映画「ガンジー」に関する、あらすじと感想

「夢をかなえるゾウ2」の中で、出てきた「ガンジー」について知りたいと感じました。

ガンジーは、1964年にノーベル平和賞を受賞したマーティン・ルーサー・キング・ジュニアや1993年にノーベル平和賞を受賞したネルソン・マンデラに大きな影響を与えました。
マーティン・ルーサー・キング・ジュニアについては、映画「グローリー/明日への行進」をレビューしたので参考にしてください。
ガンジーは、ノーベル平和賞を受賞していません。

ガンジーについて、もっと知りたい人は、「ガンディー 平和を紡ぐ人」を読むと良いです。

基本情報・スタッフ

監督    リチャード・アッテンボロー
脚本    ジョン・ブライリー
製作    リチャード・アッテンボロー
製作総指揮 マイケル・スタンレー・エバンス
音楽    ラヴィ・シャンカール
      ジョージ・フェントン
撮影    ビリー・ウィリアムズ
      ロニー・テイラー
編集    ジョン・ブルーム
製作会社  コロンビア映画
      ゴールドクレスト・フィルムズ
      インターナショナル・フィルム・インヴェスターズ
      インド国立映画開発公社
      インド=ブリティッシュ・フィルムズ
配給    コロンビア映画
公開    1983年4月16日
上映時間  188分

リチャード・アッテンボローは、映画「遠い夜明け」の監督もしています。

舞台となる場所

インドのニューデリーです。

南アフリカのダーバンとピーターマリッツバーグ(Pietermaritzburg)です。

南アフリカのダーバン、ヨハネスブルクとプレトリアです。
プレトリアはトランスヴァールの中心都市です。

ボンベイは、ムンバイになっています。

ビハール州チャンパランは、ネパールとの国境沿いにあります。
モティハリは、チャンパランの中心都市です。

アムリッツァーは、アムリットサルになっています。

ガンディーが生まれたのは、グジャラード地方のポルバンダルです。
ガンディーは、アフマダーバードにアーシュラムを建設しました。

塩の行進は、アフマダーバードからハジラに北にある小さな港町ダーンディーまでおこなわれました。

インドのベンガル州カルカッタは、コルカタになっています。

あらすじ

単語説明

キリスト教徒は、クリスチャンとも呼ばれ、イエス・キリストを救い主として信じる宗教で、新約聖書を聖典としたイエス・キリストを崇拝する一神教です。

イスラム教徒は、ムスリムとも呼ばれ、600年頃、ムハンマドは、メッカ郊外で、アッラーの啓示を受けたと主張し、アラビア半島でイスラーム教を始め、コーラン、旧約聖書を聖典とした、アッラーを崇拝する一神教です。

ヒンズー教徒は、紀元前500年にインダス川の東側の人々から信仰されてきた宗教で、多神教で、インドで多数派を占める宗教です。
中心となる3大神は、プラナミ、ヴィシュヌとシヴァです。
プラナミは、世界の実在を与える神です。
ヴィシュヌは、世界の維持と平安を与える神です。
シヴァは、世界の創造と破壊を行う神です。
プラナミ神を信仰する人をプラナミ派、ヴィシュヌ神を信仰する人をヴィシュヌ派、シヴァ神を信仰する人をシヴァ派となります。
「夢をかなえるゾウ1」「夢をかなえるゾウ2 ガネーシャと貧乏神」に出てくるガネーシャは、シヴァの子供で、象の頭を持つ神で、富と繁栄、智恵と学問を司る神です。
ヒンズー教は、ギーターを聖典としています。

シーク教徒は、16世紀初めに、グル・ナーナクに啓示を受け布教を開始し、ターバン着用が戒律上の義務づけられ、輪廻転生による再生を繰り返した末に、神と合一することを目指し、「グル・グラント・サーヒブ」などの詩歌によって教義が伝えられています。

ユダヤ教徒は、紀元前1280年頃、モーセがヘブライ人をエジプトから脱出させ、シナイ山で神ヤハウェと契約を結び、旧約聖書を聖典としたヤハウェを崇拝する一神教です。

清教徒は、キリスト教プロテスタント派の一部で厳格な人、潔癖な人という意味もあります。

インドは、世界四大文明の一つインダス文明が栄えた国です。
大英帝国は、イギリスの海外領土(南アフリカ、インド、パキスタン等)を含めた非公式な名称です。
ペルシャ人は、イラン人のことで、紀元前300年のアレキサンダー大王の時代から呼ばれてきました。
映画「アレキサンダー」
イラン人と呼ばれようになったのは、1935年以降です。

身分証明書は、パス法に基づき、18歳以上の黒人に、氏名、写真、指紋、雇用主の氏名・連絡先が掲載され、携帯を義務付けられました。
アメリカ独立宣言は、アメリカ独立宣言(1776年)で読むことができます。
カーストは、ヒンドゥー教における身分制度です。
ブラフミンは僧侶階級で司祭などの人々、クシャトリヤは騎士階級で王や貴族などの人々、ヴァイシャは製造業で働ける人々、シュードラは一般人が働きたくないところで働かなくではならない人々に分けられています。
ヴァルナに属さない人々は、不可触民、ダリット、アウトカーストと呼ばれています。
カーストは親から受け継がれるだけであり、生まれた後にカーストは変えられません。
日本の江戸時代の身分制度である士農工商、非人に似ています。

バプーは、父親という意味です。
アシュラムは、宗教、身分による差別をなくした共同社会です。
ハバカリは、トイレのことです。
ナマステは、出会いと別れの挨拶です。
マハトマは、偉大なる魂です。

