日に亡くなった、ドイツの詩人、劇作家、小説家、自然科学者、政治家、法律家です。

メンゲル医師は、ヨーゼフ・メンゲレで、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、ユダヤ人に対して非人道的な人体実験を行いました。

ヘミングウェイは、1899年7月21日に生まれて、1961年7月2日に亡くなったアメリカ合衆国の小説家で、「老人と海」、「武器よさらば」と「誰がために鐘は鳴る」などの小説を書き、ノーベル文学賞を受賞しました。

トルストイは、1828年9月9日に生まれて、1910年11月20日に亡くなったロシアの小説家で、「戦争と平和」などの小説を書き、思想家で非暴力主義者です。

アウグスティヌスは、354年11月13日に生まれて、430年8月28日に亡くなった、西ローマ帝国時代のキリスト教の神学者、哲学者です。

ソクラテスは、紀元前470年頃に生まれて、紀元前399年に亡くなった、古代ギリシアの哲学者で、弟子の一人がプラトンです。

プラトンは、紀元前427年に生まれて、紀元前347年になくなった、古代ギリシアの哲学者で、ソクラテスの弟子にで、アリストテレスの師です。

単語説明

イスラエル諜報部は、イスラエル首相府管下にあり、対外諜報・諜報活動と特務工作を担当し、長官は政治任命で決定され、活動の根拠となる法律が存在しないため、法的には存在しない組織です。

仮面夫婦は、結婚後に何らかの理由で夫婦関係が破綻し、夫婦としての愛情はないが、離婚はせずに対外的には仲のいい夫婦を演じる夫婦です。

ベルリンは、ドイツの首都です。

バチカンは、イタリアのローマ市内にあり、カトリックの総本山の総称です。

法王は、宗教上の最高指導者で、正式には「教皇」と呼ばれています。

赤十字は、戦争や自然災害における傷病者救護活動を中心とした人道支援団体の総称で、世界各国に存在し、国際的な協力関係を持っています。

身柄引き渡しは、国外に逃亡した容疑者を引き渡すということです。

ジェノバは、イタリアの北西部にある港湾都市です。

傍聴は、公判や裁判を言権なしに、聞くことです。

ニューヨーカー誌は、1925年2月17日に創刊された週刊誌です。

全体主義者の起源は、1951年、ハンナ・アーレントが政治学の本で、イタリアやドイツで出現した全体主義について書かれています。

哲学者は、大学の哲学科に所属する学者です。

第三帝国は、神聖ローマ帝国を第一帝国、ビスマルクの帝政ドイツを第二帝国とし、その後を継ぐドイツ民族による3度目の帝国とするナチス・ドイツのことです。

西洋文明は、ヨーロッパの文明です。

抑留キャンプは、ナチス・ドイツ占領下のユダヤ人を収容し、絶滅収容所に移送するまでの滞在施設です。

ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチは、1919年に創立され、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区グリニッジ・ヴィレッジにある私立総合大学で、現在はニュースクール大学となっています。

バード大は、1860年に創立され、アメリカ合衆国ニューヨーク州アナンデール・オン・ハドソンにある私立大学です。

思想家は、様々な思想・考えに関する問題を研究する人です。

収容所は、ナチス・ドイツがユダヤ人を絶滅するために作った施設です。

宣戦布告は、国が相手国に対して戦争行為を開始する意思を表明することです。

ユダヤ旅団は、1944年5月に、ナチスに対抗するために、イギリス陸軍内に編成され、5,000人以上のユダヤ人が志願し、軍事訓練を受け、イタリア戦線に投入されました。

国際法廷は、当事者たる国家により付託された国家間の紛争について裁判を行って判決・命令をする権限を持っていますが、個人や法人は訴訟することはできません。

共産主義者は、生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化を唱える人です。

ナチの党歌は、「ホルスト・ヴェッセルの歌」で、「旗を高く掲げよ」とも言われています。

アウシュビッツは、ポーランド南部オシフィエンチム市にあったユダヤ人強制収容所で、多数のユダヤ人が殺されました。

トレブリンカは、ポーランドにあったユダヤ人強制収容所で、多数のユダヤ人が殺されました。

ポーランドは、東ヨーロッパにあり、北はバルト海に面し、西はドイツ、北東はロシアと国境を接しています。

SSは、ナチス・ドイツの治安組織と諜報組織で、武装もしていました。

役所言葉は、公文書、法律、条例などに特有の表現スタイルで書かれた文章を批判する言葉です。

メフィストは、ゲーテの長編の戯曲「ファウスト」の中に登場する悪魔です。

ガス室は、人をガスで殺すために作られた部屋です。

ユダヤ人評議会(ユーデンラート)は、ナチス・ドイツ占領下のヨーロッパ諸都市内でユダヤ人が強制的に住まわされた居住地区(ゲットー)の運営を任されていたユダヤ人による「自治組織」です。

ヒエラルキーは、階層制や階級制のことであり、ピラミッド型の段階的組織構造のことです。

4ポンドは、1.8キログラムです。

判決は、訴訟において、裁判所が、一定の厳重な手続を経た上で示す、有罪、または無罪という判断です。

露出症は、性行為を他者に見られたいという強い欲求です。

利己心は、他人の迷惑などは顧みず、自分の利益だけをはかろうとする心です。

強制収容所は、アウシュビッツやトレブリンカにあった多数のユダヤ人を殺害するためにユダヤ人を強制的に収容する施設です。

被収容者は、強制収容所に収容されたユダヤ人です。

ギュルス抑留キャンプは、フランス政府が、1939年、フランス南西部の街ギュルスに設置し、フランス国籍でないユダヤ人を収容しました。

ビザは、国が自国民以外に対して、その人物の所持する旅券が有効であり、その人物が入国しても差し支えないと示す証書でです。

旅券は、国民が外国に旅行するときに、国が外国官憲に対して、本人の国籍、身分、旅行目的などを証明する公文書です。

絞首刑は、首に縄をかけて、体重をもって吊るすことで、動脈を塞ぎ、脳死から、心停止を起こさせて、殺す死刑です。

脳動脈瘤破裂は、脳動脈は血管内皮細胞、中膜、外膜と、3層以上の構造体からなり、この構造体の一部が失われると、脳動脈瘤になり、破裂すると、脳内出血になります。

国家保安部本部は、ナチス・ドイツ及びドイツ占領地の政治警察のすべてを統括する親衛隊の最重要本部で、長官はラインハルト・ハイドリヒ、ハインリヒ・ヒムラーが務めました。

