TVドラマ「バトル・オブ・シリコンバレー」~あらすじ【ネタばれ有り】と感想

映画「スティーブ・ジョブス(2013年)」と映画「スティーブ・ジョブス(2015年)」を鑑賞したら、TVドラマ「バトル・オブ・シリコンバレー」を鑑賞したくなりました。

映画「スティーブ・ジョブス(2013年)」、映画「スティーブ・ジョブス(2015年)」で描かれていないPC業界の黎明期のことが描かれているからです。
この映画を観て、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツについて知りたくなった人には、ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳「スティーブ・ジョブス 1」と「スティーブ・ジョブス 2」講談社を読むと理解できるようになります。
スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツの言葉の背景が理解できます。

基本情報・スタッフ

原作    ポール・フレイバーガー
      マイケル・スウェイン
監督    マーティン・バーク
製作総指揮 スティーヴン・ハフト
      ニック・ロンバルド
      ジョセフ・ドゥハーティ
製作    リアンヌ・ムーア
脚本    マーティン・バーク
撮影    オウサマ・ラーウィ
音楽    フランク・フィッツパトリック

舞台となる場所


ボストン国際トレードセンターでアップルコンピュータとマイクロソフトの業務提携が発表されました。

UCバークレー校は、スティーブ・ウォズニアックが在籍し、復学した大学です。

ハーバード大学は、ビル・ゲイツ、ポール・アレンとスティーブ・ボールマーが在籍していた大学です。

ニューメキシコ州アルバカーキは、MITS社があり、ビル・ゲイツとポール・アレンがマイクロソフトを創業した場所です。

スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックがAppleⅠを作り、マイク・マークラと出会ったアップルコンピュータ発祥のサウス・ロスアルトスです。

アップルコンピュータの本社は、クパチーノにあります。

カリフォルニア州パロアルトには、ゼロックスのパロアルト研究所があります。

マイクロソフトの本社は、ワシントン州ベルビューに移転しました。

聖フランシス・ホテル、サンフランシスコで、スティーブ・ジョブスの誕生日パーティーが開かれました。

あらすじ

スティーブ・ジョブスが、リドリー・スコットに「これをただのCMだと思ってほしくない。電子と磁気による単なる映像じゃない。僕らは宇宙に衝撃を与えたいんだ。それが目的だ。芸術家のように新しい世界を造りたい。人の思考の歴史を僕らが書き換えるんだ。」と説明して、1984年1月22日にスーパー・ボールで放映される、MacintoshのCMを製作しているところ始まります。
このCMは、スクリーン上の男が「我々の一つの信念で結ばれた。一つの共同体である。我々が挑む戦いに勝てぬ者は混乱の中に埋もれるがよい。勝利は、この手にある!」というところに、女性が物を投げつけて、破壊するというCMです。

13年後、1997年8月6日、スティーブ・ジョブスは、ボストン国際トレードセンターでビル・ゲイツと業務提携を発表しました。
「我々の間で競争する時代は終わった。
 ありがとう、ビル。
 君の協力に感謝するよ。
 いい時代が来た」

1971年、スティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックは、UCバークレー校で学生相手にブルーボックスを売りさばいている時に、警察官達がベトナム戦争への抗議デモを催涙弾や警棒で鎮圧しているところに遭遇しました。

スティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックは、AA&Tの長距離電話をただで掛けられるブルーボックスを使用していたずら電話を掛けます。

スティーブ・ウォズニアックが、テレビの画像を乱す装置を製作し、いたずらします。

スティーブ・ジョブス、スティーブ・ウォズニアックアイリーンは、着ぐるみを着て、アリスの格好をして、子供達の相手をするアルバイトをします。
スティーブ・ジョブスは、普通の仕事には向いていません。

スティーブ・ジョブスは、インドやオレゴンのコミューンに行きます。

1974年、ビル・ゲイツは、ハーバード大学で同寮生とポーカーをやって、フルハウスで勝ちます。

ポール・アレンは、ビル・ゲイツにポピュラーエレクトロニクス誌の1975年1月号で特集されているAltair8800を見せます。
ビル・ゲイツは、MITS社のエド・ロバートに電話をかけて、Altair8800にBASICを実行させるプログラムが必要であることを確認します。
ビル・ゲイツとポール・アレンは、Altair8800でBASICを実行させるプログラムを作ります。
ポール・アレンは、MITS社へ行って、動作することをデモして見せます。
ポール・アレンは、プレゼントされたAltair8800を持ち帰ります。

1976年、スティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックは、バークレー校で行われたホームブリュー・コンピュータ・クラブでAppleⅠのデモを行い、50台ものAppleⅠを売りました。
スティーブ・ウォズニアックは、ヒューレット・パッカード社にAppleⅠのデモを行いますが、採用されませんでした。
スティーブ・ジョブスは、銀行にAppleⅠのデモを行い資金を調達しようとしますが、資金を貸してくれる銀行は、ありません。
スティーブ・ジョブスとスティーブ・ウォズニアックは、アップル社を起業し、スティーブ・ジョブスの家のガレージでAppleⅠを生産し始めます。
マイク・マクーラが、スティーブ・ジョブスの家のガレージに来て、25万ドルをアップルコンピュータに投資します。

1976年、ビル・ゲイツとポール・アレンは、ニューメキシコ州アルバカーキにあるmits社にやってきます。
ビル・ゲイツは、2000ドルの契約金の提示します。
エド・ロバートは、契約金を支払いたくはありませんでした。
ビル・ゲイツは、4000ドルの契約金を提示しすると同時に、1台のライセンス料が15ドルを30ドルに交渉します。
ビル・ゲイツは、MITS社とAltair8800でBASICを実行させるプログラムをライセンス契約を結びます。
ポール・アレンは、シナトラのマイウェイが嫌いです。
ビル・ゲイツは、スピード違反で逮捕されます。

1977年、ビル・ゲイツとポール・アレンは、マイクロソフトを設立し、カルフォルニアで「アップルコンピュータが21,000ドルでBASICのライセンス料を求む」という広告を見ます。

1977年、スティーブ・ジョブス、スティーブ・ウォズニアックとマイク・マクーラは、コンピュータ・フェア・サンフランシスコで、AppleⅡのデモを行い、大盛況になります。
ビル・ゲイツとポール・アレンもコンピュータ・フェア・サンフランシスコきますが、AltairのMITS社Altair8800には誰も見に来ない現実にショックを受けます。

スティーブ・ジョブスは、AppleⅡが売れて、アップルコンピュータの本社ビルを建設します。

1980年、ビル・ゲイツとポール・アレンはマイクロソフト本社をシアトルに移します。
スティーブ・ボールマーは、マイクロソフト社に入社します。
ビル・ゲイツは、事業が上手くいかない中で、マフィアの「友とは親しく、敵とはもっと親しく」という鉄則からIBM社との業務提携を思いつきます。

ビル・ゲイツ、ポール・アレンとスティーブ・ボールマーは、フロリダ州でPCを担当しているIBM社で、商談し、何も開発していないのに、IBM社にDOSというOSをライセンス契約で売り込みに成功し、他社にもDOSを売ることができるという契約を提案します。
IBM社は、PCのハードウェアで利益を上げようとしていましたが、ソフトウェアで利益を得るつもりはありませんでした。
IBM社は、ビル・ゲイツの提案を受け入れ、業務提携します。

ポール・アレンは、秘密保持契約を理由に、IBM社との業務提携を隠し、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社からQDOSのライセンスを5万ドルで買い取ります。

ビル・ゲイツ、ポール・アレンとスティーブ・ボールマーは、IBM PCにPC-DOSを納品し、成功します。

スティーブ・ジョブスは、タイム誌とフォーチュン誌の表紙を飾ります。
ジョン・スカリーが、アップルコンピュータのCEOに就任します。

スティーブ・ジョブスは、娘にLisaと名付けます。
スティーブ・ジョブスは、アップルコンピュータの製品にLisaと名付けます。

ゼロックス社は、パルアルト研究所の技術を評価せずに、アップルコンピュータに売ります。
スティーブ・ジョブスは、ゼロックス社パルアルト研究所からGUI、オブジェクト指向プログラミング言語とマウスの技術を入手します。

ビル・ゲイツは、アップルコンピュータのリサを見て、驚きます。
ビル・ゲイツ、ポール・アレンとスティーブ・ボールマーは、アップルコンピュータ本社に行って、スティーブ・ジョブスからMacintoshを見せてもらい、表計算の弱さを指摘し、3台のMacintoshの試作機を入手します。

スティーブ・ジョブスは、MacintoshとAppleⅡを対立させて、社員を競争させます。
スティーブ・ウォズニアックは、アップルコンピュータを辞職します。
スティーブ・ジョブスは、AppleⅡとLisaを捨てて、Macintoshに全てをかけます。

スティーブ・ジョブスは、Windowsを見て、ビル・ゲイツに「よくも盗んだな」と怒鳴ります。
ビル・ゲイツは、スティーブ・ジョブスにWindowsの性能を過小評価し、説得に、成功します。

スティーブ・ジョブスは、社員とビル・ゲイツに「1984」のCMを見せます。
ジョン・ギルモアは、スティーブ・ジョブスにWindowsを搭載したNEC製PCを見せて、アップルコンピュータの敵はIBMではなく、ビル・ゲイツスのWindowsだと指摘します。

ビル・ゲイツは、「勝負に出るときと、降りるときがある」とつぶやき、勝負に出ます。
ビル・ゲイツは、スティーブ・ジョブスに「僕らには金持ちの隣人がいた。ゼロックスは、いつもドアを開か放してたから、君はテレビを盗みに入った。そこで僕という先客がいたことに気づく。略奪品は僕の物だ!すると君は”フェアじゃない。先に盗みたかった”手遅れさ」と反論します。
スティーブ・ジョブスは、ビル・ゲイツに「うちのほうが上だ。よいスタッフがいる」といいます。
ビル・ゲイツは、スティーブ・ジョブスに「そんなことは問題じゃない」と言い返します。

スティーブ・ジョブスは、サンフランシスコの聖フランシス・ホテルで30歳になる誕生日のパーティーを行います。
ジョン・スカリーは、この3か月後にスティーブ・ジョブスを解雇します。