自尊心は、他人の評価ではなく、自分が有能で、価値があるといういわゆる自信です。

儀仗兵は、元首・要人などの儀礼・警護を担当する兵隊です。

インド国民会議派は、1885年からインド人の政治参加を目指す人々の集まりで始まり、反英抵抗運動になり、地方組織を強化して本格的な政党になりました。

藍は、インドで栽培されている藍植物からとれる天然の布を染める染料です。
ドイツで化学合成によりインジゴを製造され、インドの天然の藍の需要はなくなりました。

ストライキは、労働者が労働を行わないで抗議することです。
断食は、水分は摂取しますが、食べ物を口にするのを止める行為です。

ケンブリッジは、イギリスのイングランド東部にあるケンブリッジ大学のことです。
マンチェスターは、イギリスのイングランドの北西部にある都市で、綿工業、織物工場で発展しました。
リーズは、イギリスのイングランドの北部にある都市で、毛織物、綿織物産業で発展しました。

心臓発作は、心臓の筋肉を養う血管に突然異常が起こり、狭心症や急性心筋梗塞、さらには不整脈による心停止などの心臓の急な病気を指し、いずれも生命に重大な危険を及ぼします。

血栓は、血液中にさまざまな原因によって形成された血の塊で、血管を閉塞し、心臓などの臓器障害を引き起こします。

最後のセリフ

それを思う。いつも

時代背景

1764年10月23日、イギリス東インド会社は、ムガル帝国、アワド太守、前ベンガル太守のインド側連合軍とインドのブクサールで戦い、勝利しました。

1765年8月16日、イギリス東インド会社は、ムガル帝国とアラーハーバード条約を結び、ベンガル、ビハール、オリッサの三州を支配しました。

1799年5月13日、イギリス東インド会社は、マイソール王国と南インドで戦い、勝利し、支配しました。

1814年、インドは、毎年120万ピースのインド綿製品をイギリスへ輸出していました。
イギリスは、毎年80万ピースのイギリス綿製品をインドに輸出していました。

1818年6月3日、イギリス東インド会社は、マラーター同盟と北インド、中央インドで戦い、勝利し、支配しました。

イギリスは、関税を上げて、インドがインド綿製品を輸出できないようにしました。
イギリスは、イギリス綿製品を無税でインドへ輸出しました。

1828年、インドは、毎年42万ピースのインド綿製品をイギリスへ輸出するようになりました。
イギリスは、毎年430万ピースのイギリス綿製品をインドに輸出するようになりました。
こうしてインドの伝統的な綿織物産業は壊滅しました。

1833年、ウィリアム・キャヴェンディッシュ=ベンティンクは、初代インド提督に就任しました。

1848年2月21日、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスは、「共産党宣言」を出版しました。

1849年3月26日、イギリス東インド会社は、インドにおける最後の独立国であるシク王国とグジュラートで戦い、勝利し、支配しました。
イギリス東インド会社は、全インドを植民地としました。

1865年2月1日、リンカーン大統領は、アメリカ合衆国憲法修正第13条に署名し、成立しました。
映画「リンカーン」

1885年、英領インドのボンベイで、72人の代表を集めて第1回インド国民会議派の会議が開催されました。

1890年7月29日、ゴッホは、37歳で、フランスのヴァル=ドワーズ県オーヴェル=シュル=オワーズで、自ら命を絶ち、カフェ・ラボオーの一室で亡くなりました。
映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」

1896年12月、22歳となったウィンストン・チャーチルは、イギリス領インド帝国に派遣され、暇な時間に多くの本を読みました。

1904年2月、日露戦争が始まりました。
1905年9月、日本は、日露戦争でロシアに勝利しました。

1906年、イギリスのインド総督ミントーが、インドのイスラム教徒に働きかけて、全インド=ムスリム連盟を結成させました。

1912年4月14日、タイタニックは、氷山に衝突しました。
1912年4月15日、タイタニックは、沈没しました。
映画「タイタニック」

1914年7月28日、第一次世界大戦が始まりました。

1915年10月24日、イギリスは、アラブ人に対トルコ戦協力を条件にパレスチナ独立支持を約束した「フサイン=マクマホン協定」を結びました。

1916年5月16日、イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定、「サイクス・ピコ協定」を結びました。
この協定では、アラブ人のパレスチナ独立支持を認めない内容でした。

1917年7月6日、ロレンスが率いるアラブ軍はアカバを奇襲し、陥落します。
ローレンスは、スエズまで150マイルを走り、アカバの2,500人のアラブ人と700人のオスマン帝国の捕虜にイギリス海軍が食料と物資を届ける手配をします。
映画「アラビアのロレンス 完全版」

1917年11月2日、「バルフォア宣言」として、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を示し、その支援を約束しました。

1919年1月5日、ミュンヘンの「フュルステンフェルダー・ホーフ」というビアホールでドレクスラーが労働者24人と共にミュンヘンで「ドイツ労働者党」を結成しました。

1919年6月28日、連合国とドイツが、ヴェルサイユで講和条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。
ドイツは、ドイツの領土は縮小され、植民地を放棄し、軍備・兵器は制限され、賠償総額が1320億金マルクとされました。

1918年7月18日、ネルソン・マンデラは、南アフリカのトランスカイのウムタタ近郊クヌ村で、テンブ人の首長の子として生まれました。

1918年11月11日、第一次世界大戦が終わりました。

1929年1月15日、キング牧師は、ジョージア州アトランタでバプテスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として、生まれました。

1929年10月24日、ニューヨークの株式相場が下落し、世界大恐慌が発生しました。

1937年5月28日、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が首相に就任しました。

1938年3月13日、ドイツは、オーストリアを併合しました。

1938年9月29~30日、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介し、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統がドイツのミュンヘンで会談を行い、ドイツとの戦争を回避するために、ドイツの主張を受け入れ、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツへ譲渡することを認めるという融和政策で問題を解決しました。

