テアトル新宿で映画「開戦前夜」を鑑賞しました!

テアトル新宿で映画「開戦前夜」を鑑賞しました!

テアトル新宿

横断歩道で信号に待たされることもなく、地下街を歩くので、雨の日も便利です。
ジャングルゲートから新宿サブナードへ入ります。

14番出口から出ます。

14番出口から出たら、真っすぐ歩くとテアトル新宿です。

花園神社の靖国通りを挟んで向かい側です。

テアトル新宿は、地下1階にあります。

開場は、上映開始の20分前です。

映画「開戦前夜」

予告動画です。

館内等の展示です。

パンフレットです。

チケットです。

感想とあらすじです。

敗戦前夜です。

第二次世界大戦の敗戦を理由を空気に押し付け、責任者たちは責任を回避して、敗戦の責任を国民に押し付けています。
第二次世界大戦に敗戦した責任を押し付けられた国民は、第二次世界大戦の敗戦を理由を答えられないということです。
失われた30年の理由を空気に押し付け、責任者たちは責任を回避して、失われた30年の理由を氷河期世代の若者たちに押し付けたのと同じです。
失われた30年の責任を押し付けられた氷河期世代の若者たちは、失われた30年の理由を答えられないということです。

第二次世界大戦で戦艦に代わり、航空母艦が重要になりましたが、航空母艦については指摘されていません。
原爆を落とさることが分かっていたとしても、開戦を避ける人はいるのでしょうか?
地力の差が何十倍も小さいウクライナは、ロシアと戦っています。

よくできたプロパガンダ映画ですが、鑑賞する人次第です。
東条英機首相でさえ、迷っていて、開戦に対する責任が無いように演出されています。
ドイツは、ナチスに責任があり、ナチスが悪いとしているのとは対照的です。
日本は、戦争ではないにしても、同じことを繰り返すと感じました。

歴史をよく知らない人は、パンフレットはよくできているので、お勧めします。

1978年10月17日、福田赳夫日本首相は、A級戦犯となった東条英機首相、広田弘毅首相、平沼騏一郎首相、小磯国昭首相、東郷茂徳外相、松岡洋右外相、土肥原賢二在満特務機関長、梅津美治郎関東軍司令官、板垣征四郎支那派遣軍参謀長、木村兵太郎ビルマ派遣軍司令官、松井石根中支派遣軍司令官、武藤章陸軍軍務局長、白鳥敏夫駐伊大使、永野修身連合艦隊長官は、靖国神社に合祀しました。
2025年10月21日、靖国神社に参拝していましたし、靖国神社に参拝すると公言している人である高市早苗は、日本首相になりました。
2026年2月8日、83%もの日本国民は、高市早苗日本首相を支持をして、衆議院選挙で316を得ました。
高市早苗日本首相は噓つきだと後から気が付いて、意見を変えても遅いということです。

日本の人口は、2008年の約1億2808万人をピークとして、2026年の約1億2285万7千人で、18年間で523万人減少しています。
日本の人口は、第二次世界大戦で敗戦したために、1945年から15年間で310万人減少しています。
過去18年間の1年の平均は29万人ですが、2025年に比べて57万人も減っていて、人口減少は加速しています。
広島で原爆による死者数は14万人、長崎で原爆による死者数は7万人で、合計21万人と推計されています。
過去18年間毎年、原爆による死者数より多くの人口が減っています。
過去18年間毎年、原爆が落とされているようなものです。
今は、第二次世界大戦で敗戦したときよりも多い人口が減少しています。

日本の2025年の出生率は過去最低の1.14です。
第二次世界大戦後の1947年の日本の出生率は4.54です。
出生率は、第二次世界大戦後より悪い状況で、世界第13位です。
日本の高齢化率は、30%です。
第二次世界大戦後の1950年の日本の高齢化率は、5%です。
高齢化率は、第二次世界大戦後よりも悪い状況で、世界第2位です。
第二次世界大戦の敗戦後の日本には、未来がありました。
今の日本には、未来はありません。

日本の国債残高は、国と地方を合わせて、約1300兆円もあり、GDP600兆円の2倍を超えています。
第二次世界大戦後の日本の国債残高は、GDP比の2倍です。
日本の国債残高は、第二次世界大戦で敗戦した後と同じだということです。
嘘つき高市早苗日本首相は、国債を更に多く発行して、第二次世界大戦後よりも悪い状態にするでしょう。

嘘つき高市早苗日本首相は、責任ある積極財政という路線を掲げています。
日本人も世界の人々は、責任ある積極財政が成功するとは思っていない結果、円安と債券安と株安になっています。
誰も嘘つき高市首相の責任ある積極財政を止めることはできません。
日本人は、誰でも嘘つき高市早苗日本首相はダメだと分かっていても、止められません。
インターネットがある今の日本では、国家機密などではなく、誰でも知りえる状況で、日本のエリートたちだけが知りえた国家機密だと言う言い訳は通用しませんし、外国に責任を転嫁することも出来ません。
嘘つき高市早苗日本首相は、いかなる責任も取りません。
嘘つき高市早苗日本首相を支持した83%の日本人たちが、責任を取るしかありません。
嘘つき高市早苗日本首相を不支持に考えを変えても意味がないと言うのが政治です。