ユダヤ人課は、国家保安本部の中にIV局秘密国家警察局(ゲシュタポ)があり、局長はハインリヒ・ミュラーSS中将で、その配下にIVB4課 (ユダヤ人課)があり、課長はアドルフ・アイヒマンSS中佐です。

快気祝いは、病の全快を祝うために、お世話になった方々へ感謝を表すために行われます。

ユダヤ人指導者は、ナチス・ドイツ占領下のヨーロッパ諸都市内でユダヤ人を強制的に住まわされた居住地区(ゲットー)から強制収容所への移送を手伝い、見返りに親族の命の保証を得て、生き残りました。

日刊紙は、毎日刊行する新聞で、朝日新聞、毎日新聞、日本経済新聞、読売新聞などです。

”コップの中の嵐”は、内輪もめのことで、当事者どうしでの争いやもめごとが、狭い範囲にしか影響を与えないで終わってしまうという意味です。

人格攻撃は、論証や事実の主張に対して、論点をすりかえて、主張した人の個性や信念を攻撃することです。

ヒステリーは、自己中心性で、演技的で人の関心を買う行動をすることです。

シオニストは、イスラエルにユダヤ教、ユダヤ・イディッシュ・イスラエル文化を復興しようとする近代運動家です。

法典は、権力と法秩序の根源を文章にして明確化し、その正統性を明示した本です。

ニュルンベルグ裁判は、連合国が、ナチス・ドイツによって行われた第二次世界大戦の戦争犯罪を裁く、国際軍事裁判です。

反ユダヤは、ユダヤ人およびユダヤ教を敵意し、憎悪し、迫害する偏見のことです。

モラルは、物事の善悪を判断する基準や、社会生活で守るべき基準のことです。

誹謗中傷は、根拠のない悪口を言い、他人を傷つける行為です。

庇護者は、支援したり守ったりする人です。

擁護は、ばばい守ることです。

最後のセリフ

クルトは家族よ

時代背景

1912年4月14日、タイタニック号は、氷山に衝突しました。
1912年4月15日、タイタニック号は、沈没しました。
映画「タイタニック」

1919年6月28日、連合国とドイツが、ヴェルサイユで講和条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。
ドイツは、ドイツの領土は縮小され、植民地を放棄し、軍備・兵器は制限され、賠償総額が1320億金マルクとされました。

1919年10月19日、アドルフ・ヒトラーは、「ドイツ労働者党」に入党しました。

1920年1月5日、アントン・ドレクスラーは、政党名を「ドイツ労働者党」から「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」に変更しました。
アドルフ・ヒトラーは、ナチスの第一宣伝部長に就任しました。

1921年7月29日、アドルフ・ヒトラーは、ナチスの議長に選出されました。

1923年1月11日、フランスとベルギーは、賠償金を支払わないドイツの石炭の73%、鉄鋼の83%を生産するルール地方の占領を開始しました。
ドイツは、ルール地方でストライキを行い、ドイツ経済は破綻し、ハイパーインフレーションに陥りました。

1923年11月8日、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーというビアホールで行われていたバイエルン州総督グスタフ・フォン・カールの演説会に、アドルフ・ヒトラーらが乱入し、クーデター未遂事件を起こしましたが、1日で鎮圧されました。

1923年11月9日、バイエルン州は、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。

1923年11月23日、ドイツは、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。

1924年4月1日、アドルフ・ヒトラーは、ランツベルク・アム・レヒの要塞刑務所の7号室で5年の城塞禁固刑となりました。
アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の執筆を開始しました。

1924年5月4日、ドイツの総選挙において、ナチスの偽装政党である「国家社会主義自由運動」が32議席を獲得しました。

1924年9月26日、米国は、フランスにルール占領の解消、賠償金額の免除と段階的引き上げにするドーズ案を受け入れさせました。

1924年10月、フランスとベルギーは、ドイツのルール地方から撤退を開始しました。

1924年12月20日、アドルフ・ヒトラーは、保護観察処分に減刑され、仮出獄されました。

1925年2月16日、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトは、ナチス再結成を許可しました。

1925年2月27日、ナチスはビュルガーブロイケラーでナチス再結党大会という集会を開催し、アドルフ・ヒトラーは演説をしました。

1925年7月18日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第1巻を出版しました。

1926年12月11日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第2巻を出版しました。

1928年5月20日、ナチスは、初めての国政選挙で、12議席を獲得しました。

1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所の株が大暴落することから始まり、日本を含む世界中の株が大暴落した世界大恐慌が発生しました。
日本では、昭和恐慌と呼ばれています。

1930年9月14日、ナチスは、国政選挙で、107議席を獲得し、第二党になりました。

1931年9月18日、日本軍は、満洲事変を起こして満洲全土を占領しました。

1932年3月1日、日本は、満州国の独立を宣言しました。

1932年3月13日、ドイツの大統領選挙で、アドルフ・ヒトラーは、30%の票を獲得しますが、大統領には選出されませんでした。

1932年7月31日、ナチスは、国政選挙で、203議席を獲得し、第一党になりました。

1932年9月15日、日本は、満州国の独立を承認しました。

1932年10月1日、国際連盟理事会に満州国の独立を認めないリットン報告書が提出されました。

1932年11月6日、ナチスは、国政選挙で、196議席を獲得し、第一党を維持しました。

1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、アドルフ・ヒトラー内閣が成立しました。

1933年2月24日、国際連盟理事会は、リットン報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)、投票不参加1国(チリ)となり、満州国は認められませんでした。