1939年3月、ドイツは、ミュンヘン会談の合意に従わずに、チェコスロバキアを支配下にしました。

1939年8月23日、ドイツとソ連は不可侵条約を締結するだけでなく、ドイツとソ連がポーランドへ進行することを認めていました。

1939年9月1日、ドイツとスロバキアがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まりました。

1939年9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告しました。
1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻し、デンマークを占領しました。

1940年4月、ドイツが占領していたポーランドのアウシュヴィッツに巨大な強制収容所の建設を命じました。
ドイツは、ヨーロッパ中に強制収容所を建設しました。

1940年5月10日、ドイツ軍はフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻を開始しました。
イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が辞職し、ウィンストン・チャーチルが首相に就任しました。

1940年5月15日、ドイツ軍はオランダを占領しました。
1940年5月20日、ドイツ軍は英仏海峡に到達し、イギリス軍とフランス軍を包囲しました。
1940年5月21日、イギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍の侵攻を遅らせるためにカレーから進軍し、ドイツ軍を反撃し、ダメージを与えました。
1940年5月22日、ドイツ軍は、カレーに向かって進軍しました。
1940年5月23日、イギリス軍とフランス軍は、カレーに後退しました。
1940年5月24日、ドイツ軍は、カレーを包囲し、降伏するよう説得しました。
イギリスとフランスからの抵抗せよという命令を受けたイギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍に抗戦しました。
1940年5月25日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから「ダイナモ作戦」と名づけられました。
1940年5月26日、イギリスは、「ダイナモ作戦」を実施し、ダンケルクから33万の連合軍兵士を撤退を開始しました。
カレーのイギリス軍とフランス軍は降伏しました。
1940年5月28日、ドイツ軍はベルギーを占領しました。
1940年6月4日、イギリスは、「ダイナモ作戦」によって、ダンケルクから30万の連合軍兵士を撤退させるのに成功しました。

1940年6月4日、イギリスは、「ダイナモ作戦」によって、ダンケルクから30万の連合軍兵士を撤退させるのに成功しました。
映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」
映画「ダンケルク」

1940年7月1日、ドイツ軍は英国領チャンネル諸島を占領しました。
1940年7月10日、ドイツ空軍がイギリス空軍を発見し、攻撃しました。
1940年7月16日、ドイツは、イギリス上陸作戦の準備を始めました。
1940年7月22日、イギリスは、ドイツの和平案を拒否しました。
1940年8月1日、ドイツは、ドイツ空軍がイギリスの制空権を確保することを前提したイギリス上陸作戦を決定しました。
ドイツ空軍は、イギリス空軍の殲滅を第一に掲げられ、戦闘機の殲滅と飛行場や航空機産業も攻撃の対象にするよう指令を出しました。
1940年8月30日、ドイツは、爆撃目標をロンドンに変更しました。
1940年9月15日、ドイツ空軍は、大規模なロンドン空爆を行いましたが、大きな損害を出しました。
ドイツ空軍は、イギリスの制空権を取ることができませんでした。
ドイツ軍が初めて大敗を喫した戦いでした。
1940年9月17日、ドイツはイギリス上陸作戦を中止しました。

1940年9月27日、日本とドイツとイタリアは、日独伊三国同盟を締結しました。

1940年11月9日、ネヴィル・チェンバレンは亡くなりました。

1941年12月8日、日本軍は、アメリカ合衆国ハワイのオアフ島の真珠湾にある米軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃し、アメリカ合衆国が第二次世界大戦に参戦しました。

1942年4月18日、航空母艦ホーネットと航空母艦エンタープライズから発進したB-25双発爆撃機ミッチェル16機が、太平洋戦争で初めて日本本土(東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等)を爆撃しました。

1942年5月4~8日、珊瑚海に進出する日本海軍の計画を知った米国海軍が、先に進出し、航空機で日本の空母部隊を空襲し、日本海軍が航空機で米国の空母部隊を捕捉し、空襲しました。

1942年5月27日、亡命チェコ軍人がラインハルト・ハイドリヒ暗殺を実行しました。
1942年6月4日、ラインハルト・ハイドリヒは死去しました。

1942年6月5日から7日、日本海軍とアメリカ海軍がミッドウェー海で交戦し、日本海軍はアメリカ海軍に敗北しました。

1944年6月5日、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始し、橋を確保し、砲台陣地を破壊し、ドイツの反撃を阻止しました。

1944年6月6日、米国とイギリスは、100万人を超える兵士で、ノルマンディー上陸作戦を行い、1日で上陸を果たしました。

1945年2月19日、アメリカ軍は、硫黄島への上陸作戦を始めました。
1945年3月17日、アメリカ軍は、硫黄島を制圧しました。

1945年4月25日、アメリカ軍は、前田高地への攻撃を開始しました。

1945年4月30日、アドルフ・ヒトラーは、総督官邸の地下壕で自殺しました。

1945年5月6日、アメリカ軍は、前田高地を制圧しました。

1945年5月7日、ドイツは、連合国に無条件降伏しました。
1945年5月9日、イギリス領チャンネル諸島を占領していたドイツ軍は降伏しました。

1945年8月15日、日本は、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明し、連合国に降伏しました。
第二次世界大戦が終わりました。

1947年2月21日、ルイス・マウントバッテンがインド総督になりました。
1947年8月14日および15日、イギリス領インドは、インドとパキスタンに分離独立をしました。

1948年、南アフリカ共和国で、アフリカーンス語で「分離」、「隔離」という意味の言葉であるアパルトヘイトが、法制として確立されました。

1961年4月11日、エルサレムで、アドルフ・アイヒマンの裁判が始まりました。
映画「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」

1961年12月15日、アドルフ・アイヒマンは、全ての罪で有罪となり、死刑が宣告されました。
1962年6月1日、アドルフ・アイヒマンは、ラムラの刑務所で絞首刑になりました。