麻生太郎副総裁は、皇室典範を改正して、天皇家の乗っ取りを工作しています。
これを危機だと思うなら、脳死状態の日本猿です。
これをチャンスだと思うなら、人間と呼べるでしょう。
野党は、打倒麻生天皇をスローガンにして、皇室典範を元に戻すことは法律案を作る必要もなく、野党がそれぞれに皇室典範を元に戻すと掲げるだけで、参院選挙でも、衆議院選挙でも勝てます。
この方法は、麻生天皇が誕生するまでは行えます。
麻生天皇が誕生してしまえば、天皇制度を破棄するしか方法は無くなります。

日本は平和でありますが、日本を取り巻く状況は、第二次世界大戦の敗戦後より悪い状況です。
日本人は、第二次世界大戦の敗戦後より悪い状況だと誰も理解していません。
日本人は、第二次世界大戦から何も学んでいません。

もう今更誰が何をどうやっても日本の将来を変えることはできません。
日本は、必ず負けますよ。
日本は、敗戦前夜なのです。

歴史に「もし」はありませんが、自分なら第二次世界大戦を以下のように戦い勝利していたでしょう。
1941年12月24日、クリスマス休暇で米国ハワイのオアフ島の真珠湾に航空母艦ホーネットと航空母艦エンタープライズがいる時を狙い、航空母艦を確実に破壊しました。
米国の航空母艦を破壊していれば、1942年4月18日、航空母艦ホーネットと航空母艦エンタープライズからB-25双発爆撃機ミッチェル16機が発進して、日本本土(東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等)を爆撃することはできませんでした。
米国の航空母艦を破壊していれば、米国海軍が1942年5月4~8日珊瑚海で航空機で日本の空母部隊を空襲できませんでした。
米国の航空母艦を破壊していれば、1942年6月5日から7日、日本海軍と米軍がミッドウェー海で交戦することもないので、敗北することもなかったです。
日本が、中国に抗日戦を断念させ、連合国の戦線から脱落させ、単独の講和条約にするという戦略なら、日本は勝っていたでしょう。

年表です。
1902年1月30日、日英同盟が発行します。

1904年2月6日、日本は、ロシアに対して戦争を開始します。
1905年5月27~28日、日本は、ロシアのバルチック艦隊を対馬沖で全滅させます。
1905年9月5日、日本は、米国の斡旋により、ロシアと日ロ講和条約を調印して、ロシアに勝利します。

1912年4月14日、タイタニックは、氷山に衝突します。
1912年4月15日、タイタニックは、沈没します。
映画「タイタニック」

1914年6月28日、セルビア人のガヴリロ・プリンツィプが、サラエヴォ(当時オーストリア領、現・ボスニア・ヘルツェゴビナの首都)を訪問中のオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者であるオーストリア大公フランツ・フェルディナントと妻のゾフィー・ホテクを銃殺します。
1914年7月23日、オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア王国に対して最後通牒を通告します。
1914年7月25日、オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア王国の回答を不満として、セルビア王国に対して国交断絶します。
1914年7月28日、オーストリア=ハンガリー帝国政府は、セルビア王国に対して宣戦布告して、第一次世界大戦が始まります。

1914年7月30日、ロシアは、バルカン半島への勢力拡大とセルビア王国を助けるために総動員を命じます。
ドイツは、オーストリア=ハンガリー帝国政府を助けるためにロシアに最後通牒を突き付けて動員を解除するよう要求します。
ロシア、同盟関係にあるフランスにドイツに対して宣戦布告するように要請します。
1914年7月31日、フランスは、ロシアからの要請を受け入れて、総動員を命じます。
イギリスは、フランスとドイツに書簡を送り、ベルギーの中立性を尊重するよに要請します。
フランスは、イギリスにベルギーの中立性を尊重すると約束します。
ドイツは、イギリスに返答しません。

1914年8月1日、ドイツは、ロシアとフランスに宣戦布告するために、総動員を命じます。
1914年8月2日、ドイツは、ルクセンブルクを占領します。
1914年8月3日、ドイツは、ロシアとフランスに宣戦布告します。
1914年8月4日、ドイツはベルギーを侵攻し、ベルギーはロンドン条約に基づく支援をイギリスに要請し、イギリスはドイツにベルギーからの撤退を要求する最後通牒を送りますが、ドイツはベルギーから撤退せず、イギリスはドイツに宣戦布告します。

1914年8月17日、ドイツは、タンネンベルクでロシアと戦い始めます。

1914年8月23日、日本は、イギリスとの同盟に基づきドイツに宣戦布告します。

1914年9月2日、ドイツは、ポーランドにあるタンネンベルクでロシアに勝利します。

1914年9月6日~12日、フランスとイギリスは、ベルギーを通って進行してくるドイツをマルヌ河畔で食い止め、戦線は膠着します。

1914年9月9日~9月14日、ドイツは、ポーランドにあるマズーリ湖周辺でロシアに勝利します。

1914年10月29日、トルコ軍は、クリミア半島を砲撃してロシアとの国交を断絶し、第一次世界大戦に参戦します。

1914年11月11日、トルコは、ドイツとの同盟に基づきロシア、イギリス、フランスに宣戦布告します。

1915年2月19日~1916年1月9日、イギリスは海軍大臣ウィンストン・チャーチルが、ダーダネルス海峡西側のガリポリ半島を占領し、トルコの首都イスタンブールに進撃する計画を立案し、実行し、トルコに敗戦します。