1933年2月27日、ドイツの国会議事堂が放火され、炎上しました。

1933年2月28日、ドイツは、国家防衛緊急令を公布しました。

1933年3月1日、ドイツは、反逆防止緊急令を公布しました。
ドイツの言論の自由や所有権は著しく制限されました。
ドイツ政府は、連邦各州の全権を掌握し、反ナチスとみなす人、左翼思想家を強制収容所へ送り込む法的根拠となりました。

1933年3月8日、日本は、国際連盟を脱退しました。

1933年3月24日、ドイツは、全権委任法が成立しました。
アドルフ・ヒトラーは、議会を通すことなく、法律を作ることができることになり、ドイツの議会政治は終わり、独裁政治が始まりました。
ドイツでは、ユダヤ系ドイツ人に激しい迫害が加えられましたが、国交を結んでいるユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていました。

1933年6月19日、オーストリアのドルフース首相は、オーストリア・ナチスを非合法化して活動を禁止しました。

1933年10月14日、ドイツは、国際連盟を脱退しました。

1934年7月25日、オーストリア・ナチスの党員は、オーストリア首相官邸に押し入ってドルフース首相を射殺し、クーデターを試みましたが、反対派によって鎮圧されました。

1934年11月12日、ドイツの国際連盟脱退の是非を直接国民に問うために国民投票を実施し、95.1%という圧倒的多数の賛成により、ドイツの国際連盟脱退が支持されました。

1935年3月16日、ドイツは、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言し、徴兵制の復活を宣言しました。

1935年3月27日、日本は、国際連盟の脱退が正式に発効されました。

1935年6月18日、英国は、ヴェルサイユ条約を無視して、融和政策として、ドイツに対して、再軍備を公認し、イギリスの35%までの軍艦を保有できること、潜水艦はイギリスの60%まで建造できることを、
商船攻撃には使用しないという英独海軍協定を承認しました。
ドイツのアドルフ・ヒトラーは協定によって戦艦、潜水艦の建造が認められたとして、建造を急速に進めました。

1935年8月31日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、「中立法」を制定しました。
「中立法」は、戦争状態にある国が存在していること、または内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物質の輸出を禁止します。

1937年5月28日、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が首相に就任しました。

1937年、ドイツは、反社会分子とみなす人、暴力団、売春婦、乞食、浮浪者、住所不特定の者、労働忌避者、同性愛者、アルコール中毒者、訴訟を大量に起こしている者、交通規則違反者、絶えず職場に遅刻する者、無断で休暇を取る者、自分の職務以外の仕事を勝手に引き受けている者を強制収容所へ送り込むようになりました。

1938年3月13日、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、オーストリアへ進駐し、歓迎を受けて、統合しました。
オーストリアは、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」を決議し、発布しました。
ドイツは、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」が公布されました。

1938年9月29~30日、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介し、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統がドイツのミュンヘン会談を行い、ドイツとの戦争を回避するために、ドイツの主張を受け入れ、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツへ譲渡することを認めるという融和政策で問題を解決しました。

1938年10月6日、ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効にすることを決定しました。

1938年10月28日、ドイツは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効が無効になる前に、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人をポーランドに移送しました。
ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の入国を拒否しました。
ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人は、国境地帯で放浪し、窮乏し、餓死しました。

1938年11月7日、ドイツによって追放されたポーランド系ユダヤ人のヘルシェル・グリュンシュパン(17歳)は、ドイツ警察から非道の仕打ちを受けていることを世界に訴えるために、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んで、殺害しました。

1938年11月9日、ドイツのSA(突撃隊)がユダヤ人の商店や企業を破壊しました。

1939年3月、ドイツは、ミュンヘン会談の合意に従わずに、チェコスロバキアを支配下にしました。

1939年4月28日、ドイツは、英独海軍協定とドイツ・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄すると演説しました。

1939年5月~9月、日本とソ連は、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐっての間で断続的に日ソ国境紛争が発生しました。

1939年8月23日、ドイツとソ連は、独ソ不可侵条約を締結するだけでなく、ドイツとソ連がポーランドへ侵攻することを認めていました。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻しました。
ポーランドのダンツィヒ郊外にシュトゥットホーフ強制収容所が設置されました。

1939年9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告しました。

1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻し、デンマークを占領しました。

1940年4月、ドイツが占領していたポーランドのアウシュヴィッツに巨大な強制収容所の建設を命じました。
ドイツは、ヨーロッパ中に強制収容所を建設しました。

1940年5月10日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、小型でガソリンエンジンを搭載したI号戦車、II号戦車で構成され、アルデンヌ森林地帯を抜け、Ju87シュトゥーカ急降下爆撃機による正確な支援爆撃を受けて、ムーズ川を渡り、敵国のガソリンスタンドを補給に利用し、早い速度で進軍し、連合国軍の背後に回り、攻撃することで、連合国軍を総撤退させ、英仏海峡を目指します。
ドイツ軍の空挺部隊は、防御陣地に降下して、爆破し、歩兵主力のB軍集団が防御陣地を制圧し、ベルギーとオランダに侵攻しました。
ドイツ軍のC軍集団は、マジノ線に侵攻し、マジノ線の要塞群に立てこもるフランス軍守備隊を釘づけにしました。
イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が辞職し、ウィンストン・チャーチルが首相に就任しました。

1940年5月15日、ドイツ軍の歩兵主力のB軍集団は、オランダを占領しました。

1940年5月16日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団がイギリス軍とフランス軍の背後へ回り込んだことを知らされたイギリス軍とフランス軍は、総退却を開始し、機動力に勝るドイツ軍のA軍集団にパリ方面への退却を阻まれ、イギリス海峡方面へと退却しました。

1940年5月20日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、英仏海峡に到達し、イギリス軍とフランス軍を包囲しました。

1940年5月21日、イギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍の侵攻を遅らせるためにカレーから進軍し、ドイツ軍を反撃し、ダメージを与えました。