1962年8月5日、ネルソン・マンデラは、南アフリカ共和国を車で移動中に逮捕されました。

1963年、ハンナ・アーレントは、「ザ・ニューヨーカー」誌に「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を発表しました。
映画「ハンナ・アーレント」

1965年3月7日、525名公民権運動家達がアラバマ州セルマを出発し、アラバマ州の州都モンゴメリーまで行進を続けることで、警官隊達が合衆国憲法違反をしたことをアピールしました。
アラバマ州知事ジョージ・ウォレスは、そのデモ行進が「公共の秩序を乱す恐れがある」としてこれを非難し、あらゆる手段を使ってデモの阻止を宣言し、エドモンド・ペタス橋で州兵やダラス郡保安官達が無抵抗のデモ隊に対して棍棒や催涙ガス、鞭などを使ってセルマに追い返しました。

1965年3月21日、キング牧師が率いる2,000名ほどの公民権運動家達は、ジョンソン大統領が命じた連邦政府の管理下で米国陸軍とアラバマ州兵によって保護され、アラバマ州セルマを出発し、エドモンド・ペタス橋を渡り、州都モンゴメリーに向けてデモ行進を始めました。
1965年3月25日、キング牧師は、デモ隊と共にモンゴメリーに無事到着しました。
映画「グローリー/明日への行進」

1965年8月6日、ジョンソン大統領は、国会議事堂でキング牧師が同席する中で、投票権法の協議会案に署名しました。

1976年6月16日、スティーヴン・ビコの影響を受けた1万人もの黒人学生達は、ソウェトで蜂起が発生しました。
映画「遠い夜明け」

1979年5月4日、マーガレット・サッチャーは、イギリス首相に就任しました。

1981年7月29日、セント・ポール大聖堂で、チャールズ皇太子とダイアナが結婚しました。

1989年12月3日に、地中海のマルタ島沖のソビエト連邦客船マクシム・ゴーリキーの船内で、ハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフソビエト連邦最高会議議長兼ソビエト連邦共産党書記長とジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領が会談し、冷戦の終結を宣言しました。

1990年2月11日、南アフリカ共和国のデクラーク大統領は、アパルトヘイト関連法案の撤廃決定し、ネルソン・マンデラを釈放しました。
映画「マンデラ 自由への長い道」映画「マンデラの名もなき看守」映画「インビクタス/負けざる者たち」

1990年11月28日、マーガレット・サッチャーは、イギリス首相に辞任しました。

1994年5月10日に、南アフリカの全人種による総選挙が行われ、ネルソン・マンデラが南アフリカ共和国大統領の選出されました。
1995年6月24日、南アフリカ共和国のラグビー代表チームの「スプリングボクス」が、第3回ラグビーワールドカップで優勝しました。

1996年8月28日、チャールズ皇太子とダイアナは、正式に離婚しました。

2001年9月11日、米国同時多発テロが発生しました。
2001年10月7日、米国が主導する諸国は、アフガニスタンのタリバンとアルカイダに対して、米国同時多発テロのウサマ・ビン・ラディン容疑者の引き渡し要求し、拒否されたことで、戦争が始まりました。

2002年1月23日、ダニエル・パールは、ヴィレッジ・レストランでジラニ師にインタビューしようとして誘拐されました。
2002年1月31日、ダニエル・パールは殺害されました。

2008年11月26日~29日、インドのムンバイで外国人向けのホテルや鉄道駅など複数の場所が、イスラム過激派と見られる勢力に襲撃され、多数の犠牲者を出したテロ事件が発生しました。

ガンジーの生涯

1869年10月2日、ポルバンダル藩王国の宰相カラムチャンド・ガンジーと、夫人プタリーバーイーの子として、生まれました。

1881年、ガンジーは、11歳でアルフレッド・ハイスクールに入学しました。

ガンジーは、13歳で、カストゥルバと結婚しました。
ガンジーは、16歳で、父親を亡くしました。
ガンジーは、高校時代に優秀な成績を収め、奨学金を得て、地元の名門サマルダース大学に入学しました。
1987年、ガンジーは、18歳で、長男ハリラールが生まれました。

1988年、ガンジーは、19歳で、弁護士になるためイギリス留学を勧められて、イギリスに留学しました。
ガンジーは、イギリス留学することで、ヴァルナに属さない人にさせられてしまいました。

1891年6月10日、ガンジーは、弁護士免許を取得しました。
1891年6月11日、ガンジーは、イギリスの高等法院に弁護士登録されました。
1891年6月12日、ガンジーは、インドに向けて、イギリスを離れました。
1992年、ガンジーは、23歳で、次男マニラールが生まれました。

1893年、ガンジーは、24歳で、南アフリカで弁護士になりました。
1894年、ガンジーは、ナタール・インド人会議派を設立しました。
1896年、ガンジーは、26歳で、一度インドに戻り、家族を連れて、南アフリカに戻りました。
1897年、ガンジーは、28歳で、三男ラームダースが生まれました。

1899年10月11日、ボーア戦争が起きて、ガンジーは、インド人衛生看護部隊を組織し、戦争に参加しました。
1900年、ガンジーは、30歳で、四男デーヴダースが生まれました。
1901年、ガンジーは、家族と共にインドに帰国し、コルカタで開催されたインド国民会議派の年次総会に出席し、南アフリカのインド人移民についての決議案を提出しました。
1902年、ガンジーは、南アフリカへ戻りました。
1903年、ガンジーは、トランスヴァールの弁護士資格を取得し、ヨハネスブルグで弁護士事務所を開業しました。
1904年、ガンジーは、インディアン・オピニオンという週刊新聞を発行し、ダーバン近郊にフェニックス農場を建設しました。
1906年、ガンジーは、トランスヴァール植民地のインド移民に対するアジア人登録法案に反対し、サティヤーグラハを始めました。
ズールー人の反乱が起きて、ガンジーは、インド人衛生看護部隊を組織し、戦争に参加しました。
ガンジーは、ロンドンに向かい、アジア人登録法案に反対しました。
1907年、ガンジーは、アジア人登録法案に反対し、サティヤーグラハを始めました。
1908年、ガンジーは、逮捕され、投獄されました。
1908年8月16日、ガンジーは、約3,000人の支援者とともにハミディア寺院に集まり、大きな釜でこの身分証明書を焼却しました。
1909年、ガンジーは、ロンドンに向かい、南アフリカのインド人移民問題について訴えました。
ガンジーは、南アフリカに戻る船の中で、「ヒンド・スワラージ」を書きました。
1910年、ガンジーは、トルストイ農場を建設しました。

