チェ・ゲバラ著「モーターサイクル・ダイアリーズ」(角川文庫、棚橋 加奈江訳)あらすじと感想

映画「ゴッドファーザー PARTⅡ」を鑑賞して、キューバ革命に興味を持ち、エルネスト・ゲバラに興味を持ち、映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」を鑑賞する前に原作であるチェ・ゲバラ著「モーターサイクル・ダイアリーズ」を読みました。

エルネスト・ゲバラが訪れた国とインカ帝国

アルゼンチン

アルゼンチン共和国、通称アルゼンチンは、南アメリカ南部にある国です。
西と南にチリ、北にボリビア・パラグアイ、北東にブラジル・ウルグアイと国境を接し、東と南は大西洋に面しています。
首都は、ブエノスアイレスです。
公用語は、スペイン語です。
人口は、4000万人です。
通貨は、アルゼンチン・ペソです。
産業は、農産品畜産品です。

15世紀の後半にアルゼンチンの東北部は、インカ帝国に征服され、支配下に入りました。
アルゼンチンの南西部は、狩猟採取の原住民が住んでいました。

16世紀に、スペイン人により、インカ帝国は滅ぼされ、アルゼンチンの植民地化が進められました。
19世紀に、独立戦争が発生し、スペインから独立しました。
独立後は、内戦状態が続きましたが、国家を統一し、民主化主義が定着し、政治も経済も安定しました。

チリ

チリ共和国、通称チリは、南アメリカ南部にある国です。
東にアルゼンチン、北東にボリビア、北にペルーとと国境を接し、西と南は太平洋に面しています。
首都は、サンティアゴ・デ・チレです。
公用語は、スペイン語です。
人口は、1700万人です。
通貨は、チリ・ペソです。
産業は、世界一の生産量を誇る銅鉱山です。

15世紀にチリの北部は、インカ帝国に征服され、支配下に入りました。
チリの南部は、狩猟採取の原住民が住んでいました。

16世紀に、スペイン人により、インカ帝国は滅ぼされ、チリの植民地化が進められました。
19世紀に、独立戦争が発生し、スペインから独立しました。
独立後は、中央集権の色の強い大統領制度になりました。
社会は安定せず、ソ連による共産主義化、米国による民主主義化が行われました。
共産主義は独裁国家を作り出し、民主主義は格差社会を作り出しました。

1970年、アジェンデ大統領を首班とする社会主義政権が誕生しました。
これは世界初の民主的選挙によって成立した社会主義政権であした。
アジェンデ大統領は、自主外交を掲げ、第三世界との外交関係の多様化、キューバ革命以来断絶していたキューバとの国交回復しました。

1973年、西半球に第二のキューバが生まれることを恐れていた米国はCIAを使って、軍事クーデターを起こし、アジェンデ大統領を首班とする社会主義政権を崩壊させました。

ペルー

ペルー共和国、通称ペルーは、南アメリカ西部にある国です。
北にコロンビア、北西にエクアドル、東にブラジル、南東にボリビア、南にチリと国境を接し、西は太平洋に面しています。
首都は、リマです。
公用語は、スペイン語、ケチャア語、アイアマ語です。
人口は、3000万人です。
通貨は、ヌエボ・ソルです。
産業は、銀・銅・鉛・亜鉛・金の鉱山、石油や天然ガスの資源、水産業です。

紀元前から多くの古代文明が栄えていて、16世紀までは当時の世界で最大級の帝国だったインカ帝国の中心国家です。
16世紀に、スペイン人により、インカ帝国は滅ぼされ、ペルーの植民地化が進められました。
19世紀に、独立戦争が発生し、スペインから独立しました。
独立後は、軍事政権の色の強い大統領制になりました。

コロンビア

コロンビア共和国、通称コロンビアは、南アメリカ北西部にある国です。
東にベネズエラ、南東にブラジル、南にペルー、南西にエクアドル、北西にパナマと国境を接し、北はカリブ海、西は太平洋に面しています。
首都は、ボゴタです。
公用語は、スペイン語です。
人口は、4500万人です。
通貨は、コロンビア・ペソです。
産業は、エメラルド・ニッケル・鉄・銅・鉛・金・白金・銀・マグネシウムの鉱山、石炭、石油、天然ガスの資源、コーヒーの栽培です。

紀元前から多くの首長制国家群が栄えていて、南米ではインカ帝国に次ぐ国家でした。
16世紀に、スペイン人により、首長制国家群は滅ぼされ、コロンビアの植民地化が進められました。
19世紀に、独立戦争が発生し、スペインから独立しました。
独立後は、中央集権の色の強い大統領制度になりました。
軍事クーデターが発生し、軍事政権の色の強い大統領制になりました。

ベネズエラ

ベネズエラ・ボリバル共和国 、通称ベネズエラは、南アメリカ北部にある国です。
東にガイアナ、西にコロンビア、南にブラジルと国境を接し、北はカリブ海、大西洋に面しています。
首都は、カラカスです。
公用語は、スペイン語です。
人口は、2800万人です。
通貨は、ベネズエラ・ボリバルでしたが、ボリバル・フエルテに変更しました。
産業は、ボーキサイト・鉄・ニッケル・金・ダイヤモンド・リンの鉱山、石油、天然ガスの資源、コーヒーとカカオの栽培です。

狩猟採取の原住民が住んでいました。
16世紀に、スペイン人により、ベネズエラの植民地化が進められました。
19世紀に、独立戦争が発生し、スペインから独立しました。
独立後は、内戦を経て、軍事政権になりました。

インカ帝国

インカ帝国とは、南アメリカのペルー、ボリビア(チチカカ湖周辺)、エクアドルを中心にケチュア族が、13世紀に建国した国家です。
インカ帝国は、15世紀に発展し、アルゼンチン北西部、コロンビア南部に広がり、南米大陸を1つにまとめた国家となりました。
インカ帝国は、多言語、多文化、多民族で、統一国家ではなく、地方自治をよる連邦国家です。
インカ帝国は、世襲によって選ばれた君主が政治を行うことを認め、君主を支持する政治体制です。
皇帝(サパ・インカ)は太陽神インティの化身としても考えられていました。
皇帝を支える官僚達は、同時に神官でもありました。
なんとなく、エジプト文明に似ている気がします。

土地・鉱山・家畜などすべての生産手段は、アイリュと呼ばれる共同体が所有し、私有は認められていません。
インカ皇帝は、人民に土地・鉱山・家畜などで労働を行わせ、労働によって得られた生産物を税として、納めさせました。
インカ皇帝は、人民に集められた生産物を再分配しました。
なんとなく、社会主義に似ている気がします。

首都は、クスコです。
公用語は、ケチュア語です。
文字はなく、口頭伝承によって情報は伝えられました。
キープという結び縄による数字表記がありました。
このキープを使用して、暦法や納税などを行いました。
人口は、1600万人です。
民族は、80もある多民族国家です。
通貨は無く、経済は物々交換によって行われていました。

インカ帝国には、優れた建築技術により、神殿、要塞、道路、吊り橋を作りました。
隙間なく、組み合わされた、石組みの壁は有名です。
急峻な山岳地帯に作れたたインカ道は、5200kmにも及びます。
金の精錬技術と加工技術を持ち、優れた金製品も作られました。

インカ帝国には、車輪、鉄の精錬技術と加工技術、銃器、火器もありませんでした。
インカ帝国には、優れた文明と文化はありましたが、武器が無かったということです。

舞台となる場所

アルゼンチンのサンタフェ州ロサリオで、エルネスト・ゲバラが生まれた場所です。

アルゼンチンのブエノスアイレスで、エルネスト・ゲバラが転居して、喘息の発作に襲われました。
エルネスト・ゲバラは、アルゼンチンのブエノスアイレス大学医学部に入学します。

アルゼンチンのコルドバで、喘息の発作を少なくためにエルネスト・ゲバラが転居して、中学に入学して、ラグビーで体を鍛え、アルベルト・グラナードと知り合います。

南アメリカ大陸です。

エルネスト・ゲバラの叔父がいるアルゼンチンのマル・デル・プラタの北のビジャ・へーセルです。

エルネスト・ゲバラの恋人のチチーナ・フェレイラがいて、子犬のカムバックを預けたアルゼンチンのミラマールです。

アルベルト・グラナードの旧友がいるアルゼンチンのネコチェアです。

アルベルト・グラナードの旧友がいるアルゼンチンのバイア・ブランカとメダノスです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがたどり着いて、エルネスト・ゲバラが病院で寝たアルゼンチンのチョエレ・チョエルです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがポデローサ2号のパイプフレームを修理したアルゼンチンのピエドラ・デル・アギーラです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがサン・マルティン・デ・ロス・アンデスへ向かい、途中でポデローサ2号の後輪のタイヤがパンクします。

サン・マルティン・デ・ロス・アンデスは、幅500m、長さ35kmのラカル湖に面していて、ラカル湖を超えるとチリの国境まですぐの場所になります。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがサン・マルティン・デ・ロス・アンデスからバリローチェへ向かいました。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがナウェル・ウアビ湖の北端にたどり着きます。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがサン・マルティン・デ・ロス・アンデスからポデローサ2号をモデスタ・ビクトリア号に乗せて、ブエスト・プレストへ向かいます。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードが温泉が湧いていて、水浴びしたエスメラルダ湖(トドス・ロス・サントス湖)です。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードが船旅を終えるペトロウエーです。