1940年5月22日、ドイツ軍は、カレーに向かって進軍しました。

1940年5月23日、イギリス軍とフランス軍は、カレーに後退しました。

1940年5月24日、ドイツ軍は、カレーを包囲し、降伏するよう説得しました。
イギリスとフランスからの抵抗せよという命令を受けたイギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍に抗戦しました。

1940年5月25日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから「ダイナモ作戦」と名づけられました。

1940年5月26日、ドイツ軍の装甲師団主力のA軍集団は、カレーを陥落しました。
イギリスは、「ダイナモ作戦」を実施し、ダンケルクから33万の連合軍兵士を撤退を開始しました。
カレーのイギリス軍とフランス軍は降伏しました。

1940年5月28日、ドイツ軍の歩兵主力のB軍集団は、ベルギーを占領しました。

1940年6月4日、イギリスは、「ダイナモ作戦」によって、ダンケルクから33万の連合軍兵士を撤退させるのに成功しました。
映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」
映画「ダンケルク」

1940年6月7日、ノルウェー国王は家族とともに英国に亡命しました。

1940年6月8日、連合国派遣軍は、ノルウェーからの撤退しました。

1940年6月9日、ドイツは、ノルウェーを占領しました。

1940年6月10日、イタリアが、イギリスとフランスに宣戦しました。

1940年6月14日、ドイツ軍は、パリに進軍しました。

1940年6月16日、フランスは、ドイツに休戦を申し入れました。

1940年6月22日、ドイツとフランスは、休戦条約に調印しました。
ドイツ軍は、パリを含む北部フランスを占領し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を設立しました。
ドイツ軍は、フランス軍空軍基地をイギリス前進基地として使用可能になりました。
ドイツ軍は、ソ連への侵攻を開始しました。

日本は、イギリスにビルマおよび香港を経由する中国への物資輸送を閉鎖させました。

1940年7月1日、ドイツ軍は英国領チャンネル諸島を占領しました。

1940年7月10日、ドイツ空軍がイギリス空軍を発見し、攻撃しました。

1940年7月16日、ドイツは、イギリス上陸作戦の準備を始めました。

1940年7月22日、イギリスは、ドイツの和平案を拒否しました。

1940年8月1日、ドイツは、ドイツ空軍がイギリスの制空権を確保することを前提したイギリス上陸作戦を決定しました。
ドイツ空軍は、イギリス空軍の殲滅を第一に掲げられ、戦闘機の殲滅と飛行場や航空機産業も攻撃の対象にするよう指令を出しました。

1940年8月30日、ドイツは、爆撃目標をロンドンに変更しました。

1940年9月15日、ドイツ空軍は、大規模なロンドン空爆を行いましたが、大きな損害を出しました。
ドイツ空軍は、イギリスの制空権を取ることができませんでした。
ドイツ軍が初めて大敗を喫した戦いでした。

1940年9月17日、ドイツはイギリス上陸作戦を中止しました。

1940年9月27日、日本とドイツとイタリアは、日独伊三国同盟を締結しました。

1940年11月9日、イギリス前首相ネヴィル・チェンバレンは亡くなりました。

1941年3月11日、アメリカ合衆国は、レンドリース法成立させ、その国の防衛がアメリカ合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考えるような国に対して、あらゆる軍需物資を、売却し、譲渡し、交換し、貸与し、賃貸し、あるいは処分することができるようになりました。

1941年4月13日、日本とソビエト連邦は、「日本国及ソヴイエト連邦間中立条約(日ソ中立条約)」を締結し、相互不可侵、一方が第三国に軍事攻撃された場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、および、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた声明書から構成され、有効期間は5年間で、有効期間満了1年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は5年間自動延長されるとしている。

1941年8月1日、アメリカ合衆国は、日本への石油の全面禁輸を行いました。
日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく、石油がなくなる前に東南アジアの産油地帯を攻略することになりました。
東南アジアの攻略と資源の輸送ルートを考慮すると、アメリカ合衆国の植民地だったフィリピンおよびグアムの攻略も不可欠であり、アメリカ合衆国への開戦することになりました。日本への石油の全面禁輸と日本の東南アジアの攻略は、日本とアメリカ合衆国による太平洋戦争の原因になりました。

1941年8月、ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることにしました。
1941年10月、ドイツは、アウシュヴィッツ強制収容所兼絶滅収容所でユダヤ人をガスで殺害し始めました。

1941年11月27日、アメリカ合衆国から日本に提示された交渉文書であるハル・ノートをもとにした交渉が決裂しました。

1941年12月8日、日本海軍は、米国のハワイ準州のオアフ島にある米国海軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃しました。
日本海軍は、航空機54機を失い、航空機74機が損傷しました。
アメリカ海軍は、戦艦アリゾナ、戦艦オクラホマ、標的艦ユタ、戦艦カリフォルニアが沈没し、戦艦ウエストバージニア、機雷敷設艦オグララ、戦艦ネバダ、駆逐艦ショー、駆逐艦ダウンズ、駆逐艦カッシン、工作艦ヴェスタルが大破し、戦艦テネシー、戦艦メリーランド、戦艦ペンシルベニア、軽巡洋艦ロウリー、駆逐艦母艦ドビン、水上機母艦カーチスを損傷し、航空機188機を失い、航空機159機が損傷しました。

日本軍は、英国領の香港を陥落しました。

1942年1月20日、ドイツの高官15人は、ヴァンゼー湖のほとり、ベルリンの高級住宅街にある大邸宅で会議を行い、「ヨーロッパのユダヤ人問題に対する最終的解決」を話し合い、ヨーロッパのすべてのユダヤ人を意図的に慎重に計画的に抹殺することを決定しました。
ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることを正式に宣言しました。
ユダヤ人の絶滅を行ったのは、ベラルーシのマリィ・トロステネツ強制収容所、ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、マイダネク(ルブリン)強制収容所です。
数百万人のユダヤ人が殺害されました。

1942年1月25日、ヒトラーは、ユダヤ人をドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市にあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所への移送を命令しました。