1910年11月23日、チャールズ・ハーディングがインド総督になりました。

1913年、ガンジーは、トルストイ農場を閉鎖し、キリスト教式ではないインド人の結婚を無効化する法案に反対し、サティヤーグラハを始めました。
ガンジーは、ナタール州からトランスヴァール州への2,000人以上でトランスヴァール大行進を行い、3回逮捕されました。
行進に参加した人々は、ナタール州へ戻されました。
1914年、ガンジーは、インド人救済法を成立させ、三ポンド税を廃止し、インド人の結婚を認めさせました。
ガンジーは、45歳で、イギリスに向かい、病気のゴーカレーをお見舞いし、戦場の負傷兵を救護するインド人部隊を企画しました。

1915年2月19日、ゴーカレー教授は、亡くなりました。

1915年、ガンジーは、インドに戻り、サティヤーグラハ・アーシュラムを建設し、インド各地を巡り、インド国民会議派の年次総会に出席し、移民労働者を支援し、教育を推進しました。
ガンジーは、着物はすべて自分自身で生産したカーディー(手織綿布)で作ることを目標に掲げ、手紡ぎ車で、手紡ぎ糸を作ることにしました。

1916年4月4日、フレデリック・セシジャーがインド総督になりました。

1917年、ガンジーは、ビハール州のチャンバラーで、藍農園の農民の権利を守るために、サティヤーグラハを行い、逮捕されました。
ガンジーは、手紡ぎ糸からカーディー(手織綿布)を織ることを始まました。
1918年、ガンジーは、グジャラート州のアーメダバードで、紡績工場労働者の争議で、断食を行い、仲裁を合意しました。
ガンジーは、ケーダ地方で農民争議で、サティヤーグラハを行いました。
ガンジーは、インド政府の新兵募集に協力しました。
1919年、ガンジーは、ローラット法に反対し、一斉休業(ハルタール)を提案し、行いました。
ガンジーは、塩法を破り海水から塩を精製し、「ヒンド・スワラージ」を出版し、逮捕されました。
1919年4月13日、ガンジーの逮捕に憤激したアムリッツァーの民衆は、集会禁止にもかかわらず2万人が結集して抗議をはじめました。
ダイヤー将軍の指揮するイギリス軍が群衆に発砲し、死者1,200名、負傷3,600名もの死傷者を出しだしました。
ガンジーは、非暴力の抵抗が貫徹できなかったことに衝撃を受け、みずからの指導の過ちを認めて、運動を停止し、ローラット法は成立しました。
ガンジーは、アムリットサールで行われたインド国民会議派の年次総会に出席し、募金を行い、新規約を起草しました。
1920年、ガンジーは、国民会議派をインド初の全国的な政党にしました。
1921年、ガンジーは、カーディー(手織綿布)のみを着ることに決め、様々な方法でのボイコット運動を指揮しました。

1921年4月2日、ルーファス・アイザックスがインド総督になりました。

1922年3月18日、ガンジーは、2年間の不服従運動を指揮したことにより、逮捕され、6年の刑を科せられました。
ガンジーは、会議派やそのほかの人々の相談を受け、自伝にも取り組み、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の共存を説き、外国製布製品をボイコットし、カーディー(手織綿布)を普及させました。

1925年、ヒンドゥー至上主義を信奉する民族義勇団が結成されました。

1926年4月3日、エドワード・ウッドがインド総督になりました。

1928年、ガンジーは、インド国民会議派の年次総会に出席し、一つのインドを目指すネルー憲法を満場一致で採択しました。
1929年、ガンジーは、インド国民会議派の年次総会に出席し、非暴力で非不服従による完全独立を満場一致で採択しました。
1930年1月6日、ガンジーは、4つの方針(選挙のボイコット、組織の準備、宣伝と集会、独立の日)を合意しました。
1930年1月26日、ガンジーは、独立の日としました。
1930年1月30日、ガンジーは、インド政府に11ヶ条の要求を行いました。
1930年2月、ガンジーは、自分たちを逮捕させ、各州の指導者が運動を続け、逮捕させ、新しい指導者が運動を続けるという方法で、全国に運動を広げることにしました。
民族、宗教、カーストを超えて、誰もが参加でき、正しさを表す運動として、塩法に服従せず、自然の恵みの塩を手にして行進するという「塩の行進」を考え、準備しました。
1930年3月2日、ガンジーは、インド政府に書簡を送りました。
1930年3月5日、ガンジーは、「塩の行進」をアーメダバードからダーンディーまでの300km以上を行進し、完全独立を目指す、社会改革に取り組みました。
1930年3月12日、ガンジーは、「塩の行進」をアーメダバードから始めました。
1930年4月6日、ガンジーは、「塩の行進」をダーンディーに到着し、世界中のメディアが伝えました。
ガンジーは、逮捕されませんでした。
1930年5月4日、ガンジーは、ダーナサーナ製塩所への、非暴力による攻撃を、インド政府に伝え、逮捕されました。
ガンジーに続く指導者が、ダーナサーナ製塩所への、非暴力による攻撃を行い、弾圧され、逮捕され、世界中のメディアによって、伝えられました。
1931年1月、ガンジーたちは、釈放され、市民不服従運動を停止し、話し合いのテーブルに着きますが、要求は取り下げません。
1931年3月、ガンジーは、アーウィン提督と合意しました。
ガンジーは、指導者のいない民衆が暴発するのを避けるために、指導者たちをインドに残して、ロンドンで行われる円卓会議に1人で出席するために、インドを立ちました。
ガンジーは、円卓会議のメンバーを説得できずに、何の成果なないままに終わりました。