1915年10月24日、イギリスは、アラブ人に対トルコ戦協力を条件にパレスチナ独立支持を約束した「フサイン=マクマホン協定」を結びました。

1916年5月16日、イギリス、フランス、ロシアの間で結ばれたオスマン帝国領の分割を約した秘密協定、「サイクス・ピコ協定」を結びました。
この協定では、アラブ人のパレスチナ独立支持を認めない内容でした。

1917年4月6日、米国大統領ウッドロウ・ウィルソンから要請を受け、連邦議会は特別合同会議を開催し、ドイツに宣戦布告します。

1917年5月29日、ジョン・F・ケネディは、アメリカのマサチューセッツ州ブルックラインで生まれた政治家です。

1917年7月6日、ロレンスが率いるアラブ軍はアカバを奇襲し、陥落します。
ローレンスは、スエズまで150マイルを走り、アカバの2,500人のアラブ人と700人のオスマン帝国の捕虜にイギリス海軍が食料と物資を届ける手配をします。
映画「アラビアのロレンス 完全版」

1917年11月2日、「バルフォア宣言」として、イギリス政府の公式方針として、パレスチナにおけるユダヤ人の居住地の建設に賛意を示し、その支援を約束しました。

1918年10月4日、ロレンスは、辞任を申し出て、イギリスへ向かいます。

1918年10月25日、アラブ軍は、トルコ軍に勝利します。

1918年11月4日、オーストリア=ハンガリーと連合国は、休戦協定を締結し、発効します。

1918年11月11日、ドイツと連合国は、休戦協定を締結し、発効します。

1919年1月5日、ミュンヘンの「フュルステンフェルダー・ホーフ」というビアホールでドレクスラーが労働者24人と共にミュンヘンで「ドイツ労働者党」を結成しました。

1919年6月28日、連合国とドイツが、ヴェルサイユで講和条約を締結し、第一次世界大戦は終わりました。
ドイツは、ドイツの領土は縮小され、植民地を放棄し、軍備・兵器は制限され、賠償総額が1320億金マルクとされました。

1919年10月19日、アドルフ・ヒトラーは、「ドイツ労働者党」に入党しました。

1920年1月5日、アントン・ドレクスラーは、政党名を「ドイツ労働者党」から「国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)」に変更しました。
アドルフ・ヒトラーは、ナチスの第一宣伝部長に就任しました。

1920年4月25日、サン=レモ会議で、イギリス、フランス、イタリア、日本等の国々は、フサイン=マクマホン協定を無視して、トルコ帝国から中東アラブ地域をサイクス・ピコ協定に基づきイギリスとフランスで分割して委任統治し、聖地を含むパレスチナをバルフォア宣言に基づき共同統治としてイスラエル建国の元になり、クルド人が住んでいる地域をトルコ共和国、シリア、イラク、アルメニアなどに分割します。

1921年、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは、「論理哲学論考」を出版します。
1921年7月29日、アドルフ・ヒトラーは、ナチスの議長に選出されます。

1922年4月3日、スターリンは、ソ連の初代中央委員会書記長に就任します。

1923年1月11日、フランスとベルギーは、賠償金を支払わないドイツの石炭の73%、鉄鋼の83%を生産するルール地方の占領を開始しました。
ドイツは、ルール地方でストライキを行い、ドイツ経済は破綻し、ハイパーインフレーションに陥りました。

1923年2月28日、日本は、帝国国防方針を仮想敵国としてソ連・米国・中国にすると改訂しました。
1923年7月6日、レーニンは、ソ連を建国し、初代人民委員会議議長に就任します。

1923年8月17日、日英同盟が失効します。

1923年11月8日、ミュンヘンのビュルガーブロイケラーというビアホールで行われていたバイエルン州総督グスタフ・フォン・カールの演説会に、アドルフ・ヒトラーらが乱入し、クーデター未遂事件を起こしましたが、1日で鎮圧されました。
1923年11月9日、バイエルン州は、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。
1923年11月23日、ドイツは、ナチスに対して、活動禁止命令を下しました。

1924年4月1日、アドルフ・ヒトラーは、ランツベルク・アム・レヒの要塞刑務所の7号室で5年の城塞禁固刑となりました。
アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の執筆を開始しました。
1924年5月4日、ドイツの総選挙において、ナチスの偽装政党である「国家社会主義自由運動」が32議席を獲得しました。

1924年9月26日、米国は、フランスにルール占領の解消、賠償金額の免除と段階的引き上げにするドーズ案を受け入れさせました。
1924年10月、フランスとベルギーは、ドイツのルール地方から撤退を開始しました。