スティーブ・ウォズニアックは、子供たちにコンピュータを教え、バレエに資金を提供しています。

リサは、スティーブ・ジョブスの新しい家族に加わりました。

スティーブ・ジョブスは、1997年に、アップルコンピュータに復帰しました。
スティーブ・ジョブスは、ビル・ゲイツと業務提携します。

マイクロソフト社は、アップルコンピュータの一部を所有しています。
ビル・ゲイツは、世界の長者番付でトップの座にいます。

登場人物

リドリー・スコットは、ジョン・ハーズラーが演じる映画監督で、MacintoshのCMを撮影しました。
リドリー・スコットは、映画「エイリアン」、映画「ブレードランナー」、映画「1492 コロンブス」、映画「グラディエーター」、映画「ハンニバル」、映画「ブラックホーク・ダウン」、映画「キングダム・オブ・ヘブン」、映画「アメリカン・ギャングスター」、映画「ワールド・オブ・ライズ」、映画「ロビン・フッド」、映画「エクソダス:神と王」の監督を務めています。

スティーブ・ジョブズは、ノア・ワイリーが演じるアップルコンピュータの共同創業者です。

スティーブ・ウォズニアクは、ジョーイ・スロトニックが演じるアップルコンピュータの共同創業者です。

マイク・マークラは、ジェフリー・ノードリングが演じるアップルコンピュータに投資し、共同創業者です。

ジョン・スカリーは、アラン・ロイヤルが演じるペプシコーラのCEOからアップルコンピュータのCEOになった人です。

ジョン・ギルモアは、ボディ・エルフマンが演じるアップルコンピュータのトップ・プログラマーで、スティーブ・ジョブズにアップルコンピュータの敵はIBMではなく、ビル・ゲイツのウィンドウズだと指摘します。

アイリーンは、ジェマ・ザンプローニャが演じるスティーブ・ジョブズの恋人で、スティーブ・ジョブズの娘のリサを出産します。

ビル・ゲイツは、アンソニー・マイケル・ホールが演じるポーカーが好きで、強く、自身の立場が弱いときは相手を説得し、勝てるときには勝負に出ることで、相手に勝ち、マイクロソフトの共同創業者で、技術担当アドバイザーで、CEOで、会長です。

ポール・アレンは、ジュッシュ・ホプキンスが演じるマイクロソフトの共同創業者です。

スティーブ・ボールマーは、ジョン・ディマジオが演じるマイクロソフトに入社し、ビル・ゲイツの後任を務めことになるマイクロソフトのCEOです。

ホリー・ルイスが演じるゼロックスのプロジェクトマネージャーです。
ニコラス・ワイルドが演じるゼロックスのデザイナーです。

単語説明

「1984年」は、ジョージ・オーウェルが書いた小説です。
「1984年」では、1950年代に発生した核戦争を経て、世界は、3つの超大国に分割統治され、物資は乏しく、紛争が繰り返され、ビック・ブラサーが思想、言語、行動、結婚などのあらゆる人間性を統制をする社会を描いた本で、大きな影響を与えました。

ベトナム戦争は、1955年11月に始まり1975年4月30日まで続いた、南北に分かれて戦ったベトナムでの戦争です。
ベトナム戦争について、知りたい人は映画「フルメタル・ジャケット」、映画「プラトーン」、映画「地獄の黙示録」、映画「7月4日に生まれて」、映画「ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書」を鑑賞すると良いでしょう。

ブルーボックスは、スティーブ・ウォズニアックが、エスクァイア誌のロン・ローゼンが書いた「小さなブルーボックスの大きな秘密」というAT&Tの長距離電話をただ掛けるために必要な情報がベル・システム・テクニカル・ジャーナルのある号に掲載され、AT&Tが回収している記事を読んで、スティーブ・ジョブズに電話で説明し、車でスタンフォード大学に向かい、AT&Tの長距離電話をただ掛けるために必要な情報が掲載されているベル・システム・テクニカル・ジャーナルのある号を探し出し、スティーブ・ウォズニアックがアナログ式の発信器を作成し、スティーブ・ジョブズが調整に必要な周波数カウンターを作成し、AT&Tの長距離電話をただ掛けることには失敗しましたが、スティーブ・ウォズニアックがデジタル式の発信器に改良し、デジタル式のブルーボックスを完成させ、AT&Tの長距離電話をただ掛けることに成功しました。
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックは、キッシンジャー米国国務長官のふりをして、バチカン宮殿にいるローマ法王パウロ6世にいたずら電話をしました。
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックは、40ドルの部品代で作成したデジタル式のブルーボックスを150ドルで、学生に100台くらい売り、11,000ドルの利益を得ました。

ホームブリュー・コンピュータ・クラブは、米国カルフォルニア州北部のサンタクララにあるシリコンバレーで結成されたコンピュータを趣味とする人々の団体です。

AppleⅠは、ケース、キーボード、電源を用意し、テレビ受像機を接続して、組み立てて使用します。
カセットテープインターフェースは、別売りで用意され、BASIC言語をテープで使用できます。
AppleⅠは、自作PCの元祖のようなPCです。

AppleⅡは、CPU、メモリー、キーボード、画像出力装置、音声出力装置、外部記憶装置、プログラム用言語、ゲームI/Oを単一製品として、史上初の一体型PCを1,298ドルで発表し、600万台も売れました。

Lisaは、PC本体、ディスプレイ、内蔵RAM領域は2MB、外付けハードディスク、2つある5.25インチのフロッピーディスクを持ち、PCとしては初のGUI環境で、マルチタスク機能とメモリ保護機能を備えていましたが、価格が1万ドルと高く売れませんでした。

Macintoshは、Lisaの低価格モデルを目指して開発され、Lisaと同じCPUを採用し、PC本体、ディスプレイ、内蔵RAM領域は128KBしかなく、1つのソニー製の3.5インチドライブだけで、外付けハードディスクはなく、Lisaと似ているGUI環境で、マルチタスク機能を実現し、価格が2,495ドルでした。

AppleⅡ、LisaとMacintoshには、互換性がなく、OSもアプリケーションも開発した後、独自に改良と保守しなければなりません。

Altair8800は、8ビットCPUであるインテル社の8080を搭載していました。
Altair8800は、CRTモニター、キーボードもなく、スイッチをオン/オフして、結果をLEDに表示させるという原始的なコンピューターです。
4KBのメモリーを増設することで、ビル・ゲイツとポール・アレンがBASIC言語を動作させるようにしました。

ポーカーは、トランプを使って行う心理戦を特徴とするゲームで、5枚のカードの組み合わせにより、ゲームの勝者が決まります。5枚のカードの組み合わせとは関係なく、心理戦を駆使し、対戦相手をゲームから降りさせれば、ゲームに勝つことができます。
勝ち負けの数でななく、大きく勝ち、小さく負けるための総合的な戦術がより重要です。
ポーカーについて知りたいなら、映画「モリーズ・ゲーム」を鑑賞すると良いでしょう。

プラトンは、紀元前の古代ギリシアの哲学者で、「ただ死者のみが戦争の終わりを見たのである」という名言を残しています。

ピカソは、スペインに生まれ、フランスで活躍した画家で、「優秀な芸術家は模倣し、偉大な芸術家は盗む」という名言を残し、最も多作な美術家であるとギネスブックに認定されています。
ピカソについて知りたいなら、映画「ピカソがピカソになるまで」を鑑賞すると良いでしょう。

ゴッホは、オランダに生まれ、フランスで活躍した画家で、「99回倒されても、100回目に立ち上がればよい」という名言を残しています。
ゴッホについて知りたいなら、映画「永遠の門 ゴッホの見た未来」映画「ゴッホ 最期の手紙」映画「ゴッホとヘレーネの森 クレラー=ミュラー美術館の至宝」を鑑賞すると良いでしょう。

紙テープは、テレタイプ端末用のプログラム格納手段として、タイプしたプログラムは紙テープに格納され、その紙テープを使ってプログラムをコンピュータに送信し、実行させます。
プログラマーは、紙テープを読むことで、コンピュータで実行する前に、プログラムを確認することもできます。

フォートランは、IBM社のジョン・バッカスによって開発された、コンピュータにおいて広く使われた世界最初のソースコードから機械語のコードに変換し、実行するプログラムです。

BASICは、米国ダートマス大学のジョン・ケメニーとトーマス・カーツによって開発された、PCにおいて広く使われた、ソースコードを逐次解釈しながら実行するプログラムです。

ローダーは、プログラムやデータを、テレタイプ端末などからインタフェースなどを通して受け取り、主記憶装置やワークエリアに置くプログラムです。

IBM社は、1911年6月16日に設立され、1960年以降は、コンピュータ市場で圧倒的な影響力があり、ビックブルーと呼ばれています。

ヒューレット・パッカード社は、1939年1月1日に設立され、1980年以降は、UNIXサーバー、ワークステーション分野に参入し、大規模・ミッションクリティカルな市場に影響力を持ちました。

ゼロックス社は、1906年に設立され、コピー機で圧倒的な影響力がありました。

LSDは、植物から製造されるか化学合成される麻薬で、感覚や感情や記憶に変化を与え、6時間から14時間の間、持続します。

シナトラは、アメリカ合衆国を代表する歌手です。
マイウェイは、自分の死が近付く中、自分の人生で起こったすべての苦難に対して行ったことについて、後悔せず自信を持っているという内容の歌で、誰でも一度くらいは聞いたことがあるヒットソングです。

アッティラ王は、ロシア・東欧・ドイツを結ぶ大帝国を築き上げた人です。

チンギスハンは、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国を築き上げた人です。

IBM PCは、CPUは16ビットのインテル社製i8088、メモリーは標準16KB(最大256KB)、モニターは80文字×25行のカラーモニター、記憶装置は2台の5.25インチディスクドライブ、OSはPC-DOSで、1,565ドルから発売されました。

PC-DOSは、マイクロソフト社がIBM PC向けにライセンス販売したディスクオペレーションシステムで、BASICを実行することができました。

MS-DOSは、マイクロソフト社がIBM社の互換機PC向けにライセンス販売したディスクオペレーションシステムで、BASICを実行することができました。

PC-DOSとMS-DOSは、同じソフトウェアで、名称だけが違うということです。

最後のセリフ

まったくだ。

時代背景

1955年2月24日、スティーブ・ジョブズは、ウィスコンシン州にあるウィスコンシン大学でシリアからの留学生で政治学を専攻する大学院生で23歳になるアブドゥルファター・ジャンダリと米国人の大学院生ジョアン・シーブルとの間に法律上の婚姻関係がない非嫡出子として生まれました。