1942年2月15日、日本軍は、英国領のシンガポールを陥落しました。

1942年4月18日、航空母艦ホーネットと航空母艦エンタープライズから発進したB-25双発爆撃機ミッチェル16機が、太平洋戦争で初めて日本本土(東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等)を爆撃しました。
日本本土爆撃を終えたB-25双発爆撃機ミッチェルのうち15機は中国大陸に不時着して放棄されました。
残りの1機は、ソビエト連邦支配地域に不時着して、搭乗員は抑留されました。

1942年5月4~8日、珊瑚海に進出する日本海軍の計画を知った米国海軍が、先に進出し、航空機で日本の空母部隊を空襲し、日本海軍が航空機で米国の空母部隊を捕捉し、空襲しました。
日本海軍は、空母祥鳳、駆逐艦菊月、掃海艇3隻が沈没し、空母翔鶴、駆逐艦夕月、敷設艦沖島が損傷し、航空機97機を失いました。
米国海軍は、空母レキシントン、油槽船ネオショー、駆逐艦シムスが沈没し、空母ヨークタウンが損傷し、航空機69機を失いました。

1942年5月27日、亡命チェコ軍人がラインハルト・ハイドリヒ暗殺を実行しました。

1942年6月4日、ラインハルト・ハイドリヒは死去しました。

1942年5月、連合国軍はビルマから総退却し、日本軍はビルマ全域を占領しました。
日本は、アメリカがビルマを経由して中国に物資輸送するルートを閉鎖しました。

1942年6月5日から7日、日本海軍とアメリカ海軍がミッドウェー海で交戦し、日本海軍はアメリカ海軍に敗北しました。
日本海軍は、航空母艦赤城、航空母艦加賀、航空母艦蒼龍、航空母艦飛龍、重巡洋艦三隈が沈没し、重巡洋艦最上、駆逐艦荒潮が損傷し、航空機289機を失いました。
アメリカ海軍は、航空母艦ヨークタウン、駆逐艦ハムマンが沈没し、航空機150機を失いました。

1942年11月26日、ノルウェー秘密国家警察・クヌート・ロッドは、警官とタクシー運転手らによって、ノルウェーに住むユダヤ人全員をオスロ港へと強制移送し、「ドナウ号」でアウシュヴィッツへ強制移送しました。

1943年1月14~23日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、モロッコのカサブランカで会談し、ドイツ、イタリアと日本に対して無条件降伏を要求すること、ビルマにおける本格的に反攻することなどに合意しました。

1943年7月4日から8月27日、ドイツ軍とソ連軍がクルスクで交戦し、ドイツ軍はソ連軍に敗北しました。

1943年9月8日、イタリアは、連合国に降伏しました。

1943年11月22~26日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蒋介石がエジプト王国のカイロで会談を行い、連合国が日本の無条件降伏まで戦うこと、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還することを提示し、中華民国が日本と単独講和をしないようにしました。
ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、中国の戦争からの脱落を防ぎ、日本軍が中国を攻撃することで、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻撃をできないようにしました。

1943年11月28日~12月1日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、イランのテヘランで会談を行い、ビルマ奪回作戦、ノルマンディー上陸作戦などの連合国側の作戦における各国間の調整を行い、ポーランド国境の確定、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦も話し合いました。

1944年4月7日、アルフレートとヴァルターは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の記録を持って、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から逃走するために、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、身を隠します。

1944年4月10日、アルフレートとヴァルターは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所からの脱出に成功しました。

1944年4月27日、アルフレートとヴァルターは、「アウシュヴィッツ・レポート」を書き上げました。

1944年5月、イギリス陸軍内にユダヤ人旅団が編成されました。

1944年6月、「アウシュヴィッツ・レポート」は、公開されました。

1944年6月4日、ニューヨークタイムズが、ガス室について説明し、ユダヤ人が処刑されていると報じました。

1944年6月5日、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始し、橋を確保し、砲台陣地を破壊し、ドイツの反撃を阻止しました。

1944年6月6日、米国とイギリスは、100万人を超える兵士で、ノルマンディー上陸作戦を行い、1日で上陸を果たしました。

1944年6月25日、教皇ピオ十二世は、「アウシュヴィッツ・レポート」を元に、ユダヤ人の強制送還の停止を呼びかけました。

1944年6月26日、フランクリン・D・ルーズベルト米国大統領は、「アウシュヴィッツ・レポート」を元に、ユダヤ人の強制送還の停止を呼びかけました。

1944年6月26日、ジュネーブのユダヤ機関のリチャード・リヒテイムは英国に電報を送り、連合国にハンガリー政府のメンバーに殺害の責任を個人的に負わせるよう呼びかけました。

1944年7月7日、ハンガリーの摂政ミクロス・ホーシーは、ユダヤ人の強制送還の停止を命じました。

1944年7月23日、ソ連軍は、マイダネク(ルブリン)強制収容所を開放しました。

1944年8月25日、連合軍は、パリを含むフランスを開放し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を打倒しました。

1945年1月27日、ソ連軍がアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を解放しました。

1945年1月30日~2月3日、アメリカのエドワード・ステティニアス国務長官とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が、マルタ共和国のマルタで会談し、ソ連軍が中央ヨーロッパまで前進することは望ましくないと言うことで合意し、ホロコーストによる数百万人の難民をどうするについて話し合い、ソ連とのヤルタ会談の事前会談になりました。

1945年2月4~11日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で会談し、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治、ポーランド人民共和国の国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。
国際連合の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5カ国の拒否権を認めました。
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦、および千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇も決定し、北方領土問題の発端となりました。

1945年2月19日、アメリカ軍は、硫黄島への上陸作戦を始めました。
1945年3月17日、アメリカ軍は、硫黄島を制圧しました。

1945年3月23日、アメリカ軍は、沖縄県周辺への上陸作戦を始めました。

1945年4月11日、アメリカ軍は、ブーヘンヴァルト強制収容所を解放しました。

1945年4月15日、イギリス軍は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放しました。
アンネ・フランクは、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死亡していました。