エルネスト・ゲバラは、オソルノまで農業用トラックを運転します。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがオソルノから北上してパルディピアに到着します。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがパルディピアから北上してテムーコ(テムコ)に滞在して、新聞に大きく報道されます。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがテムーコ(テムコ)から北上して、通りがかった小型トラックに壊れたポデローサ2号を乗せて、ラウタロに着いて、ポデローサ2号を修理します。

ポデローサ2号は、マジェーコの鉄橋に向かう坂で停止します。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードが壊れたポデローサ2号をトラックに載せて着いたロス・アンへレスで、消防士たちのお世話になります。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードが壊れたポデローサ2号をトラックに載せて着いたサンティアゴです。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードが、サンティアゴで壊れたポデローサ2号と別れて、トラックに乗って到着するパルパライソです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードが写真を撮ったサンタ・ルシーアの丘です。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがパルパライソからサン・アントニオ号で密航して、エルネスト・ゲバラがトイレ掃除をして、到着するアントファガスタです。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがアントファガスタからトラックでバケダノまで乗せてもらい、バケダノでチリ人の共産主義者で労働者夫婦と友達になり、別れて、バケダノからトラックに乗せてもらいかうチュキカマタ銅山に行きます。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがチュキカマタ銅山と近くにあるカラマという村です。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがイラべからトラックに乗せてもらい、到着したイキケです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがイキケからトラックに乗せてもらい、到着したアリカです。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがアリカからトラックに乗せてもらい、国境を越えて到着したペルーのタクナです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがタクナからトラックに乗せてもらい、途中で歩き出して、到着したタラタです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがタラタからトラックに乗せてもらい、到着するブーノとチチカカ湖です。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがブーノからトラックに乗せてもらい、途中下車するフリアカ、到着するシクアニです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがシクアニからトラックに乗せてもらい、到着するクスコです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがクスコから列車で、到着するマチュ・ピチュです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがクスコからトラックに乗せてもらい、到着するアバンカイです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがアバンカイから馬に乗って、途中から歩いて到着するハンセン病療養所があるウアンボです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがウアンボからトラックに乗せてもらい、エルネスト・ゲバラがアンダワイラス村で入院して、到着するアヤクーチョです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがアヤクーチョからトラックに乗せてもらい、ウアンカヨを経由して、到着するラ・メルセーです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがラ・メルセーからトラックに乗せてもらい、到着するオクサバンバです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがオクサバンバからトラックに乗せてもらい、到着するサン・ラモンです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがサン・ラモンからトラックに乗せてもらい、経由するラ・オロヤ、到着するリマです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがリマから歩いて行くカヤオです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがブカルバからトラックに乗せてもらい、経由するラ・オロヤ、到着するセロ・デ・パスコです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがセロ・デ・パスコからトラックに乗せてもらい、到着するウカヤリ川沿いにあるブカルバです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがブカルバから船に乗せてもらい、ウカヤリ川を下り、マラニョン川と合流して、到着するイキトスです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがイキトスからシスネ号に乗せてもらい、マラニョン川を下り、到着するアマゾン川沿いにあるサン・パブロです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがサン・パブロから筏のマンボ・タンゴ号でアマゾン川を下り、レティシアを通り過ぎ、家に泊めてもらい、連れられて到着するコロンビアのレティシアです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがコロンビアのレティシアから飛行機で到着するコロンビアのボゴダです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがコロンビアのボゴダから飛行機で到着するコロンビアのククタとコロンビアのククタから徒歩で橋で川を渡り到着するベネゼエラのサン・アントニオ・デ・タチラです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがベネゼエラのサン・アントニオ・デ・タチラからトラックで到着するベネゼエラのサン・クリストバルです。

エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがベネゼエラのサン・クリストバルからトラックで到着するベネゼエラのカラカスです。

アルベルト・グラナードは、ベネズエラのマイケティーアのカーボ・ブランコにあるハンセン病療養所で働きました。

登場人物

登場人物は、非常に多く、全て取り上げることはできないので、映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」にも登場する主な登場人物についてまとめます。

エルネスト・ゲバラ

エルネスト・ゲバラは、エルネストと呼ばれ、あだ名のフーセルとも呼ばれ、広く一般に知れ渡っている通称がチェ・ゲバラで、本名はエルネスト・ゲバラ・デ・ラ・セルナで、アルゼンチンのアルゼンチン サンタフェ州ロサリオで父エドゥアルド・ラファエル・エルネスト・ゲバラ・リンチと、母セリア・デ・ラ・セルナ・イ・ジョサの息子として裕福な家庭に生まれて、喘息と言う持病があり、コルドバに転居して、フアン・ペロン将軍への政治的抗議活動に関わり、1年間投獄されているアルベルト・グラナードと出会い、趣味はラグビーで、ブエノスアイレス大学は医学部に進学して、卒業を前にして、友人のアルベルト・グラナードと共にポデローサ2号とヒッチハイクと徒歩で、南米大陸を見て回るという旅をしたときに、日記を書いて、日記を基にして本書を書きます。

アルベルト・グラナード

アルベルト・グラナードは、アルゼンチンのコルドバ州エルナンドで、アルゼンチンの鉄道会社に聖職者として雇用されていたスペイン人の父ディオニシオ・T・グラナードと、母アデリーナ・ヒメネス・ロメーロの息子として生まれて、コルドバの祖父母に預けられて、コルドバ国立大学に入学し、化学と生化学を学び、フアン・ペロン将軍への政治的抗議活動に関わり、1年間投獄され、面会に来たエルネスト・ゲバラと出会い、グラナードは生化学で理学修士号を獲得し、ブエノスアイレスのマルブラン研究所で学ぶための奨学金を獲得し、友人のエルネスト・ゲバラと共にポデローサ2号とヒッチハイクと徒歩で、南米大陸を見て回るという旅をしたときに、日記を書いていました。

チチーナ・フェレイラ

チチーナ・フェレイラは、アルゼンチンのミラマールに住んでいるエルネスト・ゲバラの恋人で、エルネスト・ゲバラが友人のアルベルト・グラナードと共にポデローサ2号とヒッチハイクと徒歩で、南米大陸を見て回るという旅を始めるときに、エルネスト・ゲバラからカムバックという血統書付きのジャーマンシェパードの子犬を預けられ、エルネスト・ゲバラに米国に行ったら水着を買ってきて欲しと言って、15ドルを渡します。

旅人の夫婦

旅人の夫婦は、チリ人で、共産主義者で、職を求めてむなしい旅をしていて、世界中のプロレタリア階級の雄弁な代表者で、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードでバケダーノ村で出会い、気候が厳しく、生活条件もとても厳しいが、労働許可書を要求されないアンデス山脈にある硫黄鉱山へと向かうために、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードに別れました。

ペッシェ博士

ペッシェ博士は、マリに住んでいるハンセン病棟で勤務している医師で、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードに宿と食事を提供しました。

ブレシアー二先生

ブレシアー二先生は、サン・パブロの居留区の主任医師で、サン・パブロのハンセン病療養所の調整役で、ハンセン患者の諍いの仲裁を行っています。

マドレ・ソール・アルベルト

マドレ・ソール・アルベルトは、サン・パブロのハンセン病療養所の主任修道女で、ミサに行かない人には食事を制限します。

単語説明

本文の中にたくさんの脚注が挿入されていますが、独自に単語説明をします。

ラグビーを知らない人は、映画「インビクタス/負けざる者たち」を観賞することを勧めます。

ポデローサ2号は、ノートン500というオートバイで、1939年式の英国製のオートバイで、単気筒500ccです。
長距離ツーリング向けバイクではなく、オフロード向けのバイクでもなく、モータスポーツ向けバイクです。
アルベルト・グラナードとエルネスト・ゲバラが、この南米大陸縦走の旅に出たのは、1952年ですから、13年前に製造された旧式なオートバイです。

ビュイックは、1903年にイギリス系アメリカ人であるデイヴィッド・ダンバー・ビュイックによってミシガン州フリントに設立された自動車会社で、デイヴィッド・ダンバー・ビュイックがウイリアム・デュラントにビュイックの株式を売却し、全米でも有名な自動車会社になり、オールズモビル、キャデラックと共にGMを組織して、キャディラックに次ぐハイ-ミドルレンジの自動車のブランドとなります。

リボルバーは、回転するチャンバーによって、弾を再装填しなくても数発撃てるピストルです。

ペニシリンは、1928年にイギリス・スコットランドの細菌学者アレクサンダー・フレミングによって発見された世界で初の抗生物質です。
アレクサンダー・フレミングは、ブドウ球菌を培養していたシャーレの中に青カビが生えているというミスと青カビの周囲だけブドウ球菌が繁殖していないことを不思議に思って研究を進め、カビがつくり出す化学物質のペニシリンが細菌の生育を妨げる抗生物質だとの論文を発表しました。
アレクサンダー・フレミングはペニシリンの発見により、ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。

アドレナリンは、気管支を拡張し、喘息発作を迅速に緩和するために使用されます。

マテ茶は、南米のアルゼンチン、パラグアイ、ブラジル、ウルグアイ等を原産とするジェルバ・マテの葉や小枝を乾燥させた茶葉に、水または湯を注ぎ成分を浸出した飲料で、カフェインを少量含んでおり、ビタミンやミネラルの含有量も極めて高く、飲むサラダとも言われ、野菜の栽培が困難な南米の一部の地域では重要な栄養摂取源の一つとなっています。