ジョアン・シーブルの父がムスリムのシリア人であるアブドゥルファター・ジャンダリとの結婚を認めなかったため、生まれる前から、養子に出すことに決められていました。

スティーブ・ジョブズは、ポール・ジョブズ、クララ・ジョブズ夫妻に養子として引き取られました。

1955年6月14日、アメリカ合衆国大統領ドワイト・D・アイゼンハワーが支援しジエムは国家元首に就任し、アメリカ合衆国はベトナム戦争に参加しました。

1955年10月26日、ベトナム共和国(通称「南ベトナム」)樹立宣言を行い、ジエムは初代大統領に就任しました。

1955年10月28日、ビル・ゲイツは、父は弁護士のビル・ゲイツ・シニアと母は教師のメアリー・マクスウェル・ゲイツの長男としてワシントン州シアトルのサンドポイント地区で生まれました。
ビル・ゲイツには、姉のクリスティと妹のリビーがいます。

1961年、スティーブ・ジョブズは、6歳で、モンタ・ロマ小学校に入学しました。

1662年11月3日、ニューヨークタイムズ紙の記事の中で、将来のコンピュータの見通しとして、普通の子供達がPCを使うようになるであろうという記事が掲載されました。

1965年、スティーブ・ジョブズは、小学校4年生となり、イモジーン・ヒルという女性教師と出会い、勉強が好きになりました。
スティーブ・ジョブズは、4年生の終わり頃に知能検査を受け、高校2年生並の知能を示しました。

1965年4月19日、ゴードン・ムーアは、Electronics Magazine 誌で、「半導体素子に集積されるトランジスタ数は、18ヶ月~24ヶ月で倍増する」というムーアの法則を発表しました。コンピュータ関係の製品や部品を製造する企業にとって、数年先の市場を予測した製品開発を行うために、重要な法則となりました。

1966年、スティーブ・ジョブズは、1年飛び級し、小学校は5年まで、6年からはクリッテンデン中学に入学しました。

1967年、スティーブ・ジョブズは、スティーブ・スティーブの両親に、転校させるように要求しました。スティーブ・スティーブの両親は、サウスロスアルトスに一軒家を購入して、スティーブ・ジョブズをクパティーノ中学校に転校させました。
この家のガレージで、AppleⅠが組み立てられることになります。

1967年、ビル・ゲイツは、IQが160だったと言われ、優秀な成績で公立小学校を卒業し、成績優秀な子供が集まる私立の名門校レイクサイド中学、高校に入学しました。

1968年、スティーブ・ジョブズは、13歳の時に、ホームステッド高校に進学しました。

スティーブ・ジョブズは、ヒューレット・パッカード社のCEOビル・ヒューレットの自宅に電話をかけて、電気信号の周波数を測定する計測器に使用する部品をもらいました。

1968年7月18日、ロバート・ノイスとゴードン・ムーアらが、Intel社を設立しました。

1968年11月、ビル・ゲイツは、テレタイプモデル33ASR端末を使用して、GE-635のコンピュータに接続し、数学の授業を免除され、BASICでソフトウェアプログラムを初めて書きました。

ビル・ゲイツ、ポール・アレン、リック・ワイランドとケント・エバンスは、レイクサイドプログラマーズクラブを結成し、CCCが所有するDEC PDP-10ミニコンピュータの負荷試験やデバックをすることを申請し、週末や夜間にCCCのオフィスへ行き、Fortran 、Lisp、マシン言語など、システム上で実行されるさまざまなプログラムのソースコードを研究しました。
1970年2月、ビル・ゲイツ達は、CCCが倒産するまで、CCCのオフィスでコンピュータを使用していました。

1970年、スティーブ・ジョブズは、15歳の時に、電子部品を中古市場で安く買い、転売し、利益を上げて、自家用車を購入しました。
スティーブ・ジョブズは、マリファナ、LSD、大麻を自動車の中で使用しました。

ビル・ゲイツは、オレゴン州ポートランドにあったISIから、COBOLでの給与計算システムの作成を請け負い、開発費の代わりとして無料でPDP-10を使う権利を手に入れましたが、COBOLに習熟していなかったため、この作成は難航しました。

レイクサイド高校の教師は、ビル・ゲイツとケント・エバンスに、学校のクラススケジューリングシステムを自動化する見返りに、コンピュータを使用する時間を提供しました。
ケント・エバンスは、登山事故で死亡しました。
ビル・ゲイツは、ポール・アレンと一緒に学校のクラススケジューリングシステムを自動化を完成させました。

ゼロックス社は、パロアルト研究所を設立しました。

エド・ロバートは、MITS社(Micro Instrumentation and Telemetry Systems)を設立しました。

1971年8月、スティーブ・ジョブズは、16歳の時に、ヒューレット・パッカード社で夏季インターンシップとして働き、スティーブ・ウォズニアックと出会いました。

1971年9月、スティーブ・ウォズニアックとスティーブ・ジョブズは、デジタル式のブルーボックスを完成させ、AT&Tの長距離電話をただ掛けることに成功し、40ドルの部品代で作成したデジタル式のブルーボックスを150ドルで、学生に100台くらい売り、11,000ドルの利益を得ました。

1971年11月15日、Intel社は、マイクロプロセッサであるIntel 4004の出荷を開始しました。

1972年春、スティーブ・ジョブズは、1学年下のクリス=アン・ブレナンという女性と初めて付き合い始めました。

1972年、ビル・ゲイツとポール・アレンは、「Traf-O-Data」というベンチャーを設立し、インテル8008プロセッサを使用して、交通量計測システムを作成しましたが、利益は上げられませんでした。

1972年9月、スティーブ・ジョブズは、自由を重んじる校風と、ヒッピー的なライフスタイルで知られていたリード大学に入学し、禅に、瞑想に、ドラックに、菜食主義に傾倒しました。
スティーブ・ジョブズは、ロバート・フリードランドからカリスマ性を学びました。
ロバート・フリードランドは、リンゴ農園を管理していました。
スティーブ・ジョブズは、ロバート・フリードランドのリンゴ農園で作業をしていました。
スティーブ・ジョブズは、必修単位を取得するために、面白くもない講義に出席し、学費を支払うのが嫌で、中退します。
リード大学学部長は、スティーブ・ジョブズを容認し、学費を支払うことなしに、好きな講義にだけ受講することを認めました。
スティーブ・ジョブズは、興味のある哲学やカリグラフィーのクラスなどだけに出席し、18ヶ月を過ごしました。
スティーブ・ジョブズは、芸術と技術の両方を習得しました。

1973年1月29日、アメリカ合衆国大統領ニクソンは、「ベトナム戦争の終結」を宣言しました。

1973年3月1日、ゼロックス社のパロアルト研究所は、AltoというGUIをベースに、マウスで操作するOSを基に設計された最初のコンピュータを完成させました。

1973年、ビル・ゲイツは、大学進学適性試験で1600点中1590点を獲得し、レイクサイド高校を卒業しハーバード大学の応用数学科に入学しましたが、興味のない科目を受講しませんでしたが、大学院レベルのコンピュータサイエンスの科目は受講しました。
ビル・ゲイツは、ハーバード大学在学中に、スティーブ・ボールマーと出会いました。

1974年初め、スティーブ・ジョブズは、ロバート・フリードランドからインドに行くことを勧められました。
1974年2月、スティーブ・ジョブズは、インドに行くためのお金を稼ぐために、サウスロスアルトスの実家に戻り、アタリ社に入社しました。

1974年4月、スティーブ・ジョブズは、技術部長のアラン・アルコーンにインドまでの旅費の援助を頼みました。
アラン・アルコーンは、スティーブ・ジョブズにドイツのミュンヘンでのゲームの修理を旅費込みで命じて、ドイツ経由でインドへ渡ることで旅費を安く出来るようにしてあげました。

スティーブ・ジョブズは、アタリ社を退社して、友人のダニエル・コッケと共にインドへ旅行しました。
スティーブ・ジョブズは、ニューデリーに到着し赤痢になり、ハリドワードで3年に1を行われるメーラというヒンズー教のお祭りに参加しました。
スティーブ・ジョブズは、ニーム・カロリ・ババに会いに、ナイニタール近郊の村に行きましたが、ニーム・カロリ・ババは亡くなっていて、会うことはできませんでした。
スティーブ・ジョブズは、インド国内を放浪しながら7ヶ月を過ごし、サンフランシスコ市オーランドに戻りました。
スティーブ・ジョブズは、19歳になり、瞑想し、鈴木俊隆を導師として禅を学び、スタンフォード大学で物理や工学を聴講し、自分探しを行いました。

1974年12月、MITS社は、世界初の個人向けコンピューターAltair8800を397ドルで発売しました。

1975年、Altair8800は、ポピュラーエレクトロニクス誌の1975年1月号の表紙に掲載され、MITS社に注文が殺到しました。
ビル・ゲイツは、MITS社に電話で連絡して、Altair8800を動作させるBASICソフトウェアを作成することを思いつき、「BASICソフトを開発中で、もうすぐ完成する。伺ってお見せしましょうか」と伝えました。
MITS社エド・ロバーツは、「動作するBASICを最初に持ってきたものと契約する」と答えました。
ビル・ゲイツとポール・アレンは、MITS社がAltair8800で実行できるBASICプログラムに興味があるかを確認しました。
ビル・ゲイツとポール・アレンは、MITS社Altair8800を持っていなかったので、ハーバード大学に置いてあったPDP-10でAltair8800をエミュレートするプログラムを先に作り、Altair8800のBASICソフトの開発を作りました。
ポール・アレンは、ニューメキシコ州アルバカーキにあるMITS社のオフィスでAltair8800のBASICソフトのデモを行い、Altair8800をプレゼントされました。
ビル・ゲイツとポール・アレンは、ソフトウェア開発のためにMITS社に入社し、Altair BASICはマイクロソフトの最初の製品となりました。

1975年4月4日に、ビル・ゲイツとポール・アレンは、マイクロソフトをMITS社の本拠地であるニューメキシコ州アルバカーキで創業しました。

1975年、アラン・アルコーンは、スティーブ・ジョブズがインドから戻っていると知り、スティーブ・ジョブズをアタリ社に復職させました。

1975年6月、IBM社は、Model5100という16ビットのCPUで、100KBのROM、64KBのRAM、5インチのCRTモニター、キーボード、テープドライブを一体型にしたPCを発売しました。
ヒューレット・パッカード社は、Model9830を発売しました。
非常に高価であり、限られた人々が使用する個人向けコンピューターでした。