1924年12月20日、アドルフ・ヒトラーは、保護観察処分に減刑され、仮出獄されました。

1925年2月16日、バイエルン州首相ハインリヒ・ヘルトは、ナチス再結成を許可しました。
1925年2月27日、ナチスはビュルガーブロイケラーでナチス再結党大会という集会を開催し、アドルフ・ヒトラーは演説をしました。
1925年7月18日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第1巻を出版しました。
1926年12月11日、アドルフ・ヒトラーは、「我が闘争」の第2巻を出版しました。
1928年5月20日、ナチスは、初めての国政選挙で、12議席を獲得しました。

1929年10月24日、ニューヨーク証券取引所の株が大暴落することから始まり、日本を含む世界中の株が大暴落した世界大恐慌が発生しました。
日本では、昭和恐慌と呼ばれています。

1930年3月12日、ガンジーは、「塩の行進」をアーメダバードから始めました。
1930年4月6日、ガンジーは、「塩の行進」をダーンディーに到着し、世界中のメディアが伝えました。
映画「ガンジー」

1930年9月14日、ナチスは、国政選挙で、107議席を獲得し、第二党になりました。

1931年9月18日、日本軍は、満洲事変を起こして満洲全土を占領しました。
1932年3月1日、日本は、満州国の独立を宣言しました。

1932年3月13日、ドイツの大統領選挙で、アドルフ・ヒトラーは、30%の票を獲得しますが、大統領には選出されませんでした。

1932年5月15日、海軍青年将校が、陸軍士官学校生徒や愛郷塾生らと協力して、内閣総理大臣官邸・立憲政友会本部・日本銀行・警視庁などを襲撃し、第29代内閣総理大臣の犬養毅を暗殺しました。

1932年7月31日、ナチスは、国政選挙で、203議席を獲得し、第一党になりました。

1932年、水野広徳は、満州国の建設が中国あげての対日抵抗を招き日米戦争に発展するというシナリオで、中国戦線での泥沼化、米機動部隊による都市空襲、残存海軍兵力をあげての米艦隊主力との決戦などの展開を洞察して書いた仮想戦記「興亡の此一戦」を書きましたが、発行後すぐに発売禁止となりました。

1932年9月15日、日本は、満州国の独立を承認しました。
1932年10月1日、国際連盟理事会に満州国の独立を認めないリットン報告書が提出されました。

1932年11月6日、ナチスは、国政選挙で、196議席を獲得し、第一党を維持しました。
1933年1月30日、アドルフ・ヒトラーが首相に任命され、アドルフ・ヒトラー内閣が成立します。

1933年2月24日、国際連盟理事会は、リットン報告書に対する同意確認の結果、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(タイ)、投票不参加1国(チリ)となり、満州国は認められませんでした。

1933年2月27日、ドイツの国会議事堂が放火され、炎上しました。
1933年2月28日、ドイツは、国家防衛緊急令を公布しました。
1933年3月1日、ドイツは、反逆防止緊急令を公布しました。
ドイツの言論の自由や所有権は著しく制限されました。
ドイツ政府は、連邦各州の全権を掌握し、反ナチスとみなす人、左翼思想家を強制収容所へ送り込む法的根拠となりました。

1933年3月8日、日本は、国際連盟を脱退しました。

1933年3月24日、ドイツは、全権委任法が成立しました。
アドルフ・ヒトラーは、議会を通すことなく、法律を作ることができることになり、ドイツの議会政治は終わり、独裁政治が始まりました。
ドイツでは、ユダヤ系ドイツ人に激しい迫害が加えられましたが、国交を結んでいるユダヤ系ポーランド人は比較的迫害から免れていました。
1933年10月14日、ドイツは、国際連盟を脱退しました。
1934年11月12日、ドイツの国際連盟脱退の是非を直接国民に問うために国民投票を実施し、95.1%という圧倒的多数の賛成により、ドイツの国際連盟脱退が支持されました。
1935年3月16日、ドイツは、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、再軍備を宣言しました。

1935年3月27日、日本は、国際連盟の脱退が正式に発効されました。

1935年8月31日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトは、「中立法」を制定しました。
「中立法」は、戦争状態にある国が存在していること、または内乱状態にある国が存在していることを宣言した場合には、その国に対して武器や軍需物質の輸出を禁止します。

1936年6月3日、日本は、帝国国防方針を仮想敵国としてソ連・米国・中国。英国にすると改訂しました。

1937年5月28日、ネヴィル・チェンバレンがイギリス首相に就任しました。

1937年7月7日、志那事変と呼ばれる、盧溝橋事件を発端とする日本と中国との武力衝突が起きます。

1937年、ドイツは、反社会分子とみなす人、暴力団、売春婦、乞食、浮浪者、住所不特定の者、労働忌避者、同性愛者、アルコール中毒者、訴訟を大量に起こしている者、交通規則違反者、絶えず職場に遅刻する者、無断で休暇を取る者、自分の職務以外の仕事を勝手に引き受けている者を強制収容所へ送り込むようになりました。

1938年3月13日、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、オーストリアへ進駐し、歓迎を受けて、統合しました。
オーストリアは、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」を決議し、発布しました。
ドイツは、「ドイツ帝国とオーストリアの再統一に関する法律」が公布されました。