べドウィン人は、砂漠の住人のことで、普通アラブの遊牧民族に対して使用します。

サトウキビは、砂糖の原料になり、食べられる茎は中身の詰まった竹のようです。

ハンセン病は、らい菌と呼ばれる細菌に感染することで発症し、皮膚の発疹、痒みや痛みを発症して、近年まで触れると感染するとされていた病で、強制隔離が行われていました。
(映画「ベン・ハー」、映画「砂の器」)

ボランティアは、自発的に社会や他者のために行う無償の活動を行う人で、報酬よりも社会貢献や学びを目的とする点が特徴です。

領事は、外国に駐在して自国民の保護及び自国の通商の促進にあたる外交官です。

大使館は、国交が成立している外国に、自国の特命全権大使を駐在させて公務を執行する役所です。

パスポートは、国籍およびその他身分に関する事項を証明し、外国官庁に保護を依頼しているっ証書です。
ビザは、国家が自国民以外に対して、その人物の所持するパスポートが有効であり、かつその人物が入国しても差し支えないと示す証書です。

税関は、関税の徴収、輸出入貨物の通関、密輸の取締りなどを主たる目的・業務とする国の行政機関です。
出入国在留管理庁は、出入国管理・在留管理・退去強制・難民認定・受入れ環境整備を主たる目的・業務とする国の行政機関です。
出入国管理官は、出入国在留管理庁に勤務して、出入国や在留を審査・監理する国家公務員です。

労働者階級は、生活するための十分な資産がなく、賃金労働により、生活に必要な賃金を得ている人々です。
資本家階級は、生活するためと経済活動をするための十分な資産があり、労働者に賃金を払い、労働させることで、資金を得ている人々です。

プロレタリア階級は、生産手段を持たず賃金労働で生活する労働者階級です。
ブルジョア階級は、生産手段を所有し、プロレタリア階級の人々を賃金で雇い、働かせることで、利益を得る資本家階級です。

ストライキは、労働者が資本家に賃金や労働条件の改善などを求めて、団結して仕事を止めることです。

共産主義は、カール・マルクスやフリードリヒ・エンゲルスらが資本主義による主要な生産手段の私有化に対して、主要な生産手段の社会的所有とすることで貧富の差をなくすことをめざす主義です。
共産主義者は、共産主義という政治思想を持って、行動する人々です。
(映画「マルクスとエンゲルス」)

国有化は、国が資本家から主要な生産手段を取り上げて、主要な生産手段を所有することで、貧富の差をなくすことを目指します。

銅は、軟らかく、電気伝導度および展延性が高い金属であり、銀や金と共通した性質があるので、紀元前9000年の中東で利用され始め、電気自動車、AIやデータセンターなどのために重要度や需要が大きく増しています。

千一夜物語は、ペルシャの王に、毎夜、妻が語る寓話で、魔法の絨毯、アラジンと魔法のランプ、シンドバッドの冒険やアリババと40人の盗賊なども含まれています。

ジュリアス・シーザーは、ローマ共和国時代の終身独裁官です。
(映画「クレオパトラ」)

カリブ海は、メキシコ湾の南、大西洋に隣接する水域で、南はベネズエラ、コロンビアといった南アメリカ大陸やパナマに、西は北アメリカ大陸に属するコスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、グアテマラ、ベリーズ、そしてメキシコのユカタン半島に、北はキューバ、イスパニョーラ島のハイチとドミニカ共和国、ジャマイカ、プエルトリコといった大アンティル諸島に、東は小アンティル諸島に接しています。

リャマは、南米のアンデス地方に多く住んでいて、性格はおとなしく、人に慣れやすく、家畜として飼われており、荷物の運搬用に用いられたり、毛や皮を衣類に用いたりしています。

アルパカは、南米のアンデス地方に多く住んでいて、家畜として飼われており、良質な体毛を具えており、衣類を始めとする生活用品への体毛を加工して、利用します。

ピクーニャは、南米のアンデス地方に多く住んでいて、リャマとアルパカの近縁種で、良質な体毛と肉を持ちますが、家畜化しにくく、利用するために野生に住んでいる個体を捕獲します。

エデンの園は、旧約聖書の「創世記」2章8節から3章24節に登場する理想郷で、アダムとイブ(エバ)が住んでいる場所です。
(映画「天地創造」)

あばら家は、日干し煉瓦と泥で組み立てた壁の上に藁葺きまたはトタンを乗せて屋根としている家です。

メスティーソは、白人とインディオとの混血の人々です。
ケチャアは、エクアドルからペルー・ボリビアにかけてのアンデス山地に居住する先住民に対する呼び名で、ケチャア語を話します。
インディオは、白人がアメリカ大陸をインドと間違えたことに由来するアメリカ大陸に住んでいる先住民に対する呼び名です。
インディヘナは、白人がアメリカ大陸に住んでいる先住民を遅れているとして先住民に対する呼び名です。

黄熱病は、蚊によって媒介される黄熱ウイルスを病原体とする感染症で、予防接種が有効で、人から人に感染することはありませんが、死亡率は30から50%です。

ミクロトームは、顕微鏡での観察に用いる試料を極薄の切片にするために用いられる器具です。

ピスコは、ペルーやチリで造られるブドウを原料とした蒸留酒で、無色透明から淡い色合いの強いお酒です。
ジンは、蒸留酒にジュニパーベリーを加えて再蒸留した酒で、無色透明で香り高く爽やかな風味が特徴の強いお酒です。

キャッサバは、熱帯地域で栽培される多年生植物で、落葉低木で、茎の根元にできるイモは主食として利用され、蒸す、ゆでる、揚げる、粉にして炒めるなど調理法も多いです。

セレナータは、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトが1776年に作曲したセレナード第6番 ニ長調 K.239です。

レグアは、4kmの距離のことです。

エルネスト・ゲバラの年表

チェ・ゲバラ著「モーターサイクル・ダイアリーズ」にも年表はありますが、独自に年表を作ります。

1928年6月14日、エルネスト・ゲバラは、アルゼンチンの第二の大都市であるロサリオで、裕福な家庭に3男2女の長男としてに生まれました。

1941年3月、エルネスト・ゲバラは、13歳で、コルドバの中学・高校の一貫教育の学校に入学しました。

1943年、アルベルト・グラナードは、フアン・ペロン将軍への政治的抗議活動に関わり、1年間投獄されました。

1946年6月4日、フアン・ペロン将軍は、軍事クーデターでアルゼンチンの政権を取り、アルゼンチンの大統領に就任し、軍事政権を樹立します。
1946年10月26日、フアン・ペロンは、エビータと結婚しました。
(映画「エビータ」)

1947年4月、エルネスト・ゲバラは、19歳で、ブエノス・アイレス大学医学部に入学しました。

1952年1月4日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ポデローサ2号と名付けた旧式オートバイ、1939年式ノートン500にまたがり、12,000キロの南米大陸縦断ツーリングに出発しました。
1952年1月13日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、エルネスト・ゲバラが恋人のチチーナ・フェレイラに会うために、アルゼンチンのミラマールへ行きました。
1952年1月31日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、アルゼンチンのサン・マルティン・デ・ロス・アンデスに到着しました。
1952年2月11日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、アルゼンチンのバリローチェ駅に到着しました。
1952年2月15日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、フリアス湖に到着しました。
1852年2月18日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、チリのテムコに到着しました。
1952年2月19日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、日刊紙「アウストラル」でハンセン病のアルゼンチン人の医者として、紹介されました。
1952年2月26日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、チリのロス・アンヘレスに到着しました。
1952年3月1日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ポデローサ2号をサンティアゴに残して旅を続けました。
1952年3月7日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、チリのバルパライソに到着しました。
1952年3月11日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、チリのアタカマ砂漠を徒歩で移動しました。
1952年3月12日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、チリのチュキカマタ銅山に到着して、チュキカマタ銅山を見学しました。
1952年3月31日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ペルーのクスコに到着しました。
1952年4月5日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ペルーのマチュ・ピチュに到着しました。
1952年5月12日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ペルーのマリに到着しました。
1952年5月26日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ペルーのプカルバに到着しました。
1952年6月8日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ペルーのサン・パブロ・ハンセン病療養所に到着しました。
1952年6月14日、エルネスト・ゲバラは、24歳の誕生日をペルーのサン・パブロ・ハンセン病療養所で迎えまました。
1952年6月21日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ペルーのサン・パブロ・ハンセン病療養所から筏のマンボ・タンゴ号に乗って、アマゾン川を下り始めます。
1952年6月23日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、コロンビアのレティシア付近に到着しました。

1952年7月26日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ベネズエラのカラカスで別れました。
(映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」)

1953年、エルネスト・ゲバラは、25歳で、ブエノス・アイレス大学医学部に卒業して、医師の資格を得ました。

1953年、エルネスト・ゲバラは、カルロス・フェレルと共にJ.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、再び南米放浪の旅に出て、ボリビア革命の進むボリビアを旅した際に、虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな衝撃を受けました。
エルネスト・ゲバラは、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン政権下のグアテマラに行き、ハコボ・アルベンス・グスマン政権の崩壊を目撃します。

1954年、エルネスト・ゲバラは、グアテマラで医師として働いているときに、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、社会主義にのめり込みました。