1975年、アタリ社ノーラン・ブッシュネルは、スティーブ・ジョブズに、50個以下のチップ数に応じたボーナス付きの、5000ドルでブロック崩しのゲーム「ブレイクアウト」の改造プロジェクトを引き受け、スティーブ・ウォズニアックに700ドルの4日間のプロジェクトだと嘘を言って頼みました。
スティーブ・ウォズニアックは、45個のチップ数で、4日で作成し、350ドルの小切手を受け取りました。

ツールや教材を販売するために作られたホールアースカタログを支援するポートラ協会は、パーティーも主催していました。
このパーティーの常連だったゴードン・フレンチとフレッド・ムーアは、クラブを作ることにしました。

1975年3月5日、ゴードン・フレンチとフレッド・ムーアは、メロンパークにあるゴードン・フレンチの自宅ガレージで、後にホームブリュー・コンピュータ・クラブと呼ばれる第一回の会合を行いました。
スティーブ・ウォズニアックは、この会合に参加し、アルテア社のマイクロプロセッサーの仕様書を見ました。
スティーブ・ウォズニアックは、マイクロプロセッサーを利用したPCの可能性を見出しました。

スティーブ・ウォズニアックは、Intel社の8080を使用としましたが高価で断念し、モトローラ社の6800と同等の機能を持ちながら20ドルという安いMOSテクノロジーズ社のマイクロプロセッサーを使用することにしました。
スティーブ・ウォズニアックは、ヒューレット・パッカード社で働いた後に、PCの開発を行いました。

1975年6月29日、スティーブ・ウォズニアックは、キーボードを入力した文字がスクリーンに表示できるようにしました。
スティーブ・ジョブズは、このマシンに感動しました。
スティーブ・ウォズニアックは、スタンフォード大学で行われるようにまでなっていたホームブリュー・コンピュータ・クラブで、PCの設計図を無償配布しました。
ビル・ゲイツは、ホームブリュー・コンピュータ・クラブに対して、PCの設計図が無償配布されていろことについて抗議しました。
スティーブ・ジョブズも、PCの設計図を無償配布することには反対し、プリント基板を作成し、販売しようと提案しました。

スティーブ・ジョブズは、1,000ドルで50枚のプリント基板を作成し、1枚を40ドルで販売し、経費を差し引いて700ドルの利益を得ることにしました。
スティーブ・ウォズニアックは、売り切ることはできないから、損をするだけだと反対しました。
スティーブ・ジョブズは、スティーブ・ウォズニアックに「お金は損をするかもしれないかど、自分の会社が持てるよ。一生に一度のチャンスだ」と説得しました。
スティーブ・ジョブズは車を、スティーブ・ウォズニアックは電卓を売り、資本金1,300ドルと製品の設計図、事業計画がそろいました。
スティーブ・ウォズニアックが働いているヒューレット・パッカード社にPCのデモを行いました。
ヒューレット・パッカード社は、PCには驚きましたが、PCを取り扱うことはないと判断しました。

1976年4月1日、スティーブ・ジョブズは、スティーブ・ウォズニアックとロン・ウェインと共にアップル社を設立しました。
スティーブ・ジョブズは、電子工学とマーケッティングについて責務を負い、利益配分率は45%としました。
スティーブ・ウォズニアックは、電子工学について責務を負い、利益配分率は45%としました。
ロン・ウェインは、機械工学と文書作成について責務を負い、利益配分率は10%としました。
スティーブ・ジョブズは、借り入れをして資金を増やうとします。
ロン・ウェインは、事業に失敗したことがあるので、再び、債権者が押し寄せてくるようになるのではないかと恐れて、800ドルだけを得て、さらに1.500ドルを得るだけで、責務と10%の利益配分率を放棄しました。

スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックは、ホームブリュー・コンピュータ・クラブでPCのデモを行いました。
安いMOSテクノロジーズ社のマイクロプロセッサーを使用していることで評価はされませんでした。

バイトショップというコンピュータショップを経営しているポール・テアルは、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックのデモに感心し、名刺を渡しました。
スティーブ・ジョブズは、翌日にバイトショップを訪れ、ポール・テアルと交渉し、プリント基板ではなく、プリント基板に部品を実装した50台の完成基板に対して、1台500ドルを支払うという約束を取り交わしました。
50台の完成基板を作成するためには、部品代だけでも1万5000ドルも必要になりました。
スティーブ・ジョブズは、資金調達をしようとしましたが、友人の父親から5,000ドル借り入れられただけで、銀行からは借り入れることができず、粘り強く部品の仕入れ先を探し、ポール・テアルがクラマーエレクトロニクスに部品代を30日後に支払うことで、2万5000ドルもの部品を調達できました。

スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックは、部品代の30日後の支払期日までに50台の完成基板をポール・テアルに納品しなければならなくなりました。
スティーブ・ジョブズは、プリント基板に部品をはんだ付けして作成しました。
スティーブ・ウォズニアックは、作成された完成基板をテストし、動作した完成基板を箱詰めし、動作しなかった完成基板のチェックをしました。
スティーブ・ジョブズは、20日後に、すべてのパッケージが揃っていない10台の完成基板に不満を感じているポール・テアルから、代金を受け取りました。
スティーブ・ジョブズは、30日後に、ポール・テアルに40台の完成基板を引き渡し、合計50台の代金を受け取りました。
スティーブ・ジョブズは、さらに安く部品を調達し、ポール・テアルから受け取った合計50台の代金の利益で、50台の完成基板を作成し、知人に販売し、もう100台の完成基板を作成しました。

1976年6月16日、スティーヴン・ビコの影響を受けた1万人もの黒人学生達は、ソウェトで蜂起が発生しました。
映画「遠い夜明け」

1976年6月、スティーブ・ジョブズは、製作費の3倍の666.66ドルで完成基板を販売することにしました。
この完成基板は、AppleⅠと名づけられました。
AppleⅠは、ケース、キーボード、電源を用意し、テレビ受像機を接続して、組み立てて使用します。
カセットテープインターフェースは、別売りで用意され、BASIC言語をテープで使用できます。
AppleⅠは、自作PCの元祖のようなPCです。

1976年、インターフェース誌7月号は、AppleⅠを特集しました。
1976年9月、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックは、ニュージャージー州アトランティックシティで開催された第1回パーソナルコンピュータ・フェスティバルに、AppleⅠと試作中のAppleⅡを持ってきました。
AppleⅠは、会場で展示されました。
スティーブ・ジョブズは、会場を見て回りながら、すべてのパッケージが揃っているPCが必要だと感じました。
スティーブ・ウォズニアックは、AppleⅡを改善しました。
AppleⅡは、カラープロジェクターでの動作試験に成功しました。
AppleⅠは、8,000ドルの売り上げをあげました。

スティーブ・ジョブズは、ロン・ウェインにAppleⅡのケースを依頼しました。
スティーブ・ジョブズは、ロン・ウェインが作成したケースが気に入らず、採用しませんでした。
スティーブ・ジョブズは、ホームブリュー・コンピュータ・クラブでコンサルタントをしているジェリー・マノックに1.500ドルでケースのデザインを依頼しました。
スティーブ・ジョブズは、ジェリー・マノックが作成したケースに大喜びして、採用しました。
スティーブ・ジョブズは、ロッド・ホルトにAppleⅡの電源を依頼しました。
スティーブ・ジョブズは、ロッド・ホルトが作成したスイッチング電源を気に入り、採用しました。
スティーブ・ジョブズは、スティーブ・ウォズニアックにAppleⅡの配線をまっすぐに美しくするように依頼しました。
1976年11月、スティーブ・ジョブズは、AppleⅡを製造するために、資金を集めるために、人々に連絡し、マイク・マークラと出会いました。
マイク・マークラは、33歳でしたが、Intelで働いて、戦略、物流、財務、マーケッティングに詳しく、Intelの株式公開で、巨万の富を得て、悠々自適に暮らしていました。
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックは、マイク・マークラと意気投合しました。
マイク・マークラは、Apple社の事業計画書を書くことになりました。
マイク・マークラは、スティーブ・ウォズニアックがヒューレッド・パッカードを辞め、アップル社に専念し、第1回ウェストコースト・コンピュータ・フェアでAppleⅡを発表し、Apple社を株式会社として、Apple社の25%の株式と引き換えに、9万2000ドルとバンク・オブ・アメリカから25万ドルの個人融資をApple社に投資しました。
スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックは、Apple社の25%の株式を得ることにしました。
残りの25%のApple社の株式は、将来の投資家のために、残しておきました。
マイク・マークラ、スティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニアックは、合意しました。
スティーブ・ウォズニアックは、ヒューレット・パッカード社を辞めて、エンジニアとして、Apple社に参加することにしました。
マイク・マーラクは、「アップルのマーケッティング哲学」として、「共感」、「フォーカス」と「印象」を掲げました。

1976年11月、デジタルリサーチ社は、8ビットCPUである8080やZ80上で動作する業界標準のOSとなる、CP/Mを発売しました。

1976年11月26日、ビル・ゲイツとポール・アレンは、マイクロソフトをニューメキシコ州で法人化しました。

1977年1月3日、スティーブ・ジョブズは、スティーブ・ウォズニアックとマイク・マーラクと共にアップルコンピュータを設立しました。
アップルコンピュータの初代CEOは、マイク・スコットです。

スティーブ・ジョブズは、AppleⅡを「印象」つけるためにIntelの広告をしたレジス・マッケナンに粘り強く交渉し依頼しました。
アートディレクターのロブ・ヤノフは、アップルコンピュータのリンゴのロゴマークをデザインしました。

1977年4月16日から17日、アップルコンピュータは、サンフランシスコで開催された、
第1回ウェストコースト・コンピュータ・フェアで、AppleⅡというCPU、メモリー、キーボード、画像出力装置、音声出力装置、外部記憶装置、プログラム用言語、ゲームI/Oを単一製品として、史上初の一体型PCを1,298ドルで発表しました。
アップルコンピュータは、AppleⅡに対する300件もの注文を獲得しました。
AppleⅡと一般家庭用テレビを接続して、カラー表示でグラフィカルな表示を行うことができるので、多くのゲームが、AppleⅡ上で開発されました。
アップルコンピュータは、AppleⅡを600万台も売りました。