1945年4月25日、アメリカ軍は、前田高地への攻撃を開始しました。

1945年4月29日、アメリカ軍は、ダッハウ強制収容所を解放しました。

1945年4月30日、ヒトラーは、総督官邸の地下壕で自殺しました。

1945年5月2日、ソ連は、ベルリンを占領しました。

1945年5月7日、ドイツは、連合国に無条件降伏しました。

1945年5月9日、イギリス領チャンネル諸島を占領していたドイツ軍は降伏しました。

1945年5月27日、沖縄守備軍は、首里を放棄し、南部への撤退を開始しました。

1945年6月23日、牛島満司令官達が自決しました。

1945年7月2日、アメリカ軍は、沖縄戦終了を宣言しました。

1945年7月17日~8月2日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連占領地域となったポツダムで会談し、第二次世界大戦の戦後処理を決定しました。
ポツダム宣言には、「日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである」と記述されています。
原子爆弾の準備ができたから、日本に投下するということです。

1945年8月6日、アメリカ軍は、日本の広島市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月9日、アメリカ軍は、日本の長崎市に原子爆弾を投下しました。

1945年8月14日、日本は、ポツダム宣言を受諾しました。

1945年8月15日、日本は、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾
を全国民と全軍に表明し、連合国に降伏しました。

1945年9月2日、日本は、ポツダム宣言に調印・即時発効(降伏文書)によって第二次世界大戦は終結しました。

1945年9月7日、沖縄守備軍は、降伏しました。

1945年11月20日、ニュルンベルク裁判が始まりました。
1946年10月1日、ニュルンベルク裁判が終わりました。

1947年8月14日および15日、イギリス領インドは、インドとパキスタンに分離独立をしました。
映画「ガンジー」

1948年5月14日、ユダヤ人たちは、イスラエル独立宣言を行いました。

1954年7月7日、アメリカ合衆国は、バオ・ダイ時代に内相をつとめ、反共産主義でカトリック教徒のジエムを南ベトナムの首相に初代就任させました。

1955年6月14日、ジエムは自ら南ベトナムの国家元首に就任しました。

1955年10月26日、ジエムはベトナム共和国(通称「南ベトナム」)樹立宣言を行い、初代大統領に就任しました。

1960年5月11日、アドルフ・アイヒマンは、バスから降りて自宅へ帰る道中に、イスラエル諜報特務部に拘束れました。

1960年5月25日、イスラエルのダヴィド・ベン=グリオン首相は、アドルフ・アイヒマンの身柄確保を公式に発表しました。

1960年11月8日、ジョン・F・ケネディ民主党大統領候補は、リチャード・ニクソン共和党大統領候補に僅差で勝ち、アメリカ合衆国大統領に当選しました。

1960年12月20日、南ベトナム解放民族戦線は、ジエム大統領とアメリカ合衆国を打倒するために結成されました。

1961年1月20日、ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国大統領に就任しました。

1961年4月11日、エルサレムで、アドルフ・アイヒマンの裁判が始まりました。
映画「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」

1961年4月17日、1,400人の亡命キューバ人部隊がピッグス湾に上陸し、キューバ政府軍の反撃に遭い、キューバ空軍の攻撃を受け、沖合に待機した艦船が撃沈、弾薬も食糧も欠乏する事態の中で海岸で部隊は孤立しました。
アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆国正規軍の派遣を拒否し、ピッグス湾上陸作戦は失敗しました。

1961年5月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、アメリカ合衆軍の正規軍人から構成された「軍事顧問団」という、ゲリラに対する掃討作戦を行う特殊作戦部隊600人の派遣と軍事物資の支援を増強することを決定し、南ベトナム解放民族戦線を壊滅させる目的でクラスター爆弾、ナパーム弾、枯葉剤を使用する攻撃を開始しました。

1961年12月15日、アドルフ・アイヒマンは、全ての罪で有罪となり、死刑が宣告されました。
1962年6月1日、アドルフ・アイヒマンは、ラムラの刑務所で絞首刑になりました。

1962年8月、ネルソン・マンデラは、逮捕されました。

1962年10月14日、アメリカ合衆軍が、空中偵察によりキューバに核ミサイル基地を発見しました。
1962年10月22日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、海上封鎖を宣言し、新たなミサイルの配備を阻止し、ソ連にミサイルを解体、撤去することを要求しました。
1962年10月28日、ソ連のフルシチョフ最高指導者は、キューバから核ミサイル基地を撤去すると発表しました。

1962年2月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、南ベトナム軍事援助司令部を設置し、爆撃機や武装ヘリコプターなどの各種航空機や、戦車などの戦闘車両や重火器などの装備も送るなどにより、軍事顧問団という名目の特殊作戦部隊であるものの、事実上の正規軍の派遣に格上げしました。

1962年5月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、南ベトナムとラオスへの支援を目的にタイ国内の基地に数百人規模のアメリカ海兵隊を送ることを決定しました。

1963年1月2日、2000人で構成され装備の面で圧倒的に勝るアメリカ合衆軍及びベトナム共和国軍は、約200人で構成された南ベトナム解放民族戦線にアプバクで敗北しました。
アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、アメリカ軍を本格的にベトナムに投入することを決断し、アメリカ軍を16,263人に増加させました。
ジェム南ベトナム大統領は、軍事介入の拡大とともに内政干渉を行うアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディを敵対視するようになりました。

1963年10月31日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、ゴ・ディン・ジェム南ベトナム大統領に揺さぶりをかけるために、「1963年の末までに軍事顧問団をベトナムから1,000人を引き上げる」と発表しました。

1963年11月22日、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、43歳で、殺害されました。
リンドン・B・ジョンソンが、米国大統領に就任しました。

1964年6月21日、クー・クラックス・クラン(KKK)のメンバーが、ミシシッピー州フィラデルフィアで、3人の公民権運動家、黒人のジェムズ・チェイニー、ユダヤ人のアンドリュー・グッドマンとマイケル・シュワーナーを殺害しました。