1954年6月15日、カスティージョ・アルマスは、米国CIAの立案したPBSUCCESS作戦を実行して、グアテマラに侵攻しました。
1954年6月27日、グアテマラ大統領のハコボ・アルベンス・グスマンは、辞任しました。
1954年9月、カスティージョ・アルマスは、グアテマラ臨時大統領に就任しました。
1954年9月、エルネスト・ゲバラは、イルダ・ガデアと共にグアテマラからメキシコに逃げ出します。

1955年5月、エルネスト・ゲバラは、イルダ・ガデアとメキシコで結婚しました。
1955年5月、フィデル・カストロは、恩赦によって釈放され、メキシコに亡命して、活動を続けました。
1955年7月、エルネスト・ゲバラは、フィデル・カストロとメキシコ市アンパラン街にあるマリア・アント二アの家で出会い、革命軍に参加することにしました。

1955年9月21日、フアン・ペロンは、アルゼンチン共和国の大統領を退任して、パラグアイ経由で、スペインに亡命します。

1956年11月25日午前2時、フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達の総勢82人の革命家達が、メキシコのトゥスパン港からグラマン号という定員25人の船に乗り、キューバを目指します。

1956年11月30日朝6時、フランク・パイスらは、サンチアゴ市の警察本部を襲撃し、海軍基地、モンカダ兵営にも爆弾を投げ込み、グランマ号の到着をカモフラージュするための陽動作戦が展開されました。
キューバにいる反政府地下組織の別部隊が、トラックとジープに武器弾薬を積み、グラマン号の到着を待ちますが、グラマン号は到着できずに、フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達と合流することはできませんでした。

1956年12月2日、フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達のグラマン号は、上陸予定地点から50km離れた、沼地に座礁して、キューバに到着しました。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達の総勢82人の革命家達は、沼地を抜け、3日間さまよい歩きました。
1956年12月5日、フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達は、ニケロ町近くのアレグリア・デ・ピオというサトウキビ畑で、倒れるように休んでしまいました。
バティスタ政府軍は、休んでいるフィデル・カストロとチェ・ゲバラ達を急襲し、20名が射殺され、30名が逮捕されました。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達は、散りじり、バララバになりながら、逃走しました。
バティスタ政府軍は、掃討作戦を続け、さらに20人を殺害しました。
キューバに上陸した70名が死亡し、生き残ったのはわずか12名です。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラも生き残りました。

1956年12月13日、バティスタ政府は、カストロによる反乱は終結したと発表しました。

1956年12月20日、エルネスト・ゲバラたちは、集結予定地のキューバ最高峰トゥルキノ山(標高2,005m)に向かい、フィデル・カストロたちと合流しました。
1957年1月2日、エルネスト・ゲバラは、フィデル・カストロと共に革命軍と共に、ラ・プラタ兵営を襲撃し、勝利しました。
1957年5月28日、エルネスト・ゲバラは、フィデル・カストロと共に革命軍と共に、エル・ウべロ兵営を襲撃し、勝利しました。
1957年7月12日、フィデル・カストロは、オルトドクソ党首のラウル・チバスとキューバ国立銀行元総裁のフェリーペ・パソスとシエラ・マエストラ宣言に著名しました。

1957年7月、エルネスト・ゲバラは、革命軍の第2部隊の司令官で、少佐になりました。
1958年1月1日、チェ・ゲバラの拠点であるエル・オンブリトが、政府軍に攻撃され、エル・オンブリト拠点を放棄しました。
1958年4月9日、都市部の活動家によるゼネストが失敗しました。
1958年5月3日、フィデル・カストロは、全ての武装勢力の総司令官になりました。
1958年10月15日、チェ・ゲバラ達は、ラス・ヴィラス州にまで進軍してきました。
1958年12月21日、エルネスト・ゲバラは、革命軍を率いて、カバイグアン市を攻撃して、左腕を骨折して、左腕をつって、戦いました。
1958年12月29日、エルネスト・ゲバラ率いる革命軍は、サンタ・クララ市を攻撃して、装甲列車を横転させて、武器弾薬を強奪しました。
1958年12月31日、エルネスト・ゲバラ率いる革命軍は、サンタ・クララ市を陥落しました。
(映画「チェ 28歳の革命」)

1959年1月1日、フィデル・カストロとエルネスト・ゲバラは、キューバ革命により、米国の影響が強かったキューバのフルヘンシオ・バティスタ政権を武装闘争により打倒して、社会主義国家を樹立しました。

1959年2月16日、フィデル・カストロは、キューバ共和国の首相に就任しました。

1959年6月3日、エルネスト・ゲバラは、アレイダ・マルチと結婚しました。
1959年11月26日、エルネスト・ゲバラは、キューバ国立銀行総裁に就任しました。

1961年1月20日、ドワイト・D・アイゼンハワー米国大統領は、退任しました。
ジョン・F・ケネディは、米国大統領に就任しました。

1961年2月11日、エルネスト・ゲバラは、キューバ工業大臣に就任しました。
1961年2月23日、エルネスト・ゲバラは、キューバ国立銀行総裁を退任しました。

1961年4月15日、亡命キューバ人部隊が、キューバ空軍の飛行場を爆撃し壊滅させて制空権を奪うのに失敗しました。
1961年4月17日、1400人の亡命キューバ人部隊がピッグス湾に上陸し、キューバ政府軍の反撃に遭い、キューバ空軍の攻撃を受け、沖合に待機した艦船が撃沈、弾薬も食糧も欠乏する事態の中で海岸で部隊は孤立しました。
ジョン・F・ケネディ米国大統領は、米国正規軍の派遣を拒否し、ピッグス湾上陸作戦は失敗しました。
(ピッグス湾事件)

ソ連は、キューバに中距離弾道ミサイル(IRBM)24基、準中距離弾道ミサイル(MRBM)36基、戦車、大砲、対戦車ミサイル、短距離ロケット36基、軽爆撃機「イリューシン」(Il-28)42機、戦闘機(MiG21)40機、地対空ミサイル72基、巡航ミサイル(KR-1)80基、巡航ミサイル(S-2)32基、巡視艇12隻、兵員4万5234名を運び込みました。

1962年10月14日、米軍が、空中偵察によりキューバに核ミサイル基地を発見しました。
1962年10月22日、ジョン・F・ケネディ米国大統領は、海上封鎖を宣言し、新たなミサイルの配備を阻止し、ソ連にミサイルを解体、撤去することを要求しました。
1962年10月28日、ソ連のフルシチョフ最高指導者は、キューバから核ミサイル基地を撤去すると発表しました。
1962年11月21日、ソ連は、核ミサイルをキューバから撤去し、アメリカ合衆国は海上封鎖を解除しました。
(映画「13デイズ」)

1964年12月11日、エルネスト・ゲバラは、国連総会にキューバ主席代表として出席して、演説しました。
(映画「チェ 28歳の革命」)

1965年4月1日、エルネスト・ゲバラは、キューバ工業大臣を退任して、「別れの手紙」を書いて、フィデル・カストロに託しました。
1965年10月4日、フィデル・カストロは、エルネスト・ゲバラの「別れの手紙」を読み上げました。

1966年4月、エルネスト・ゲバラは、コンゴからキューバに戻りました。

1966年11月、エルネスト・ゲバラは、キューバからボリビアのニャンカウアスに到着して、「ゲバラ日記」を書き始めました。

1967年10月9日、エルネスト・ゲバラは、ボリビアのイゲラ村で、政府軍と交戦し、重傷を負って、捕虜になりました。
1967年10月9日、エルネスト・ゲバラは、ボリビアで処刑されました。
(映画「チェ 39歳 別れの手紙」)

時代背景

1492年10月27日、キューバは、クリストバル・コロンの第一次航海でヨーロッパ人に発見され、スペイン人により征服され、全ての先住民は殺害され、絶滅しました。

1880年、アルゼンチンの首都がブエノスアイレスと定められ、内政の安定して、外国資本と移民の流入が一気に加速し、寡頭支配層の大地主の不正政治が横行しました。

1894年3月25日、ホセ・マルティは、スペインからの独立闘争の最中に、モンテクリスティ宣言を発表し、キューバ独立戦争の意味を明確にしました。
1894年4月11日、ホセ・マルティは、キューバに上陸しました。
1894年5月19日、ホセ・マルティは、ドス・リオス付近で戦闘中に死亡しました。
1898年、米国が、キューバのスペイン軍を倒して、キューバ国憲法に盛り込んだプラット修正条項により、キューバは米国の内政干渉権を認めました。

1903年、グアンタナモ湾を永久租借した契約を盾に、現在に至るまでグアンタナモに米国海軍の基地を置いています。
米国の企業が数多く進出し、製糖産業など多くの資源産業を米国企業が支配しました。

1917年2月23日から2月27日、ロシアで2月革命が起きて、初めての臨時民主政権が誕生し、ソビエトとの二重権力体制になりました。
1917年10月12日、ロシアで10月革命が起きて、ソビエトは、初めての臨時民主政権を武力で打倒します。
1917年~1922年、ロシア内戦が起こりました。

1919年1月16日、米国で禁酒法(映画「アンタッチャブル」)が施行されると、米国の富豪達はキューバに娯楽を求めて、高級クラブ、カジノでにぎわうリゾート地として、ハバナは発展します。
ハバナは、米国にとって歓楽地帯として、資本が投下され建設景気に沸きたちます。
米国マフィアもハバナに進出し、米国マフィア達がキューバを支配し始めます。

1922年12月30日、ソビエト連邦が成立しました。

1926年8月13日、フィデル・カストロは、キューバのオルギン州マヤリ近郊のビランにて、スペインのガリシア人移民で裕福な農場主アンヘル・カストロ・イ・アルヒスの息子として生まれました。