パーソナルコンピュータ市場は、CP/MとAppleⅡで独占されました。

1979年5月17日、スティーブ・ジョブズのガールフレンドであるクリス=アン・ブレナンは、スティーブ・ジョブズの娘であるリサ(Lisa)を出産しました。
スティーブ・ジョブズは、リサを自分の子として認知せず、法廷闘争の末、敗訴し、認知することになりました。
スティーブ・ジョブズは、アップルコンピュータを株式公開する前に、一連の訴訟を終えて、クリス=アン・ブレナンにもリサにも、お金を渡さないようにしました。

1979年7月、アップルコンピュータでは、スティーブ・ジョブズがAppleⅡを超えるコンピュータを開発する16ビットCPUのモトローラ68000を使用するLisaプロジェクトを開始しました。
スティーブ・ジョブズは、結婚していないクリス=アン・ブレナンとの娘である名前Lisaをプロジェクト名にしました。

1979年9月、アップルコンピュータでは、ジェフ・ラスキンがMacintoshプロジェクトをビル・アトキンソンやビュレル・スミスなど4人で開始しました。
Macintoshは、リンゴの品種名です。
価格は1,000ドル以下、8ビットCPUのモトローラ6809に、5インチのスクリーンを一体型として、家電のようにシンプルで、パーソナルなコンピューターを目指しました。

1979年12月、スティーブ・ジョブズは、ゼロックスがアップルコンピュータの1株を10ドル、10万株を購入するという100万ドルの投資を受け入れ、ゼロックスPARCを視察し、GUI、オブジェクト指向プログラミング言語とマウスに将来のPCだと確信しました。

1980年5月19日、アップルコンピュータは、AppleⅢを発表しました。

1980年7月、IBM社は、IBM PCの開発を始めました。
12名という少数のスタッフと1年間という短納期で開発ななければならず、CPUやメモリーや周辺機器やOSやプログラミング言語は社外から調達して、開発することにしました。

IBM社は、インテル社から16ビットCPU(8088)を調達することにしました。
IBM社は、マイクロソフト社からOSやプログラミング言語を調達することにしました。
こうして、パーソナルコンピューターの業界標準が開発されました。

1980年9月、マイク・スコットとマイク・マーラクは、スティーブ・ジョブズをLisaプロジェクトから外しました。
スティーブ・ジョブズは、Macintoshプロジェクトに参加し、Lisaプロジェクトで実現する製品を製作することにしました。
スティーブ・ジョブズは、Macintoshプロジェクトが使用するCPUをLisaプロジェクトで使用する16ビットCPUのモトローラ68000に変更し、GUIもマウスも使用することにしました。
マイク・スコットは、スティーブ・ジョブズにMacintoshプロジェクトを与えました。
ジェフ・ラスキンは、Macintoshプロジェクトから外され、休暇を与えられ、キャノンに転職しました。
スティーブ・ジョブズは、社内外から優秀な人材をMacintoshプロジェクトに参加させました。

1980年12月、マイクロソフト社は、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社からQDOSの非独占的なライセンスを25,000ドルで買い取りました。

1980年12月12日、アップルコンピュータは、公募価格22ドルで460万株を株式公開しました。
22ドルで取引開始され、初日に29ドルまで上昇しまし、全ての株式が売れました。
スティーブ・ジョブズは、アップルコンピュータの株を750万の発起人者株を所有し、2億ドル以上の資産を手に入れ、フォーブス誌の長者番付に掲載されました。
アップルコンピュータの創業者株を得た者は、莫大な資産を得ました。
スティーブ・ジョブズは、技師と呼ばれる時給扱いの従業員には、発起人者株は与えませんでした。

1981年2月、マイクロソフト社は、MS-DOSというIBM社のIBM PC上で動作する16ビットOSを発表しました。

1981年2月25日、マイク・スコットは、AppleⅡのチームの人員の半分にあたる40名を解雇しました。

1981年3月、マイク・スコットはアップルコンピュータのCEOから退任し、マイク・マーラクは、アップルコンピュータのCEOに就任しました。

1981年4月27日、ゼロックスは、GUIを搭載した「スター」を16,595ドルで発売しましたが、3万台売れましたが、商業的には失敗しました。

1981年5月、マイクロソフト社は、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社からティム・パターソンを引き抜いて、QDOSのIBM PCへの移植を行なわせました。

1981年7月、マイクロソフト社は、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社からIBM PCを発売する1ヶ月前に、IBMの主な要求を満たしていたQDOSの全ての権利を5万ドルで買い取りました。
マイクロソフト社は、IBM社と秘密保持契約を結んでおり、IBM社との関係を公にすることは契約に反していたが、シアトル・コンピュータ・プロダクツ社は、マイクロソフト社がQDOSを安く買い取るためにIBM社との関係を秘密にしたと主張し、裁判になり、マイクロソフト社がシアトル・コンピュータ・プロダクツ社に100万ドル支払うことで和解しました。

1981年8月12日、IBM社は、IBM PCというパーソナルコンピューターを発売しました。

パーソナルコンピュータ市場は、IBM PCとAppleⅡによる独占が始まりました。

1981年8月24日、アップルコンピュータは、IBM社に向けて「パーソナルコンピュータに参入おめでとう、真面目な話」という全面広告をウォール・ストリート紙に出しました。

IBM PCは、アップルコンピュータの市場を奪い始めました。

アップルコンピュータは、発売中のAppleⅡとAppleⅢ、AppleⅡと互換性のないLisa、AppleⅡとLisaとも互換性のないが、AppleⅡとLisaよりも高速なMacintoshという製品を発売することになりました。

1981年11月9日、アップルコンピュータは、4,340~7,800ドルで、AppleⅢを発売しました。

1982年2月15日、スティーブ・ジョブズは、タイム誌の表紙になりました。

1982年12月26日、タイム誌は、マシン・オブ・ザ・イヤーとしてコンピューターを選びました。

1983年1月19日、アップルコンピュータは、Lisaを1万ドルで発売しました。
Lisaは、個人が使用するパーソナルコンピュータとしては、速度が遅く、高すぎる価格のため、売れませんでした。

アップルコンピュータは、AppleⅡeを8ビットのCPU(MOS6502)、RAMは64KB、ROMは16KBを1,395ドルで発売し、大ヒットしました。

1983年4月、マイク・マーラクは、アップル社のCEOを退任し、ジョン・スカリーは、アップルコンピュータのCEOに就任しました。

1983年11月10日、Microsoft社は、Windows 1.0を発表しました。

1984年1月22日、アップルコンピュータは、リドリー・スコットが監督をして、Macintoshを宣伝するためにSF小説「1984」を元にした制作し、第18回スーパーボウルのTVコマーシャルとして、放映しました。
1984年1月24日、アップルコンピュータは、Macintoshを2495ドルで発売しました。

1984年2月1日、マイケル・デルは、デル社をパーソナルコンピュータを保守を行う会社として創業しました。

1984年4月24日、アップルコンピュータは、AppleⅢを生産中止しました。

1984年8月14日、IBM社は、PC/ATというCPU、メモリー、ハードディスク、フロッピーディスクドライブ、ディスプレイ出力、キーボード入出力、シリアルポート、パラレルポート、AT拡張バスを持つPCを発売しました。
このPC/ATの互換機が、業界標準のPCになりました。
デル社は、PC/ATの互換機をパソコンの受注生産で行うパーソナルコンピュータ会社として、成長しました。

1984年10月~12月、スティーブ・ジョブズは、Macintoshの需要予測を大幅に見誤り、大量の在庫を抱え、創業以来四半期ベースで初の赤字となり、従業員の20%を解雇しました。

1985年2月5日、スティーブ・ウォズニアックは、アップルコンピュータを退社しました。

スティーブ・ジョブズは、ジョン・スカリーが中国に出張中にジョン・スカリーをアップルコンピュータから追放しようとして、失敗しました。
1985年5月24日、ジョン・スカリーは、アップルコンピュータの取締役達にジョン・スカリーを支持するのか、スティーブ・ジョブズを支持するのか問いただしました。
アップル社の取締役達は、ジョン・スカリーを支持しました。
スティーブ・ジョブズは、アップル社の経営権を失いました。

1985年8月16日、アップルコンピュータの株式は、1ドル83セントになりました。

スティーブ・ジョブズは、ルーカスフィルムのCG作成部門を訪問し、鮮明なCGアニメーションに感動しました。

スティーブ・ジョブズは、Macintoshを学生や教育機関に割引価格で販売し、大量のMacintoshを販売しました。
スティーブ・ジョブズは、Macintoshを学生や教育機関に売り込むために、大学や研究所を訪問していました。
スティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学でノーベル賞受賞者の生物学者であるポール・バーグと一緒にランチを食べました。
ポール・バーグは、スティーブ・ジョブズに遺伝子組み換えを実験室で実際に実験するのは難しく、費用もかかるので、学生が教科書だけで遺伝子組換えを教える必要があり、PCではシュミレーションできないことを伝え、PC以上の性能を持つ、高等教育用のワークステーションを制作を提案しました。

スティーブ・ジョブズは、高等教育用のワークステーションを実現するために、アップルコンピュータを辞任し、NeXT社を設立することにしました。

1985年9月13日、スティーブ・ジョブズはアップルコンピュータに辞表を提出し、辞職しました。
スティーブ・ジョブズは、アップルコンピュータの決算報告書を受け取るための株式を1株だけ残して、残りの650万株を売却しました。

1985年9月、スティーブ・ジョブズは、アップル社から引き抜いた6人のエンジニアと共に、NeXT社を設立しました。

1985年11月20日、Microsoft社は、Windows 1.0を発売しました。

1986年2月3日、スティーブ・ジョブズは、ルーカスフィルムのCG作成部門をを1,000万ドルでジョージ・ルーカスから買収し、ハードウェアとCG用のソフトを開発、販売する会社として、ピクサー社を設立し、会長に就任しました。

ピクサー社は、技術はありましたが、技術を市場で活用する方法が分からず、短編アニメを制作し、収益は得られず、赤字でした。

1988年3月29日、ピクサー社は、「ティン・トイ」を制作し、第61回アカデミー賞最優秀短編アニメーションを受賞しました。

1988年10月12日、NeXT社は、NeXTcubeを発表しました。

1989年10月、スティーブ・ジョブズは、スタンフォード大学で講義をして、経済学修士課程の1年生である受講生のローレン・パウエルと付き合い始めました。

1989年11月、欧州原子核研究機構(CERN)のティム・バーナーズ=リーは、WWW(World Wide Web)を具体的にした提案書を発表し、最初のウェブページを作成し、NeXTcube上に格納しました。