1938年4月、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統は、対チェコスロバキアへ進駐しました。

1938年9月29~30日、イタリアのベニート・ムッソリーニ首相が仲介し、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのダラディエ首相、ドイツのアドルフ・ヒトラー総統がドイツのミュンヘンで会談を行い、ドイツとの戦争を回避するために、ドイツの主張を受け入れ、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツへ譲渡することを認めるという融和政策で問題を解決しました。

1938年10月6日、ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効にすることを決定しました。
1938年10月28日、ドイツは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の旅券と国籍を無効が無効になる前に、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人をポーランドに移送しました。
ポーランドは、ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人の入国を拒否しました。
ドイツ在住のポーランド系ユダヤ人は、国境地帯で放浪し、窮乏し、餓死しました。

1938年11月7日、ドイツによって追放されたポーランド系ユダヤ人のヘルシェル・グリュンシュパン(17歳)は、ドイツ警察から非道の仕打ちを受けていることを世界に訴えるために、リボルバーを手にパリのドイツ大使館へ赴き、応対していた三等書記官エルンスト・フォム・ラートに二発の銃弾を撃ち込んで、殺害しました。
1938年11月9日、ドイツのSA(突撃隊)がユダヤ人の商店や企業を破壊しました。
1939年3月、ドイツは、ミュンヘン会談の合意に従わずに、チェコスロバキアを支配下にしました。

1939年5月~9月、日本とソ連は、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐっての間で断続的に日ソ国境紛争が発生しました。

1939年7月16日、レオ・ジラードとユージン・ウイグナーは、アルベルト・アインシュタインと会い、核分裂反応による原子爆弾を製造できる可能性を伝えました。
アルベルト・アインシュタインは、核分裂反応による原子爆弾を製造できる可能性を知って、驚き、フランクリン・ルーズベルト米国大統領宛ての手紙をドイツ語で口述で、ナチス・ドイツよりも米国が先に原子爆弾を製造するように手紙を筆記させました。
ユージン・ウイグナーは、この手紙を英語に翻訳し、何度も書き変えられ、フランクリン・ルーズベルト米国大統領宛ての手紙の草案になりました。

1939年8月23日、ドイツとソ連は不可侵条約を締結するだけでなく、ドイツとソ連がポーランドへ進行することを認めていました。

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻しました。
ポーランドのダンツィヒ郊外にシュトゥットホーフ強制収容所が設置されました。

1939年9月3日、イギリスとフランスがドイツに宣戦布告しました。

1939年10月11日、アレキサンダー・ザクスは、「アインシュタインの大統領宛の手紙」をフランクリン・ルーズベルト米国大統領に届けました。
フランクリン・ルーズベルト米国大統領は、ウラン諮問委員会を発足させました。

1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻し、デンマークを占領しました。

1940年4月、ドイツが占領していたポーランドのアウシュヴィッツに巨大な強制収容所の建設を命じました。
ドイツは、ヨーロッパ中に強制収容所を建設しました。

1940年5月10日、ドイツ軍はフランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクに侵攻を開始しました。
イギリスのネヴィル・チェンバレン首相が辞職し、ウィンストン・チャーチルが首相に就任しました。

1940年5月15日、ドイツ軍はオランダを占領しました。
1940年5月20日、ドイツ軍は英仏海峡に到達し、イギリス軍とフランス軍を包囲しました。
1940年5月21日、イギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍の侵攻を遅らせるためにカレーから進軍し、ドイツ軍を反撃し、ダメージを与えました。
1940年5月22日、ドイツ軍は、カレーに向かって進軍しました。
1940年5月23日、イギリス軍とフランス軍は、カレーに後退しました。
1940年5月24日、ドイツ軍は、カレーを包囲し、降伏するよう説得しました。
イギリスとフランスからの抵抗せよという命令を受けたイギリス軍とフランス軍は、ドイツ軍に抗戦しました。
1940年5月25日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルにダイナモ・ルーム(発電機があるドーバー城地下の海軍指揮所の一室) にて概要を説明したことから「ダイナモ作戦」と名づけられました。
1940年5月26日、イギリスは、「ダイナモ作戦」を実施し、ダンケルクから33万の連合軍兵士を撤退を開始しました。
カレーのイギリス軍とフランス軍は降伏しました。
1940年5月28日、ドイツ軍はベルギーを占領しました。
1940年6月4日、イギリスは、「ダイナモ作戦」によって、ダンケルクから30万の連合軍兵士を撤退させるのに成功しました。
映画「ウィンストン・チャーチル ヒトラーから世界を救った男」映画「ダンケルク」
1940年6月7日、ノルウェー国王は家族とともに英国に亡命しました。
1940年6月8日、連合国派遣軍は、ノルウェーからの撤退しました。
1940年6月9日、ドイツは、ノルウェーを占領しました。
1940年6月10日、イタリアが、イギリスとフランスに宣戦しました。
1940年6月14日、ドイツ軍は、パリに進軍しました。
1940年6月16日、フランスは、ドイツに休戦を申し入れました。
1940年6月22日、ドイツとフランスは、休戦条約に調印しました。
ドイツ軍は、パリを含む北部フランスを占領し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を設立しました。
ドイツ軍は、フランス軍空軍基地をイギリス前進基地として使用可能になりました。
ドイツ軍は、ソ連への侵攻を開始しました。
日本は、イギリスにビルマおよび香港を経由する中国への物資輸送を閉鎖させました。