1928年6月14日、エルネスト・ゲバラは、アルゼンチンの第二の大都市であるロサリオで、裕福な家庭に3男2女の長男としてに生まれました。

1929年、米国で世界恐慌(映画「パブリック・エネミーズ」)が起きて、キューバの対米輸出額は、20%以下まで激減しました。
キューバ国民は、職を失い、飢えに苦しみ、路頭にさまようことになりました。

1933年3月4日、フランクリン・ルーズベルト米国大統領は、中南米での武力干渉を停止し、民族自決権を尊重する「善隣政策」を行って、中南米での通商拡大を目指すことにしました。
具体的には、キューバ憲法に盛り込まれていたプラット修正条項を撤廃、パナマ、ドミニカへの干渉権の放棄、ハイチからの撤退、メキシコ駐兵権の放棄です。
簡単に言うと、金のかかる海外派遣軍を縮少し、属国という直接支配から傀儡政権による間接支配に切り換え、米国の利権だけは確保しようというお得なお話です。
どことなく、日米関係に似ている感じがします。

1933年9月、フルヘンシオ・バティスタ軍曹は軍事クーデターを起こし、キューバ政府を打倒し、軍参謀総長に就任しました。

1936年5月20日、フルヘンシオ・バティスタ軍参謀総長は、国防相兼軍総司令官に就任し、米国の傀儡政権であるキューバ政権を樹立しました。

1938年、米国のイタリア系マフィアの最高幹部であるラッキー・ルチアーノの右腕と呼ばれるユダヤ系マフィアのマイヤー・ランスキーは、ハバナ市で高級クラブ、カジノを経営しました。
米国の富豪達が支払ったお金は、キューバに残らず、全て、米国のマフィアであるマイヤー・ランスキーのお金になりました。

オリエンタル公園の中に、地元のギャングが経営する二つのカジノとレース場がありました。
フルヘンシオ・バティスタ国防相兼軍総司令官は、この二つのカジノとレース場を押収し、ニューヨークのマフィアのマイヤー・ランスキーに運営を依頼します。

キューバ政府公認という、米国流のカジノな経営は、莫大な利益を上げました。
キューバ政府は、米国のマフィアと直接組んで、ギャンブルを行うというほどまでに腐敗しました。

米国のマフィアは、キューバ国内で特権を得ることになりました。

1930年~1950年、トルコで栽培されはケシは、フランスのマルセイユのコルシカ島でヘロインに精製され、米国に密輸されていました。
これがフレンチ・コネクションです。
このフレンチ・コネクションは取り締まりが厳しくなり、壊滅状態でした。
米国のマフィア達は、キューバ国内で特権を利用して、新たなヘロイン密輸ルートを開拓することにしました。

1940年2月、フルヘンシオ・バティスタは、キューバの大統領に就任しました。
1940年10月10日、1940年憲法は、キューバで公布されました。

1941年3月、エルネスト・ゲバラは、13歳で、コルドバの中学・高校の一貫教育の学校に入学しました。

1943年、アルベルト・グラナードは、フアン・ペロン将軍への政治的抗議活動に関わり、1年間投獄されました。

1944年10月10日、フルヘンシオ・バティスタは、キューバの総選挙で敗北して、米国のフロリダ州へ亡命します。

1945年、フィデル・カストロは、ハバナ大学に入学して法律を学び、政治活動に参加して、革命反乱同盟 (UTR) に加入しました。
フィデル・カストロは、高校では最優秀高校スポーツ選手に選ばれたり、大学時代には投手として米国のメジャーリーグ選抜と対戦し、3安打無失点に抑え、運動神経も抜群に良いです。
フィデル・カストロは、コロンビアでホルヘ・エリエセル・ガイタン次期大統領候補と会談予定でしたが、ホルヘ・エリエセル・ガイタンは暗殺され、このボコタ暴動に参加しました。

1946年6月4日、フアン・ペロン将軍は、軍事クーデターでアルゼンチンの政権を取り、アルゼンチンの大統領に就任し、軍事政権を樹立します。
1946年10月26日、フアン・ペロンは、エビータと結婚しました。
(映画「エビータ」)

1946年12月25日、ハバナのマフィアのボスであるマイアー・ランスキーは、シシリアに追放されていたイタリア系マフィアの最高幹部であるラッキー・ルチアーノとマイアミのマフィアのボスであるサントス・トラフィカンテとシカゴのナのマフィアのボスであるサム・ムーニー・ジアンカーナとの間で、東南アジアからのヘロインの中継基地を、キューバのハバナにして、フロリダを経由して米国に密輸するルートを共同経営するという「歴史的合意」を成立させました。
これがマイアミルートです。

1947年4月、エルネスト・ゲバラは、19歳で、ブエノス・アイレス大学医学部に入学しました。

1948年1月30日、マハトマ・ガンジーは、78歳で、殺害されました。
(映画「ガンジー」)

1948年、フィデル・カストロは、ラテンアメリカの学生運動の連合を図り、コロンビアを訪れ、次期大統領候補だった自由党の指導者ホルヘ・エリエセル・ガイタンとの会談を予定していましたが、次期大統領候補だった自由党の指導者ホルヘ・エリエセル・ガイタンが暗殺され、コロンビアはボゴタ暴動に突入し、ボゴタ暴動に参加し、コロンビア軍との戦闘に加わりました。

1950年、フルヘンシオ・バティスタは、キューバに帰国して、政党を結成して、党首になりました。
1950年、フィデル・カストロは、ハバナ大学を卒業して、弁護士として、貧困者のために活動しました。

1952年1月4日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ポデローサ2号と名付けた旧式オートバイ、1939年式ノートン500にまたがり、12,000キロの南米大陸縦断ツーリングに出発しました。

1952年3月10日、フィデル・カストロは、大統領選挙に出馬しますが、フルヘンシオ・バティスタは軍事クーデターで政権を奪取し、選挙結果は、宇高とされて、キューバ憲法を停止し、キューバ大統領に就任し、独裁政権を作り上げました。
バティスタ独裁政権は腐敗し、国民を弾圧しました。
米国がキューバを支配した結果、キューバの資源は、バティスタ政権、米国政府、米国企業、米国のマフィアに独占されました。
キューバで得た資金は、米国本土に流れるような社会構造が形成されました。

1952年7月26日、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ベネズエラのカラカスで別れました。
(映画「モーターサイクル・ダイアリーズ」)

1952年3月10日、フルヘンシオ・バティスタは、キューバでクーデターを起こして、キューバの大統領になりました。

1953年1月20日、ハリー・S・トルーマン米国大統領は、退任しました。
ドワイト・D・アイゼンハワーは、米国大統領に就任しました。

1953年、エルネスト・ゲバラは、25歳で、ブエノス・アイレス大学医学部に卒業して、医師の資格を得ました。

1953年、エルネスト・ゲバラは、カルロス・フェレルと共にJ.D.ペロンの独裁政権下のアルゼンチンを離れ、再び南米放浪の旅に出て、ボリビア革命の進むボリビアを旅した際に、虐げられてきたインディオが解放され、かつてないほど自由な雰囲気が漂っているのに大きな衝撃を受けました。
エルネスト・ゲバラは、ペルー、エクアドル、パナマ、コスタリカ、ニカラグア、ホンジュラス、エルサルバドルを旅行し、ハコボ・アルベンス・グスマン政権下のグアテマラに行き、ハコボ・アルベンス・グスマン政権の崩壊を目撃します。

1953年7月26日、フィデル・カストロは、130名の仲間と共に、モンカダ兵営に対する襲撃しましたが、逮捕されました。
フィデル・カストロは、裁判で自分自身を弁護し、最終弁論で、近代思想や40年憲法を引用して「歴史は、私に無罪を宣告するだろう」と締めくくりました。
裁判官は、フィデル・カストロ達に死刑の判決を下すことはできませんでした。
フィデル・カストロ達は、ピノス島のモデロ監獄に収監されました。
収監されたフィデル・カストロは、グループの思想学習を行い、キューバ革命の同志を結成しました。
ピノス島は、現在はフベントゥ島(青年の島)と呼ばれています。

1954年、エルネスト・ゲバラは、グアテマラで医師として働いているときに、祖国であるペルーを追われ、グアテマラに亡命していた女性活動家のイルダ・ガデアと出会い、共鳴し、社会主義に目覚め、社会主義にのめり込みました。

1954年6月15日、カスティージョ・アルマスは、米国CIAの立案したPBSUCCESS作戦を実行して、グアテマラに侵攻しました。
1954年6月27日、グアテマラ大統領のハコボ・アルベンス・グスマンは、辞任しました。
1954年9月、カスティージョ・アルマスは、グアテマラ臨時大統領に就任しました。
1954年9月、エルネスト・ゲバラは、イルダ・ガデアと共にグアテマラからメキシコに逃げ出します。

1955年5月、エルネスト・ゲバラは、イルダ・ガデアとメキシコで結婚しました。
1955年5月、フィデル・カストロは、恩赦によって釈放され、メキシコに亡命して、活動を続けました。
1955年7月、エルネスト・ゲバラは、フィデル・カストロとメキシコ市アンパラン街にあるマリア・アント二アの家で出会い、革命軍に参加することにしました。