1931年4月18日、フリーマン・フリーマン=トーマスがインド総督になりました。

1932年、新総督のウイリントン卿は、反政府活動を徹底的に取り締まり、逮捕しました。
帰国したガンジーは、逮捕され、裁判なしでの、実刑になりました。
イギリス政府は、ガンジーの掲げる一つのインドを崩すために、インド国内で深刻な対立をしている少数派のイスラム教徒やカーストに属さない人々を守るという方策を用いました。
1934年、ガンジーは、インド国民会議派の年次総会に出席し、市民不服従運動の終了を提案し、政治から離れて、草の根の平和な世界を実現するために過ごすことにしました。

1936年4月18日、ヴィクター・ホープがインド総督になりました。

第二次世界大戦が始まりました。
ガンジーは、インドの独立が保証されない限り、イギリスへの協力はしません。
1942年、ガンジーは、「インドを立ち去れ」というサティヤーグラハを行い、ブーナ近郊のアガ・カーン宮殿に、家族と共に幽閉されました。
ジンナーは、イスラム教徒の自治独立に向けた機会ととらえ、イギリスへの協力をします。
指導者を不在の中で、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立は激しくなりました。
1943年、ガンジーは、イギリスとインドの対立を解消するために21日間の断食を行いました。

1943年10月1日、アーチボルド・ウェーヴェルがインド総督になりました。

1944年、ガンジーの妻であるカストゥルバが、亡くなりました。
第二次世界大戦が終わりました。

1946年、ガンジーは、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の暴動が起きた東ベンガルで、暴動の鎮圧化に努めました。
1947年2月21日、ルイス・マウントバッテンがインド総督になりました。
1947年8月14日および15日、イギリス領インドは、インドとパキスタンに分離独立をしました。

1948年1月30日、ガンジーは、78歳で、民族義勇団のニューデリーのビルラー邸の中庭でナートゥーラーム・ゴードセーによって射殺されました。

1949年11月15日、ナートゥーラーム・ゴードセーとナラヤーン・アプテは、裁判で死刑を宣告され、処刑されました。

感想

同調圧力に屈せず「非暴力と不服従」

ガンジーは、社会を変えられると信じたから、同調圧力に屈せず「非暴力と不服従」を貫き通したと感じました。
同調圧力に屈する日本人は、社会を変えることはできないと信じているとも感じました。
私も、同調圧力に屈せず会社に不服従したことが原因で、2度も早期退職することになりました。
今の日本にガンジーがいても、報道もされず、社会から排除され、変人扱いされて終わるのだろう感じています。
日本にも弁護士はいますが、ガンジーのような人はいるのでしょうか?
日本の若い人は、この映画を観ても、ガンジーのことをコスパが悪いとか言いそうです。
ガンジーは、普通の人が到底理解できるような人物ではありません。
アインシュタインは、「後の世の人々はとても信じないだろう。このような人間が生身の体を持ち、実際にこの地上にいたことを」と言っています。

ガンジーは、思いついたら、即実行する、行動力が素晴らしいです。
日本人は、空気を読み、根回して、報告し、連絡し、相談した上で実行せず、行動しないから何も変わらないのです。
この結果、日本人は、最初から諦めて、考えることでさえしなくなっています。
一人でできることなら、思いついたら、即実行するすればいいのです。

南アフリカでは、カーンが、ガンジーを支えました。
インドでは、ゴーカレー教授が、ガンジーを支えました。
日本にも金持ちはいますが、ガンジーのような人を支えようという人はいるのでしょうか?
金持ちには、罰金、財産没収、投獄されることには耐えられないでしょう。

報道という媒体がなければ、社会は統一が取れず、社会的な行動はできません。
日本で社会的な行動ができないのは、報道という媒体がないからでしょう。

日本では、少数の人が、密室で決定を行っています。
日本にも、不正な人間達がいて、不正な法律があります。
日本では、不正な法律について、市民が討論するような機会はあるのでしょうか?
日本は、南アフリカやインドよりも100年くらい遅れています。