1964年7月2日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは、公民権法に著名し、南部各州のジム・クロウ法は廃止となりました。

1964年8月2日、北ベトナム海軍の魚雷艇は、ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ合衆国海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃をしました。
1964年8月4日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンとアメリカ合衆国軍は、ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ合衆国海軍の駆逐艦「マドックス」への魚雷攻撃を捏造しました。
1964年8月5日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは、北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動(ピアス・アロー作戦)を行いました。
1964年8月7日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは、米国上下両院で民主党と共和党の議員の圧倒的な支持で承認されて、実質的な戦時大権を得ました。

1964年11月3日、リンドン・B・ジョンソンは、得票率61.1%を獲得し、538人の大統領選挙人の内486人の支持を得て、大統領選挙で圧勝しました。

1965年2月7日、アメリカ合衆国は、北ベトナムへの集中爆撃(北爆)を開始しました。

1965年2月21日、マルコムXは、ニューヨーク州ニューヨーク市マンハッタン区ワシントンハイツ地区にあるオードゥボン舞踊場でスピーチしているときに、殺害されました。

1965年3月21日、キング牧師が率いる2,000名ほどの公民権運動家達は、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンが命じた連邦政府の管理下で米国陸軍とアラバマ州兵によって保護され、アラバマ州セルマを出発し、エドモンド・ペタス橋を渡り、州都モンゴメリーに向けてデモ行進を始めました。

1965年3月25日、キング牧師は、デモ隊と共にモンゴメリーに無事到着しました。
KKKのメンバーが、セルマから首都モンゴメリーへの行進に参加し、モンゴメリーからセルマに戻る車を運転中のヴィオラ・リッツォを射殺しました。

1965年8月6日、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンが国会議事堂で投票権法の協議会案に署名して法となり、キング牧師、ローザ・パークス、ジョン・ルイスなど公民権運動の指導者達が同席しました。
投票権法によって、投票権が州でなく、連邦政府によって監督され、執行されるようになりました。
映画「グローリー/明日への行進」

1967年7月23日、アルジェ・モーテル事件が発生しました。

1968年1月30日、北ベトナム人民軍及び南ベトナム解放民族戦線は、テト攻勢を企画し、私服の戦闘員を各都市に浸透させ、拠点に武器を集積するなど準備したのち、一斉に蜂起しました。

1968年3月16日、アメリカ合衆国陸軍のうちウィリアム・カリー中尉率いる第1小隊が、南ベトナム・クアンガイ省ソンティン県にあるソンミ村のミライ集落を無差別射撃などで虐殺した。集落は壊滅状態となり、生存者はわずか3人でした。

1968年4月4日、キング牧師は、テネシー州メンフィスで殺害されました。

1968年6月5日、ロバート・ケネディ上院議員は、カルフォルニア州ロサンゼルスで、暗殺されました。

1968年11月5日、リチャード・ニクソンは、得票率43.3%を獲得し、538人の大統領選挙人の内301人の支持を得て、大統領選挙で勝利しました。

1969年1月20日、リチャード・ニクソンは、米国大統領に就任しました。

1969年7月21日、ニール・アームストロング達は、月面着陸し、月面に降り立ちました。
映画「ファースト・マン」

1971年7月、マーク・フェルトは、FBI副長官に就任しました。

1971年6月13日、ニューヨーク・タイムズのニール・シーハン記者は、「ペンタゴン・ペーパーズ」の報道を始めました。

1972年5月2日、J・エドガー・フーバーFBI長官は亡くなりました。
アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは、マーク・フェルトFBI副長官などのFBI内部からFBI長官を任命するのではなく、リチャード・ニクソン米国大統領の腹心であるパトリック・グレイをFBI長官代行に任命しました。

1972年6月17日、ウォーターゲート事件は、ワシントンD.C.にあるウォーターゲート・ビルの警備員が、ドア上に奇妙なテープに気付き、ワシントン市警に通報したところから事件は始まります。
ワシントン市警察官の到着後、ウォーターゲート・ビルにある民主党全国委員会本部オフィスへの不法侵入の罪で、バーナード・バーカー、バージリオ・ゴンザレス、ユージニオ・マルチネス、ジェームズ・マッコード・ジュニアとフランク・スタージスが現行犯逮捕されました。
ハワード・ハントとゴードン・リディは、別室で指揮を執っていたため、現行犯逮捕されず、後日逮捕されました。

1972年11月7日、米国大統領選挙で、リチャード・ニクソン米国大統領は米国政治史上で稀に見る大差で再選を果たしました。

1972年1月20日、リチャード・ニクソンは2度目の米国大統領に就任しました。

1973年6月22日、マーク・フェルトFBI副長官は、FBIを退局しました。

1973年3月29日、アメリカ合衆国軍は、ベトナムからの撤退を開始し、撤退が完了しました。

1974年8月9日、リチャード・ニクソン米国大統領が辞任しました。

1974年9月8日、ジェラルド・R・フォード米国大統領は、リチャード・ニクソンに恩赦を与えました。

1976年7月、ロン・コーヴィックは、民主党全国大会の演壇での講演しました。

ハンナ・アーレントの生涯

1906年10月14日、ハンナ・アーレントは、ドイツのハノーファー郊外のリンデンに住むドイツ系ユダヤ人のアーレント家に生まれ、父は工学士の学位を持ち、電気工事会社勤務のパウル・アーレント、母はマルタ・アーレント。

1924年、ハンナ・アーレントは、高校を中退し、独学で、18歳にして大学入学資格試験に合格し、マールブルク大学に入学しました。

1924年、ハンナ・アーレントは、マールブルク大学でマルティン・ハイデッガーと出会い、哲学を学びました。
ハンナ・アーレントは、マルティン・ハイデッガーと不倫関係になりました。
ハンナ・アーレントは、ハンス・ヨナスと出会い、友人になりました。
ハンナ・アーレントは、博士論文として「アウグスティヌスの愛の概念」を書きました。
ハンナ・アーレントは、クルト・ブルーメンフェルトと出会い、シオニストの政治思想と活動に触れました。