1955年9月21日、フアン・ペロンは、アルゼンチン共和国の大統領を退任して、パラグアイ経由で、スペインに亡命します。

1956年11月25日午前2時、フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達の総勢82人の革命家達が、メキシコのトゥスパン港からグラマン号という定員25人の船に乗り、キューバを目指します。

1956年11月30日朝6時、フランク・パイスらは、サンチアゴ市の警察本部を襲撃し、海軍基地、モンカダ兵営にも爆弾を投げ込み、グランマ号の到着をカモフラージュするための陽動作戦が展開されました。
キューバにいる反政府地下組織の別部隊が、トラックとジープに武器弾薬を積み、グラマン号の到着を待ちますが、グラマン号は到着できずに、フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達と合流することはできませんでした。

1956年12月2日、フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達のグラマン号は、上陸予定地点から50km離れた、沼地に座礁して、キューバに到着しました。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達の総勢82人の革命家達は、沼地を抜け、3日間さまよい歩きました。
1956年12月5日、フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達は、ニケロ町近くのアレグリア・デ・ピオというサトウキビ畑で、倒れるように休んでしまいました。
バティスタ政府軍は、休んでいるフィデル・カストロとチェ・ゲバラ達を急襲し、20名が射殺され、30名が逮捕されました。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラ達は、散りじり、バララバになりながら、逃走しました。
バティスタ政府軍は、掃討作戦を続け、さらに20人を殺害しました。
キューバに上陸した70名が死亡し、生き残ったのはわずか12名です。
フィデル・カストロとチェ・ゲバラも生き残りました。

1956年12月13日、バティスタ政府は、カストロによる反乱は終結したと発表しました。

1956年12月20日、エルネスト・ゲバラたちは、集結予定地のキューバ最高峰トゥルキノ山(標高2,005m)に向かい、フィデル・カストロたちと合流しました。
1957年1月2日、エルネスト・ゲバラは、フィデル・カストロと共に革命軍と共に、ラ・プラタ兵営を襲撃し、勝利しました。
1957年2月、フェリペ・パソスは、キューバ国立銀行元総裁で、ニューヨーク・タイムズの記者ハーバート・マシューズをフィデル・カストロに会わせる手配をしました。
1957年5月28日、エルネスト・ゲバラは、フィデル・カストロと共に革命軍と共に、エル・ウべロ兵営を襲撃し、勝利しました。
1957年7月12日、フィデル・カストロは、オルトドクソ党首のラウル・チバスとキューバ国立銀行元総裁のフェリペ・パソスとシエラ・マエストラ宣言に著名しました。

1957年7月、エルネスト・ゲバラは、革命軍の第2部隊の司令官で、少佐になりました。
1958年1月1日、チェ・ゲバラの拠点であるエル・オンブリトが、政府軍に攻撃され、エル・オンブリト拠点を放棄しました。
1958年4月9日、都市部の活動家によるゼネストが失敗しました。
1958年5月3日、フィデル・カストロは、全ての武装勢力の総司令官になりました。
1958年10月15日、チェ・ゲバラ達は、ラス・ヴィラス州にまで進軍してきました。
1958年12月21日、エルネスト・ゲバラは、革命軍を率いて、カバイグアン市を攻撃して、左腕を骨折して、左腕をつって、戦いました。
1958年12月29日、エルネスト・ゲバラ率いる革命軍は、サンタ・クララ市を攻撃して、装甲列車を横転させて、武器弾薬を強奪しました。
1958年12月31日、エルネスト・ゲバラ率いる革命軍は、サンタ・クララ市を陥落しました。
(映画「チェ 28歳の革命」)

1959年1月1日、フィデル・カストロとエルネスト・ゲバラは、キューバ革命により、米国の影響が強かったキューバのフルヘンシオ・バティスタ政権を武装闘争により打倒して、社会主義国家を樹立しました。

1959年2月16日、フィデル・カストロは、キューバ共和国の首相に就任しました。

1959年6月3日、エルネスト・ゲバラは、アレイダ・マルチと結婚しました。
1959年11月26日、エルネスト・ゲバラは、キューバ国立銀行総裁に就任しました。

1961年1月20日、ドワイト・D・アイゼンハワー米国大統領は、退任しました。
ジョン・F・ケネディは、米国大統領に就任しました。

1961年4月11日、エルサレムで、アドルフ・アイヒマンの裁判が始まりました。
(映画「スペシャリスト 自覚なき殺戮者」、)

1961年4月15日、亡命キューバ人部隊が、キューバ空軍の飛行場を爆撃し壊滅させて制空権を奪うのに失敗しました。
1961年4月17日、1400人の亡命キューバ人部隊がピッグス湾に上陸し、キューバ政府軍の反撃に遭い、キューバ空軍の攻撃を受け、沖合に待機した艦船が撃沈、弾薬も食糧も欠乏する事態の中で海岸で部隊は孤立しました。
ジョン・F・ケネディ米国大統領は、米国正規軍の派遣を拒否し、ピッグス湾上陸作戦は失敗しました。
(ピッグス湾事件)

1961年12月15日、アドルフ・アイヒマンは、全ての罪で有罪となり、死刑が宣告されました。
1962年6月1日、アドルフ・アイヒマンは、ラムラの刑務所で絞首刑になりました。

ソ連は、キューバに中距離弾道ミサイル(IRBM)24基、準中距離弾道ミサイル(MRBM)36基、戦車、大砲、対戦車ミサイル、短距離ロケット36基、軽爆撃機「イリューシン」(Il-28)42機、戦闘機(MiG21)40機、地対空ミサイル72基、巡航ミサイル(KR-1)80基、巡航ミサイル(S-2)32基、巡視艇12隻、兵員4万5234名を運び込みました。

1962年10月14日、米軍が、空中偵察によりキューバに核ミサイル基地を発見しました。
1962年10月22日、ジョン・F・ケネディ米国大統領は、海上封鎖を宣言し、新たなミサイルの配備を阻止し、ソ連にミサイルを解体、撤去することを要求しました。
1962年10月28日、ソ連のフルシチョフ最高指導者は、キューバから核ミサイル基地を撤去すると発表しました。
1962年11月21日、ソ連は、核ミサイルをキューバから撤去し、アメリカ合衆国は海上封鎖を解除しました。
(映画「13デイズ」)

1963年2月16日~3月16日、ハンナ・アーレントは、「ザ・ニューヨーカー」誌に「イエルサレムのアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を発表しました。
(映画「ハンナ・アーレント」)

1963年11月22日、ジョン・F・ケネディ米国大統領は、暗殺されました。
リンドン・B・ジョンソンは、米国大統領に就任しました。
(映画「JFK」)

1964年6月12日、クアルトゥス・デヴェット首席判事は、ネルソン・マンデラたちに対して、終身刑を言い渡します。
(映画「マンデラ 自由への長い道」)

1964年7月2日、リンドン・B・ジョンソン米国大統領は、公民権法に署名しました。
(映画「LBJ ケネディの意志を継いだ男」)

1964年8月、北ベトナム軍の哨戒艇が北ベトナム沖のトンキン湾でアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射したとされる事件が起きます。

1964年12月11日、エルネスト・ゲバラは、国連総会にキューバ主席代表として出席して、演説しました。
(映画「チェ 28歳の革命」)

1965年8月6日、ジョンソン大統領が国会議事堂で投票権法の協議会案に署名して法となり、キング牧師、ローザ・パークス、ジョン・ルイスなど公民権運動の指導者達が同席しました。
投票権法によって、投票権が州でなく、連邦政府によって監督され、執行されるようになりました。
(映画「グローリー/明日への行進」)

1965年4月1日、エルネスト・ゲバラは、「別れの手紙」を書いて、に託しました。
1965年10月4日、フィデル・カストロは、エルネスト・ゲバラの「別れの手紙」を読み上げました。

1966年4月、エルネスト・ゲバラは、コンゴからキューバに戻りました。

1966年11月、エルネスト・ゲバラは、キューバからボリビアのニャンカウアスに到着して、「ゲバラ日記」を書き始めました。

1967年10月9日、エルネスト・ゲバラは、ボリビアのイゲラ村で、政府軍と交戦し、重傷を負って、捕虜になりました。
1967年10月9日、エルネスト・ゲバラは、ボリビアで処刑されました。
(映画「チェ 39歳 別れの手紙」)

1969年1月20日、リンドン・B・ジョンソン米国大統領は、退任しました。
リチャード・ニクソンは、米国大統領に就任しました。
(映画「ニクソン」)

1977年9月12日、スティーヴ・ビコは亡くなりました。
(映画「遠い夜明け」)

1991年9月6日~12月26日、ソビエト連邦が崩壊し、ロシア連邦が誕生しました。

2011年4月19日、フィデル・カストロは、キューバ共和国の中央委員会第一書記を退任しました。

2016年11月25日、フィデル・カストロは、90歳で亡くなりました。

チェ・ゲバラの名言

チェ・ゲバラの名言
  • なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか
  • 教育は裕福な子供だけが勉強できるといった特権であってはならない
  • 革命家にとっての第一の義務は、教育を受けることだ
  • 人は自らを解放するのだ
  • 革命は熟せば落ちるリンゴではない。自分で落とさなければならないのだ。
  • 人は強くならなければならないが、決して優しさを失ってはいけない
  • 世界があなたを変えれば、あなたは世界を変えられる
  • 現実的になり、不可能なことを求めるのだ
  • 未来のために今を耐えるのではなく、未来のために今を楽しく生きるのだ
  • 残酷なリーダーは結局、残酷に転じた新しいリーダーに取って代わられることになる
  • 愛の無い真の革命家を想像することは、不可能だ
  • わたしを導くものは真実への情熱だけだ
  • あらゆる不正に対して怒りに震えるならば、あなたはわたしの同志だ