日本の政治家は、何を語るべきか見えてくるまで、日本中だけでなく、世界中を見ていません。

本当の日本を探して、何を語るべきか見えてくるまで、日本中を旅してみたいです。

ガンジーの名言

ガンジーの名言
  • 本当の富とは、健康のことであり、金や銀のことではない。
  • 目的を見つけよ。手段は後からついてくる。
  • あなたの夢は何か、あなたが目的とするものは何か、それさえしっかり持っているならば、必ずや道は開かれるだろう。
  • 重要なのは行為そのものであって、結果ではない。
    行為が実を結ぶかどうかは、自分の力でどうなるものではなく、生きているうちにわかるとも限らない。
    だが、正しいと信ずることを行いなさい。
    結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ。
  • 明日死ぬかのように生きよ。
    永遠に生きるかのように学べ。
  • 未来は、「今、我々が何を為すか」にかかっている。
  • 束縛があるからこそ、私は飛べるのだ。
    悲しみがあるからこそ、私は高く舞い上がれるのだ。
    逆境があるからこそ、私は走れるのだ。
    涙があるからこそ、私は前に進めるのだ。
  • 人間はその人の思考の産物にすぎない。
    人は思っている通りになる。
  • ゴールへ到達しようとの試みにこそ、栄光はある。
  • 強者も弱くなるかもしれないし、賢者も間違うかもしれないと心に留めておくことは健康的である。
  • もし、過ちを犯す自由がないのならば、自由を持つ価値はない。
  • 他人に変わって欲しければ、自ら率先して変化の原動力となるべきだ。
  • 精神性の最大の要素は「恐れない心」である。
  • 恐怖は、マラリアや黒熱病よりも恐ろしい病気である。
    マラリアや黒熱病は体を蝕む。しかし、恐怖は精神を蝕む。
  • 多くの犠牲と苦労を経験しなければ、成功とは何かを決して知ることはできない。
  • 物事は初めはきまって少数の人によって、ときにはただ一人で始められるものである。
  • 強さとは、身体能力ではなく、不屈の精神から生まれるものだ。
  • 幸福とは、考えること、言うこと、することが調和している状態である。
  • 臆病者は数の力を喜ぶ。
    しかし、勇敢なる精神をもつ者は、一人戦うことを誇りとする。
  • 喜びとは、勝利それ自体にではなく、途中の戦い、努力、苦闘の中にある。
  • 死ぬ覚悟が出来ていれば、人は自由に生きられる。
  • 報酬を求めない奉仕は、他人を幸福にするのみならず、我々自身をも幸福にする。
  • 非暴力は人間に与えられた最大の武器であり、人間が発明した最強の武器よりも強い力を持つ。
  • 非暴力は暴力よりも無限に優れているし、許すことは処罰するより遥かに男らしい。
  • 非暴力には敗北などというものはない。
    これに対して、暴力の果てはかならず敗北である。
  • 暴君や残忍な為政者もいた。一時は彼らは無敵にさえ見える。
    だが、結局は亡びている。
  • 正義が栄えるという証拠を示しうるというのではなく、究極において正義が栄えるに違いないという断固たる信念を抱いているからである。
  • 我々をとりまく全ての物事は常に変化している。
    変化の源泉は生きる力にある。
    それは不変であり、結果を生んではまた創造する。
  • 善良さには知識が伴っていなければならない。
    単なる善良さはたいして役に立たぬ。
    人は、精神的な勇気と人格に伴った優れた識別力を備えていなければならない。
  • 怠けていることは喜びかもしれないが重苦しい状態である。
    幸せになるためには何かをしていなくてはならない。
  • 勇敢な人は、一人闘うことを誇りとする。
  • 「目には目を」という考え方では、世界中の目をつぶしてしまうことになる。
  • 恐怖に屈すれば、真実さえも抹殺されてしまう。
    自らが正しいと信ずることを恐れずに実行する。
  • 偉大な人は常に一人立つ。
  • 世界に変革を求めるならば、自分自身を変えることだ。
  • 見るためだけの目は、世界にたいして盲目となる。
  • 何か信じるものがあるのに、それに従って生きない人間は信用できない。
  • たとえあなたが少数派であろうとも、真実は真実なのです。
  • はじめに彼等は無視し、次に笑い、そして挑みかかるだろう。
    そうして我々は勝つのだ。

本当の富とは、健康のことであり、金や銀のことではない。

退職者は、健康でありさえすれば、好きなことをして、金や銀を得られるかもしれません。

目的を見つけよ。手段は後からついてくる。

退職後の目的を探し、見つけることができれば、実現する手段は後からついてくるということです。
退職後にブログを書くのも、退職後の目的を見つけ、実現する手段です。

あなたの夢は何か、あなたが目的とするものは何か、それさえしっかり持っているならば、必ずや道は開かれるだろう。

退職後の夢は何か、目的とするものは何かを探し、見つけ出し実現したいです。

重要なのは行為そのものであって、結果ではない。
行為が実を結ぶかどうかは、自分の力でどうなるものではなく、生きているうちにわかるとも限らない。
だが、正しいと信ずることを行いなさい。
結果がどう出るにせよ、何もしなければ何の結果もないのだ。

退職後に重要なのは、行為そのものであって、結果ではない。
退職後の行為が実を結ぶかどうかは、自分の力でどうなるものではなく、生きているうちにわかるとも限らない。
だが、退職後には、正しいと信じることをできます。
退職後に何もしなければ何の結果もないです。

明日死ぬかのように生きよ。永遠に生きるかのように学べ。

退職後は、明日死ぬかのように生きて、永遠に生きるかのように学びたいです。

未来は、「今、我々が何を為すか」にかかっている。

退職後は、今何をするかににかかっています。

束縛があるからこそ、私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ、私は高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ、私は走れるのだ。
涙があるからこそ、私は前に進めるのだ。