1940年7月1日、ドイツ軍は英国領チャンネル諸島を占領しました。
1940年7月10日、ドイツ空軍がイギリス空軍を発見し、攻撃しました。
1940年7月16日、ドイツは、イギリス上陸作戦の準備を始めました。
1940年7月22日、イギリスは、ドイツの和平案を拒否しました。
1940年8月1日、ドイツは、ドイツ空軍がイギリスの制空権を確保することを前提したイギリス上陸作戦を決定しました。
ドイツ空軍は、イギリス空軍の殲滅を第一に掲げられ、戦闘機の殲滅と飛行場や航空機産業も攻撃の対象にするよう指令を出しました。
1940年8月30日、ドイツは、爆撃目標をロンドンに変更しました。
1940年9月15日、ドイツ空軍は、大規模なロンドン空爆を行いましたが、大きな損害を出しました。
ドイツ空軍は、イギリスの制空権を取ることができませんでした。
ドイツ軍が初めて大敗を喫した戦いでした。
1940年9月17日、ドイツはイギリス上陸作戦を中止しました。

1940年9月27日、日本とドイツとイタリアは、日独伊三国同盟を締結しました。

1940年9月30日、近衛文麿内閣総理大臣は、総力戦研究所を内閣直属の機関として、勅令第648号(総力戦研究所官制)により開設しました。

1940年10月12日、日本は不況や既成政党への不信感が渦巻く中で、全体主義、一党独裁体制にするために大政翼賛会が発足しました。

1940年11月9日、イギリス前首相ネヴィル・チェンバレンは亡くなりました。

1941年3月11日、アメリカ合衆国は、レンドリース法成立させ、その国の防衛がアメリカ合衆国の防衛にとって重要であると大統領が考えるような国に対して、あらゆる軍需物資を、売却し、譲渡し、交換し、貸与し、賃貸し、あるいは処分することができるようになりました。

1941年4月1日、長飯村穣(陸軍中将)所長は、総力戦研究所で机上演習(総力戦演習)に基づき、「第一回総力戦机上演習実施計画」を立てます。

1941年4月13日、日本とソビエト連邦は、「日本国及ソヴイエト連邦間中立条約(日ソ中立条約)」を締結し、相互不可侵、一方が第三国に軍事攻撃された場合の他方の中立などを定めた全4条の条約本文、および、満州国とモンゴル人民共和国それぞれの領土の保全と相互不可侵を義務付けた声明書から構成され、有効期間は5年間で、有効期間満了1年前までに両国のいずれかが廃棄通告しなかった場合は5年間自動延長されるとしている。

1941年7月28日、 日本軍は、南部仏印(現在のベトナム南部)への進駐を始めました。

1941年8月1日、アメリカ合衆国は、日本への石油の全面禁輸を行いました。
日本には石油の備蓄が平時で2年分、戦時で1年半分しかなく、石油がなくなる前に東南アジアの産油地帯を攻略することになりました。
東南アジアの攻略と資源の輸送ルートを考慮すると、アメリカ合衆国の植民地だったフィリピンおよびグアムの攻略も不可欠であり、アメリカ合衆国への開戦することになりました。
日本への石油の全面禁輸と日本の東南アジアの攻略は、日本とアメリカ合衆国による太平洋戦争の原因になりました。

1941年8月27日、第一回総力戦机上演習総合研究会は、首相官邸で行われ、「日本は必ず負けます」という報告を行いました。

1941年8月、ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることにしました。
1941年10月、ドイツは、アウシュヴィッツ強制収容所兼絶滅収容所でユダヤ人をガスで殺害し始めました。

1941年10月9日、フランクリン・ルーズベルト米国大統領は、英国から原子爆弾の設計とコストについての詳細な報告書とウラン諮問委員会の報告書を読みました。

1941年10月16日、第三次近衛内閣が総辞職しました。
1941年10月18日、東条英機は内閣総理大臣、陸軍大臣、内務大臣を兼務して、東条英機内閣は、成立しました。

1941年11月27日、アメリカ合衆国から日本に提示された交渉文書であるハル・ノートをもとにした交渉が決裂しました。

1941年12月1日、第8回御前会議が開かれ、アメリカ・イギリス・オランダに対する開戦が決定されました。

1941年12月8日、日本軍は、アメリカ合衆国ハワイのオアフ島の真珠湾にある米軍の太平洋艦隊と基地に対して攻撃しました。
日本海軍は、航空機54機を失い、航空機74機が損傷しました。
アメリカ海軍は、戦艦アリゾナ、戦艦オクラホマ、標的艦ユタ、戦艦カリフォルニアが沈没し、戦艦ウエストバージニア、機雷敷設艦オグララ、戦艦ネバダ、駆逐艦ショー、駆逐艦ダウンズ、駆逐艦カッシン、工作艦ヴェスタルが大破し、戦艦テネシー、戦艦メリーランド、戦艦ペンシルベニア、軽巡洋艦ロウリー、駆逐艦母艦ドビン、水上機母艦カーチスを損傷し、航空機188機を失い、航空機159機が損傷しました。