1989年12月、欧州原子核研究機構(CERN)のティム・バーナーズ=リーは、WWWに必要な全ツールである世界初のウェブブラウザとWWWサーバを作成しました。

1989年12月3日に、地中海のマルタ島沖のソビエト連邦客船マクシム・ゴーリキーの船内で、ハイル・セルゲーエヴィチ・ゴルバチョフソビエト連邦最高会議議長兼ソビエト連邦共産党書記長とジョージ・H・W・ブッシュ米国大統領が会談し、冷戦の終結を宣言しました。

1990年2月11日、南アフリカ共和国のデクラーク大統領は、アパルトヘイト関連法案の撤廃決定し、ネルソン・マンデラを釈放しました。
映画「マンデラ 自由への長い道」映画「マンデラの名もなき看守」映画「インビクタス/負けざる者たち」

1990年4月、スティーブ・ジョブズは、ピクサー社のハードウェア技術とソフトウェアを含むハードウェア部門を200万ドルでビコム・システムに売却し、アニメーション部門だけを残しました。
スティーブ・ジョブズは、ハードウェアとソフトウェアの統合を捨て、新しく、強烈なユーザー体験を創造することに焦点を当てるようになりました。

1990年9月18日、NeXT社は、NeXTcubeを一般市場向けに7,995ドルで発売しました。
1990年10月12日、NeXT社は、NeXTcubeを発表しました。
NeXTcubeは、MC68030のCPU、64MBのメモリー、256MBの光磁気ディスク、660MBのハードディスク、10Base-2イーサーネット、1120×832ピクセルのディスプレイ、NEXTSTEPのOSという仕様で、PCをはるかに凌ぐ高性能で、高等教育機関向けに基本価格6500ドルで販売されました。

1990年12月20日、日本IBMは、PC/AT互換機で動作し、専用のハードウェアではなく、ソフトウェアだけで日本語を表示可能にしたOS「DOS/V」で動作するPS/55というパーソナルコンピューターを発売しました。

1991年、ピクサー社は、ウォルト・ディズニー社にCGアニメーション映画作成の売り込みを行いました。

1991年3月、ウォルト・ディズニー社は、ピクサー社に3本の劇場用作品の制作を依頼し、契約しました。

スティーブ・ジョブズは、ピクサー社に4000万ドルを追加投資し、合計5000万ドルを投資しました。
ピクサー社は、70台のSGIワークステーション、117台のSUNワークステーションを購入し、長編映画としては初のフルCGコンピュータ・グラフィックスのアニメーション映画「トイ・ストーリー」を制作しました。

1991年3月11日、スティーブ・ジョブズは、ロレーヌ・パウエルと結婚しました。
1991年9月、スティーブ・ジョブズの妻ロレーヌ・パウエルは、息子のリードを出産しました。

1991年10月21日、アップルコンピュータは、パワーブック100を発表しました。

1991年10月、GO社は、PenPointというタブレットPCを発表しました。

1991年10月、Microsoft社は、Windows for Pen ComputingというタブレットPC用OSを発売しました。

1992年4月6日、Microsoft社は、Windows3.1の英語版を発売しました。
Windows3.1は、PC/AT互換機で動作するMS-DOS上で動作するグラフィカルユーザーインターフェース(GUI)機能です。

1992年10月5日、IBM社は、「ThinkPad 700T」というタブレットPCを発売しました。

1992年10月、アップルコンピュータは、パワーブック・デュオ210を発表しました。

1992年1月、アップルコンピュータは、NewtonというタブレットPCを発表しました。

1993年2月、NeXT社は、ハードウェア生産から撤退し、NEXTSTEPというソフトウェアに焦点を当てました。

1993年5月18日、Microsoft社は、Windows3.1の日本語版を発売しました。
Windows3.1によって、日本でもPC/AT互換機が業界標準となりました。

1993年6月18日、ジョン・スカリーは、アップルコンピュータのCEOを解任され、マイケル・スピンドラーは、アップルコンピュータのCEOに就任しました。

1993年、エド・ ウーラードは、デュポン社の元会長で、アップルコンピュータの取締役員に就任しました。

1993年7月27日、Microsoft社は、ビジネス向けパーソナルコンピューターのOSとして、Windows NT 3.1を発売しました。

1994年3月14日、アップルコンピュータは、パワー・マッキントッシュ6100を発表しました。

1994年8月16日、IBM社は、IBMサイモンというスマートフォンを発売しました。

1995年8月8日、アップルコンピュータは、パワー・マッキントッシュ7500を発売しました。

1995年8月19日、スティーブ・ジョブズの妻ロレーヌ・パウエルは、娘のエリンを出産しました。

1995年8月24日、Microsoft社は、Windows95の英語版を発売しました。
Windows95は、新しいGUI、TCP/IPなどのネットワーク機能を標準装備しました。
ビル・ゲイツは、接続料金に課金でき、コンテンツを作る人々に利益をもたらすパソコン通信に将来があるが、接続料金に課金できず、コンテンツを作る人々に利益をもたらさないインターネットには将来がないと見誤りました。

1995年8月25日、アップルコンピュータは、PowerPCを搭載したパワーブック5300を発表しました。

1995年11月23日、Microsoft社は、Windows95の日本語版を発売しました。

1995年11月22日、ウォルト・ディズニー社とピクサー社は、長編映画としては初のフルCGアニメーションである「トイ・ストーリー」を公開し、全世界でアニメーション史上第3位となる3億6200万ドルの興行収入を上げて、世界的に大ヒットしました。

1995年11月29日、ピクサー社は、公募価格22ドルで690万株を株式公開し、39ドルまで上昇しました。
スティーブ・ジョブズは、300万株を保有していたので、11億7000万ドルの資産を得ました。

スティーブ・ジョブズは、ウォルト・ディズニー社と新たに5本のアニメ映画に関する交渉を行い、興行収益も関連商品収益もウォルト・ディズニー社とピクサー社とで等分にする契約をしました。
この契約により作成され公開されたのが「バグズ・ライフ」、「モンスターズ・インク」、「ファインディング・ニモ」、「Mr.インクルディブル」、「カーズ」です。

1996年2月、マイケル・スピンドラーは、アップルコンピュータのCEOを退任し、ギル・アメリオは、アップルコンピュータのCEOに就任しました。

1996年8月15日、Nokia社Nokia 9000というスマートフォンを発売しました。

1996年12月10日、スティーブ・ジョブズは、アップルコンピュータにNEXTSTEPをプレゼンテーションしました。

1996年12月20日、アップルコンピュータは、次期OSをNEXTSTEPにすることを決定し、NeXT社を買収すると発表しました。
アップルコンピュータは、スティーブ・ジョブズに1億2000万ドルの現金とアップルコンピュータの株式3700万株を支払いました。

1997年1月、スティーブ・ジョブズは、非常勤顧問としてアップルコンピュータに復帰しました。

スティーブ・ジョブズは、従業員の士気を高めるという名目で、従業員のストックオプションの価格を引き下げて、従業員が株価上昇によって得られる利益を上げることを取締役会に提案しました。
取締役会は、この提案を受け入れました。
スティーブ・ジョブズは、ギル・アメリオやマイク・マークラなどの取締役員を追い出し、取締役員を刷新しました。

1997年7月7日、ギル・アメリオは、アップルコンピュータのCEOを辞任し、スティーブ・ジョブズは、暫定CEOに就任しました。

1997年8月6日、スティーブ・ジョブズは、ボストン国際トレードセンターでアップルコンピュータとMicrosoft社との業務提携を発表しました。
「我々の間で競争する時代は終わった。
 ありがとう、ビル。
 君の協力に感謝するよ。
 いい時代が来た」

1997年9月26日、アップルコンピュータは、Mac OS 8を発売しました。

スティーブ・ジョブズは、製品ラインナップをプロ向けデスクトップのパワー・マッキントッシュG3、プロ向けポータブルのパワーブックG3、消費者向けデスクトップのiMacと消費者向けポータブルのiBookに絞り込みました。

1997年9月30日、Microsoft社は、インターネットブラウザであるInternet Explorer4をWindows95やWindowsNT4.0のOSと統合し、最も多く使用されていたインターネットブラウザであるNetscape社と激しいシェア争いが始まりました。

1997年11月10日、アップルコンピュータは、パワー・マッキントッシュG3とパワーブックG3を発表しました。

1998年5月、スティーブ・ジョブズの妻ロレーヌ・パウエルは、娘のイブを出産しました。

1998年6月25日、Microsoft社は、Windows98の英語版を発売しました。
1998年7月25日、Microsoft社は、Windows98の日本語版を発売しました。
Microsoft社は、インターネットブラウザであるInternet Explorer4をWindows98に統合し、ネットワーク上のファイルもローカルファイルと同じように使用できるようにしました。
Microsoft社は、インターネットブラウザのシェア争いでNetscape社に勝利しました。

1998年7月25日、アップルコンピュータは、iBookを発表しました。

1998年8月15日、アップルコンピュータは、iMacを発表しました。

1999年1月5日、アップルコンピュータは、パワー・マッキントッシュG3(Blue&White)を発表しました。

1999年5月、ショーン・ファニングはP2P技術を使用して、音楽ファイルを共有するNapsterを開発し、叔父のジョン・ファニングと、企業家のショーン・パーカーと共にNapster社を設立しました。
Napsterによって、著作権を無視した音楽ファイルの共有が開始されました。

1999年10月23日、アップルコンピュータは、Mac OS 9を発売しました。

1999年12月6日、レコード会社は、Napster社を著作権侵害で提訴しました。

2000年1月、スティーブ・ジョブズは、アップルコンピュータのCEOに就任しました。

2000年2月18日、Microsoft社は、Windows2000を発売しました。

2001年1月9日、アップルコンピュータは、パワーブックG4を発表しました。
アップルコンピュータは、マッキントッシュ専用の音楽再生・管理ソフトウェアとしてiTunesをリリースしました。
アップルコンピュータは、音楽ファイルを個人がPC上で合法的に利用できるようにしました。

2001年2月12日、米国裁判所は、Napster社を著作権侵害で違法という判決を下しました。

2001年3月24日、アップルコンピュータは、Mac OS Xを発売しました。
Mac OS Xは、NEXTSTEPの技術をベースに開発されたOSです。

2001年11月16日、Microsoft社は、WindowsXPを発売しました。
WindowsXPは、マルチメディア機能と安定性と堅牢性を兼ね備えたOSとなり、世界的に大ヒットしました。