退職後には。束縛は少なくなりますが、悲しみはありますが、逆境に陥ることもあり、涙することもあるでしょう。
だから、退職者は前に進むべきなのです。

人間はその人の思考の産物にすぎない。人は思っている通りになる。

人は、考えて、行動します。
退職後は、考えて、行動するのもいいですが、考えすぎて、行動せず、つまらない人生にしたくはありません。

ゴールへ到達しようとの試みにこそ、栄光はある。

退職後は、色々なことに挑戦し、失敗もするでしょうが、手にしたことがない栄光を手にすることができるのかもしれません。

強者も弱くなるかもしれないし、賢者も間違うかもしれないと心に留めておくことは健康的である。

退職後は弱くなるし、退職後は間違うと心に留めておくことは健康的です。

もし、過ちを犯す自由がないのならば、自由を持つ価値はない。

退職後に、過ちを犯すことを避けて生きるだけでは、生きる価値はないです。

他人に変わって欲しければ、自ら率先して変化の原動力となるべきだ。

退職後に、他の退職者に変わって欲しいので、自ら率先してブログを書き、変化の原動力になります。

精神性の最大の要素は「恐れない心」である。

退職後に、何かを成し遂げないなら、最大の要素は「恐れない心」です。

恐怖は、マラリアや黒熱病よりも恐ろしい病気である。
マラリアや黒熱病は体を蝕む。しかし、恐怖は精神を蝕む。

退職後に、恐怖によって精神が蝕まれ、何もできないのなら、恐怖は恐ろしい病気です。

多くの犠牲と苦労を経験しなければ、成功とは何かを決して知ることはできない。

多くの犠牲と苦労を経験してきましたが、成功とは何かは分かりません。

物事は初めはきまって少数の人によって、ときにはただ一人で始められるものである。

退職後、ブログを始めるなら、少数の人によって、ときにはただ一人で始めることができます。

強さとは、身体能力ではなく、不屈の精神から生まれるものだ。

退職後、身体能力は落ち、何かを生み出すためには不屈の精神が必要ですが、中々大変です。

幸福とは、考えること、言うこと、することが調和している状態である。

退職後は、考えること、言うこと、することを調和させたいです。
ブログの記事を考え、ブログの記事を書くために行動し、ブログの記事を書きます。

臆病者は数の力を喜ぶ。
しかし、勇敢なる精神をもつ者は、一人戦うことを誇りとする。

退職者には、数の力はなく、一人なので、勇敢な精神を持って、一人戦うことを誇りにしたいです。

喜びとは、勝利それ自体にではなく、途中の戦い、努力、苦闘の中にある。

退職者が何かを達成すること自体に喜びを感じるだけでなく、途中の戦い、努力、苦闘の中にも喜びを感じられるようになりたいです。

死ぬ覚悟が出来ていれば、人は自由に生きられる。

退職後は死ぬ覚悟ができていれば、自由に生きることができます。

報酬を求めない奉仕は、他人を幸福にするのみならず、我々自身をも幸福にする。

報酬を求めないブログは、他人を幸福にするのみにあらず、自分自身も幸福にします。

非暴力は人間に与えられた最大の武器であり、人間が発明した最強の武器よりも強い力を持つ。

非暴力に徹して、勝利してみたいです。

非暴力は暴力よりも無限に優れているし、許すことは処罰するより遥かに男らしい。

皆殺しにできない以上、非暴力は暴力よりも優れています。
許しても、改心しないので、効果はないです。

非暴力には敗北などというものはない。これに対して、暴力の果てはかならず敗北である。

非暴力に徹して、勝利してみたいです。

暴君や残忍な為政者もいた。一時は彼らは無敵にさえ見える。だが、結局は亡びている。

日本の亡んだ権力者は、一時的に無敵にさえ見えても、暴君や残忍な為政者だったということです。

正義が栄えるという証拠を示しうるというのではなく、究極において正義が栄えるに違いないという断固たる信念を抱いているからである。

退職者が栄えるという証拠を示しうるというのではなく、究極において退職者が栄えるに違いないという断固たる信念を抱いて、ブログを書き続けたいです。

我々をとりまく全ての物事は常に変化している。
変化の源泉は生きる力にある。
それは不変であり、結果を生んではまた創造する。

退職後の環境は、変化していきます。
変化を生きる力に変えて。結果を生んではまた創造したいです。

善良さには知識が伴っていなければならない。
単なる善良さはたいして役に立たぬ。
人は、精神的な勇気と人格に伴った優れた識別力を備えていなければならない。

善良な人は多いですが、知識が伴っていないので、世の中は悪くなります。
人は、精神的な勇気と人格に伴った優れた識別力を備え、選挙で政治家を選べなければ、民主主義に将来はありません。

怠けていることは喜びかもしれないが重苦しい状態である。
幸せになるためには何かをしていなくてはならない。

退職者が何もしないで暮らすのは喜びかもしれないが、重苦しい状態です。
退職者が、幸せになるためには、何かをしていなくてはなりません。
退職者が、何かを始めるきっかけとして、ブログを始め、何かしたことを記録するのは良いことです。

勇敢な人は、一人闘うことを誇りとする。

勇敢な退職者は、一人で生きることを誇りにしています。

「目には目を」という考え方では、世界中の目をつぶしてしまうことになる。

退職後に、退職前のことで悔やんで、復讐しても、何も変わりません。
自分が退職したところで、別の人が代わりをはたすだけで、会社が変わることなどありません。

恐怖に屈すれば、真実さえも抹殺されてしまう。
自らが正しいと信ずることを恐れずに実行する。

退職後に、恐怖することはあるでしょう。
その恐怖に屈すれば、退職後の人生を楽しむことはできません。
退職後は、自らが正しいと信ずることを、恐れず実行し、充実した人生を送ります。

偉大な人は常に一人立つ。

退職者は、偉大ではありませんが、何をするにしても一人で行う必要があります。

世界に変革を求めるならば、自分自身を変えることだ。

退職後の人生に変革を求めるならば、自分自身を変えることです。

見るためだけの目は、世界にたいして盲目となる。

見える範囲は限られていて、世界を見ることはできません。

何か信じるものがあるのに、それに従って生きない人間は信用できない。

何か信じるものがある人に出会ったことはなく、人間はすべて信用できません。

たとえあなたが少数派であろうとも、真実は真実なのです。

たとえ退職者は一人でも、退職者の真実は真実なので、伝える価値はあり、ブログを書いていきたいです。

はじめに彼等は無視し、次に笑い、そして挑みかかるだろう。
そうして我々は勝つのだ。

権力者は、反対する人を無視し、次に笑い、そして挑みかってきます。
挑みかかってきた権力者の姿を世界に伝えれば、権力者に打ち勝つことができます。

まとめ

ガンジーは偉大ですが、忘れ去られてしまっているのが残念です。
ガンジーのような人に出会うことはないでしょう。
ガンジーが行ったことを、ブログにすることで、伝えることができたのなら、嬉しいです。

次は、映画「クレオパトラ」をレビューする予定です。
ご期待ください。
以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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