日本軍は、英国領の香港を陥落しました。

1942年1月、フランクリン・ルーズベルト米国大統領は、原子爆弾計画を正式に承認しました。

1942年1月20日、ドイツの高官15人は、ヴァンゼー湖のほとり、ベルリンの高級住宅街にある大邸宅で会議を行い、「ヨーロッパのユダヤ人問題に対する最終的解決」を話し合い、ヨーロッパのすべてのユダヤ人を意図的に慎重に計画的に抹殺することを決定しました。
ドイツは、全ヨーロッパのユダヤ人を絶滅させることを正式に宣言しました。
ユダヤ人の絶滅を行ったのは、ベラルーシのマリィ・トロステネツ強制収容所、ポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所、ソビボル強制収容所、トレブリンカ強制収容所、ベウジェツ強制収容所、ヘウムノ強制収容所、マイダネク(ルブリン)強制収容所です。
数百万人のユダヤ人が殺害されました。

1942年1月25日、ヒトラーは、ユダヤ人をドイツ占領地のポーランド南部オシフィエンチム市にあるアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所への移送を命令しました。

1942年2月15日、日本軍は、英国領のシンガポールを陥落しました。

1942年4月18日、航空母艦ホーネットと航空母艦エンタープライズから発進したB-25双発爆撃機ミッチェル16機が、太平洋戦争で初めて日本本土(東京、横須賀、横浜、名古屋、神戸等)を爆撃しました。
日本本土爆撃を終えたB-25双発爆撃機ミッチェルのうち15機は中国大陸に不時着して放棄されました。
残りの1機は、ソビエト連邦支配地域に不時着して、搭乗員は抑留されました。

1942年5月4~8日、珊瑚海に進出する日本海軍の計画を知った米国海軍が、先に進出し、航空機で日本の空母部隊を空襲し、日本海軍が航空機で米国の空母部隊を捕捉し、空襲しました。
日本海軍は、空母祥鳳、駆逐艦菊月、掃海艇3隻が沈没し、空母翔鶴、駆逐艦夕月、敷設艦沖島が損傷し、航空機97機を失いました。
米国海軍は、空母レキシントン、油槽船ネオショー、駆逐艦シムスが沈没し、空母ヨークタウンが損傷し、航空機69機を失いました。

1942年5月27日、亡命チェコ軍人がラインハルト・ハイドリヒ暗殺を実行しました。
1942年6月4日、ラインハルト・ハイドリヒは死去しました。

1942年5月、連合国軍はビルマから総退却し、日本軍はビルマ全域を占領しました。
日本は、アメリカがビルマを経由して中国に物資輸送するルートを閉鎖しました。

1942年6月5日から7日、日本海軍とアメリカ海軍がミッドウェー海で交戦し、日本海軍はアメリカ海軍に敗北しました。
日本海軍は、航空母艦赤城、航空母艦加賀、航空母艦蒼龍、航空母艦飛龍、重巡洋艦三隈が沈没し、重巡洋艦最上、駆逐艦荒潮が損傷し、航空機289機を失いました。
アメリカ海軍は、航空母艦ヨークタウン、駆逐艦ハムマンが沈没し、航空機150機を失いました。

1942年11月26日、ノルウェー秘密国家警察・クヌート・ロッドは、警官とタクシー運転手らによって、ノルウェーに住むユダヤ人全員をオスロ港へと強制移送し、「ドナウ号」でアウシュヴィッツへ強制移送しました。

1943年1月14~23日、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトとイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、モロッコのカサブランカで会談し、ドイツ、イタリアと日本に対して無条件降伏を要求すること、ビルマにおける本格的に反攻することなどに合意しました。

1943年7月4日から8月27日、ドイツ軍とソ連軍がクルスクで交戦し、ドイツ軍はソ連軍に敗北しました。

1943年8月、ネルソン・マンデラは、アレクサンドラで、バス料金の値上げに抗議し、バス・ボイコットの大行進に参加します。
映画「マンデラ 自由への長い道」

1943年9月8日、イタリアは、連合国に降伏しました。

1943年11月22~26日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、中華民国国民政府主席蒋介石がエジプト王国のカイロで会談を行い、連合国が日本の無条件降伏まで戦うこと、満州・台湾・澎湖島等を中華民国に返還することを提示し、中華民国が日本と単独講和をしないようにしました。
ヨーロッパでの戦局を有利に導くためには、中国の戦争からの脱落を防ぎ、日本軍が中国を攻撃することで、日本軍が太平洋やインドで大規模な攻撃をできないようにしました。

1943年11月28日~12月1日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、イランのテヘランで会談を行い、ビルマ奪回作戦、ノルマンディー上陸作戦などの連合国側の作戦における各国間の調整を行い、ポーランド国境の確定、ドイツ降伏後のソ連の対日参戦も話し合いました。

1944年4月7日、アルフレートとヴァルターは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所の記録を持って、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所から逃走するために、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で、身を隠します。