なぜ日本人はアメリカに対して原爆投下の責任を問わないのか

1945年7月17日~8月2日、米国大統領ハリー・S・トルーマン、イギリスの首相ウィンストン・チャーチル、ヨシフ・スターリンソ連議長が、ソ連占領地域となったポツダムで会談し、「日本政府が全日本軍の即時無条件降伏を宣言し、またその行動について日本政府が十分に保障することを求める。これ以外の選択肢は迅速且つ完全なる壊滅があるのみである」と記述され、原爆を投下するということが記載されています。
1945年8月6日、米軍は、日本の広島市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月9日、米軍は、日本の長崎市に原子爆弾を投下しました。
1945年8月14日、日本政府は、ポツダム宣言を受諾しました。
日本政府は、米国政府に原爆投下の責任を問わないことを受諾したということです。
自分は、米国政府に原爆投下の責任を問わない代わりに、原水爆禁止を求めていきます。

教育は裕福な子供だけが勉強できるといった特権であってはならない

教育を受けなければ、自ら考えることができず、自らを解放することができず、何も変えることができないということです。
日本人は教育を受けていますが、自ら考えることができず、自らを解放することができず、何も変えることができないので、教育を受けたという価値を発揮していない人が多いです。
自分は、大学まで教育を受けましたが、独学により自ら考えることができ、自らを解放することができ、政治的と社会的に変えてきました。

革命家にとっての第一の義務は、教育を受けることだ

革命家は、政治的、社会的な大きな変化を遂行する人で、自ら考えるために、教育を受けることが必須です。
日本人は教育を受けていますが、今の日本には革命家はいません。
自分は、独学により政治的と社会的に変えてきました。

人は自らを解放するのだ

人間なら、政治家や経営者の家畜ではないはずなので、政治的と社会的なことを変えるためには、自らを政治的と社会的な束縛から解放する必要があります。
日本人は、政治的と社会的な考えや発言を抑制されて、政治家や経営者の家畜のようです。
自分は、政治的と社会的な束縛から解放するように生きてきました。

革命は熟せば落ちるリンゴではない。自分で落とさなければならないのだ。

日本人は、政治的と社会的なことを変わるのを座して、待っているだけです。
自分は、政治的と社会的なことを変えています。

人は強くならなければならないが、決して優しさを失ってはいけない

人は強くならなければ政治的と社会的なことを変えられませんが、人は権力を得て強くなっても優しさを失えば支持を失い、政治的と社会的なことを変えられません。
自分は、力を得ましたが、孤独になり、優しさを失い、自暴自棄になっています。

世界があなたを変えれば、あなたは世界を変えられる

政治的と社会的なことと人間がつながっている世界なら、人間は世界を変えられるということです。
自分は、インターネットを通じて政治的と社会的なこととつながり、世界を変えています。

現実的になり、不可能なことを求めるのだ

政治的と社会的なことを変えるためには、現実的になり、不可能なことを求めることで実現します。
自分は、インターネットという手段を使用することで現実的であり、インターネットで自由に発言することで、不可能なことを求めて、政治的と社会的なことを変えています。

未来のために今を耐えるのではなく、未来のために今を楽しく生きるのだ

政治的と社会的なことを変えるために耐えるのではなく、楽しく生きるということです。
日本人は、未来のために今を耐えて生きている人が多いように感じます。
自分は、未来のために今を耐えてきましたが、今を楽しく生きていません。

残酷なリーダーは結局、残酷に転じた新しいリーダーに取って代わられることになる

色々な政治的と社会的なリーダーを見てきましたが、前例を踏襲するので、リーダーが変わっても、何も変わりません。
自分は、良いリーダーを見たことはありません。

愛の無い真の革命家を想像することは、不可能だ

政治的と社会的なことを変える真の革命家は、人々を愛することが必要だということです。
自分は、人々を愛することはないので、真の革命家にはなりません。

わたしを導くものは真実への情熱だけだ

政治的と社会的なことを変えるためには、真実を知らなければならないということです。
自分は、真実を知るための情熱はあります。

あらゆる不正に対して怒りに震えるならば、あなたはわたしの同志だ

政治的と社会的なことを変えるためには、あらゆる不正に対して怒りに震えなければならないということです。
自分勝手なダブルスタンダードでは、支持を得られず、政治的と社会的なことを変えることはできないということです。
自分は、不正に対して怒りに震えますが、同志とまでは自認できません。

あらすじと感想

エルネスト・ゲバラは、アルベルト・グラナードと共に、1952年1月4日から1952年7月26日の間に、ポデローサ2号と名付けた旧式オートバイ、1939年式ノートン500にまたがり、12,000キロの南米大陸縦断ツーリングを行います。
エルネスト・ゲバラは、12,000キロの南米大陸縦断ツーリングをしている間に、日記を書いていました。
エルネスト・ゲバラは、この日記を元に物語風に書いて、この本を書いて、出版しました。

エルネスト・ゲバラは、23歳の医学生なので病気の患者を治療するということに意義を見出していたと思います。
エルネスト・ゲバラは、アルベルト・グラナードと共に12,000キロの南米大陸縦断ツーリングを通して、南米大陸にある支配者と被支配者という格差社会を目にして、多民族のインカ帝国について知り、南米大陸を一つにまとめて、格差社会を是正することに意義を見出すように変わったと思います。

エルネスト・ゲバラは、アルベルト・グラナードと共に、12,000キロの南米大陸縦断ツーリングのルートが地図と年表として掲載され、アルゼンチン、チリ、ペルー、コロンビア、ベネズエラにいつ訪れていたことが分かります。
エルネスト・ゲバラは医大生として生活、アルベルト・グラナードはハンセン病療養所の仕事を辞めて、行き当たりばったりの12,000キロの南米大陸縦断ツーリングに出発しています。
何かやりたいことをするには、犠牲にしなければならないことがあるというのが現実です。
私もやりたいことをするために、会社を早期退職しました。
エルネスト・ゲバラは、行き当たりばったりの12,000キロの南米大陸縦断ツーリング後に医大を卒業して、医者になっているところも凄いです。
アルベルト・グラナードは、行き当たりばったりの12,000キロの南米大陸縦断ツーリング後に、ベネズエラのカラカスにあるカーボ・ブランコにあるハンセン病療養所で医者として働いているところも凄いです。
エルネスト・ゲバラは、アルベルト・グラナードと共に、飛行機でベネズエラのカラカスへ行くことはせずに、観光地でもないサン・パブロのハンセン病療養所を訪れるために、12,000キロの南米大陸縦断ツーリングをすることにしたのは凄いことです。

私も20代から30代という若い頃に、海外出張で何か国へ、何度も最大1か月程度行っていました。
私は、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードのように、海外で過ごした経験を生かせることはありませんでした。
私は、エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードの偉大さが理解できて良かったです。
私も20代から30代という若い頃に、仕事の間の休暇中に1週間程度までのオートバイで日本国内をツーリングしていましたが、分割による日本一周を目指していましたが、分割による日本一周でさえ達成できずに、人生を終えることになりそうです。
私は60歳を過ぎましたが、日本一周することにさえ、意義を見出せず、行き当たりばったりの日本一周することにさえ躊躇しています。

エルネスト・ゲバラは、海を見ながらゆっくりと考えて過ごしたそうです。
私は、海に行って、アクティビティを楽しむことをしてきましたが、海を見ながらゆっくりと考えたことはありません。
私は、日本という島国に住んでいるので、海は珍しくなく、1時間も電車に乗れば、海を見ることはできます。
私は、海を見ながらゆっくりと考えて過ごしも、何も思いつかない気がします。
私は、通勤時間や移動時間に何かを思いついて、解決することが多かったです。
私は、海を見ながらゆっくりと考えて過ごしたくなりました。

エルネスト・ゲバラは、チチーナ・フェレイラへの愛と平和な暮らしよりも、時間はかかりましたが、行き当たりばったりの12,000キロの南米大陸縦断ツーリングを選択しました。
私は、多くの日本人が嫌がる外国に1人で行き、外国人と話し合いながら仕事をするという選択したので、エルネスト・ゲバラの気持ちは理解できます。
私は、日本での仕事、日本人しか知らない人生を送りたくありませんでした。
私は、海外出張を経験してしまうと、海外旅行には興味を持てなくなりました。
私は、海外出張で外国人と英語で真剣に話し合う機会を得て、外国を知る機会になりました。
海外旅行へ行って、見て、食べて、寝るだけでは、外国を知ることはできないです。
海外視察は、無駄だと断言できます。

エルネスト・ゲバラは、メダノスでポデローサ2号を運転して転倒して、ポデローサ2号と地面に足を挟まれて負傷します。
私は、何度かバイクで転倒しましたが、バイクから離れて、負傷を避けることができました。

エルネスト・ゲバラは、にわか雨に見舞われて、農園で雨宿りをしました。
私は、雨が降る中、琵琶湖の湖畔をバイクで走っていて、予約もなく、飛び込みで宿に泊めてもらいましたが、宿の人がバイクを雨にさらされないように宿の中へ入れてくれたことを今でも感謝しています。