2001年10月23日、アップルコンピュータは、マッキントッシュ専用のデジタルオーディオプレーヤーとしてiPodを発表しました。
音楽ファイルを「いつでも、どこでも音楽を聴くことができる」という生活スタイルを提案し、世界的に大ヒットしました。

2002年6月12日、Microsoft社は、Windows XP Tablet PC Editionを発表しました。

2002年8月29日、Microsoft社は、Poket PC Phone Editionを発表しました。

2003年6月3日、Napster社は倒産しました。

2003年6月23日、Microsoft社は、Windows Mobileを発表しました。

2003年、マーク・ザッカーバーグは、アダム・ダンジェロと共に音楽再生用フリーソフトウェア「Synapse Media Player」のサービスを開始しました。
「Synapse Media Player」は、利用者が以前に選択した曲をベースに、聞く曲目を予測してくれる機能が高い称賛を受けたソフトウェアで、Microsoft社を含む幾つかのソフトウェア会社がこのプレイヤーに興味を示しましたが、正式な取引は行われませんでした。

2003年10月16日、アップルコンピュータは、iTunesのWindows版を発売しました。
WindowsのPCでもiPodが簡単に使用できるようになりました。

2004年1月6日、アップルコンピュータは、iPod miniを発表しました。

マーク・ザッカーバーグは、「Coursematch.com」のサービスを開始しました。
「Coursematch.com」は、同じクラスを履修している他の学生のリストを参照できるようにしました。
マーク・ザッカーバーグは、女性の画像を見て比較できる「Facemash.com」のサービスを開始しました。
2004年、マーク・ザッカーバーグとエドゥアルド・サベリンは、Facebookを創業しました。

2004年2月、ショーン・パーカーは、Facebookの初代CEOになりました。
映画「ソーシャル・ネットワーク」

2006年5月5日、ウォルト・ディズニー社は、ピクサー社を買収し、完全子会社にしました。
スティーブ・ジョブズは、ウォルト・ディズニー社の個人筆頭株主(持株率約7%)になり、ウォルト・ディズニー社の取締役員に就任しました。

2006年11月30日、Microsoft社は、Windows Vistaを発売しました。

2007年3月22日、アップルコンピュータは、Apple TVを発売しました。

2007年6月29日、アップル社は、iPhoneというスマートフォンを発売しました。
iPhoneは、ボタン操作ではなく、ディスプレイ上の様々な指の動きで操作するマルチタッチを採用し、インターネットに接続ができ、「いつでも、どこでもインターネットができる」という生活スタイルを提案し、世界的に大ヒットしました。

Windows Mobileは、マルチタッチに対応出来ずに、シェアをiPhoneに奪われました。

2007年11月19日、アマゾン社は、キンドルという電子ブックリーダーを発表しました。

2008年9月15日、米国のリーマン・ブラザースという投資信託銀行が破綻して、世界的な金融危機が発生しました。

2008年10月22日、各社は、グーグル社が開発した誰でも利用できるオープンOSとしてAndroidというスマートフォン用OSを利用したスマートフォンが発売しました。

2009年6月22日、アップルコンピュータは、iPhone 3GSを発表しました。

2009年10月22日、Microsoft社は、Windows7を発売しました。

2009年から、米国でCD売上が減り始め、音楽ファイルでの売上が増加しました。

2010年4月3日、アップルコンピュータは、iPadというタブレットPCで、電子ブックリーダーを発売しました。

2010年6月24日、アップルコンピュータは、iPhone 4を発売しました。

2010年10月~12月、スマートフォンの全世界出荷台数は1億台を超え、PCの全世界出荷台数である9200万台を超えました。

2011年4月11日、連邦控訴審は、ウィンクルヴォス兄弟の「自分たちの株式の価値は低すぎる」との主張を退けた第一審の判決を支持し、評価額1株あたり8ドル88セント相当のFacebook株式を受け取るべきとの判断を示しました。

2011年8月24日、スティーブ・ジョブズは、アップルコンピュータのCEOを辞任しました。

2011年10月4日、アップルコンピュータは、iPhone 4Sを発表しました。

2011年10月5日、スティーブ・ジョブズは、膵臓腫瘍の転移による呼吸停止により米国カリフォルニア州パロアルトの自宅で妻や親族に看取られながら、56歳で、亡くなりました。

2012年8月20日、アップルコンピュータは、1株664.74ドルとなり時価総額で世界一になりました。

2014年には、米国でのCD売上は半減しました。

感想

世界一儲けられる人とは、勝負する人です。

ビル・ゲイツは、1994年から2006年まで13年連続の世界一のお金持ちになりました。
今でも、ビル・ゲイツは、世界一のお金持ちです。

1971年から1997年にかけてのアップルコンピュータとマイクロソフトに関する物語です。
1971年は、50年前で、マクドナルド日本第1号店が銀座に開店したころです。
1997年は、24年前で、ダイアナ元イギリス王太子妃がパリで交通事故で死亡し(映画「ダイアナ」)、アジア通貨危機が始まったころです。(映画「国家が破産する日」)
26年間の出来事を描いているために、各々出来事については細かく描くことはできずに、各々出来事については知っている前提で、簡単に描かれています。

登場人物は、限られているので、理解しやすいです。

PC-DOS. MS-DOS, Windows3.1, Windows98. Windows95を知らない若い人、コンピュータに興味がない人やお金持ちに興味がない人にはつまらない映画です。
自己啓発に興味がある人、コンピュータに興味がある人やお金持ちに興味がある人にはお勧めできる映画です。
スティーブ・ジョブズは、Lisaもで、「1984」というCMでも、Macintoshでも、NeXTcubeでも、ピクサーでも、iPodでも、ituneもで、iPhoneでも、iPadでも勝負し続けた結果、勝利します。
ビル・ゲイツは、ポーカーゲームのように、自信のないときには小さく賭けて、勝負どころでは大きく賭けて、PC-DOSでも、MS-DOSでも、Windowsでも勝負し続けた結果、勝利します。

スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツについて知らない人は、この映画を観てもわからないです。
この映画を観て、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツについて知りたくなった人には、映画「スティーブ・ジョブズ(2013年)」と映画「スティーブ・ジョブズ(2015年)」を鑑賞し、「スティーブ・ジョブスⅠ」と「スティーブ・ジョブスⅡ」講談社ウォルター・アイザックソン著/井口耕二訳を読むと理解できるようになります。
読んでも理解できない部分は、調べる必要があります。
偉人たちの人生から学ぶことは、多いです。
スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツのような日本人はいないので、日本人がスティーブ・ジョブズやビル・ゲイツを理解するのは困難です。

スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツは、コンピュータやプログラミングという才能に向いた教育を受けることができたというのが成功した大きな理由だと感じました。
日本のような画一的な教育の中からは、スティーブ・ジョブズやビル・ゲイツような人材は生まれないでしょう。
日本のような画一的な教育の中からは、何も理解できない政治家、政治家に従う官僚、企業家と従業員しか生まれません。

30年以上経過している日本では、今でも学校に教育用PCが採用されていないし、コンピュータやプログラミングを教えることができる教師もいません。
PCよりもスマートフォンが普及し、スマートフォンでゲーム等を行い、限りある人生の時間を何かを学ぶことなく、浪費しています。

スティーブ・ジョブスの名言

映画「スティーブ・ジョブス(2013年)」を参照ください。

ビル・ゲイツの名言

ビル・ゲイツの名言
  • 徹底的な話しあいは、ムダに終わることが多い。
  • 満点をとったことは自慢にならないよ。本当に大切なのは知識を丸暗記したり、教えられたとおりのことを答案に書くことではなくて、先を見る洞察力だ。
  • 子供のころからたくさん本を読んで自分でものを考えろと言われて育った。両親は、本や政治や、その他いろいろなことについて、子供たちを交えて話し合った。
  • 子供のころからたくさん本を読んで自分でものを考えろと言われて育った。両親は、本や政治や、その他いろいろなことについて、子供たちを交えて話し合った。
  • 技術は単に道具に過ぎない。子供たちをともに勉強させ、動機付けを行なうには、先生こそが最も重要なのだ。
  • 問題は未来だ。だから私は、過去を振り返らない。
  • なぜファーストクラスに乗らないかって、だってエコノミーでも到着する時間は同じだろ。
  • ビジネスは非常に簡単だと思う。売上からコストを引けば、大きな黒字が出る。計算は極めて簡単だ。
  • スピードこそが企業にとって最も重要になる。
  • 私は物事をとことん突き詰めるのが好きなんだ。そうすれば、たいてい良い結果が出るから。
  • 同じ決断を二度するな。最初の決断に充分時間をかけて確固たる決断を下せば、同じ問題を二度考えずにすむ。
  • 成功を祝うのはいいが、もっと大切なのは失敗から学ぶことだ。
  • 成功の秘訣?それは大きなビジョンが持てるかどうかだよ。
  • 成功の鍵は、的を見失わないことだ。自分が最も力を発揮できる範囲を見極め、そこに時間とエネルギーを集中することである。
  • 人生は公平ではない。そのことに慣れよう。
  • 自分のことを、この世の誰とも比べてはいけない。それは自分自身を侮辱する行為だ。
  • 人生には学期は無い。夏休みもないし、「自分探し」を手伝ってくれるような雇用主もほぼ皆無だ。
  • リスクを引き受ける気があるなら、悪いニュースに多少目をつぶることは必要だ。
    不安はあっても、「上手くいく保証はないが、ベストを尽くしてみようじゃないか」というぐらいの勇気がなくてはならない。
  • 私たちはいつも、今後2年で起こる変化を過大評価し、今後10年で起こる変化を過小評価してしまう。
  • 人類史上の進歩のほとんどは、不可能を受け入れなかった人々によって達成された。
  • 一心不乱に働くこと、ベストを尽くすことが嫌だというなら、ここは君のいるべき職場ではない。
  • 私は教える人間ではない。学ぶ人間だ。
    学ぶことが大好きな人たちと一緒に仕事ができることを大いに気に入っている。
  • 私は起業家という言葉をいつも拒否してきました。
    「会社を始めよう、何の会社にしようか」では決して成功はないと思います。
  • しばしば、直観が頼みの綱になる。
  • 若い人を優先的に雇っている理由は、若い人の方が向上心があるし、新しいアイデアがどんどん出てくるからだ。
  • 人間にはものを考える時間が必要だ。