1944年4月10日、アルフレートとヴァルターは、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所からの脱出に成功しました。

1944年4月27日、アルフレートとヴァルターは、「アウシュヴィッツ・レポート」を書き上げました。

1944年6月、「アウシュヴィッツ・レポート」は、公開されました。

1944年5月、イギリス陸軍内にユダヤ人旅団が編成されました。

1944年6月4日、ニューヨークタイムズが、ガス室について説明し、ユダヤ人が処刑されていると報じました。

1944年6月5日、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始し、橋を確保し、砲台陣地を破壊し、ドイツの反撃を阻止しました。

1944年6月6日、米国とイギリスは、100万人を超える兵士で、ノルマンディー上陸作戦を行い、1日で上陸を果たしました。

1944年6月26日、フランクリン・D・ルーズベルト米国大統領は、「アウシュヴィッツ・レポート」を元に、ユダヤ人の強制送還の停止を呼びかけました。

1944年7月23日、ソ連軍は、マイダネク(ルブリン)強制収容所を開放しました。

1944年8月25日、連合軍は、パリを含むフランスを開放し、フランスにヴィシーを首都とするドイツの傀儡政権であるヴィシー政権を打倒しました。

1945年1月27日、ソ連軍は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を開放しました。

1945年1月30日~2月3日、アメリカのエドワード・ステティニアス国務長官とイギリスのウィンストン・チャーチル首相が、マルタ共和国のマルタで会談し、ソ連軍が中央ヨーロッパまで前進することは望ましくないと言うことで合意し、ホロコーストによる数百万人の難民をどうするについて話し合い、ソ連とのヤルタ会談の事前会談になりました。

1945年2月4~11日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連クリミア自治ソビエト社会主義共和国のヤルタ近郊のリヴァディア宮殿で会談し、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの分割統治、ポーランド人民共和国の国境策定、エストニア・ラトビア・リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。
国際連合の投票方式について、イギリス・アメリカ・フランス・中華民国・ソ連の5カ国の拒否権を認めました。
アメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連対日参戦、および千島列島・樺太・朝鮮半島・台湾などの日本領土の処遇も決定し、北方領土問題の発端となりました。

1945年2月19日、アメリカ軍は、硫黄島への上陸作戦を始めました。
1945年3月13日、総力戦机上演習総合研究会は、廃止されました。
1945年3月17日、アメリカ軍は、硫黄島を制圧しました。

1945年4月11日、アメリカ軍は、ブーヘンヴァルト強制収容所を解放しました。
1945年4月12日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが亡くなり、ハリー・S・トルーマンがアメリカ合衆国大統領に就任します。
1945年4月15日、イギリス軍は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放しました。
アンネ・フランクは、ベルゲン・ベルゼン強制収容所で死亡していました。

1945年4月25日、アメリカ軍は、前田高地への攻撃を開始しました。

1945年4月29日、アメリカ軍は、ダッハウ強制収容所を解放しました。
1945年4月30日、アドルフ・ヒトラーは、総督官邸の地下壕で自殺しました。

1945年5月6日、アメリカ軍は、前田高地を制圧しました。

1945年5月2日、ソ連は、ベルリンを占領しました。

1945年5月7日、ドイツは、連合国に無条件降伏しました。
1945年5月9日、イギリス領チャンネル諸島を占領していたドイツ軍は降伏しました。

1945年5月27日、沖縄守備軍は、首里を放棄し、南部への撤退を開始しました。
1945年6月23日、牛島満司令官達が自決しました。
1945年7月2日、アメリカ軍は、沖縄戦終了を宣言しました。

1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州ソコロの南東48kmの地点にあるアラモゴード砂漠のホワイトサンズ射爆場において人類史上初の核実験「トリニティ」が実施されました。
(映画「オッペンハイマー」)

1945年7月17日~8月2日、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連占領地域となったポツダムで会談し、第二次世界大戦の戦後処理を決定しました。
ポツダム宣言には、「日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである」と記述されています。
原子爆弾の準備ができたから、日本に投下するということです。

1945年8月6日、アメリカ軍は、日本の広島市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月9日、アメリカ軍は、日本の長崎市に原子爆弾を投下しました。

1945年8月14日、日本は、ポツダム宣言を受諾しました。

1945年8月15日、日本は、昭和天皇による玉音放送をもって、ポツダム宣言受諾を全国民と全軍に表明し、連合国に降伏しました。

1945年9月2日、日本は、ポツダム宣言に調印・即時発効(降伏文書)によって第二次世界大戦は終結しました。

1945年9月7日、沖縄守備軍は、降伏しました。

1961年4月11日、アドルフ・アイヒマンは、「人道に対する罪」「ユダヤ人に対する犯罪」および「違法組織に所属していた犯罪」などの15の犯罪で起訴され、裁判が始まりました。
映画「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」映画「ハンナ・アーレント」

1961年12月15日、アドルフ・アイヒマンは、すべての訴因で有罪が認められた結果、死刑の判決が下されました。

1962年6月1日、アドルフ・アイヒマンは、ラムラ刑務所で絞首刑が執行されました。

以上。いや、もう一つあったかな?

俺に逆らったらどうなるのか知るのはこれからだ。

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