エルネスト・ゲバラは、ポデローサ2号でオフロードを走行して大変な思いをしたそうです。
私は、バイクでオフロードを運転したことはありませんが、不安定な運転するのもやむをえないと思います。

エルネスト・ゲバラは、ポデローサ2号でテントを張り、野宿をして、テントが吹き飛ばされたそうです。
私は、テント泊の経験はありません。

エルネスト・ゲバラは、旅の途中でポデローサ2号のメインフレームが壊れ、ポデローサ2号の後輪のタイヤがパンクしたそうです。
私は、バイクで転倒して、ハンドル、ブレーキレバー、クラッチレバー、キーシリンダー等色々なところが旅先で壊れて苦労しました。

エルネスト・ゲバラは、旅の途中でアルゼンチンにある大規模な農園でお世話になり、以前エルネスト・ゲバラの叔父もお世話になったそうです。
私は、色々旅をしましたが、親戚の知り合いに会ったことはありません。

アルベルト・グラナードは、初めて川でニジマスを釣ったそうです。
私は、川でニジマス等を釣りながら旅行をしたことがあります。
私は、また川でニジマス等を釣りながら旅行をしたいです。

カルエー湖で、アルベルト・グラナードがカモを撃ち落として、エルネスト・ゲバラがカモを取りに入り、カモを焼いて食べます。

エルネスト・ゲバラは、サン・マルティン・デ・ロス・アンデスから母親へ手紙を書きます。
エルネスト・ゲバラは、氷河によって作られた7つの湖をバイクで通ったそうですが、日本には複数の湖が連なる湖水地方のような場所はないです。
エルネスト・ゲバラは、バイクで国境を越えましたが、日本は島国なのでバイクで国境を超えることはありません。
エルネスト・ゲバラは、温泉が湧いている湖で水浴びをしたそうですが、日本には温泉はたくさんありますが、温泉が湧いている湖は知りません。
エルネスト・ゲバラは、「アウストラル・デ・テム」という新聞からのインタビューを受けて、チリの歓楽街で歓待を受けました。
エルネスト・ゲバラは、「アウストラル・デ・テム」という新聞でアルゼンチンのハンセン病の専門医がオートバイで南米を旅すると紹介され、王様のような扱いを受けました。
私は、良くも悪くも新聞に掲載されてことはありません。
エルネスト・ゲバラは、旅の途中でポデローサ2号の方向維持装置とギアボックス壊れ、新聞を読んだ親切なトラック運転手に助けられて、村まで移動しました。
エルネスト・ゲバラは、ポデローサ2号を修理を終えて、ワインを飲んでパーティーを楽しみました。
エルネスト・ゲバラは、急なカーブの手前でポデローサ2号のリア・ブレーキとフロント・ブレーキが壊れ、上り坂でエンジンが止まり、ポデローサ2号は完全に壊れました。
エルネスト・ゲバラは、トラック運転手に助けられて、村まで移動して、村の消防士の詰め所にポデローサ2号を置いてもらい、消防士として火事の消火活動に参加しました。
エルネスト・ゲバラは、チリ人の女性との会話を楽しみました。
エルネスト・ゲバラは、ペルーに入国するためのピザを400チリペソで購入して、ペルーからチリに入国し、サンティアゴにいるコルドバの水球クラブの多くの友人たちを表敬訪問しました。
私は、外国へ行きましたが、偶然に知り合いに会うということはありません。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、サンティアゴでポデローサ2号と別れて、サンティアゴからパルパイソへトラック等のヒッチハイクや徒歩で移動することになります。
私は、ヒッチハイクや徒歩で旅をしたことはありませんし、想像もできません。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、パルパイソでアルゼンチン人の助けで、食事と宿泊場所を確保しました。
私は、お金以外で他人から食事と宿泊場所を確保したことはありません。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、バスクア島(イースター島)へ行こうとしますが、行く船がなく断念しました。
私は、路面電車と船で宮島とバイクと自動車でフェリーで北海道を訪れたことはありますが、他には島へ行ったことはありません。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがパルパライソからアントファガスタまでサン・アントニオ号で密航しますが、船長に名乗り出て、エルネスト・ゲバラがトイレ掃除をしました。
私は、バイクと自動車で北海道へ行くためにフェリーに乗りましたが、密航したことはありません。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードがアントファガスタからトラックでバケダノまで乗せてもらい、バケダノでチリ人の共産主義者でアンデス山脈にある硫黄鉱山に向かう労働者夫婦と友達になり、別れて、バケダノからトラックに乗せてもらいかうチュキカマタ銅山に行き、ストライキ中のチュキカマタ銅山を案内されました。
私は、オフィスワーカーなので、肉体労働者たちの置かれている現状は見たことはありません。
私は、ストライキを経験したことはありません。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、チュキカマタから徒歩で砂漠へ向かい、市境を監視している小屋に泊めてもらい、トラックと徒歩でイラベに移動しました。
私は、砂漠へ行ったことはありません。
私は、東京都の伊豆大島にある裏砂漠へ行って、海を見ながらゆっくりと考えて過ごしたくなりました。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、英国人が所有している硝酸塩の浄化プラントを見学しました。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、アリアでチリからペルーに入りました。
エルネスト・ゲバラは、チリで見聞きしたチリの社会状況を記述しています。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ペルーでトラックをヒッチハイクして、徒歩で旅を続け、教師と友達になりインディオたちについて教えてもらい、チチカカ湖に到着し、ガイドを雇い、観光をしました。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ペルーとインカ帝国の首都クスコに到着して、ガイドを雇い、観光をしました。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、インカ帝国の都市マチュ・ピチェへ行って、観光をしました。
私は、ガイドを雇い、観光したことはありません。
エルネスト・ゲバラは、南米大陸を一つにまとめていたインカ帝国に、南米大陸を一つにまとめられる可能性を見出しました。
私は、日本はもちろん世界の観光地へも行きましたが、何かを思いついたことはありません。
エルネスト・ゲバラは、ペルーでケチュアを社会復権するために輝かしい過去に関する知識を持ち、自尊心を得て、自らを恥じることをなくすことだとを聞きました。
ネルソン・マンデラとスティーヴ・ビコは、南アフリカで同じような主張をしていたことを思い出いました。
(映画「マンデラ 自由への長い道」、映画「遠い夜明け」)
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、治安警察に寝泊まりさせてもらうか、慈悲深い人か、友人の知り合いか、紹介状を持ってハンセン病の病院を見ることで、宿と食事を確保していましたが、各地の状況を知ることもできました。
エルネスト・ゲバラは、体調を崩して、アンダワイラス村で、入院しました。
私は、米国で風邪になったくらいで、外国の病院に入院したことも、通院したこともありません。
エルネスト・ゲバラは、クスコとリマを比較して、リマの考古学博物館に通い、闘牛を見て、ペッシェ博士から宿と食事を提供してもらいました。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ブカルバからイキトスまで一等客として船でウカヤリ川を下ります。
私は、日本でも外国でも船で川下りをしたことはありません。
アルベルト・グラナードは、ブラックジャックで大儲けをします。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、若い娼婦と知り合いになります。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、イキトスに到着し、イキトスからシスネ号という船に乗って、サン・パブロに到着しました。
ブレシアー二医師は、サン・パブロでエルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードに部屋を貸しました。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ブレシアー二医師からサン・パブロのハンセン病療養所についての説明を受け、川で魚を釣ったり、泳いだりしました。
エルネスト・ゲバラは、24歳の誕生日をサン・パブロのハンセン病療養所の職員から祝われ、お礼の挨拶をしました。
エルネスト・ゲバラは、モントヤ博士がハンセン病による神経炎にかかった前腕の手術を執刀しているのを見ました。
エルネスト・ゲバラは、アマゾン川を2時間かけて渡りました。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、サン・パブロからマンボ・タンゴという筏に乗って、レティシアを通り過ぎますが、レティシアまで連れて行ってもらいます。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、サッカーのコーチと選手をして、アルゼンチン代表とスペイン代表のサッカーの試合を観戦して、コロンビアのボゴダへ行く飛行機代を稼いで、飛行機に乗ってコロンビアのボゴダに到着しましした。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、コロンビアのボゴダから飛行機に乗ってコロンビアのククタに到着しました。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、コロンビアのククタから徒歩で橋で川を渡り、ベネゼエラのサン・アントニオ・デ・タチラに到着しました。
エルネスト・ゲバラとアルベルト・グラナードは、ベネゼエラのサン・アントニオ・デ・タチラからトラックをヒッチハイクして、ベネゼエラのカラチに到着しました。
エルネスト・ゲバラは、アルベルト・グラナードと別れて、米国へ飛行機で旅立ち、アルゼンチンに帰国しました。
私は、仕事ですが、飛行機には国内線に数えきれないほど乗りましたが、国内線より多くの国際線に乗りました。

まとめ・感想

エルネスト・ゲバラの生まれ育った環境と青春時代について、書かれています。
エルネスト・ゲバラと自分の間にバイクという共通点があるのはうれしかったですし、エルネスト・ゲバラを理解するのに役立ちました。
エルネスト・ゲバラは、用意されていたかのような環境の中で生まれますが、環境に流されることなく、自らの意志で自らの人生を切り開いてきました。
エルネスト・ゲバラが非暴力主義から暴力主義へなった社会的背景が理解できてよかったです。
自分は、エルネスト・ゲバラのように生きたいとは思いませんが、エルネスト・ゲバラのような人が生きていたということを知りたいですし、理解したいですし、多くの人に伝えたいです。

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