徹底的な話しあいは、ムダに終わることが多い。

少数の人間が密室で決めたことを、責任回避のために、徹底的な話しあい、全会一致の賛成を目指すことは、時間のムダです。
全会一致の賛成で決めたということで、失敗しても、全員に責任があるとし、全員が責任を取ることは現実的ではないので、全く責任を問われないことで、密室で決めた少数の人間は自己の利益を最大限に優先し、決定することができ、失敗しても全く責任は問われません。
責任を問われることのないことを決めるのに、多くの人と時間を費やすのはムダ以外の何物でもありません。
民主主義では、決められた最低限の賛成を得て、行動し、成功し、評価し、反対した人々を追放しなければ、人と時間のムダをなくすことはできません。
リンカーン米国大統領は、アメリカ合衆国憲法修正第13条を下院議会で決められた最低限の賛成を得て、可決し、署名し、批准し、反対した議員は落選しました。

満点をとったことは自慢にならないよ。本当に大切なのは知識を丸暗記したり、教えられたとおりのことを答案に書くことではなくて、先を見る洞察力だ。

知識は、インターネットで検索すれば、一瞬でわかる時代です。
先を見る洞察力がある人は、先を見る洞察力がない人を率いることで、リーダーになることができます。
先を見る洞察力がある人は、先を見る洞察力がない人の下につき、支えることなどしません。
先を見る洞察力がない人がリーダーになり、先を見る洞察力がある人に期待するなど、本末転倒しています。

子供のころからたくさん本を読んで自分でものを考えろと言われて育った。両親は、本や政治や、その他いろいろなことについて、子供たちを交えて話し合った。

エイブラハム・リンカーンウィンストン・チャーチルもたくさん本を読んで自分でものを考えた人です。
たくさん本を読んで知識や経験をインプットするだけでなく、本を読んで得た知識や経験をアウトプットすることで、本を読んで得た知識や経験を使えるようになります。
本を読んで得た知識や経験をブログに書くものアウトプットの手段の一つですし、本を読んでブログの記事にすることにしました。

技術は単に道具に過ぎない。子供たちをともに勉強させ、動機付けを行なうには、先生こそが最も重要なのだ。

WordPressはブログを書く道具にすぎません。
ブログの記事を書くには、動機付けが必要です。
ブログの書く動機は、どんな人間になりたいのか、なれるのかを表したいです。

子供に「勉強しろ」という親や先生は、たくさんいます。
子供に「なぜ勉強するのか」を説明できる親や先生は、ほとんどいません。
教科書を読んで、理解することができるだけで良いのですが、何故か学校では読解力を教えません。
読解力を身に着けるには、読んだだけではダメで、要約する必要があります。
新聞の社説を読み、要約することで、読解力を無に着けることができます。

退職するまでの間、読解力以外で仕事で役に立った学校での勉強は英語くらいです。
他の学科については、仕事で役に立つことは無く、会話する話のネタ程度にしかなりません。

問題は未来だ。だから私は、過去を振り返らない。

過去を振り返っても、反省することはできても、変えることはできません。
変えられるのは、未来だけです。
退職後に、退職前の役職にしがみついても意味はありません。
退職後に何をするかで、退職後の生活が決まるからです。

なぜファーストクラスに乗らないかって、だってエコノミーでも到着する時間は同じだろ。

ファーストクラスに搭乗し、人脈や知見を広げたりすることができない人々が、ファーストクラスに搭乗する資格はありません。
お金持ちになるには、払う料金と得られるサービスに関して、適切に判断しなければならないということです。

ビジネスは非常に簡単だと思う。売上からコストを引けば、大きな黒字が出る。計算は極めて簡単だ。

どのようにして、売上を得るのかについて、考えるだけでも難しい。
どのようにコストを引き下げるのかについて、考えるだけでも難しい。
計算は簡単でも、ビジネスは難しいです。
ブログのアクセス数を伸ばす方法は、わかりません。
ブログの記事を書くために、どのようにコストを引き下げる方法は、わかりません。

スピードこそが企業にとって最も重要になる。

忖度し、根回し、既得権益に守られている人々には、理解できないでしょう。
ビル・ゲイツは、一瞬の決断により、マイクロソフトを巨大企業にしました。

私は物事をとことん突き詰めるのが好きなんだ。そうすれば、たいてい良い結果が出るから。

小学校から大学まで、先生の言うことを聞くことだけを求められて育った日本人が、物事をとことん突き詰めて考えることはなく、「赤信号みんなで渡れば、怖くない」という結果になっています。
ブログの記事を書くことによって、物事をとことん突き詰めて、良い結果を出してみたいです。

同じ決断を二度するな。最初の決断に充分時間をかけて確固たる決断を下せば、同じ問題を二度考えずにすむ。

決断する前に、十分時間をかけて確固たる決断を下せるのは、優秀な人だけです。
平凡な人が、十分な時間をかけて確固たる決断を下しても、結果は運しだいです。
十分な時間をかけて決断し、記録に残し、後から見直すことで、同じ間違いを減らすことにします。

成功を祝うのはいいが、もっと大切なのは失敗から学ぶことだ。

成功を祝い、努力したことに報いるのは、努力し続けるために必要なことです。
自分でも他の人の失敗から学び、成功することは、次も成功しようとする力を生み出します。
過去の偉人たちから学ぶというのは、良いことです。
過去の偉人の映画を鑑賞し、レビューします。

成功の秘訣?それは大きなビジョンが持てるかどうかだよ。

ビル・ゲイツは、何もないのに、大きなビジョンだけでIBM社から、OSのライセンス契約を勝ち取り、成功しました。
ビル・ゲイツは、IBM社から、OSのライセンス契約を勝ち取った後から、OSを買い取り、改善し、成功しました。
退職後に、大きなビジョンを求めて、ブログの記事を書くことにしました。

成功の鍵は、的を見失わないことだ。自分が最も力を発揮できる範囲を見極め、そこに時間とエネルギーを集中することである。

ビル・ゲイツは、自分が最も力を発揮できるソフトウェア、IBM社やWindowsという的を見出し、時間とエネルギーを集中させて成功しました。
退職後に、何かを行い、ブログに書くことで的を見つけ、自分の最も力を発揮できる範囲を見極めて、時間とエネルギーを集中したいです。

人生は公平ではない。そのことに慣れよう。

ビル・ゲイツは、裕福な家庭に生まれ、IQ160という才能を持って生まれました。
誰でもが、裕福な家庭に生まれ、IQ160という才能を持って生まれているわけではありません。
多くの人は、貧困な家庭に生まれ、または凡人程度のIQしかありません。
自分は、貧困な家庭、または凡人程度のIQの人の一度限りの人生に挑戦します。

自分のことを、この世の誰とも比べてはいけない。それは自分自身を侮辱する行為だ。

人生は公平ではないなら、自分を他の人と比べることに意味はありません。
他に褒めてくれる人がいなくても、自分自身を褒めるべきです。

人生には学期は無い。夏休みもないし、「自分探し」を手伝ってくれるような雇用主もほぼ皆無だ。

退職後は、学期も、夏休みもないし、「自分探し」を手伝ってくれるような人もいません。
自分でブログの記事を書きながら、「自分探し」を行い、何かを成し遂げたいです。

リスクを引き受ける気があるなら、悪いニュースに多少目をつぶることは必要だ。
不安はあっても、「上手くいく保証はないが、ベストを尽くしてみようじゃないか」というぐらいの勇気がなくてはならない。

退職後は、リスクはあり、悪いニュースに多少目をつぶることは必要です。
退職後に不安はあっても、「上手くいく保証はないが、ベストを尽くしてみようじゃないか」というぐらいの勇気がなくてはなりません。

私たちはいつも、今後2年で起こる変化を過大評価し、今後10年で起こる変化を過小評価してしまう。

今後2年で起こる変化は予想し評価できても、今後10年で起こる変化は予想できず評価もできないからです。
退職後、2年間に起こる変化は想像できます。
退職後、10年間に起こる変化は想像できません。
退職後の変化は、1日ずつしかこないので、明日一日に起きることを評価し、生きていきます。

人類史上の進歩のほとんどは、不可能を受け入れなかった人々によって達成された。

ビル・ゲイツは、可能かどうかわからないAltair8800を動作させるBASICソフトウェアの作成や、IBM PCを動作させるBASICソフトウェアの作成をできると受け入れることで達成しました。
できることの中から、やるやることを決めたのなら、人は成長しませんし、自分のしたいこともできません。
自分のしたいことをできる、やると決断し、実現するための方法を考えるしか、自分のしたいことできるようにはなりません。

一心不乱に働くこと、ベストを尽くすことが嫌だというなら、ここは君のいるべき職場ではない。

一心不乱にブログの記事を書き、ベストを尽くしてみます。

私は教える人間ではない。学ぶ人間だ。
学ぶことが大好きな人たちと一緒に仕事ができることを大いに気に入っている。

自分は学んだことを、ブログの記事として、教える人間になりたいです。

私は起業家という言葉をいつも拒否してきました。
「会社を始めよう、何の会社にしようか」では決して成功はないと思います。

自分もブロガーという言葉を拒否したいです。
「ブログを始めよう。何のブログにしようか」では決して成功はしないと思います。
「新しいことを始めて、それをブログにしよう」というスタンスでブログの記事を書きます。

しばしば、直観が頼みの綱になる。

ビル・ゲイツは、直感で、Altair8800を動作させるBASICソフトウェアの作成やIBM PCを動作させるBASICソフトウェアの作成を提案し、提案を通した後で、作成しました。
成功は、理屈ではない。

若い人を優先的に雇っている理由は、若い人の方が向上心があるし、新しいアイデアがどんどん出てくるからだ。

退職者は若くはないですが、向上心を持って、新しいことに挑戦し、新しいアイディアを実践してみたいです。

人間にはものを考える時間が必要だ。

退職者には、時間がないですから、とりあえず挑戦してから、考えるというスタンスで新しいことに挑戦したいです。

まとめ

ビル・ゲイツは、勝負する天才です。
ビル・ゲイツのように勝負する人には、出会ったことはありません。
日本では、組織の一部になるようにしか、教育を受けられず、組織の歯車のような人ばかりです。
日本では、組織に逆らえば、左遷され、退職を強要されるだけだからです。
日本にビル・ゲイツのような人がいても、組織の中で埋没し、いなくなるだけです。
自分は、人ができないということを、自ら進んでやってきました。
自分は、ビル・ゲイツと共に仕事ができたらと想像するだけで、興奮しました。

次回は、映画「ソーシャル・ネットワーク」のレビューを書く予定です。
ご期待ください。
以上、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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