1929年9月、ハンナ・アーレントは、ギュンター・シュテルンと結婚しました。

1931年、ハンナ・アーレントは、フランクフルトに引越し、講義に参加しました。

1933年、ハンナ・アーレントは、フランスに亡命しました。

1937年、ハンナ・アーレントは、ギュンターと離婚しました。

1940年、ハンナ・アーレントは、スパルタクス団やドイツ共産党を経験する活動家ハインリッヒ・ブリュッヒャーと結婚し。政治的思考を学びました。

1941年、ハンナ・アーレントは、アメリカ合衆国に亡命しました。

1951年、ハンナ・アーレントは、アメリカ合衆国の市民権を取得しました。

1951年、ハンナ・アーレントは、「全体主義の起源」を出版し、全体主義について分析し、バークレー、シカゴ、プリンストン、コロンビア各大学の教授・客員教授などを歴任しました。

1961年、ハンナ・アーレントは、エルサレムで、アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴しました。

1963年2月、ハンナ・アーレントは、「ザ・ニューヨーカー」誌に「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を発表しました。

1967年、ハンナ・アーレントは、ニュー・スクール・フォー・ソーシャル・リサーチの哲学教授に任命されました。

1975年12月4日、ハンナ・アーレントは、69歳で亡くなりました。

感想

最後の名言を理解できるか?

ハンナ・アーレントは、ドイツ系ユダヤ人で、女性の哲学者で、ナチス・ドイツの迫害により、フランス、アメリカへ亡命し、エルサレムで、アドルフ・アイヒマンの裁判を傍聴し、「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を発表した人です。
日本では、人気のない裁判映画ですが、実話です。
事前に「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」を鑑賞すると理解が深まります。
ストーリーは、ハンナ・アーレントの学生時代の思い出が挿入されるくらいで、時系列に進むので理解しやすいです。
ハンナ・アーレント以外の登場人物については、知っていることが前提であるかのようにストーリーが進みます。
ハンナ・アーレント以外の登場人物については、鑑賞後、調べない限り、わかりません。
ハンナ・アーレント以外の登場人物の立場を理解していないと、この映画も理解できません。

ハンナ・アーレントは、哲学者として、最後まで考え続け、「人間が思考ができなくなると、人間が残虐行為を行う」という悪の汎用性を指摘しました。
ハンナ・アーレントは、ドイツ人もユダヤ人も人種に関係なく、大罪を犯す悪を持っていると指摘したので、一般的には受け入れられましたが、ユダヤ人からは非難されました。
ユダヤ人達の空気は、ナチス・ドイツは絶対悪で、ユダヤ人とは全く違うということです。

アドルフ・アイヒマンは、ユダヤ人課で、ユダヤ人たちの亡命と引き換えにユダヤ人たちの全財産を没収する巨額のビジネスを立ち上げ、この延長線上にユダヤ人虐殺があるのではと思うので、有罪で、死刑は妥当だと言えます。

日本の若い人の保守化が指摘されることがありますが「上に逆らっても状況は変わらない」、「抵抗したところで、どうせ成功はしない」と仕方なく考えるように、教育されているのではないのでしょうか?
いじめられようが、パワハラを受けようが、セクハラを受けようが、炎上しようが、自分で思考し、意見の言える日本人はいるのでしょうか?
いじめて、パワハラして、セクハラをして、炎上する日本人に必要なのは哲学を学ぶことです。

ナチス・ドイツに迫害され、亡命を余儀なくされたハンナ・アーレントが、アドルフ・アイヒマンを客観的に見て、普遍的な結論を導き出せた理由は、ナチス・ドイツに迫害され、亡命を余儀なくさせられる前に、マルティン・ハイデッガーから哲学も、不倫関係になり愛することも学んだからだと感じました。
マルティン・ハイデッガーは、後にナチス・ドイツに入党しました。
ハンナ・アーレントは、ナチス・ドイツが全て悪魔という考えはないでしょう。
教育は、重要です。

自分は、思考を停止し、民族として、日本人を愛する気はないです。
自分は友人を選ぶので、思考を停止し、民族として、日本人を愛する人を友人には選びません。
自分は、思考することで、自分が強くなりたいです。

ハンナ・アーレントの名言

映画の中に名言があり、この映画は、この名言を理解するための映画です。

ハンナ・アーレントの名言
  • 世界最大の悪は、ごく平凡な人が行う悪です。
    そんな人には動機もなく、信念や邪心も悪魔的な意図もない。
    人間であることを拒絶した者なのです。
    そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。
  • 人間の大切な質を放棄しました。
    それは思考する能力です。
    その結果、モラルまで判断不能となりました。
    思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。
    過去に例がないほど大規模な悪事をね。
  • ”思考の風”がもたらすのは、知識ではありません。
    善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。
  • 私が望むのは、考えることで、人間が強くなることです。
    危機的状況にあっても、考え抜くことで、破滅に至らぬよう。

世界最大の悪は、ごく平凡な人が行う悪です。
そんな人には動機もなく、信念や邪心も悪魔的な意図もない。
人間であることを拒絶した者なのです。
そして、この現象を、私は”悪の凡庸さ”と名付けました。

自分の周りにいた人々は、この通りの人々です。
空気を読む人々は、人間であることを拒絶した人々だということです。

人間の大切な質を放棄しました。
それは思考する能力です。
その結果、モラルまで判断不能となりました。
思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。
過去に例がないほど大規模な悪事をね。

上司の言いなりになることで、思考することもなく、残虐行為に走った人々です。

”思考の風”がもたらすのは、知識ではありません。
善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。

自分の周囲には、善悪を区物する能力のある人はいませんでした。

私が望むのは、考えることで、人間が強くなることです。
危機的状況にあっても、考え抜くことで、破滅に至らぬよう。

日本は、思考しない人で埋め尽くされ、破滅に至るでしょう。

まとめ

次は、映画「天地創造」をレビューする予定です。

以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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